ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:民芸運動

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 今日は、昭和時代後期の1984年(昭和59)に、染色工芸家芹沢銈介が亡くなった日です。
 芹沢銈介(せりざわ けいすけ)は、明治時代後期の1895年(明治28)5月13日に、静岡県静岡市本通一丁目(現在の葵区)の呉服卸商西野屋を営む父・大石角次郎の7人兄弟の次男として生まれました。静岡県立静岡中学校(現在の県立静岡高等学校)を経て、1914年(大正3)に、東京高等工業学校図案科入学、印刷図案を専攻します。
 翌年に図案科は東京美術学校に学務委託され、ここで石版印刷技法を修得、1916年(大正5)に卒業し、静岡市の生家に帰りました。1917年(大正6)に芹沢たよと結婚し、芹沢姓となり、静岡県立静岡工業試験場で、蒔絵、漆器、染色紙、木工等の図案指導を行うかたわら、商業デザインにも従事します。
 1927年(昭和2)に、民芸運動の柳宗悦の論文「工芸の道」に影響を受け、翌年には、大礼記念国産振興東京博覧会で沖縄の紅型(びんがた)に出会いました。1931年(昭和6)に創刊された民芸運動の同人雑誌『工藝』の装丁(型染布表紙)を担当、民芸運動に参加、大半の柳の著書も装丁するようになります。
 1933年(昭和8)に大連で個展を開催、帰途、満州・朝鮮の各地を回遊、倉敷文化協会主催で同地で個展を開催、大原孫三郎の知遇を受けるようになりました。1934年(昭和9)に東京市蒲田区蒲田町に移り、柳宗悦と共に民芸品収集のため四国を一巡、翌年には、東京市蒲田区に工房を構えます。
 1939年(昭和14)に柳宗悦他民芸同人と沖縄に渡り、那覇に滞在、各々専門分野で同地工芸の研究を行う、沖縄で紅型の技法を学んだものの、1945年(昭和20)には、戦災で工房と全家具・家財を失いました。太平洋戦争後の1949年(昭和24)に女子美術大学教授となり、1955年(昭和30)には、工房を新設し、有限会社芹沢染紙研究所を開設します。
 1956年(昭和31)に重要無形文化財「型絵染」の保持者(人間国宝)に認定され、翌年には、神奈川県鎌倉市津村の農家の離れを仕事場(小庵)としました。1963年(昭和38)に「大原美術館」に芹沢館が完成、1966年(昭和41)に紫綬褒章受章、1967年(昭和42)に静岡市名誉市民、1970年(昭和45)に勲四等瑞宝章受章と数々の栄誉にも輝きます。
 1976年(昭和51)にフランス政府から招聘され、パリで「芹沢銈介展」開催(国立グラン・パレ美術館)、文化勲章を受章、文化功労者ともなりました。1980年(昭和55)に『芹沢銈介全集』(全31巻、中央公論社)の刊行が開始(1983年完結)され、1981年(昭和56)には、出身地に静岡市立芹沢銈介美術館が開館します。
 1983年(昭和58)にフランス政府より芸術文化功労賞が授与されましたが、翌年4月5日に、東京において、88歳で亡くなり、正四位勲二等瑞宝章が追贈されました。

〇芹沢銈介の代表的作品

・染額「法然上人御影」(1938年)
・「丸紋いろは屏風」(1940年)
・「型染〓文着尺」(1968年)
・「型染壺屋風物文着物」(1968年)

☆芹沢銈介関係略年表

・1895年(明治28)5月13日 静岡県静岡市本通一丁目(現在の葵区)の呉服卸商西野屋を営む父・大石角次郎の7人兄弟の次男として生まれる
・1908年(明治41) 静岡県立静岡中学校(現在の県立静岡高等学校)に入学する
・1913年(大正2)3月 隣家からの類焼により、実家が全焼する
・1914年(大正3) 東京高等工業学校図案科入学、印刷図案を専攻する
・1915年(大正4) 図案科は東京美術学校に学務委託され、ここで石版印刷技法を修得する
・1916年(大正5) 東京高等工業学校(現在の東京工業大学)工業図案科を卒業し静岡市の生家に帰る、同期の各務鑛三と生涯交遊を持つ
・1917年(大正6) 静岡市安西一丁目(現:葵区)芹沢たよと婚姻(以後15年あまり同所に居住)、大石姓から芹沢姓となる
・1917年(大正6)11月 静岡県立静岡工業試験場で、蒔絵、漆器、染色紙、木工等の図案指導を行うかたわら、商業デザインにも従事する
・1927年(昭和2) 民芸運動の柳宗悦の論文「工芸の道」に影響を受け終生交流する
・1928年(昭和3) 大礼記念国産振興東京博覧会で沖縄の紅型(びんがた)に出会う
・1931年(昭和6) 創刊された民芸運動の同人雑誌『工藝』の装丁(型染布表紙)を担当、民芸運動に参加、大半の柳の著書も装丁する
・1933年(昭和8) 大連で個展を開催、帰途、満州・朝鮮の各地を回遊、倉敷文化協会主催で同地で個展を開催、大原孫三郎の知遇を受ける
・1934年(昭和9) 東京市蒲田区蒲田町に移り、柳宗悦と共に民芸品収集のため四国を一巡する
・1935年(昭和10) 東京市蒲田区に工房を構える
・1939年(昭和14) 柳宗悦他民芸同人と沖縄に渡り、那覇に滞在、各々専門分野で同地工芸の研究を行う、沖縄で紅型の技法を学ぶ
・1945年(昭和20) 戦災で工房と全家具・家財を失う、山本正三の発案で型染カレンダーを創始する
・1949年(昭和24) 女子美術大学教授となる
・1955年(昭和30) 工房を新設し、有限会社芹沢染紙研究所を開設する
・1956年(昭和31)4月 重要無形文化財「型絵染」の保持者(人間国宝)に認定される
・1957年(昭和32) 神奈川県鎌倉市津村の農家の離れを仕事場(小庵)とする
・1963年(昭和38) 「大原美術館」に芹沢館が完成する
・1966年(昭和41) スペインのバルセロナのカタルーニア美術館を訪れ、近東、欧州各地を巡遊、紫綬褒章を受章する
・1967年(昭和42) 静岡市名誉市民となる
・1968年(昭和43) 大阪フェスティバルホールの緞帳の図案「御船渡」を制作、新皇居連翠の間の横額二面の謹作する
・1970年(昭和45) 勲四等瑞宝章を受章する
・1971年(昭和46) 東京の民芸館で「芹沢銈介収集品展」を開催する
・1973年(昭和48) 大阪・阪急百貨店で「芹沢銈介 人と仕事展」を開催する
・1974年(昭和49) 浄土宗開宗八百年慶讃大法要のため、京都・知恩院大殿内陣の荘厳飾布を制作する 
・1976年(昭和51) フランス政府から招聘され、パリで「芹沢銈介展」開催(国立グラン・パレ美術館)する
・1976年(昭和51) 文化勲章を受章、文化功労者となる
・1977年(昭和52) 東京・サントリー美術館で、パリ帰国展として「芹沢銈介展」を開催する
・1978年(昭和53) 浜松市美術館で「芹沢銈介の身辺-世界の染めと織り展」を開催する
・1979年(昭和54) 千葉県立美術館で「芹沢銈介展-その創造のすべて-」を開催、米国サンディゴ市ミュージアム・オブ・ワールドフォークアートで「芹沢銈介展」開催する 
・1980年(昭和55) 『芹沢銈介全集』(全31巻、中央公論社)の刊行が開始される
・1981年(昭和56) 静岡市登呂五丁目(現:駿河区)に静岡市立芹沢銈介美術館が開館する
・1982年(昭和57) 栃木県立足利図書館で「芹沢銈介の文字展」開催、天心社の依頼により「釈迦十大弟子尊像」を制作する
・1983年(昭和58) 『芹沢銈介全集』(全31巻、中央公論社)の刊行が完結する
・1983年(昭和58) フランス政府より芸術文化功労賞が授与される
・1984年(昭和59)4月5日 東京において、88歳で亡くなり、正四位勲二等瑞宝章が追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1880年(明治13)「集会条例」(明治13年太政官布告第12号)が公布される詳細
1939年(昭和14)「映画法」が公布され、脚本の事前検閲、外国映画の上映制限などが決まる詳細
1964年(昭和39)詩人・翻訳家三好達治の命日(達治忌)詳細
1998年(平成10)明石海峡大橋が開通する詳細
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 今日は、昭和時代前期の1936年(昭和11)に、東京に「日本民藝館」が開設(初代館長:柳宗悦)された日です。
 日本民藝館(にほんみんげいかん)は、東京都目黒区駒場にある美術館で、民芸品の収集展示を行ってきました。民芸運動の創始者である柳宗悦が、1926年(大正15)に、濱田庄司、河井寬次郎、富本憲吉の賛同を得て、四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表、地方民芸の指導開発を目的として収集が開始されます。
 1927年(昭和2)に銀座鳩居堂で初めての民藝品展「第一回日本民藝品展覧会」を開催、翌年には、東京・上野公園で開催された御大礼記念国産振興博覧会に「民藝館」を出品しました。その後、1931年(昭和6)に静岡県浜松市に「日本民藝美術館」が開設され、1934年(昭和9)には、日本民藝協会が発足し、柳宗悦が初代会長となります。
 そして、実業家で社会事業家の大原孫三郎をはじめとする多くの賛同者の援助を得て、1936年(昭和11)10月24日に東京での「日本民藝館」の開設に至り、柳宗悦が初代館長となりました。日本・朝鮮・中国などの陶磁器や木漆器、染織品等の民芸品を収集・展覧を続け、現在では、世界各地の「民衆的工芸品」約 1万7,000点を収蔵するようになり、国指定重要文化財の絵唐津芦文壺なども含まれています。
 その中には、民芸運動の同志として活躍した、浜田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチ、富本憲吉(以上陶芸)、芹沢銈介(染色)、棟方志功(版画)らの作品も多数収蔵されてきました。尚、2021年(令和3)に、本館(附属塀を含む)、西館旧柳宗悦邸主屋、西館長屋門(附属塀を含む)が東京都指定有形文化財(建造物)に指定されています。

〇柳 宗悦(やなぎ むねよし)とは?

 大正時代から昭和時代に活躍した、民芸運動の創始者・美術評論家・宗教哲学者です。
 明治時代中頃の1889年(明治22)3月21日に、東京市麻布区市兵衛町(現在の東京都港区)で、海軍少将だった父・柳楢悦、母・勝子の三男として生まれましたが、名は「そうえつ」とも読ませていました。学習院へ進み、1910年(明治43)の高等科在学中に武者小路実篤らと「白樺」の創刊に参加します。
 この頃バーナード・リーチを知り、W.ブレイクを研究するようになり、1911年(明治44)に東京帝国大学哲学科に進み、心理学を専攻、『科学と人生』を刊行しました。1913年(大正2)に大学を卒業、翌年に声楽家中島兼子と結婚、『ヰリアム・ブレーク』を洛陽堂から出版し、1919年(大正8)には、東洋大学教授として宗教学を教えるようになります。
 1921年(大正10)に日本で最初の「朝鮮民族美術展覧会」を開催、1923年(大正12)の関東大震災を機に京都へ転居し、同志社大学と同志社女学校専門学部、関西学院の講師となりました。木喰五行明満の仏像の美しさにひかれ、1924年(大正13)から全国の木喰仏調査を開始、翌年には京都同志社女学校専門部教授に就任します。
 1926年(大正15)に陶芸家の富本憲吉の賛同を得て、四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表、翌年には銀座鳩居堂で初めての民藝品展「第一回日本民藝品展覧会」を開催しました。1928年(昭和3)に上野公園で開催された御大礼記念国産振興博覧会に民藝館」を出品、初の本格的な工芸論『工藝の道』を刊行、1930年(昭和5)にヨーロッパを廻って帰国後、翌年には雑誌「工芸」を創刊します。
 1934年(昭和9)に日本民藝協会を発足させて会長に就任、1936年(昭和11)には、実業家の大原孫三郎の支援によって、東京駒場に「日本民藝館」を開設、初代館長となりました。1938年(昭和13)に京城に「朝鮮民族美術館」を開設、翌年に日本民藝協会機関誌「月刊民藝」が創刊され、1940年(昭和15)には、民衆的工芸の意味で“民芸”という語を創出し、浜田庄司、河井寛次郎らと民芸運動を推進、専修大学教授となります。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に日米教育委員となり、1951年(昭和26)に雑誌「大法論」に「南無阿弥陀仏」を21回にわたり連載しはじめ、翌年には国際工芸家会議に列席のため毎日新聞文化使節を兼て渡欧米しました。1957年(昭和32)に文化功労者となり、1960年(昭和35)には、朝日文化賞を受賞しましたが、1961年(昭和36)5月3日に、東京において、72歳で亡くなっています。

☆日本民藝館関係略年表

・1924年(大正13) 「朝鮮民族美術館」(現ソウル)を朝鮮王朝の王宮であった景福宮内に開設する
・1925年(大正14) 「民藝」という造語が作られる
・1926年(大正15) 「日本民藝美術館設立趣意書」が発表され、地方民芸の指導開発を目的として収集が開始される
・1927年(昭和2) 銀座鳩居堂で初めての民藝品展「第一回日本民藝品展覧会」を開催する
・1928年(昭和3) 東京・上野公園で開催された御大礼記念国産振興博覧会に「民藝館」を出品する
・1931年(昭和6)10月24日 浜松に「日本民藝美術館」が開設される
・1934年(昭和9) 日本民藝協会が発足し、柳宗悦が初代会長となる
・1935年(昭和10) 東京に柳宗悦邸(現在の西館)が完成する
・1936年(昭和11) 東京に「日本民藝館」が開設され、柳宗悦が初代館長に就任する
・1939年(昭和14) 日本民藝協会機関誌「月刊民藝」が創刊される
・1961年(昭和36)5月3日 初代館長の柳宗悦が亡くなる 
・1982年(昭和57) 旧大広間のあった位置に新館が建て替えられる
・2021年(令和3) 本館(附属塀を含む)、西館旧柳宗悦邸主屋、西館長屋門(附属塀を含む)が東京都指定有形文化財(建造物)に指定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1708年(宝永5)数学者・和算の祖関孝和の命日(新暦12月5日)詳細
1876年(明治9)神風連の乱がおこる詳細
1886年(明治19)ノルマントン号が沈没し英船員は脱出、日本人25人溺死(ノルマントン号事件詳細
1910年(明治43)小説家・詩人・評論家山田美妙の命日詳細


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 今日は、昭和時代後期の1978年(昭和53)に、陶芸家・人間国宝濱田庄司の亡くなった日です。
 濱田庄司(はまだ しょうじ)は、明治時代後期の1894年(明治27)12月9日に、東京芝明舟町で文房具店を営む父・濱田久三と母・アイの子として、神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市)の母の実家で生まれましたが、本名は象二と言いました。東京府立一中を経て、1913年(大正2)に東京高等工業学校窯業科に入学、板谷波山に学び、先輩河井寛次郎を識ります。
 1916年(大正5)に卒業後、京都市立陶磁器試験場に入り、河井寛次郎と主に釉法の研究に携わりました。1918年(大正7)に神田の流逸荘のリーチ展で、初めてバーナード・リーチを識り、翌年にバーナード・リーチを千葉県我孫子窯に訪ね、柳宗悦・志賀直哉も識ります。
 1920年(大正9)に帰国するリーチの誘いにより英国へ同行、セント・アイヴスの築窯を手伝い、作陶を行い、1923年(大正12)に、ロンドンのパタソン・ギャラリーで最初の個展を催しました。1924年(大正13)にフランス、イタリア、クレータ、エジプトを経て帰国、翌年に柳・河井と木喰上人の日記を追って紀州を旅行、1926年(大正15)には、沖縄壺屋窯で作陶します。
 1929年(昭和4)に国画会会員となり、翌年に栃木県益子町に近村の農家を移築して住居とし、1931年(昭和6)には住居に三室の登窯を築き、作陶を開始しました。翌年に大原孫三郎の知遇を得、1934年(昭和9)に来日したリーチを迎えてともに作陶、柳・河井・リーチと各地を旅行、民芸品調査を行う一方、作陶に励み、1937年(昭和12)大原孫三郎の寄付による日本民芸館理事に就任します。
 1939年(昭和14)以降、柳宗悦、河井寛次郎らとともに民芸運動を推進、各地を訪れました。1949年(昭和24)に第1回栃木県文化功労章を受け、1952年(昭和27)に毎日新聞社の文化使節として、柳宗悦・志賀直哉とともに渡欧、各地巡歴ののち、英国ダーティントンにおける国際工芸家会議に出席、翌年には芸術選奨文部大臣賞を受けます。
 1955年(昭和30)に第1回重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に指定され、1957年(昭和32)に文化財専門審議会専門委員、1962年(昭和37)には、日本民芸館館長となりました。1964年(昭和39)に、紫綬褒章受章、1967年(昭和42)にミシガン大学150年祭に招かれ、展覧会を開き、名誉学位を受け、1968年(昭和43)に文化勲章受章、1969年(昭和44)には益子名誉町民となるなど、数々の栄誉に輝きます。
 さらに、1970年(昭和45)に大阪万国博覧会の日本民芸館館長に就任、1973年(昭和48)にロンドン王立美術大学より名誉学位を受け、1974年(昭和49)には日本民芸協会会長に就任するなどしたものの、1978年(昭和53)1月5日に、栃木県益子町の自宅において、急性肺炎のため83歳で亡くなりました。

〇濱田庄司の主要な作品・著作

<陶芸作品>
・『失透 (しっとう) 釉格子文角皿』(1958年)
・『柿釉鉄絵丸文大鉢』(1962年)
・『赤絵面取鉢』(1966年)
・『塩釉胴紐鉄砂茶碗』(1968年)

<著作>
・『自選浜田庄司陶器集』(1969年)
・『無尽蔵』(1974年)
・『窯にまかせて』(1976年)

☆濱田庄司関係略年表

・1894年(明治27)12月9日 東京芝明舟町で文房具店を営む父・濱田久三と母・アイの子として、神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市)の母の実家で生まれる
・1900年(明治33) 溝ノ口小学校へ入学する
・1904年(明治37) 東京へ戻り、三田の南海小学校に転校する
・1908年(明治41) 東京府立一中に入学する
・1913年(大正2) 東京高等工業学校窯業科に入学。板谷波山に学び、先輩河井寛次郎を識る
・1914年(大正3) 光風会第3回展に「風景」「裏の庭」(水彩)を出品する
・1915年(大正4) 夏休みに、美濃・瀬戸・万古・信楽・伊賀・九谷・京都の窯場を巡る
・1916年(大正5) 東京高等工業学校を卒業、京都市立陶磁器試験場に入り、河井寛次郎と主に釉法の研究に携わる
・1918年(大正7)12月 神田の流逸荘のリーチ展で、初めてバーナード・リーチと識る。
・1919年(大正8)5月 バーナード・リーチを千葉県我孫子窯に訪ね、柳宗悦・志賀直哉とも識る
・1920年(大正9)6月 帰国するリーチの誘いにより英国へ同行、セント・アイヴスの築窯を手伝い、作陶を行う
・1923年(大正12) 春、ロンドンのパタソン・ギャラリーで最初の個展を催し、約80点を出品好評を得る
・1924年(大正13) フランス、イタリア、クレータ、エジプトを経て、帰国する
・1925年(大正14) 柳・河井と木喰上人の日記を追って紀州を旅する
・1926年(大正15) 秋から翌春にかけては沖縄壺屋窯で作陶する
・1929年(昭和4) 国画会会員となる、柳と渡欧する
・1930年(昭和5) 益子に近村の農家を移築して住居とする
・1931年(昭和6) 益子の住居に三室の登窯を築く
・1934年(昭和9) 来日したリーチを迎え、5月、長屋門を移築した仕事場でともに作陶、柳・河井・リーチと各地を旅行する
・1936年(昭和11) 柳・河井とともに朝鮮満州を旅し、日本民芸館のために多くの蒐集をする、国画会工芸部を退会する
・1937年(昭和12) 大原孫三郎の寄付による日本民芸館の理事に就任する
・1939年(昭和14) 日本民芸協会同人たちと沖縄壺屋窯を訪れる
・1941年(昭和16) 柳・河井と華北を旅行する
・1942年(昭和17) 八室の大型登窯を築き、近村より民家を移築し、陶房・住宅・蔵などとする
・1947年(昭和22) 国画会に復帰する
・1949年(昭和24) 第1回栃木県文化功労章を受ける
・1952年(昭和27) 毎日新聞社の文化使節として、柳宗悦・志賀直哉とともに渡欧。各地巡歴ののち、英国ダーティントンにおける国際工芸家会議に出席する
・1953年(昭和28) 昭和27年度芸術選奨文部大臣賞を受ける
・1955年(昭和30)2月 第1回重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に指定される
・1957年(昭和32) 文化財専門審議会専門委員となる
・1962年(昭和37) 日本民芸館館長となる
・1964年(昭和39) 紫綬褒章を受章する
・1966年(昭和41) 妻和枝をともない米国旅行をする
・1967年(昭和42) ミシガン大学150年祭に招かれ、展覧会を開き、名誉学位を受ける
・1968年(昭和43) 沖縄タイムス賞を受賞、文化勲章を受章する
・1969年(昭和44)5月 益子名誉町民となる
・1970年(昭和45) 大阪万国博覧会の日本民芸館館長に就任する
・1973年(昭和48) ロンドン王立美術大学より名誉学位を受ける
・1974年(昭和49)2月 日本民芸協会会長に就任する
・1976年(昭和51) 川崎市文化賞を受賞する
・1977年(昭和52) 益子参考館開館館長、理事長に就任、東京国立近代美術館において「浜田庄司展」が開催される
・1978年(昭和53)1月5日 栃木県益子町の自宅において、急性肺炎のため83歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1348年(正平3)楠木正成の子・楠木正行が高師直軍との四条畷の戦いに敗れ自刃(新暦2月4日)詳細
1593年(文禄2)第106代の天皇とされる正親町天皇の命日(新暦2月6日)詳細
1963年(昭和38)三八豪雪」が始まり、日本海側に記録的大雪をもたらす詳細
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