ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:比叡山

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 今日は、平安時代後期の1133年(長承2)に、浄土宗の開祖法然の生まれた日ですが、新暦では、5月13日となります。
 法然は、1133年(長承2年4月7日)に、美作国久米南条稲岡荘(現在の岡山県久米郡久米南町)に、押領使の父・漆間時国、母・秦氏君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれましたが、本名は源空と言いました。
 稲岡荘の預所明石定明の夜襲を受けて父が亡くなり、菩提寺にいた叔父の観覚にひきとられて剃髪します。
 1147年(久安3)に比叡山に登り源光、皇円、叡空に師事し、天台および諸宗を学び、黒谷で法然房源空と称しました。
 1175年(安元元)に称名念仏に専念する立場を確立し、比叡山を下り、浄土教に帰し洛東吉水に庵居して念仏を称えますが、これが浄土宗開宗の年とされています。1186年(文治2)に、勝林院で浄土の法義を談論(大原問答)しました。
 信者の増加に伴って迫害され、1207年(建永2)に諸宗の嫉視により、土佐国への流罪となります。その後、許されて1211年(建暦元)に吉水の禅房に帰りましたが、翌1212年(建暦2年1月25日)に、京都において、78歳で亡くなりました。

〇法然の主要な著作

・『黒谷上人語灯録』
・『西方指南抄』
・『選択(せんちやく)本願念仏集』
・『一枚起請文(きしょうもん)』(遺言)
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 今日は、1571年(元亀2)に、織田信長による「比叡山の焼き討ち」が起きた日ですが、新暦では9月30日となります。
 「比叡山の焼き討ち」は、元亀2年9月12日(1571年9月30日)に、比叡山延暦寺(現在の滋賀県大津市)で行われた戦いで、織田信長軍と比叡山延暦寺が争いました。当時の延暦寺は、僧兵4千人という強大な武力と権力を持ち、延暦寺が浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となったのです。織田信長による何度かの武装解除の申し出に、比叡山延暦寺側が従わなかったため、攻撃されることになりました。
 この時に、全山が焼亡し、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰し、僧侶、学僧、上人、児童の多くの首が刎ねたられたと言われています。

〇「延暦寺」とは?
 滋賀県大津市にある天台宗の総本山で、山号は比叡山といい、山門とも呼びます。
 奈良時代の788年(延暦7)に最澄が創建した一乗止観院に始まり、823年(弘仁14)には、嵯峨天皇による大乗戒壇の勅許とともに延暦寺の寺号を賜りました。
 993年(正暦4)に円珍(智証大師)の門徒が園城寺(寺門)に移ってからは寺門と対立し、このころから僧兵をたくわえ、意に満たないことがあれば強訴し、朝廷に恐れられるようになります。
 次第に堂や伽藍が整備されていき、平安時代後期には一山三千余坊といわれるほど栄えました。鎌倉時代以降も寺勢を保持しましたが、たびだひ武家勢力と対峙したため、何度か火災にあって建物を焼失したものの、その都度復興されてきました。
 しかし、1571年(元亀2)に、浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となって、織田信長によって「比叡山の焼き討ち」が起こり、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰したと言われています。
 その後、豊臣秀吉から山門再興の許可を得、秀吉、徳川家康より領地を与えられて復興しました。
 現在も、根本中堂 (国宝) をはじめ,大講堂、戒壇院、釈迦堂、山麓の滋賀院などの百有余の堂や塔があり、寺宝として、金銅経箱(国宝)、宝相華蒔絵経箱(国宝)、七条刺納袈裟・刺納衣(国宝)、伝教大師将来目録(国宝)、羯磨金剛目録(国宝)、六祖恵能伝(国宝)などを多数所蔵しています。尚、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。

☆『信長公記』の「比叡山の焼き討ち」の記述より

九月十一日、信長公、山岡玉林所に御陣を懸けらる。
九月十二日、叡山へ御取り懸く。子細は、去年、野田・福島御取り詰め侯て、既に落城に及ぶの刻、越前の朝倉・浅井備前、坂本ロヘ相働き侯。京都へ乱入侯ては、其の曲あるべからざるの由侯て、野田・福島御引払ひなされ、則ち逢坂を越え、越前衆に懸け向ふ。つぼ笠山へ追ひ上げ、干殺なさるべき御存分、山門の衆徒召し出だされ、今度、信長公へ対して御忠節仕るに付きては、御分国申にこれある山門領、元の如く還附せらるべきの旨御金打なされ、其の上、御朱印をなし遣はされ、併せて、出家の道理にて、一途の最員なりがたきに於いては、見除仕り侯へと、事を分ちて仰せ聞かさる。若し、此の両条違背に付きては、根本中堂、三王廿一杜を初めとして、悉く焼き払はるべき趣、御諚侯へき。時刻到来の砌歟。山門・山下の僧衆、王城の鎮守なりと雖も、行躰行法、出家の作法にも拘らず、天下の嘲哢をも恥ず、天道の恐をも顧みず、婬乱、魚鳥を服用せしめ、金銀賄に耽りて、浅井・朝倉に贔負せしめ、恣に相働くの条、世に随ひ、時習に随ひ、まず、御遠慮を加へられ、御無事に属せられ、御無念ながら、御馬を納められ侯へき。御憤を散ぜらるべき為めに侯。
九月十二日、叡山を取り詰め、根本中堂、三王廿一杜を初め奉り、霊仏・霊杜・僧坊・経巻一宇も残さず、一時に雲霞の如く焼き払ひ、灰嬬の地となすこそ哀れたれ。山下の男女老若、右往左往に癈忘致し、取る物も取り敢へず、悉く、かちはだしにて、八王寺山へ逃げ上り、杜内へ逃げ籠る。諸卒四方より鬨音を上げて攻め上る。僧俗・児童・智者・上人、一々に頸をきり、信長の御目に懸くる。是れは山頭に於いて、其の隠れなき高僧・貴僧・有智の僧と申し、其の外、美女・小童、其の員をも知らず召し捕へ召し列らぬる。御前へ参り、悪僧の儀は是非に及ぱず、是れは御扶けなされ侯へと、声々に申し上げ侯と雖も、中々御許容なく、一々に頸を打ち落され、目も当てられぬ有様なり。数千の屍算を乱し、哀れなる仕合せなり。年来の御胸朦を散ぜられ訖んぬ。さて、志賀郡、明智十兵衛に下され、坂本に在地侯ひしなり。
九月廿日、信長公濃州岐阜に至りて御帰陣。

【注釈】
 [1]叡山:えいざん=比叡山延暦寺のことで、1571年(元亀2)の攻撃は、比叡山の焼き討ちと呼ばれています。
 [2]根本中堂:こんぽんちゅうどう=比叡山延暦寺の中心的な堂宇(総本堂)。
 [3]山王廿一社:さんのうにじゅういっしゃ=山王神社(日吉神社)の本宮・摂社・末社の合計21社のこと。
 [4]山門山下の僧衆:比叡山延暦寺の僧侶で比叡山上と山麓に住んでいる者のこと。
 [5]行躰:ぎょうたい=なりふり。すがた。
 [6]行法:ぎょうほう=仏道修行の方法。
 [7]嘲哢:ちょうろう=ばかにする。あざける。
 [8]贔屓:ひいき=目をかける。味方する。
 [9]一宇も残さず:いちうものこさず=一つの建物も残さない。
 [10]癈忘致し:はいもういたし=うろたえること。狼狽すること。
 [11]かちはだし:徒歩ではきものもはかないこと。
 [12]八王子山:山王神社(日吉神社)の北方で奥宮のあるところ。
 [13]智者:ちしゃ=賢い僧
 [14]上人:しょうにん=地徳の優れた僧
 [15]有智の僧者:うちのそう=知恵ある僧
 [16]是非に及ばず:ぜひにおよばず=よしあしもなく。当然。
 [17]仕合せ:次第。てんまつ。
 [18]胸朦:胸中のしこり。

<現代語訳>

 9月12日、叡山へ攻めかかられた。子細は、去年、野田・福島を攻囲して、もはや落城という時に、越前の朝倉(義景)・浅井備前守(長政)が、坂本口へ攻めてきた。「京都へ乱入されては、困った事態となる」と考えられ、野田・福島から退陣し、すぐに逢坂を越え、越前衆に立ち向かわれた。これを局笠山に追い上げて兵糧攻めしにしようと考えられ、山門の衆徒を召し出し、この度信長公に対して忠節を尽くすならば、「私の領国内にある山門領を元のようにお返しするべし」旨を金打までされ、さらに朱印状をもお渡しになった。併せて、「出家の身で一方へ肩入れが難しい場合にはせめて中立を保って見過ごしてほしい」と、事をわけて説得した。「もしこの両条に背いた場合には、根本中堂・山王二十一社ことごとく焼き払う」旨を宣告していた。その時が到来したのであろうか。比叡山延暦寺の僧侶で比叡山上と山麓に住んでいる者は、王城鎮守でありながら、日常の姿も、仏道修行の作法も省みず、天下のあざけりをも恥じず、天道を恐れも顧みず、淫乱と肉食をほしいままにし、金銀に目をくらませて、浅井・朝倉に加担し、勝手なふるまいさえした。信長公は世に従い、時勢を考えて、まず容赦をくわえて見逃し、残念ながらも兵を引いたのであった。その時の憤慨を晴らされる時が来たのである。

 9月12日、叡山を攻囲し、根本中堂・山王二十一社をはじめ霊仏・霊社・僧房・経巻を一つもも残さず、いっぺんに雲霞のごとく焼き払わせ、灰燼の地と化してしまったことは哀れであった。山下では老若男女が右往左往と狼狽して、取るものもとりあえず、すべてが徒歩のはだしで、八王寺山に逃げ上り、社内に逃げ籠った。いろいろな兵が、四方より鬨の声をあげながら攻め上がった。僧俗・児童・智者・上人のことごとくの首をはね、信長公の御前に差し出した。これは叡山において呼び声の高い高僧・貴僧・学僧などと報告し、その他にも美女・小童らを数知れぬほど捕らえられ、引き出されてきた。御前へ来て、「悪僧は当然ですが、われらはお助け下さい」と口々に申し上げたものの、なかなか聞き入れず、一人ひとり首を打ち落とされ、目も当てられないありさまであった。数千の屍が散らばり、哀れな顛末となった。これで信長公は、年来の胸中のしこりを取り除かれるこことなった。その後、志賀郡は明智光秀に与えられ、坂本に城が構えられた。

 9月20日、信長公は美濃の岐阜に至って帰陣した。

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