ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:歴史資料

kamonochyoumeihoujyouki01
 今日は、鎌倉時代の1212年(建暦2)に、鴨長明が随筆『方丈記』を書き上げた日ですが、新暦では4月22日となります。
 『方丈記』(ほうじょうき)は、鴨長明著の随筆で、鎌倉時代の1212年(建暦2)に成立したと考えられてきました。人生の無常、有為転変の相と日野山閑居のさまを描写しています。
 また、文中で1177年(安元3)の安元の大火、1180年(治承4)の治承の竜巻、と福原への遷都、1181~82年(養和年間)の養和の飢饉、1185年(元暦2)の大地震などの天変地異や政治的事件等についても記載されていて、歴史資料としても注目されてきました。仏教的無常観と深い自照性をもち、代表的な隠者文学とされ、その文章は、簡明な和漢混淆文で、そ完成形として高く評価されています。
 吉田兼好著『徒然草』、清少納言著の『枕草子』と共に、日本三大随筆の一つと言われてきました。
 以下に、『方丈記』の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『方丈記』の冒頭部分

 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋をおくれる間に、世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。
 (後略)

☆鴨長明(かものちょうめい)とは?

 平安時代後期から鎌倉時代に活躍した歌人・随筆家です。1155年(久寿2)頃に、京都下鴨神社禰宜であった父・鴨長継の次男として生まれましたが、名は「ながあきら」と読みました。
 1161年(応保元)に7歳で従五位下に叙爵され、二条天皇中宮高松院の北面に伺候するなどしましたが、1172年(承安2)頃に父を亡くし、後ろ盾をなくします。その後、琵琶を中原有安に、和歌を俊恵 (しゅんえ) に学び、1181年(養和元)頃に歌集『鴨長明集』を編纂しました。
 勅撰集『千載和歌集』(1187年成立)に1首入集し、初めて勅撰歌人となり、以降、石清水宮若宮社歌合、新宮撰歌合、和歌所撰歌合、三体和歌、俊成卿九十賀宴、元久詩歌合などに出詠します。その中で、後鳥羽院に歌才を認められ、1200年(正治2)『正治二年院第二度百首』の歌人に選ばれ、翌年には『新古今和歌集』編纂のための和歌所寄人となりました。
 しかし、1204年(元久元)に河合社(ただすのやしろ)の禰宜の職に就くことに失敗し、1204年(元久元)に50歳で出家、法名を蓮胤 (れんいん) と号して、後に日野の外山に隠棲します。そこで、日本の三大随筆の一つとされる『方丈記』(1212年成立)、歌論書『無名抄』(1211年以後成立?)、仏教説話集『発心集(ほっしんしゅう)』(1215年頃成立?)を著しました。
 歌人としても、『千載和歌集』以下の勅撰集に25首が入集していますが、1216年(建保4)閏6月10日(8日とも)に京都において、数え年62歳?で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

585年(敏達天皇14)物部守屋の仏教排斥により、仏像・寺院等が焼打ちされる(新暦5月4日)詳細
1827年(文政10)医学者・蘭学者大槻玄沢の命日(新暦4月25日)詳細
1946年(昭和21)連合国最高司令官に対し、「米国教育使節団第一次報告書」が提出される詳細
1959年(昭和34)砂川闘争に関して、砂川事件第一審判決(伊達判決)が出される詳細
1985年(昭和60)小説家・翻訳家野上弥生子の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、奈良時代の720年(養老4)に、舎人親王らが『日本書紀』30巻と系図1巻を完成し撰上した日ですが、新暦では7月1日となります。
 これは、天武天皇の時に着手され、舎人親王が中心となって、完成した日本最初の国史でした。全30巻(1、2は神代、巻3~30は神武天皇から持統天皇まで)で、系図1巻を付すとされていますが現存していません。
 漢文の編年体で記述され、同時代に成立した『古事記』よりも詳細で、かつ異説や異伝までも掲載し、客観性がみられ、史書として整っているとされてきました。帝紀・旧辞のほか諸氏の記録、寺院の縁起、朝鮮側資料などを利用して書かれたと考えられますが、漢文による潤色が著しく、漢籍や仏典をほとんど直写した部分もあります。
 神代巻や古い時代の巻は多量の神話や伝説を含み、また歌謡128首も掲載されるなど、上代文学史上においても貴重なものとされてきました。
 以後、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』 、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』と作成されて、これら6つの国史をあわせて、六国史と呼んでいます。

〇六国史とは?

 奈良時代から平安時代前期に、編纂された以下の6つの官撰の正史のことで、おおむね編年体で記されています。
(1)『日本書紀』 720年(養老4)完成 撰者は、舎人親王 
 全30巻(他に系図1巻は失われた)で、神代から持統天皇まで(?~697年)を掲載する
(2)『続日本紀』 797年(延暦16)完成 撰者は、菅野真道・藤原継縄等
 全40巻で、文武天皇から桓武天皇まで(697~791年)を掲載する
(3)『日本後紀』 840年(承和7)完成 撰者は、藤原冬嗣・藤原緒嗣等
 全40巻(10巻分のみ現存)で、桓武天皇から淳和天皇まで(792~833年)を掲載する
(4)『続日本後紀』 869年(貞観11)完成 撰者は、藤原良房・春澄善縄等
 全20巻で、仁明天皇の代(833~850年)を掲載する
(5)『日本文徳天皇実録』 879年(元慶3)完成 撰者は、藤原基経・菅原是善・嶋田良臣等
 全10巻で、文徳天皇の代(850~858年)を掲載する
(6)『日本三代実録』 901年(延喜元)完成 撰者は、藤原時平・大蔵善行・菅原道真等
 全50巻で、清和天皇から光孝天皇まで(858~887年)を掲載する

〇『日本書紀』卷第一の冒頭部分

<原文>

神代上

古、天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙。及其淸陽者薄靡而爲天・重濁者淹滯而爲地、精妙之合搏易、重濁之凝竭難。故、天先成而地後定。然後、神聖、生其中焉。故曰、開闢之初、洲壞浮漂、譬猶游魚之浮水上也。于時、天地之中生一物、狀如葦牙。便化爲神、號國常立尊。至貴曰尊、自餘曰命、並訓美舉等也。下皆效此。次國狹槌尊、次豐斟渟尊、凡三神矣。乾道獨化、所以、成此純男。

<読み下し文>

神代上(かみのよのかみのまき)

 古(いにしえ)天地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰・陽、分かれざりしときに、渾沌たること鷄(とり)の子の如くして、溟涬(ほのか)に牙(きざし)を含めり。其(そ)れ清く陽(あきらか)なるは、薄靡(たなび)きて天(あめ)と爲り、重く濁れるは、淹滞(つつ)いて地(つち)と爲るに及びて、精(くわ)しく妙(たえ)なるが合えるは摶(むらが)り易(やす)く、重く濁れるが凝(こ)るは竭(かたま)り難し。故(かれ)、天(あめ)先(ま)ず成りて、地(つち)後に定まる。 然して後に、神聖(かみ)其の中に生る。故、曰く、開闢の初めに洲壤(くにつち)浮き漂うこと譬(たと)えば游(あそ)ぶ魚の水の上に浮べるが猶(ごと)し。 時に、天地の中に一つ物生(な)れり。 状(かたち)葦牙(あしかび)の如(ごと)し。便(すなわ)ち神と化爲(な)る。 國常立尊(くにのとこたちのみこと)と號(もう)す。【至りて貴きを尊と曰い、それより餘(あまり)を命と曰う。並びに美(み)舉(こ)等(と)と訓(よ)む。下(しも)皆(みな)此(これ)に效(なら)え】
 次に國狹槌尊(くにのさづちのみこと)。次に豐斟渟尊(とよくむぬのみこと)。凡(およ)そ三はしらの神。 乾道(あめのみち)獨(ひと)り化(な)す。 所以(ゆえ)に此れ純(まじりなき)男(お)と成す。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、奈良時代の723年(養老7)に、開墾地の3代までの私有を認める「三世一身法」が発布された日ですが、新暦では5月25日となります。
 これは、律令制の下で、班田収授法に関わって、出された田地開墾の奨励法です。口分田不足が生じてきている中で、自力で池溝(灌漑施設)を造って田地を開墾した者に三世の間、また古くからの池溝(灌漑施設)を利用して田地を開墾した者は、その身一代の間はその墾田の占有を許したものでした。
 しかし、収公の期限が近づくと耕作の意欲が低下し、それによって荒廃する田地もでてきます。そこで、743年(天平15)に「墾田永年私財法」を定め、墾田はいつまでも私財として収公しないことになり、荘園を発生させ、徐々に班田収授法が崩れていくことになりました。

〇三世一身法 (全文) 723年(養老7年4月17日)

養老七年四月辛亥
太政官奏。頃者。百姓漸多。田池窄狭。望請。勧課天下。開闢田疇。其有新造溝池。営開墾者。不限多少。給伝三世。若逐旧溝池。給其一身。奏可之。

                        『続日本紀』より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<読み下し文>

養老七年四月辛亥
太政官奏すらく[1]、『頃者百姓漸く多く、田池搾狭[2]なり。望み請ふらくは、天下に勧め課せて、田疇[3]を開闢かしめむ[4]。其れ新たに溝池[5]を造り、開墾を営む者あらば、多少に限らず、給して、三世[6]に伝へしめむ。若し旧き溝池を逐はば[7]、其の一身に給せむ』と。奏してこれを可そす。

【注釈】
[1]太政官奏すらく:だじょうかんそうすらく=太政官の合議を奏上して天皇の裁可を求めること。
[2]窄狭:さくきょう=せまいこと。
[3]田疇:でんちゅう=田地。
[4]開闢かしめむ:ひらかしめむ=開墾させたい。
[5]溝池:こうち=用水路やため池などの灌漑施設。
[6]三世:さんぜ=三代目のこと。
[7]旧き溝池を逐はば:ふるきこうちをおはば=既設の灌漑施設を利用したならば。

<現代語訳> 三世一身法

養老七年四月辛亥(十七日)
太政官から次のように元正天皇に奏上された。「近頃,人口がしだいに増え、班給する田や池が不足しています。よって、天下の人民に田地の開墾を奨励したいと思います。その場合、新しく灌漑用の溝や池を造って開墾をした者があれば、その面積の多少にかかわらず、三代の間の所有を認めたいと思います。もし、既設の灌漑用の溝や池を利用して開墾した者については、本人一代に限って所有を認めたいと思います。」この上奏は許可された。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、奈良時代の741年(天平13)に、聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出した日ですが、新暦では3月5日となります。
 これは、聖武天皇が鎮護国家を具現化するために出した、各国に国分寺(僧寺と尼寺)を建てる命令のことです。
 その内容は、国毎に七重塔を一基造り、「金光明最勝王経」、「法華経」を書写することを命じ、天皇も自ら金字で「金光明最勝王経」を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどでした。
 僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施し財源とすること、僧寺に僧20人、尼寺に尼僧10人を置くことも定められたのです。

〇国分寺とは?

 聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、奈良時代の741年(天平13年2月14日)に「国分寺建立の詔」で、国ごとに建立を命じた寺院で、国分僧寺と国分尼寺に分かれます。正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」といいました。
 境内に七重塔が建てられ、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施し財源とすること、僧寺に僧20人、尼寺に尼僧10人を置くことも定められたのです。
 尚、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられました。

☆「国分寺建立の詔」(全文) 741年(天平13年2月14日)

天平十三年 三月乙巳。
詔曰、朕以薄徳、忝承重任。未弘政化、寤寐多慙。古之明主、皆能光業、国泰人楽、災除福至。脩何政化、能臻此道。頃者、年穀不豊、疫癘頻至。慙懼交集、唯労罪己。是以、広為蒼生、遍求景福。故前年、馳驛増飾天下神宮。去歳、普令天下造釈迦牟尼仏尊像、高一丈六尺者、各一鋪、并写中大般若経各一部。自今春已来、至于秋稼、風雨順序、五穀豊穣。此乃、徴誠啓願、霊貺如答。載惶載懼、無以自寧。案経云、若有国土講宣読誦、恭敬供養、流通此経王者、我等四王、常来擁護。一切災障、皆使消殄。憂愁疾疫、亦令除差。所願遂心、恒生歓喜者、宜令下天下諸国各令敬造七重塔一区、并写金光明最勝王経、妙法蓮華経一部。朕、又別擬、写金字金光明最勝王経、毎塔各令置一部。所冀、聖法之盛、与天地而永流、擁護之恩、被幽明而恒満。其造塔之寺、兼為国華。必択好処、実可久長。近人則不欲薫臭所及。遠人則不欲労衆帰集。国司等、各宜務存厳飾、兼尽潔清。近感諸天、庶幾臨護。布告遐邇、令知朕意。又毎国僧寺、施封五十戸、水田一十町。尼寺水田十町。僧寺必令有廿僧。其寺名、為金光明四天王護国之寺。尼寺十尼。其名為法華滅罪之寺。両寺相去、宜受教戒。若有闕者、即須補満。其僧尼、毎月八日、必応転読最勝王経。毎至月半、誦戒羯磨。毎月六斎日、公私不得漁猟殺生。国司等宜恒加検校。

                           『続日本紀』より

          *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<読み下し文>

(天平十三年三月)乙巳、詔して日く、
『朕[1]薄徳[2]を以て忝く重任を承け、未だ政化[3]を弘めず、寤寐[4]多く慙づ。古の明主[5]、皆先業[6]を能くし、災除かれ福至る。何の政化[3]を修めてか、能く此の道に臻れる。頃者、年穀[7]豊かならず[8]、疫癘[9]頻りに至る。慙懼[10]交集りて、唯労して己を罪す。是を以て、広く蒼生[11]の為に、遍く景福[12]を求む。故に前年、驛を馳せて[13]天下の神宮を増し飾へ[14]。去歳、普く天下を令して釈迦牟尼仏の尊像高さ一丈六尺なる者各一鋪を造り、并せて大般若経[15]各一部を写さしむ。今春より已来、秋稼[16]に至るまで、風雨序に順ひ[17]、五穀豊穣[18]なり。此に乃ち誠を徵かにし、願を啓す。靈貺[19]答ふるが如し。案ずるに經に云ふ、若し國土に講宣[20]讀誦、恭敬[21]供養[22]し、此の經を流通[23]せしむる王者あらば、我等四王[24]、常に來つて擁護し、一切の災障、皆消殄[25]せしめ、憂愁疾疫亦除き差へしめん。願ふところ心を遂げ、恒に歡喜を生ぜんものなりと。宜しく天下の諸国をして、各敬んで七重塔一区を造り、并に金光明最勝王経[26]、妙法蓮華経[27]、各一部を写さしむ。朕[1]又別に金字の金光明最勝王経[26]を写し、塔毎に各々一部を置かしめんと擬す。冀ふところは聖法[28]の盛んなること、天地とともに永く流へ、擁護の恩[29]、幽明[30]に被らしめて恒に満たんことを。其れ造塔の寺は、また国の華たり。必ず好処[31]を択びて、実に長久にすべし。近人は則ち薰臭[32]の及ぶところを欲せず、遠人は則ち衆を勞して歸集[33]することを欲せず、國司等各宜しく嚴飾[34]に務めて、兼ねて潔淸[35]を盡すべし。近ごろ諸天に感ず、庶幾くば臨護して、遐邇[36]に布告し、朕[1]の意を知らしめよ。』
又国毎の僧寺には封[37]五十戸、水田十町を施し、尼寺には水田十町。
僧寺には必ず廿僧有らしめよ。其の寺の名を金光明四天王護国之寺と為し、尼寺には一十尼ありて、其の寺の名を法華滅罪之寺と為し、両寺相共に宜しく教戒[38]を受くべし。若し闕者有れば、即ち補満すべし。其の僧尼は每月八日、必らず最勝王經を轉讀[39]し、月半に至る每に、戒羯磨[40]を誦べし。
每月六齋日に公私漁獲殺生するを得ず。国司等宜しく恒に検校[41]を加ふべし。

【注釈】
[1]朕:ちん=聖武天皇のこと。
[2]薄徳:はくとく=徳の少ないこと。寡徳。
[3]政化:せいか=政治上の感化。政治と教化。
[4]寤寐:ごび=寝てもさめても。
[5]明主:めいしゅ=賢明な君主。
[6]先業:せんぎょう=政治上の手柄をよくたてる。
[7]年穀:ねんこく=五穀のこと。
[8]豊ならず:ゆたかならず=よく実らない、つまり飢饉を意味する。
[9]疫癘:えきれい=流行病。疫病。
[10]慙懼:ざんく=恐れと恥ずかしさと。恥じ入りかつ恐れること。
[11]蒼生:そうせい=人民。
[12]景福:けいふく=幸福。大いなる幸せ。
[13]驛を馳せて:えきをはせて=駅馬を走らせて。
[14]神宮を増し飾へ:じんぐうをましととのへ=737年(天平9)11月の詔の指示のこと。
[15]大般若経:だいはんにゃきょう=諸法皆空の理を広く論じた大経典で600巻ある。
[16]秋稼:しゅうか=秋の収穫。
[17]序に順ひ:じょにしたがひ=順調なこと。具合が良いこと。
[18]五穀豊穣:ごこくほうじょう=穀物が豊作なこと。
[19]靈貺:れいきょう=仏が与えて下さる賜物。
[20]講宣:こうせん=講述し宣説すること。
[21]恭敬:きょうけい=つつしみ、うやまうこと。
[22]供養:くよう=仏に物を供えて回向すること。仏・法・僧の三宝を敬い、これに香・華・飲食物などを供えること。
[23]流通:るつう=仏法が伝わり広まること。行き渡らせること。
[24]四王:しおう=四天王のこと、帝釈天に仕え仏教を守護する四神(東・持国天、南・増長天、西・広目天、北・多聞天)。
[25]消殄:しょうてん=消滅させること。
[26]金光明最勝王経:こんこうみょうさいしょうおうきょう=唐(中国)の義浄が訳した「金光明経」の名称。
[27]妙法蓮華経:みょうほうれんげきょう=代表的な大乗仏教経典で、釈迦が永遠の仏であることなどが説かれている。
[28]聖法:しょうほう=仏法のこと。
[29]擁護の恩:ようごのおん=仏の加護の恩恵。
[30]幽明:ゆうめい=幽界と明界。あの世とこの世。来世と現世。
[31]好処:こうしょ=風景が良く、物静かなところ。良いところ。
[32]薰臭:くんしゅう=良くないにおい。
[33]歸集:きしゅう=帰ったり、集まったり、往来すること。
[34]嚴飾:げんしょく=厳かに飾ること。
[35]潔淸:けっせい=清い美しさ。
[36]遐邇:かじ=遠近。
[37]封:ふう=封戸。指定された戸の租の半分と庸・調が支給された。
[38]教戒:きょうかい=教えと戒律。
[39]轉讀:てんどく=長い経典の題目や要所要所の数行だけを読んで、全文を読むことに代えること。
[40]羯磨:かつま=仏教教団の運営に必要な議事や儀式の作法、およびそれらをまとめたテキストのこと。
[41]検校:けんこう=調べ考えること。調査し考え合わせること。監査すること。

<現代語訳>

天平十三年三月乙巳、(聖武天皇は)詔の中で言われた、「私は徳の薄い身であるのにかかわらず、かたじけなくも天皇という重責についている。ところが、 いまだに民を教え導く良い政治を広められず、寝ても醒めても恥ずかしい思いでいっぱいだ。昔の名君は、みな祖先の仕事を良く受け継いで、国家は安泰であり、人々は楽しみ、災害がなく幸せに満ちていた。どのようにすれば、このような政治と教化ができるのであろうか。この頃は実りが豊かでなく、疫病も流行している。それを見るにつけ、私は恥じ入りかつ恐れ、自責の念に駆られている。そこで、広く人民のために、大きな幸福をもらたしたいと思う。以前(天平9年11月)、諸国に駅馬を走らせて、各地の神社を修造させたり、丈六(一丈六尺=約4.8m)の釈迦牟尼仏一体を造らせ、あわせて、大般若経を写させたのもそのためである。その甲斐あって、今年は春から秋の収穫の時期まで天候が順調で穀物も豊作であった。これは真心が伝わったためで、仏の賜物ともいうべきものである。考えてみると、金光明最勝王経には「もし広く世間でこの経を講義したり、読経暗誦したり、つつしんで供養し、行き渡らさせれば、われら四天王は常に来りてその国を守り、一切の災いは消滅し、心中にいだくもの悲しい思いや疫病もまた除去される。そして心のままに願いをかなえ、常に喜びが訪れるであろう」とある。そこで、諸国に命じて敬んで七重塔一基を造営し、あわせて金光明最勝王経と妙法蓮華経各一部を写経させることとする。私もまた別に、金文字で金光明最勝王経を写し、塔ごとに一部ずつ納めようと思う。願うところは、仏教が興隆し、天地とともに永続し、仏の加護の恩恵が来世と現世にいつまでも満ちることである。七重塔を持つ寺(国分寺)は「国の華」であり、必ず良い場所を選定し、いつまでも長く久しく続くようにしなさい。人家に近すぎて、においを感じさせるようなところは良くないし、遠すぎて人々が集まるのに疲れてしまうようなところも望ましくない。国司は国分寺を厳かに飾るように努め、清浄を保つように尽くしなさい。間近に仏教を擁護するものを感嘆させ、仏が望んで擁護されるように請い願いなさい。近い所にも遠い所にも布告を出して、私の意向を人民に知らしめなさい。」
また、国ごとの僧寺には、寺の財源として封戸を五十戸、水田十町を施し、尼寺には水田十町を施しなさい。
僧寺には必ず二十人の僧を住まわせ、その寺の名は金光明四天王護国之寺としなさい。また、尼寺には十人の尼を住まわせ、その寺の名は法華滅罪之寺とし、二つの寺の僧尼は共に教戒を受けるようにしなさい。もし僧尼に欠員が出たときは、すみやかに補充しなさい。毎月八日に、必ず金光明最勝王経を読み、月の半ばには戒と羯磨を暗誦しなさい。
毎月の六斎日(八・十四・十五・二十三・二十九・三十日)には、公私ともに魚とりや狩りをして殺生をしてはならない。国司は、常に監査を行いなさい。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ