ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:毎日出版文化賞

kainoumichitaka01
 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、法学者・弁護士戒能通孝の生まれた日です。
 戒能 通孝(かいのう みちたか)は、長野県下伊那郡飯田町(現在の飯田市)において、旧制飯田中学教師だった父の子として生まれました。1927年(昭和2)に旧制第五高等学校を卒業、東京帝国大学法学部へ入学し、在学中にセツルメント法律相談部に参加します。
 1930年(昭和5)に卒業後、法学部助手となり、民法、法社会学を専攻、サビニー、イェーリング、ギールケらの古典を研究する一方で、1939年(昭和14)には、中国農村慣行調査などに参加し、法を民衆のために役だてる精神を培いました。法社会学の立場から農村の土地問題、歴史と現実の研究に打ち込み、1943年(昭和18)には、『入会(いりあい)の研究』で第1回毎日出版文化賞を受賞します。
 太平洋戦争後は、極東国際軍事裁判の弁護人として活躍、1946年(昭和21)に民主主義科学者協会(民科)法律部会の設立に参加、翌年には、川島武宜とともに日本法社会学会を創設し、理事となりました。1949年(昭和24)に早稲田大学教授となり、翌年には、「入会の研究」で、東京大学より、法学博士を得ます。
 1954年(昭和29)に東京都立大学教授となり、1956年(昭和31)に国際民主法律家協会大会に参加、1958年(昭和33)には、憲法問題研究会結成にも参加しました。1963年(昭和38)に日本学術会議会員となり、弁護士登録し、翌年には、岩手県一戸町小繫(こつなぎ)地区の農民の入会闘争(小繫事件)弁護のため東京都立大学を辞任します。
 1968年(昭和43)に金嬉老事件の弁護団長として、弁護を引き受け、翌年には、東京都公害研究所初代所長となりました。公害の研究・行政面でも貢献しましたが、1975年(昭和50)3月22日に、東京において、66歳で亡くなっています。

〇戒能通孝の主要な著作

・『入会(いりあい)の研究』(1943年)第1回毎日出版文化賞受賞
・『法律の階級性』(1950年)
・『法社会学の課題』(1951年)
・『裁判』(1951年)
・『法廷技術』(1952年)
・『法律講話』(1952年)
・『市民の自由 基本的人権と公共の福祉』(1952年)
・『民法学概論』(1956年)
・『民主主義』(1956年)
・『小繋事件』(1964年)
・『公害の法社会学』(1971年)

☆戒能通孝関係略年表

・1908年(明治41)5月30日 長野県下伊那郡飯田町(現在の飯田市)において、旧制飯田中学教師だった父の子として生まれる
・1927年(昭和2) 旧制第五高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部へ入学する
・1930年(昭和5) 東京帝国大学法学部を卒業後、法学部助手となる
・1939年(昭和14) 中国農村慣行調査に参加する
・1943年(昭和18) 『入会(いりあい)の研究』で第1回毎日出版文化賞を受賞する
・1946年(昭和21) 民主主義科学者協会(民科)法律部会の設立に参加する
・1947年(昭和22) 川島武宜とともに日本法社会学会を創設し、理事となる
・1949年(昭和24) 早稲田大学教授となる
・1950年(昭和25) 「入会の研究」で、東京大学より、法学博士を得る
・1954年(昭和29) 東京都立大学教授となる
・1956年(昭和31) 国際民主法律家協会大会に参加する
・1958年(昭和33) 憲法問題研究会結成に参加する
・1963年(昭和38) 日本学術会議会員となり、弁護士登録する
・1964年(昭和39) 小繫(こつなぎ)事件弁護のため都立大学を辞任する
・1968年(昭和43) 金嬉老事件の弁護団長として、弁護を引き受ける
・1969年(昭和44) 東京都公害研究所初代所長となる
・1975年(昭和50)3月22日 東京において、66歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1890年(明治23)俳人杉田久女の誕生日詳細
1950年(昭和25)皇居前広場(人民広場)でデモ隊と占領軍が衝突し、8名が逮捕される(人民広場事件)詳細
「文化財保護法」が公布される(文化財保護法公布記念日)詳細
1968年(昭和43)「消費者保護基本法」(現在の「消費者基本法」)が公布・施行される詳細
生化学・医化学者古武弥四郎の命日詳細
2006年(平成18)映画監督・脚本家今村昌平の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ogurakinnosuke01
 今日は、明治時代前期の1885年(明治18)に、数学者・数学史家・数学教育家・随筆家小倉金之助の生まれた日です。
 小倉金之助(おぐら きんのすけ)は、山形県飽海郡酒田町(現在の酒田市)において、回漕問屋を営む、父・小倉末吉、母・里江の長男として生まれました。1902年(明治35)に山形県荘内私立尋常中学校(現在の鶴岡南高校)を退学し、上京して東京物理学校全科に入学します。
 1905年(明治38)に卒業し、東京帝大理科大学化学科選科へ進んだものの、翌年には、家業を継ぐために中退して帰郷しました。家業のかたわら独力でできる学問として、数学を選び、林鶴一の指導で本格的研究を始めます。
 持船が沈没したのを機会に、家業をたたむ決心をし、全てを売り払い、1911年(明治44)に、新設の東北帝国大学理科大学数学科助手となりました。1916年(大正5)に東北帝国大学理科大学より微分幾何の研究「保存力場における経路」で理学博士を授与され、1917年(大正6)には大阪に移り、大阪医大に新設の塩見理化学研究所の研究員となります。
 1920年(大正9)にフランスへ留学し、「相対性理論」を研究、1922年(大正11)には帰国し、大阪医科大学予科教授となり、実用数学を講義しました。1923年(大正12)に『図計算及び図表』、1924年(大正13)に『数学教育の根本問題』、1925年(大正14)に『統計的研究法』を刊行し、同年には塩見理化学研究所の所長となります。
 1932年(昭和7)に大阪帝国大学理学部講師となり、『数学教育史』を刊行、唯物論研究会の発起人の一人ともなりました。1933年(昭和8)には、野呂栄太郎、平野義太郎等編『日本資本主義発達史講座』第4巻第2部資本主義発達史に自然科学史第1編数学史を執筆しています。
 1936年(昭和11)に「自然科学者の任務」を発表して軍国主義に反対、翌年には、塩見理化学研究所の所長を辞め、東京に移住し著作活動に入り、評論集『科学的精神と数学教育』を刊行し、唯物史観に基づく数学史の研究を進めました。1940年(昭和15)に東京物理学校理事長となり、『日本の数学』を刊行しましたが、1943年(昭和18)には、大阪帝国大学理学部講師と東京物理学校理事長を辞めています。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)から民主主義科学者協会会長、1948年(昭和23)から日本科学史学会会長、1951年(昭和26)から数学教育協議会会長などの要職を歴任しました。1956年(昭和31)に『近代日本の数学』で第10回毎日出版文化賞を受賞、翌年には第6回平和文化賞を受賞しています。
 1962年(昭和37)に日本数学史学会(和算研究の組織算友会が改称)会長となったものの、同年10月21日に東京において、77歳で亡くなりました。
 以下に、小倉金之助著『自然科学者の任務』を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇小倉金之助の主要な著作

・『図計算及び図表』(1923年)
・『数学教育の根本問題』(1924年)
・『統計的研究法』(1925年)
・翻訳『カジョリ初等数学史』(1928年)
・『数学教育史』(1932年)
・『数学史研究』第1集(1935年)
・評論集『科学的精神と数学教育』(1937年)
・『日本の数学』(1940年)
・『数学史研究』第2集(1948年)
・『近代日本の数学』(1956年)毎日出版文化賞受賞

☆小倉金之助関係略年表

・1885年(明治18)3月14日 山形県飽海郡酒田町(現在の酒田市)において、回漕問屋を営む、父・小倉末吉、母・里江の長男として生まれる
・1890年(明治23) 山形県酒田高等尋常小学校へ入学する
・1894年(明治27)10月 庄内大地震で家は焼失、小学校は倒壊する
・1898年(明治31) 小学校を卒業し、山形県荘内私立尋常中学校(現在の鶴岡南高校)へ入学する
・1902年(明治35) 山形県立荘内中学校を退学し、東京物理学校全科に入学する
・1905年(明治38) 東京物理学校全科を卒業し、東京帝大理科大学化学科選科へ進む
・1906年(明治39) 東京帝大理科大学化学科選科を家業を継ぐために中退する
・1911年(明治44) 新設の東北帝大理科大学数学科助手となる
・1916年(大正5) 東北帝国大学理科大学より微分幾何の研究「保存力場における経路」で理学博士を授与される
・1917年(大正6) 大阪に移り、大阪医大に新設の塩見理化学研究所の研究員となる
・1920年(大正9) フランスへ留学し、「相対性理論」を研究する
・1922年(大正11) 帰国し大阪医科大学予科教授となり、実用数学を講義する
・1923年(大正12) 『図計算及び図表』を刊行する 
・1924年(大正13) 『数学教育の根本問題』を刊行する 
・1925年(大正14) (財)塩見理化学研究所の所長となり、『統計的研究法』を刊行する
・1932年(昭和7) 大阪帝国大学理学部講師となり、『数学教育史』を刊行、唯物論研究会の発起人の一人となる
・1933年(昭和8) 野呂栄太郎、平野義太郎等編『日本資本主義発達史講座』第4巻第2部資本主義発達史に自然科学史第1編数学史を執筆する 
・1936年(昭和11) 「自然科学者の任務」を発表、軍国主義に反対する
・1937年(昭和12) (財)塩見理化学研究所の所長を辞め、東京に移住し著作活動に入り、評論集『科学的精神と数学教育』を刊行する
・1940年(昭和15) 東京物理学校理事長となり、『日本の数学』を刊行する
・1943年(昭和18) 大阪帝国大学理学部講師と東京物理学校理事長を辞める  
・1946年(昭和21) 民主主義科学者協会会長となる
・1948年(昭和23) 日本科学史学会会長となる
・1950年(昭和25) 民主主義科学者協会会長を辞任する
・1951年(昭和26) 数学教育協議会会長となる
・1953年(昭和28) 数学教育協議会会長を辞任する
・1956年(昭和31) 『近代日本の数学』で第10回毎日出版文化賞を受賞する
・1957年(昭和32) 第6回平和文化賞を受賞する
・1962年(昭和37) 日本数学史学会(和算研究の組織算友会が改称)会長となる
・1962年(昭和37)10月21日 東京において、77歳で亡くなる

〇『自然科学者の任務』小倉金之助著 「中央公論」昭和11年12月号所載

 はしがき
この小篇は、わが国に於ける自然科学の進展のために、私一個人としての立場から、種々の制約の下に許される限度に於て書かれた、一つの覚書である。整頓した論文ではなく、寧ろ自己を反省、批判したところの、率直なる感想録とも云うべきものである。それで現在の日本に於て実践の不可能と思われるような議論は、一切しなかった積りである。
 本文中、「自然科学者」の名の下に批判されるものは、自然科学者中の、云わば、典型的乃至平均的なる人々である。そこには例外を許すこと勿論である。
 私は狭隘ながらも、過去三十年間の見聞によって、一々論証し得る実際の材料を、相当豊富に持っているのであるが、それは他日の歴史的研究に譲り、この小文では示さないことにした。本文の目的は、何よりも先ず、わが先輩同僚たる自然科学者の反省を乞い、新なる協力を希望する点に存するのであるから、個人を傷つけるようなことは、絶対的に慎しんだつもりである。

 一
近代の自然科学は、生産技術の発展につれ、資本主義の成長と共に、順調なる発達の途を辿が、併し理論・技術の自らなる進歩につれて、自然科学者の仕事にも、微細なる専門的分裂が行われて来た。 「科学の唯一の目的は人間精神の名誉にある」 (ドイツのヤコビ)とか、 「数学は詩である」(イギリスのシルヴェスター)とか、或はまた「自然に悦びを感ずればこそ自然を研究する」 (フランスのポアンカレ)とか、斯る誇りを以て研究をつづけた時代は、今や漸く去らんとしている。
 現代に於ては、宛も工場労働者が、云わば自働機械となり果てて、彼等自身がその一部分を形成するところの、生産機構全体について無知であるように、自然科学の極端なる専門化は、科学者をして、彼等の活動の相互的聯関を見失わせるに至った。この意味に於ては、 「自然科学者」などは最早や存在しない。存在するものは、数学者、物理学者、化学者、等々ばかりである。否最新の段階にあっては、「数学者」なるものさえも、存在するか疑わしい。そこにあるものは、ただ代数学者であり、幾何学者である、等々。
 かような専門的畸型化は、自然科学の研究上必要なのであり、その専門的狭隘性の故を以て、決して徒らに非難せらるべきものではないのである。何故なら、自然科学に於ては、一見細微と思われるような特殊研究の深化から、価値高き理論が生れ、広大なる技術的改善を促す場合も、多々存在するのであるから。それ故に、かかる専門的畸型児も、現代に於ける必然的所産であり、科学の進展上、極めて重要の地位を占めることは、当然と言わねばならない。否吾々が何等かの程度に於て畸型化しない人間ならば、現代に於ては専門科学者と呼ばれるに値しないだろう。
 しかしながら、かかる「職業の白痴」は、科学者でありながら、一方科学的精神の容易に浸潤しない、精神的空虚を持つている。彼等はその専門を一歩出ずれば、最も非科学的なる迷信に囚われる。彼等は自己の専門的研究が演ずべき社会的役割についての意識を持たない。自らの身を守るためには、単なるエゴイストに化する。(それなればこそ、権力あるものに取っては、自然科学者ほど取扱易いものはないのである。)現代の社会機構の下にあっては、何等かの強い刺戟を受けない限り、自然科学者は、最善の場合に於ても、個人主義的自由主義者に終るのが、常道であったであろう。

 しかしながら、ファッシズムの嵐が暴れ狂いはじめた時、ヨーロッパの良心的なる科学者は、彼等自らの立場に於て、自覚せざるを得なかった。― ― ―見よ。ナチス・ドイツ(嘗てのヤコビの国)の科学政策は、科学の国際性の代りにドイツ精神を極度に誇張し、多数の自然科学者を放逐し、科学教育をして軍事的色彩を帯ばせているではないか。またイタリアにあっては、古典的精神の旗の下に、中等教科としての自然科学を虐待し、理科課程をして殆んど全滅に瀕せしめ、数学科を古典数育の精神に於て行わせる。これ即ち大衆をして、無知無識に陥し入れるものではないのか。― ― ―
 リベラリズムの長き伝統を負い、科学文化の根抵固きイギリス及びフランスの、良心的なる自然科学者は、本能的にファッシズムの敵であった。今や彼等は社会的に目覚めたのである。
 即ちフランスにあっては、一団の科学者― ― ―その中には現代第一流の科学者(ポアンカレの同僚)アダマール(数学) 、ランジュヴァン(物理学) 、ペラン(化学)等々を含む― ― ―が、反文化主義に抗して戦っている。保守を以て知られるイギリス(嘗てのシルヴェスターの国)に於ても、ケンブリッジに於ける諸科学者の宣言として、既に
 「科学の国際性獲得のために、妄言又は非科学的なる声明に抗するために、平和を望む總ての科学者によって、社会が護られなければならない。」
ことが、公表されたのであった。

 ファッシズムの嵐の襲来は、併しながら、外国のみのことではなかった。今やわが日本に於ても、わが国に特徴的な型を辿りつつ、反文化主義が刻々迫らんとしている。しかも此の危機を目前にしながら、わが自然科学者は如何なる態度を採っているか。
 彼等の談話を聞き、また所謂科学随筆の類を読む毎に、私は常に或る物足らなさを感じる。苟も現代の知識階級人ならば、何人にも共感すべき性質の根本問題に対して、彼等は甚だしく無感覚なるかの如くである。吾々は彼等から得手勝手な社会観や人生観を聴かされるが、それは彼等の思想の貧困を告白するものではあっても、決して彼等の思想の自由を意味するものではないと思う。矛盾だらけのもの、反動的のもの、非科学的のもの― ― ―これ等一切の低級なるものが、最新科学からの結論であると称して、聴かされる。そして反知主義に対する闘争の如き、科学者自身に取っても、真剣なるべき諸問題に触れることは、故意にこれを避けているかの如くである。
 これが果してわが自然科学者の典型的態度なのであろうか。われわれ日本人は、軍人としては、あんなにも勇敢なのに、自然科学者としては、こんなにも無気力なのであろうか。
 この疑問に答えるために、私は日本自然科学の特徴について、幾分かの歴史的考察を加えながら、多少の分析を試みようと思う。

 二
 明治維新の暁に際し、わが国に於ける根本的課題の一つは、日本を お如何にして先進諸国に追付かせるかの問題であった。それがために、わが政府は日本の急速なる資本主義化に向って、力を集注した。その意味に於て、自然科学は盛に移植され、熱心に奨励されたのである。しかしながら爾来、日本資本主義の発展は、ひとりわが生産力の順調なる進展によるもの許りではなかった。それは先ず内には、所謂半封建的とも呼ばれる所の、農村を基礎としていた。そして外には、戦争による植民地の獲得等を諸條件として、急激に拍車を加えたところの発展であった。それが為めに、わが社会機構の中には、封建的残滓が含まれているし、自由主義の如きは、十分なる育成を遂げ得なかった、かかる経済的・社会的・政治的状勢を反映して、自然科学の発達そのものの上にも、先進諸国のそれとは幾分趣を異にするものがある。
 かくて日本に於ける自然科学 お乃至科学界の特殊性として、次のものが挙げ得られよう。 
(1) わが国の後進性のために、移植科学としての模倣性が濃厚である。そのために科学的知識の理解が主となって、創造的分子が少い。知識の集成ではあり得ても、自ら科学するための科学的精神が、十分なる涵養・発達を途げていない傾向を持つ。
 勿論わが国にも、尊敬すべき独創的諸研究が現われたことは、争うべからざる事実ではあるが、しかし其れ そ等の多くは局部的である。公平に見て、真に諸分科の基礎となる研究が、果してどれ ら丈け行われたか、また現に行われつつあるかに就いては、大に検討の つ餘地がある。 よち動もすれば一部の流行を追うて、他の諸方面に於ける基本的研究を忘れる お如き偏向性がなかったとは、決して言い得ないであろう。
(2) しかも近代科学移植の日が未だ浅く、確乎たる科学の伝統を持たない。 (尤も、徳川時代に於ける和算や本草学などがあるけれども、これ等は、少くとも今日の現状では、現代日本の科学的伝統中に入らないと見做す方が、公平な観察であろう。 )のみならず日本資本主義の跛行的進展のために、国民大衆特に農民の如きは、未だ身を以て、十分に科学文化に接触していない。科学文化は、根抵的には、未だ十分に普及していないのである。その結果として、国民大衆のみならず、科学者それ自身に取っても、現実の事象に対する科学的考察について、未熟なるを免れ得ないであろう。
(3) 今日は、軍事関係の諸科学が、著しく偏重されているが、それは併し、決して今日に始まったことではなかった。軍事科学の偏重は、幕末・明治以来のことであり。それは日本資本主義の成立・発展の上に、重大なる役割を演じたものである。
 しかし一面に於て、軍事科学は其の性質上、多くは不生産的のものたるを免れない。それは研究の秘密性と相俟って、それに投ぜられる巨大の経費は、科学全般の進展上、効果的であるよりも、寧ろそれに跛行性を与える。これと類似のものに、資本家の独占的・非公開的なる技術的研究がある。そして大資本家や軍部のためには、各種科学研究機関のラボラトリーは開かれても、大衆のためには、ラボラトリーは勿論、図書館さえも(専門的のものは) 、多くは閉鎖されている。
(4) 明治維新の後、自然科学が官立諸学府の下に於て、研究され独占されて以来、一方では研究設備費の関係上、民間の学校としては有力なもの少く、研究所と雖ども、大学系か半官半私的のものでなければ、学問的には殆んど発展し得ない状態にある。
 かくてわが自然科学は、官僚系以外に於ては、殆んど育成されなかった、従って今日に及んでも。大学竝に自然科学者の間には、濃厚なる官僚性が漂うている。
 その結果として、わが自然科学界に於ては、科学批判が封鎖された。もし万一にも、単なる讃美以外の批判が出現するならば、たとえ如何に合理的なものであっても、それは忽ち異端視される。― ― ―それほどにも封建的なのが、わが自然科学界である。
(5) しかし勿論官僚系といえども、その間に内部的な摩擦がない訳ではない。それは学閥その他のブロックの対立として現われる。しかもそれ等の閥は、何等か学問的な系統上の団結と云わんよりは、寧ろ、正に封建的なるギルド性を聯想させるものである。そこには縄張りがあり、親分が居り、偶像が生れて来る。
 正しい意味での討論や批判を封じられた自然科学の世界にあっては、「批判」は悪口と見倣され、「討論」は喧嘩と解される。もし仲間賞め以外に、何等かの論争ありとすれば、それは多くは閥のために、親分のためにするところの、情実・感情によるものであって、理論の前進性を持たないものが多いのである。
 かくて自然科学者の闘争― ― ―それも陰口であって、公開的な論争によらざる所の― ― ―は、真理を求めるためにあらずして、閥のためとなる。科学研究の国際化のために、科学の大衆への解放のために、国民大衆の生活の改善と幸福の増進のために、戦うにあらずして、地位の競争に向う。大多数の自然科学者は、滔々として、エゴイストと化し終らざるを得ない。

 三
 かような事態の上に、今やファッシズムの重圧が加わり来たったのである。
 今日何人と雖ども、わが国防の重大性について、意識を持たないものはない。しかし軍事科学、軍需工業及びそれ等に親密の関聯あるものが、極度に重視された結果として、直接にはそれ等に無関係な一切の自然科学の研究が、餘りにも軽視される。「科学日本」などと誇称しながらも、学問としては一層根本的であり、且つ重要な諸科学の研究費が、如何に貧弱化せるかを見るがよい。技術者の需要は盛であるが、しかしそれは生産の如何なる部門に向うものなるかを調査するがよい。
 大学以外の諸学校に於ける研究費の、絶望的なる貧困化は、若き学徒をして、無気力なる教師化しつつある。大学に於てさえも、今や研究家よりも単なる教師化・技師化への傾向を
辿らんとしつつあるかに見える。
 自然科学を専攻せる青年の大多数は、霊を失える技術者か、無気力なる教師か、然らざれば失業者たらねばならない。彼等の前途は暗い。そこには科学の光も、創造の喜びも、皆無なるかの如くである。
 かかる所にやって来たのが、所謂「文化統制」であり、「知識偏重論」であった。
 事ここに及んでは、如何なる人といえども、現代日本の科学の意味について、また其の前途について、深い疑問を抱かざるを得ないであろう。勿論吾々と雖ども、日本の現状にあっては、或る統制の必要を感じている。しかし其れは、政治的・社会的混乱と、そこから来る不安とを学間・文化の発展を目指すところの進歩的な線に沿って、整調するものでなければならぬ。しかるに我が科学政策の如きは、寧ろこれと対蹠的な方向を指すものではないのか。殊に知識偏重論の如きは、究極に於て、大衆の解放を犠牲にする方向に進むところの、反動的政策として以外には、考え得られないのである。
 さて、かかる反科学主義が許すべからざる以上、その抗争の任に当るべきものは誰か。それは何よりも先ず、科学者その人でなければならない筈である。
 しかるに自然科学者の中には、多年来の慣習による半封建的官僚性のために、文政当局の意見を以て、何か国家そのものの絶対的命令なるかの如く心得、その政策を研究し批判することを以て、何か非愛国的行為だと、考えている人々があるかの如く思われる。かような政府への盲従と、真の愛国との混同。― ― ―そこには官僚としての意識こそあれ、どこに科学者としての面目があるのか。科学に於ける分析とは、そもそも何なのか。
 しかし世には斯様な科学者ばかりでもあるまい。苟も常識ある人間ならば、所謂科学政策の矛盾に気付かない筈はない。その矛盾を知りつつも、何等の批判もせず、知らぬ顔をしているところに、自然科学者のエゴイズムがあるのだ。哲学者田邊元博士が、
 「自己専門の研究に於ては顯著なる業績を挙げて居る人々が、専門以外の一般の事物に就き全く科学的思考を適用することを知らず……、況んや社会機構の缺陥に注意を向け、其由来を実証的に認識せんとする如き要求を全然缺如し、ただ自己の研究に必要なる研究費さえ豊富に支給する政府であるならば、他に如何なる不合理を行うも敢て関知する所でないとする……」[1]
との指摘は、全く正しいと言わねばならない。
 然らば吾々は、ただ屈従の外に途はないのであるか。権力への屈服は、日本自然科学者の宿命でもあり、乃至国民性でもあるのか。
 断じて否。それは いな畢竟、前述の ひっきょう如く、明治維新以来のわが社会機構を反映しているに過ぎないのだ。― ― ―われわれ日本人は、徳川封建時代に於ける、蘭学者の尊い伝統を持っている。科学擁護の声は、自然科学者の間から、未だ力強く叫ばれてはいない。けれどもその機運は既に熟している。日本文化のため、日本科学のため、今こそ良心ある自然科学者の立つべき時である。
 [1]「科学政策の矛盾」 (『改造』昭和十一年十月号)

 四
 しかしながら反科学主義との強力的なる抗争は。個人の力のよくする所でない。吾々は精神的に団結せねばならぬ。この困難な時代こそ、従来の如き、非科学的な内部闘争を清算し、感情的な諸対立を去って、協力一致せねばならない秋ではないか。知識の協力が、今日ほど望ましい時はないのである。
 しかも吾々の問題は、決して単に自然科学的に解決し得られる性質のものではない。問題は. 一方自然科学と関聯しながら、実は社会的なのだ。吾々は先ず社会的現実に対して、正しい認識を得ねばならぬ。それには自然科学者自らが、少くとも或る程度まで、社会を研究し、社会の科学を学び取らなければならない。実はこの点こそ、従来の自然科学者の最も弱味とする所であったのだ。
 例えば今日、軽卒浮薄なるジャーナリズムの波に乗って、徒に「躍進科学日本」などと誇称するのは。果して真面目な科学者の採るべき態度であろうか。この誇称の裏には、健全なる科学諸分科の研究が、今日犠牲にされてはいないか、また国民大衆の幸福が果して阻害されてはいないかを、十分に検討せねばならないだろう。
 現にイギリスの有力なる自然科学者の一団は、
 「今日の自然科学は、人類の幸福を増進するという、自然科学本来の目的に向って進んではいない。それは、人類の不幸を益々増大させる(戦争、失業、等々によって)ために利用されている。かような『自然科学の徒労』の原因は、現在の社会機構にある。吾々自然科学者は、人類の真の幸福を増進するために、社会に対する甚深の関心を持たねばならない。」
と、主張しているではないか。
 それのみでは無かった。自然科学と社会科学とは、その対象を異にし、また其の研究方法に於ても、異なるものを持つに拘わらず、この両者が互に緊密なる関聯に於てあることは。周知の通りである。この意味に於て、科学の進展上、自然科学者と社会科学者とは、共同連帯的なる責任を持っているのである。
 少し不適当かも知れないが一例を引こう[1]。本年八月開催のイギリス(バンガローア)の化学会に於ては、全会員の名によって、次の意味の決議がなされた。
 「本会は、人類共通の本能に反する戦争を阻止するための、一切の団体的努力― ― ―その主要目的を、戦争それ自身の廃止に置くところの― ― ―を支持する。この目的を達するために、本会は、思想家と自然科学者の側に於ける。不断の勇敢なる活動を激励する。特に彼等が、新しい経済的諸條件― ― ―それは必然的に科学研究の進歩を伴うところの― ― ―の研究に対して、より多くの注意を払われることを切望する。……」
 思想家と自然科学者との共同研究が要望されるのは、ひとりイギリスのみには止まらないのである。わが日本にあっても、自然科学の発展を阻害するところの、真の原因を正しく認識し、自然科学研究の自由を獲得するためには、必然的に社会科学者との共感的握手を要する。このことなくしては、到底正しい「科学政策」も、発見される筈はないのである。
 それのみではない。一方に於ては、斯る精神的同盟こそ、社会科学の研究そのものをも、一層正しく進展させる所以なのだ。
 [1]誤解を避けるために一言しておくが、私は必ずしも非戦論に左袒するものではない。この一文は、決して非戦論に左袒するが為めに、引用したものでないことを、茲にハッキリと明言しておく。

 五
 それと同時に、吾々は科学研究の途を阻害しつつある所の、自然科学界内部の弊害を一掃するために、正しい科学批判が、力強く行われねばならないと思う。
 この重大なる時機に於て、徒に学閥やエゴイズムによる内部闘争の如きは、何よりも先ず自ら反省され、清算されなければならない。所謂「大学の顛落」と呼ばれるものは、恐らくは独り社会科学方面のみには限らないのである。象牙の塔は硬化しつつある、然らざれば腐敗しつつある。しかも批判を封じられた世界に残るは、ただ保守と反動あるのみであり、そこに若く優れた才能は亡び、新しい思索は阻まれる。
 実は斯る検討は、科学的研究に於ても、また社会的実践に於ても。十分に鍛錬された科学者その人の手によって、遂行されるが最も望ましい。しかし、それは事実殆んど不可能に属する。老練の士は、多くは保守的か反動的であり、しかも彼等は各自一党の親分である。
 之に反して、今日漸くジャーナリズムの舞台に登らんとする所謂科学批判は、新鮮であり進歩的ではあるが、一般的には、未だ餘り公式的なる抽象論たるに止まる。日本に於ける科学界の歴史的事情にも通ぜず、現実の内容についても、実際に深く知らざる人々の、性急なる論議は、たとえ正しい線に沿っていても、一般科学者からは、正しい批判と思われずに、偏向的歪曲と誤解され、却って其の反感を買うようになる恐れがある。
 実に今日ほど、正しい意味での科学批判が要望される時はないのである。一方では徒なる仲間賞めを止め、現実の事情に迂い議論を捨て、好意あって而も厳密なる批判が望まれる。勿論戦うべきことは飽くまでも戦わねばならないが、この際必要なのは、徒に反撥的な論調ではなくして、静かな、温かい、そして十分に厳格な、科学的なる議論である。
 永い将来にかけての根本的なる改革問題と、現実に於ける一歩前進のための改造問題とは、勿論その間の関聯については十分に注意を払いながらも、一応は切り離して究明されなければならない。徒に性急な批判は、たとえ正しい意図の下に行われたとしても、それは客観的には、非歴史的・非科学的なる、無責任な暴論と化することもある。真に望ましきは、実現性を持つところの、進歩的な、そして親切な指導方針である。
 科学批判の範囲は広く、その課題は多い。それは殆んど未開の処女地であると云っても、よいかも知れない。吾々は科学の周囲を繞る諸間題から、科学諸部門の内部に対する検討に至るべきであり、また独り現在の問題のみに限らない。現在への関聯を考察しつつ、わが科学界の過去の遺産についての厳密なる再検討の如き、最も緊要の題目たるを失わないと思う。
 また間題の取上げ方、その観点が改められなければならない。例えば入学試験は、わが教育の最大の禍根であると云われる。それほどにも重大性を持つところの、試験制度と試験問題とは、単に文政当局者や父兄及び関係学校教師間の問題たらしめず、一個の厳粛なる社会的・科学的課題として、批判され研究されねばならないであろう。
 特に重要なるは、大衆の科学教育の問題である。この困難な課題は、溢れんばかりの科学的精神によって書かれた啓蒙的科学書の普及、地方博物館の増設、等々の如き方法によっても、― ― ―勿論それ等は相当有効ではあるが― ― ―根本的には、決して解決されるものではない。吾々に許される範囲内では、甚だ不十分ながらも、矢張り学校課程としての科学教育の改造こそ、最も基本的なことだと、私は確信する[1]。この点に就いては、特に進歩的なる専門科学者の、有力なる協同研究に待たねばならない。
 科学の発達と大衆の幸福とは、相関的でなければならぬ。国民大衆の温かなる支持・後援なくして、どうして科学研究の進展が遂行され得よう。
 [1]私は「数学教育の意義は科学的精神の開発にある」となし、その趣旨によって、 『数学教育の根本問題』(大正十三年、イデア書院、後には玉川学園出版部)を書いた。今日から見れば、まことに缺陥の多い書ではあるが、この際に、読者の再検討に接するを得ば幸である。
 究極に於て、自然科学者は、個人として、また社会人として、その自らの研究に、また日常の行動に、深く実証的精神と合理的精神とが、発揮されなければならない。それが為めには、今日清算されねばならぬ多くのものを持つ。吾々は自然科学者同志の、竝びに、社会科学者との提携によって、厳正なる科学批判を行いつつ、一歩一歩前進しなければならない。ここに現下に於ける自然科学者の任務がある。
 かくの如き自然科学者は、何よりも先ず、身を以て科学的精神に徹しなければならない。
 科学的精神は、 過去の科学的遺産を謙虚に学びながら、 しかも絶えずこれを検討して、 より新なる、より精緻な事実を発見し、より完全なる理論を創造する精神である。それは偏見とは、凡そ対蹠的のものである。それ故に科学者自身にとっては、精神の自由な状態に置かれなければならぬ。
 そこには一切の偶像を認めない、そこには強烈な批判的精神が働かねばならぬ。それは飽くまでも真実を追求する不撓の魂であり、何よりも先ず真理に徹底する精神である。不徹底に甘んじたり、何等かの権力のために事実を歪曲したりすることは、断じて科学的精神に悖るところである。
 かくて吾々の科学者は、この意味に於て、本能的に精神の自由を愛する。吾々の科学者は、真理を追求し、真理を語るの勇気がある。吾々の科学者は、この意味に於て、本来ラジカリストである。
   (1936・11・8)
 
   『中央公論』昭和11年12月号所載

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

800年(延暦19)富士山延暦噴火が始まる(新暦4月11日)詳細
1789年(寛政元)哲学者・経済学者・思想家三浦梅園の命日(新暦4月9日)詳細
1868年(慶応4)「五箇条の御誓文」が出される(新暦4月6日)詳細
1970年(昭和45)大阪で日本万国博覧会(大阪万博)の開会式が行われる詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

sumiisue01

 今日は、明治時代後期の1902年(明治35)に、小説家・児童文学者住井すゑの生まれた日です。
 住井すゑ(すみい すえ)は、奈良県磯城郡平野村満田(現在の田原本町)の富裕な家庭に生まれ、田原本技芸女学校在学中に「少女世界」等の雑誌に投稿、田原本高等女学校を卒業しました。1919年(大正8)に17歳で上京して講談社の編集記者となりましたが、翌年に女性社員差別に抗議して辞め、19歳で農民作家犬田卯(しげる)と結婚します。
 1921年(大正10)に、長編小説『相剋』を出版(住井すゑ子名義)して作家としてデビュー、1924年(大正13)に夫と共に、農民文芸研究会をつくり、1927年(昭和2)には、農民文芸会に改組しました。1929年(昭和4)に『大地にひらく』が読売新聞創設55周年記念懸賞小説2位に当選、翌年には、無産婦人芸術連盟に参加し、機関誌「婦人戦線」に寄稿を始め、講演「母性は起つ」を行うなど、女性解放・農民文学運動に打ちと込みます。
 1931年(昭和6)の満州事変以降、プロレタリア文学運動への弾圧が激しくなり、1935年(昭和10)には、夫の郷里である茨城県稲敷郡牛久村城中(現在の牛久市)に転居、4人の子育てをしながら、農業と執筆活動に従事しました。1940年(昭和15)に『農婦譚』、1941年(昭和16)に『子供の村』、短編小説集『土の女たち』、1942年(昭和17)に『子供日本』、1943年(昭和18)には、長編『大地の倫理』を刊行するなどします。
 太平洋戦争後は、児童文学でも活躍し、1952年(昭和27)に『みかん』で第1回小学館児童文化賞、1954年(昭和29)には、『夜あけ朝あけ』で第8回毎日出版文化賞を受賞しました。1957年(昭和32)に夫・犬田卯が亡くなったのを契機に、翌年から被差別者の人間的解放を願った大河小説『橋のない川』に着手、1973年(昭和48)までに第1部から第6部を刊行してロングセラーとなり、1969~70年と1992年の2度にわたって映画化されます。
 1978年(昭和53)に自宅敷地内に「抱樸舎」を建て、時事問題や文化などをテーマに、著名人を講師に招いて公開学習会を開催、読者と積極的に交流し続けました。1992年(平成4)に小説『橋のない川』第7部を刊行しましたが、1997年(平成9)6月16日に、茨城県牛久市において、老衰のため95歳で亡くなっています。

〇住井すゑの主要な著作

・小説『相剋』(1921年)
・小説『大地にひらく』(1929年)読売新聞創設55周年記念懸賞小説2位当選
・小説『大地の倫理』(1943年)
・児童文学『みかん』(1952年)第1回小学館文学賞受賞
・児童文学『夜あけ朝あけ』(1954年)第8回毎日出版文化賞受賞
・自伝『愛といのちと』犬田卯との共著(1957年)
・小説『向い風』(1958年)
・小説『橋のない川 第1部』(1961年)
・小説『橋のない川 第2部』(1961年)
・小説『橋のない川 第3部』(1963年)
・小説『橋のない川 第4部』(1964年)
・小説『橋のない川 第5部』(1970年)
・小説『橋のない川 第6部』(1973年)
・小説『野づらは星あかり』(1978年)
・エッセイ『牛久沼のほとり』(1983年)
・小説『橋のない川 第7部』(1992年)

☆住井すゑ関係略年表

・1902年(明治35)1月7日 奈良県磯城郡平野村満田の富裕な家庭に生まれる
・1919年(大正8) 17歳で上京して講談社の編集記者となる
・1920年(大正9) 女性社員差別に抗議して、講談社の編集記者を辞める
・1921年(大正10) 小説『相剋』を出版(住井すゑ子名義)して作家としてデビュー、農民作家犬田卯(しげる)と結婚する
・1924年(大正13) 農民文芸研究会をつくる
・1927年(昭和2) 農民文芸研究会を農民文芸会に改組する
・1929年(昭和4) 小説『大地にひらく』が読売新聞創設55周年記念懸賞小説2位に当選する
・1930年(昭和5) 無産婦人芸術連盟に参加し、機関誌「婦人戦線」に寄稿を始め、講演「母性は起つ」を行う
・1935年(昭和10) 夫の郷里である茨城県稲敷郡牛久村城中(現在の牛久市)に転居する
・1940年(昭和15) 『農婦譚』を刊行する
・1941年(昭和16) 『子供の村』、短編小説集『土の女たち』を刊行する
・1942年(昭和17) 『子供日本』を刊行する
・1943年(昭和18) 長編『大地の倫理』を刊行、小学館の児童雑誌、教育雑誌に童話などを執筆する
・1948年(昭和23) 『飛び立つカル』が、三省堂の国語教科書に掲載される
・1952年(昭和27) 児童文学『みかん』で第1回小学館児童文化賞(文学部門)を受賞する
・1954年(昭和29) 児童文学『夜あけ朝あけ』を刊行、第8回毎日出版文化賞を受賞する
・1957年(昭和32) 夫・犬田卯が亡くなる
・1958年(昭和33) 小説『向い風』を刊行する
・1959年(昭和34) 小説『橋のない川』を部落問題研究所の雑誌「部落」に連載(翌年まで22回)開始する
・1961年(昭和36) 小説『橋のない川』第2部を書き下ろし刊行する
・1963年(昭和38) 小説『橋のない川』第3部を刊行する
・1964年(昭和39) 小説『橋のない川』第4部を刊行する
・1970年(昭和45) 小説『橋のない川』第5部を刊行する
・1973年(昭和48) 小説『橋のない川』第6部を刊行する
・1978年(昭和53) 自宅敷地内に「抱樸舎」を建てる、長編小説『野づらは星あかり』を刊行する
・1982年(昭和57) 河出書房新社より文を執筆した絵本集を刊行する
・1992年(平成4) 日本武道館で講演「九十歳の人間宣言 - いまなぜ人権が問われるのか」を行う、小説『橋のない川』第7部を刊行する
・1997年(平成9)6月16日 茨城県牛久市において、老衰のため95歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1490年(延徳2)室町幕府第8代将軍足利義政の命日(新暦1月27日)詳細
1835年(天保6)官僚・実業家・男爵前島密の誕生日(新暦2月4日)詳細
1939年(昭和14)戦争経済を支える人的資源の把握の為、「国民職業能力申告令」が公布される詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

nakagamikenji01

 今日は、平成時代の1992年(平成4)に、小説家中上健次が亡くなった日です。
 中上健次(なかがみ けんじ)は、昭和時代中期の1946年(昭和21)8月2日に、和歌山県新宮市に生まれました。複雑な家族関係の中で育ち、1962年(昭和37)には、和歌山県立新宮高校に入学して、文芸部に入ります。
 1965年(昭和40)に高校卒業後、上京して大学受験を名目に上京して、同人誌「文芸首都」に参加しながら、ジャズや映画、演劇に熱中し、羽田空港などで肉体労働に従事しながら小説を書きました。1974年(昭和49)に第一作品集『十九歳の地図』で注目を集め、翌年『岬』で第74回芥川賞を受賞します。
 続く、1977年(昭和52)の『枯木灘』では郷里熊野の風土と錯綜する血縁関係をもつ人々の愛憎を神話的スケールで描き、毎日出版文化賞,芸術選奨文部大臣新人賞を受賞しました。その後も『鳳仙花』 (1980年) 、『地の果て 至上の時』(1983年)など風土や伝統に根ざす独自の作品を発表、1986年(昭和61)の『火まつり』では、毎日新聞映画コンクール脚本賞を受賞しています。
 1990年(平成2)以来、新宮市で在野の市民講座・熊野大学を主宰、翌年の湾岸戦争への日本加担に反対する声明に参加するなど多彩な活動を展開したものの、1992年(平成4)に血尿をみて年初より入院し、8月12日に腎臓癌により、46歳で亡くなりました。

〇中上健次の主要な著作

・創作集『十九歳の地図』(1974年)
・『鳩(はと)どもの家』(1975年)
・『岬(みさき)』(1975年)第74回芥川賞受賞
・エッセイ集『鳥のように獣のように』(1976年)
・『枯木灘(なだ)』(1977年)第31回毎日出版文化賞、第28回芸術選奨文部大臣新人賞受賞
・エッセイ集『紀州木の国・根の国物語』(1978年)
・短編集『化粧』(1978年)
・短編集『水の女』(1979年)
・エッセイ集『夢の力』(1979年)
・エッセイ集『破壊せよ、とアイラーは言った』(1979年)
・『水の女』(1979年)
・『鳳仙花(ほうせんか)』(1980年)
・『千年の愉楽』(1982年)
・『地の果て 至上の時』(1983年)
・『熊野集』(1984年)
・『日輪の翼』(1984年)
・『火まつり』(1986年)毎日新聞映画コンクール脚本賞受賞
・『奇蹟』(1989年)
・『讃歌』(1990年)

☆中上健次関係略年表

・1946年(昭和21)8月2日  和歌山県新宮市に生まれる 
・1953年(昭和28) 新宮市立千穂小学校に入学する 
・1959年(昭和34) 異父兄、木下行平が自殺、新宮市立緑丘中学校に入学、中上姓を名乗る
・1962年(昭和37) 和歌山県立新宮高校に入学、文芸部に入る 
・1965年(昭和40) 和歌山県立新宮高校を卒業、上京して、高田馬場、代々木、沼袋、練馬と移り住む、同人誌「文藝首都」に入会する 
・1966年(昭和41) 処女作『俺十八歳』が「文藝首都」に掲載される。 
・1967年(昭和42) 羽田闘争に参加するなど新左翼運動に関わる 
・1968年(昭和43) 「三田文学」を通じて柄谷行人と知り合う 
・1969年(昭和44) 『一番はじめの出来事』が「文藝」に掲載され商業誌デビューする 
・1970年(昭和45) 山口かすみ(紀和鏡)と結婚する
・1971年(昭和46) 長女・紀が誕生する 
・1973年(昭和48) 創作集『十九歳の地図』が芥川賞候補作となる
・1974年(昭和49) 羽田での仕事を辞め、文筆のかたわら築地魚河岸の軽子などで生計をたてる
・1975年(昭和50) 「鳩どもの家」、「浄徳寺ツアー」が続けて芥川賞候補作となる。 創作「鳩どもの家」 
・1976年(昭和51) 『岬』で第74回芥川賞を受賞する
・1977年(昭和52) 『枯木灘』で第31回毎日出版文化賞を受賞する
・1978年(昭和53) 『枯木灘』で第28回芸術選奨新人賞を受賞、韓国ソウルから全羅北道全州にかけて民俗芸能の取材旅行をおこなう
・1979年(昭和54) 野外劇「かなかぬち」が初演される
・1980年(昭和55) アメリカ生活をきりあげ三重県熊野市新鹿町に転居する
・1981年(昭和56) 韓国のソウル特別市汝矣島のアパートで単身生活する、東京都八王子市谷野町に転居する 
・1982年(昭和57) インドからパキスタン、イラン、トルコ経由でロンドンまで「マジックバス」の旅行をおこないTV放映される
・1983年(昭和58) 『地の果て 至上の時』が谷崎賞候補となるも落選する
・1984年(昭和59) 『日輪の翼』で谷崎賞候補となるも落選する
・1985年(昭和60) 映画「火まつり」が公開されてカンヌ映画祭に出品される
・1986年(昭和61) 『火まつり』で毎日新聞映画コンクール脚本賞を受賞する
・1987年(昭和62) フィンランド、ラハティで国際作家会議に参加し、講演をおこなう
・1988年(昭和63) 三島由紀夫賞が創設され選考委員となる、東京都八王子市谷野町の自宅が火災で全焼する
・1989年(平成元) 新宮市で「熊野大学準備講座」を発足させる
・1990年(平成2) 永山則夫の日本文藝家協会入会拒否に抗議して同会を脱会する
・1991年(平成3) 「湾岸戦争に反対する文学者声明」を柄谷行人らと発表する
・1992年(平成4) 血尿をみて年初より入院し、8月12日に腎臓癌により、46歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1734年(享保19)儒学者室鳩巣の命日(新暦9月9日)詳細
1957年(昭和32)朝日訴訟が提訴される詳細
1978年(昭和53)日本と中国が「日中平和友好条約」に調印する詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ