
都民食堂(とみんしょくどう)は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1944年(昭和19)11月25日に、雑炊食堂に代って、都内に設置された食堂です。1942年(昭和17)、戦時下において、食糧事情が逼迫すると、市中の食堂は外食券を持つ者だけに食事を提供する外食券食堂が中心となりましたが、この制度外で外食券を持たない者に食事を提供する場として、1944年(昭和19年)4月10日からは雑炊食堂が制度化されました。
東京都内では上野松坂屋、浅草松屋などのデパートや百貨店の食堂も雑炊食堂に衣替えするなど、約150軒を数えます。提供される雑炊は規格化され、米5勺(約50mL)に野菜や魚介類を3~4品を煮込み、出来上がり量2合5勺(約25mL)、120~130匁(450~487.5g)を基準とし、定価は場所により変動したものの、20~30銭とされました。
1944年(昭和19)11月25日に、雑炊食堂は都民食堂となり、1945年(昭和20)に、外食券食堂に切り変わりました。しかし、1951年(昭和26)に、外食券制度は廃止され、都内では民生食堂の制度が開始されています。
東京都内では上野松坂屋、浅草松屋などのデパートや百貨店の食堂も雑炊食堂に衣替えするなど、約150軒を数えます。提供される雑炊は規格化され、米5勺(約50mL)に野菜や魚介類を3~4品を煮込み、出来上がり量2合5勺(約25mL)、120~130匁(450~487.5g)を基準とし、定価は場所により変動したものの、20~30銭とされました。
1944年(昭和19)11月25日に、雑炊食堂は都民食堂となり、1945年(昭和20)に、外食券食堂に切り変わりました。しかし、1951年(昭和26)に、外食券制度は廃止され、都内では民生食堂の制度が開始されています。
〇戦時下から戦後占領期の食糧・外食政策の推移
<1941年(昭和16)>
・1月 農林省は「米穀割当配給制実施要綱(案)」をまとめる
・4月1日 六大都市で米穀割当配給制度(米穀配給通帳制)と外食券制(1日2合3勺)が実施される
<1942年(昭和17)>
・2月21日 「食糧管理法」が公布される
・3月13日 「食糧管理法」施行によって、米穀配給通帳制は六大都市に限らず消費地全体で実施されることとなる
<1944年(昭和19)>
・4月10日 規制が強化され、外食券食堂は外食者専用食堂として外食券を持たない者は締め出し、食券無しでも食事がとれる雑炊食堂の制度が残される
・11月25日 雑炊食堂に代って、都民食堂が登場する
<1945年(昭和20)>
・都民食堂は、外食券食堂に切り変わる
<1947年(昭和22)>
・7月1日 「飲食営業緊急措置令」(政令第118号)が公布され、外食券食堂、旅館、喫茶店を除く料飲店は営業は停止となる
<1949年(昭和24)>
・5月7日 食糧事情に改善の兆しが見えると「飲食営業緊急措置令」が廃止され、「飲食営業臨時規整法」が公布され、外食券食堂以外の飲食店も都道府県知事の許可を受ければ営業できるようになる
<1950年(昭和25)>
・5月1日 コメ以外のパン、うどんなどが統制から外れ、外食券なしで食べられるようになる
<1951年(昭和26)>
・外食券制度が廃止され、都内では、民生食堂の制度を開始する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 記念日 | 国連総会で定められた「女性に対する暴力撤廃の国際デー」の日 | 詳細 |
| 1253年(建長5) | 鎌倉幕府第5代執権北條時頼が建長寺を創建し落慶法要を挙行(新暦12月24日) | 詳細 |
| 1557年(弘治3) | 戦国武将毛利元就が子の隆元・元春・隆景に「三子教訓状(十四箇条の遺訓)」を記す(新暦12月15日) | 詳細 |
| 1819年(文政2) | 江戸幕府の老中・陸奥平藩主安藤信正の誕生日(新暦1820年1月10日) | 詳細 |
| 1876年(明治9) | 福澤諭吉著『学問のすゝめ』の最終刊・第17篇が刊行される | 詳細 |
| 1931年(昭和6) | 平凡社が『大百科事典』の刊行を開始する | 詳細 |
| 1936年(昭和11) | ドイツのベルリンで「日独防共協定」が調印される | 詳細 |
| 1970年(昭和45) | 小説家三島由紀夫の命日(憂国忌) | 詳細 |