
1930年(昭和5)に卒業後、法学部助手となり、民法、法社会学を専攻、サビニー、イェーリング、ギールケらの古典を研究する一方で、1939年(昭和14)には、中国農村慣行調査などに参加し、法を民衆のために役だてる精神を培いました。法社会学の立場から農村の土地問題、歴史と現実の研究に打ち込み、1943年(昭和18)には、『入会(いりあい)の研究』で第1回毎日出版文化賞を受賞します。
太平洋戦争後は、極東国際軍事裁判の弁護人として活躍、1946年(昭和21)に民主主義科学者協会(民科)法律部会の設立に参加、翌年には、川島武宜とともに日本法社会学会を創設し、理事となりました。1949年(昭和24)に早稲田大学教授となり、翌年には、「入会の研究」で、東京大学より、法学博士を得ます。
1954年(昭和29)に東京都立大学教授となり、1956年(昭和31)に国際民主法律家協会大会に参加、1958年(昭和33)には、憲法問題研究会結成にも参加しました。1963年(昭和38)に日本学術会議会員となり、弁護士登録し、翌年には、岩手県一戸町小繫(こつなぎ)地区の農民の入会闘争(小繫事件)弁護のため東京都立大学を辞任します。
1968年(昭和43)に金嬉老事件の弁護団長として、弁護を引き受け、翌年には、東京都公害研究所初代所長となりました。公害の研究・行政面でも貢献しましたが、1975年(昭和50)3月22日に、東京において、66歳で亡くなっています。