ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:毛利元就

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 今日は、戦国時代の1557年(弘治3)に、戦国武将の毛利元就が、長男毛利隆元・次男吉川元春・三男小早川隆景に「三子教訓状(十四箇条の遺訓)」を記した日ですが、新暦では12月15日となります。
 「三子教訓状」(さんしきょうくんじょう)は、戦国武将の毛利元就が、長男毛利隆元・次男吉川元春・三男小早川隆景に書いた書状で、「十四箇条の遺訓」とも呼ばれてきました。これは、大内氏を打倒した後もなお、その旧領国周防国で頻発する反毛利氏の一揆を鎮圧するため、再度周防国へ出兵し、富田(現在の山口県周南市)の勝栄寺で書いたもので、「毛利」の家名を大切にし、長くその存続を図るよう諭した14箇条で、後世に「三本の矢の教え」の逸話の元になったとされています。
 この時点では、まだ毛利氏の統治は不安定で、内外に課題が山積していて、この危機的な状況を三人の子供にはっきりと認識させ、兄弟結束して毛利家維持に努めていくことの必要性を説き、元就の政治構想を息子たちに伝えた意見書とされてきました。この書状は現存していて、これを含む「毛利家文書」(1,593点)として、1973年(昭和48)に国の重要文化財に指定され、山口県防府市の毛利博物館に収蔵されています。
 以下に、「三子教訓状(14箇条の遺訓)」の現代語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

「三子教訓状(14箇条の遺訓)」(現代語訳) 1557年(弘治3年11月25日)

第一条
何度も繰り返して申すことだが、毛利の苗字を末代まで廃れぬように心がけよ。

第二条
元春と隆景はそれぞれ他家(吉川家・小早川家)を継いでいるが、毛利の二字を疎かにしてはならぬし、毛利を忘れることがあっては、全くもって正しからざることである。これは申すにも及ばぬことである。

第三条
改めて述べるまでもないことだが、三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。そんなことがあれば三人とも滅亡すると思え。諸氏を破った毛利の子孫たる者は、特によその者たちに憎まれているのだから。たとえ、なんとか生きながらえることができたとしても、家名を失いながら、一人か二人が存続していられても、何の役に立つとも思われぬ。そうなったら、憂いは言葉には言い表せぬ程である。

第四条
隆元は元春・隆景を力にして、すべてのことを指図せよ。また元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、それぞれの家中を抑えていくことができる。今でこそ元春と隆景は、それぞれの家中を抑えていくことができると思っているであろうが、もしも、毛利が弱くなるようなことになれば、家中の者たちの心も変わるものだから、このことをよくわきまえていなければならぬ。

第五条
この間も申したとおり、隆元は、元春・隆景と意見が合わないことがあっても、長男なのだから親心をもって毎々、よく耐えなければならぬ。また元春・隆景は、隆元と意見が合わないことがあっても、彼は長男だからおまえたちが従うのがものの順序である。元春・隆景がそのまま毛利本家にいたならば、家臣の福原や桂と上下になって、何としても、隆元の命令に従わなければならぬ筈である。ただ今、両人が他家を相続しているとしても内心には、その心持ちがあってもいいと思う。

第六条
この教えは、孫の代までも心にとめて守ってもらいたいものである。そうすれば、毛利・吉川・小早川の三家は何代でも続くと思う。しかし、そう願いはするけれども、末世のことまでは、何とも言えない。せめて三人の代だけは確かにこの心持ちがなくては、家名も利益も共になくしてしまうだろう。

第七条
亡き母、妙玖に対するみんなの追善も供養も、これに、過ぎたるものはないであろう。

第八条
五龍城主の宍戸隆家に嫁いだ一女のことを自分は不憫に思っているので、三人共どうか私と同じ気持ちになって、その一代の間は三人と同じ待遇をしなければ、私の気持ちとして誠に不本意であり、そのときは三人を恨むであろう。

第九条
今、虫けらのような分別のない子どもたちがいる。それは、七歳の元清、六歳の元秋、三歳の元倶などである。これらのうちで、将来、知能も完全に心も人並みに成人した者があるならば、憐憫を加えられ、いずれの遠い場所にでも領地を与えてやって欲しい。もし、愚鈍で無力であったら、いかように処置をとられても結構である。何の異存もない。しかしながら三人と五龍の仲が少しでも悪くなったならば、私に対する不幸この上もないことである。

第十条
私は意外にも、合戦で多数の人命を失ったから、この因果は必ずあることと心ひそかに悲しく思っている。それ故、各々方も充分にこのことを考慮せられて謹慎せられることが肝要である。元就一生の間にこの因果が現れるならば三人には、さらに申す必要もないことである。

第十一条
私、元就は二十歳のときに兄の興元に死に別れ、それ以来、今日まで四十余年の歳月が流れている。その間、大浪小浪に揉まれ毛利家も、よその家も多くの敵と戦い、さまざまな変化を遂げてきた。そんな中を、私一人がうまく切り抜けて今日あるを得たことは、言葉に尽し得ぬ程不思議なことである。我が身を振り返ってみて格別心がけのよろしきものにあらず、筋骨すぐれて強健なものにもあらず、知恵や才が人一倍あるでもなく、さればとて、正直一徹のお陰で神仏から、とりわけご加護をいただくほどの者でもなく、何とて、とくに優れてもいないのに、このように難局を切り抜け得られたのはいったい何の故であるのか、自分ながら、その了解にさえ苦しむところであり、言葉に言い表せないほど不思議なことである。それ故に、今は一日も早く引退して平穏な余生を送り、心静かに後生の願望をも、お祈りしたいと思っているけれども、今の世の有様では不可能であるのは、是非もないことである。

第十二条
十一歳のとき、猿掛城のふもとの土居に過ごしていたが、その節、井上元兼の所へ一人の旅の僧がやってきて、念仏の秘事を説く講が開かれた。大方様も出席して伝授を受けられた。その時、私も同様に十一歳で伝授を受けたが、今なお、毎朝祈願を欠かさず続けている。それは、朝日を拝んで念仏を十遍ずつとなえることである。そうすれば、行く末はむろん、現世の幸せも祈願することになるとのことである。また、我々は、昔の事例にならって、現世の願望をお日様に対してお祈り申し上げるのである。もし、このようにすることが一身の守護ともなればと考えて、特に大切なことと思う故、三人も毎朝怠ることなくこれを実行して欲しいと思う。もっとも、お日様、お月様、いずれも同様であろうと思う。

第十三条
私は、昔から不思議なほど厳島神社を大切にする気持ちがあって、長い間、信仰してきている。折敷畑の合戦の時も、既に始まった時に、厳島から使者石田六郎左衛門尉が御供米と戦勝祈祷の巻物を持参して来たので、さては神意のあることと思い、奮闘した結果、勝つことが出来た。その後、厳島に要害を築こうと思って船を渡していた時、意外にも敵の軍船が三艘来襲したので、交戦の結果、多数の者を討ち取って、その首を要害のふもとに並べて置いた。その時、私が思い当たったのは、さては、それが厳島での大勝利の前兆であろうということで、いざ私が渡ろうとする時にこのようなことがあったのだと信じ、なんと有難い厳島大明神のご加護であろうと、心中大いに安堵することができた。それ故、皆々も厳島神社を信仰することが肝心であって、私としてもこの上なく希望するところである。

第十四条
これまでしきりにいっておきたいと思っていたことを、この際ことごとく申し述べた。もはや、これ以上何もお話しすることはない。ついでとはいえ言いたいことを全部言ってしまって、本望この上もなく大慶の至りである。めでたいめでたい。

   「ウィキペデイア」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日国連総会で定められた「女性に対する暴力撤廃の国際デー」の日詳細
1253年(建長5)鎌倉幕府第5代執権北條時頼が建長寺を創建し落慶法要を挙行(新暦12月24日)詳細
1819年(文政2)江戸幕府の老中・陸奥平藩主安藤信正の誕生日(新暦1820年1月10日)詳細
1936年(昭和11)ドイツのベルリンで「日独防共協定」が調印される詳細
1970年(昭和45)小説家三島由紀夫の命日(憂国忌)詳細
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 今日は、安土桃山時代の1571年(元亀2)に、戦国武将・大名毛利元就の亡くなった日ですが、新暦では7月6日となります。
 毛利元就(もうり もとなり)は、戦国時代の1497年(明応6年3月14日)に、室町幕府御家人で安芸郡山城主(現在の広島県安芸高田市吉田町)だった毛利弘元の次男(母は福原広俊の娘)として生まれましたが、幼名は松寿丸と言いました。
 1501年(文亀元)には実母が死去、1506年(永正3)には10歳で父・弘元を亡くします。長兄・興元が家督を継いでいましたが、1516年(永正13)の興元急死後、家督は甥の幸松丸に譲られるなど不遇な時代を過ごします。
 しかし、1523年(大永3)に幸松丸の夭折により老臣に擁立されて家督を継ぎ、安芸郡山城主となりました。初めは出雲の尼子晴久に属していましたが、1525年(大永5)以降は尼子氏と絶って、周防大内氏に属します。
 1529年(享禄2)に安芸石見国人領主連合を率いていた高橋氏を滅ぼし、その位置を継承しました。1540年(天文9)には、尼子晴久の大軍に郡山城を包囲されましたが、籠城戦の末に翌年これを撃退、さらに安芸守護家の武田氏を滅亡させて、広島湾に進出します。
 1546年(天文15)に長男隆元に家督を譲って隠居しましたが、その後見として実権は放さず、1550年(天文19)に三男隆景を小早川氏の嗣とし、次男元春を吉川家督に据えて芸備支配を磐石としました。1551年(天文20)に大内義隆がその家臣陶晴賢に殺されると、いったん晴賢に従ったものの、1555年(弘治元)の厳島の戦で晴賢を破り、周防・長門・安芸の三国を支配下に置きました。
 1557年(弘治3)には陶の傀儡主大内義長(大友宗麟の弟)を山口に滅亡させ、さらに1566年(永禄9)には出雲富田城の尼子義久を降伏させます。その領国は山陰、山陽の10ヶ国と九州、四国の一部をも服務一大勢力を形成しましたが、1571年(元亀2年6月14日)に安芸郡山城において、数え年75歳で亡くなっています。

〇毛利元就関係略年表(日付は旧暦です)

・1497年(明応6年3月14日) 安芸郡山城主の毛利弘元の次男(母は福原広俊の娘)として生まれる
・1500年(明応9年3月) 父・弘元が隠居し、嫡男の毛利興元に家督を譲る
・1501年(文亀元年12月) 実母(福原広俊の娘)が死去
・1506年(永正3年1月) 10歳で父・弘元を亡くす
・1511年(永正8年8月) 元服して、多治比(丹比)元就を名乗って分家を立てる
・1516年(永正13年) 長兄・興元が急死し、家督は甥幸松丸に譲られる
・1523年(大永3年) 幸松丸の夭折により老臣に擁立されて家督を継ぎ、安芸郡山城主となる
・1525年(大永5年3月) 尼子氏と絶って、周防大内氏に属する
・1529年(享禄2年) 安芸石見国人領主連合を率いていた高橋氏を滅ぼし、その位置を継承する
・1537年(天文6年12月) 長男隆元を大内義隆へ質子として差し出す
・1540年(天文9年) 尼子晴久の大軍に郡山城を包囲される
・1541年(天文10年1月) 籠城戦の末に尼子晴久軍を撃退する
・1541年(天文10年5月) 安芸守護家の武田氏を滅亡させて、広島湾に進出する
・1542年(天文11年) 翌年にかけて大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いに従軍する
・1546年(天文15年12月) 長男隆元に家督を譲って隠居し、後見として実権は握る
・1550年(天文19年7月) 重臣井上氏一族誅伐を契機に家中支配権を確立する
・1550年(天文19年) 三男隆景を小早川氏の嗣とし、次男元春を吉川家督に据える
・1551年(天文20年9月) 大内義隆がその家臣陶晴賢に殺されると、いったん晴賢に従う
・1553年(天文22年) 石見の吉見正頼の反陶蜂起に呼応して、晴賢と断交する
・1555年(弘治元年10月) 厳島の戦で晴賢を破り、周防・長門・安芸の三国を支配下に置く
・1557年(弘治3年4月) 陶の傀儡主大内義長(大友宗麟の弟)を山口に滅亡させる
・1557年(弘治3年11月) 毛利隆元・吉川元春・小早川隆景の三子に結束を説いた教訓状を書く
・1566年(永禄9年11月) 出雲富田城の尼子義久を降伏させる
・1571年(元亀2年6月14日) 安芸郡山城において、数え年75歳でなくなる
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 今日は、戦国時代の1555年(天文24)に、巌島の戦いで、毛利元就軍が陶晴賢軍を破った日ですが、新暦では10月16日となります。
 この戦いは、戦国合戦の一つで、安芸国厳島(現在の広島県廿日市市宮島町)で毛利元就と陶晴賢とで戦われ、毛利方が勝った日本三大奇襲戦の一つです。
 1551年(天文20)に、中国地方7ヵ国を領した守護大名大内義隆は、家臣陶晴賢に襲われて自殺しました。その主君の仇を毛利元就が取った形ですが、これが毛利氏が中国地方を制覇する足がかりとなったのです。
 当時、厳島は瀬戸内水運の要衝で、ここにあった毛利方の宮尾城が、2万余の陶晴賢軍に攻められていたのを、毛利軍3千余が、荒天に乗じて奇襲上陸し、陶軍を壊滅させ、陶晴賢も自刃させました。
 現在、島内には毛利方の宮尾城跡、陶晴賢本陣が置かれていた塔の岡、包ヶ浦の毛利元就上陸之跡碑、高安ヶ原の陶晴賢敗死之所碑などがあって見て回ることができます。

〇戦国合戦とは?

 戦国時代には、戦国大名間で、あるいは、家臣が主家を倒すような合戦が日本中で行われました。また、土一揆、一向一揆、国一揆など全国で民衆の抵抗がおこり、戦国大名と対峙した場合もあります。
 そのような中で、徐々に有力な戦国大名による天下統一の方向へと向かっていくことになります。その場合には、楽市楽座や関所の廃止、治山治水、鉱山開発など経済の発展や民衆の期待を担えるような戦国大名が勝ち残っていくことにもなりました。

☆主要な戦国合戦一覧(1493年~1573年)

・1525年(大永5) 岩槻城の戦い[武蔵国 - 埼玉県岩槻市] ○北条軍×●上杉軍
・1532年(天文元) 山科本願寺の戦い[山城国 - 京都府京都市] ○柳本軍×●山科本願寺軍
・1542年(天文11) 第1次小豆坂の戦い[三河国 - 愛知県岡崎市] ○織田軍×●今川軍
・1546年(天文15) 河越城の戦い[武蔵国 - 埼玉県川越市] ○北条軍×●上杉軍
・1548年(天文17) 第2次小豆坂の戦い[三河国 - 愛知県岡崎市] ○今川・松平軍×●織田軍
・1548年(天文17) 上田原の戦い[信濃国 - 長野県上田市] ○村上軍×●武田軍
・1548年(天文17) 塩尻峠の闘い[信濃国 - 長野県岡谷市・塩尻市] ○武田軍×●小笠原軍
・1550年(天文19) 砥石城の戦い[信濃国 - 長野県上田市] ○村上軍×●武田軍
・1551年(天文20) 坂戸城の戦い[越後国 - 新潟県南魚沼市] ○長尾景虎×●長尾政景
・1555年(天文24) 厳島の戦い[安芸国 - 広島県廿日市市] ○毛利軍×●陶軍
・1560年(永禄3) 桶狭間の戦い[尾張国 - 愛知県名古屋市・豊明市] ○織田軍×●今川軍
・1560-61年(永禄3-4) 小田原城の戦い[相模国、上野国、武蔵国] △北条軍×△上杉・長尾軍
・1561年(永禄4) 第4次川中島の戦い[信濃国 - 長野県長野市] △武田軍×△上杉軍
・1563年(永禄6) 三河一向一揆[三河国 - 愛知県] ○徳川軍×●三河一向一揆
・1563-64年(永禄6-7) 第2次国府台合戦[下総国 - 千葉県市川市] ○北条軍×●里見軍
・1565年(永禄8) 永禄の変[山城国 - 京都府] ○三好・松永軍×●足利義輝軍
・1567年(永禄10) 稲葉山城の戦い[美濃国 - 岐阜県岐阜市] ○織田軍×●斎藤軍
・1568年(永禄11) 薩埵峠の戦い[駿河国 - 静岡県静岡市] ○武田軍×●今川・北条軍
・1569年(永禄12) 三増峠の戦い[相模国 - 神奈川県愛甲郡愛川町] ○武田軍×●北条軍
・1570-74年(元亀元-天正2) 長島一向一揆[伊勢国- 三重県桑名市] ○織田軍×●長島一向一揆
・1570-80年(元亀元-天正8) 石山合戦[摂津国 - 大阪府大阪市] ○織田軍×●石山本願寺軍
・1570年(元亀元) 金ヶ崎の戦い[越前国 - 福井県敦賀市] ○朝倉軍×●織田軍
・1570年(元亀元) 姉川の戦い[近江国 - 滋賀県長浜市] ○織田軍×●浅井・朝倉軍
・1571年(元亀2) 比叡山焼き討ち[山城国・近江国 - 京都府京都市・滋賀県大津市] ○織田軍×●比叡山延暦寺
・1572年(元亀3) 三方ヶ原の戦い[遠江国 - 静岡県浜松市] ○武田軍×●徳川・織田軍
・1573年(天正元) 槇島城の戦い[山城国 - 京都府京都市・宇治市] ○織田軍×●足利義昭軍
・1573年(天正元) 一乗谷城の戦い[越前国 - 福井県福井市] ○織田軍×●朝倉軍
・1573年(天正元) 小谷城の戦い[近江国 - 滋賀県長浜市] ○織田軍×●浅井軍
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