ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:歴史学者

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 今日は、昭和時代前期の1928年(昭和3)に、歴史学者網野善彦が生まれた日です。
 網野善彦(あみの よしひこ)は、山梨県東八代郡御坂町(現在の笛吹市御坂町)において、江戸時代から続く地主網野家の父・勝丸の末男として生まれました。幼少期に東京市麻布区桜田町(現在の東京都港区西麻布)へ転居し、白金小学校卒業後、1940年(昭和15)に旧制東京高等学校尋常科(現:東京大学教育学部附属中等教育学校)へ入学します。
 1947年(昭和22)に東京大学文学部国史学科へ入学し、学生時代は石母田正に私淑すると共に学生運動にも参加しました。1950年(昭和25)に卒業後、財団法人日本常民文化研究所の月島分室に勤務しましたが、1954年(昭和29)に水産庁からの予算打ち切りが決まると研究所を辞めます。
 1955年(昭和30)に永原慶二の世話で東京都立北園高等学校の非常勤講師(日本史)として勤務、1956年(昭和31)には正式の教諭となり、日本史の授業以外にも社会科学研究会や部落解放研究会などの顧問を務めました。1966年(昭和41)に『中世荘園の様相』を著し、1967年(昭和42)には、東京都立北園高等学校を退職し、名古屋大学文学部助教授に就任、名古屋に転居します。
 1973年(昭和48)に中世史研究会発足に参加、1978年(昭和53)には、『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』が学術書としては異例のヒットを記録しました。1979年(昭和54)に神奈川大学が日本常民文化研究所を招致することが決まり、名古屋大学を辞任、1980年(昭和55)には、神奈川大学短期大学部教授に就任します。
 1984年(昭和59)に『日本中世の非農業民と天皇』を刊行、1989年(平成元)には、絵本『河原にできた中世の町 へんれきする人びとの集まるところ』で第36回産経児童出版文化賞美術賞、絵本『瓜と龍蛇 いまは昔 むかしは今』で第43回毎日出版文化賞を受賞しました。1992年(平成4)にビデオブック『大系日本歴史と芸能 全14巻』で、第46回毎日出版文化賞特別賞を受賞、1993年(平成5)に神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科を開設、1995年(平成7)には、神奈川大学経済学部特任教授となります。
 1998年(平成10) 神奈川大学を定年退職し、2000年(平成12)には、『日本の歴史〈』(講談社刊)の第1回配本、『日本とは何か』が10万部を超えたものの、肺癌だと分かり闘病生活に入りました。“網野史学”と呼ばれる民衆史の観点からの新たな日本史像を作り上げましたが、2004年(平成16)2月27日に、東京都内の病院において、76歳で亡くなっています。

〇網野善彦の主要な著作

・『中世荘園の様相』(1966年)
・『日本の歴史 第10巻 蒙古襲来』(1974年)
・『無縁・公界・楽-日本中世の自由と平和』(1978年)
・『中世東寺と東寺領荘園』(1978年)
・『日本中世の民衆像』(1980年)
・『日本中世の非農業民と天皇』(1984年)
・『異形の王権』(1986年)
・絵本『瓜と龍蛇 いまは昔 むかしは今』(1989年)第43回毎日出版文化賞受賞
・『日本の歴史をよみなおす』正・続(1991・1996年)
・『日本社会の歴史』(1997年)
・『日本社会の歴史』全3巻(1997年)
・『日本中世の百姓と職能民』(1998年)
・『日本の歴史〈00〉 『日本』とは何か』(2000年)

☆網野善彦関係略年表

・1928年(昭和3)1月22日 山梨県東八代郡御坂町(現在の笛吹市御坂町)において、江戸時代から続く地主網野家の父・勝丸の末男として生まれる
・1940年(昭和15) 旧制東京高等学校尋常科(現在の東京大学教育学部附属中等教育学校)へ入学する
・1947年(昭和22) 東京大学文学部国史学科へ入学する
・1950年(昭和25) 東京大学文学部史学科を卒業、財団法人日本常民文化研究所の月島分室に勤務する
・1954年(昭和29) 水産庁からの予算打ち切りが決まると日本常民文化研究所を辞める
・1955年(昭和30) 永原慶二の世話で東京都立北園高等学校の非常勤講師(日本史)として勤務する
・1956年(昭和31) 東京都立北園高等学校の教諭となり、日本史の授業以外にも社会科学研究会や部落解放研究会などの顧問を務める
・1966年(昭和41) 『中世荘園の様相』を著す
・1967年(昭和42) 東京都立北園高等学校を退職し、名古屋大学文学部助教授に就任、名古屋に転居する
・1973年(昭和48) 中世史研究会発足に参加する
・1978年(昭和53) 『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』が学術書としては異例のヒットを記録する
・1979年(昭和54) 神奈川大学が日本常民文化研究所を招致することが決まり、名古屋大学を辞任する
・1980年(昭和55) 神奈川大学短期大学部教授に就任する
・1984年(昭和59) 『日本中世の非農業民と天皇』を刊行する
・1989年(平成元) 絵本『河原にできた中世の町 へんれきする人びとの集まるところ』で第36回産経児童出版文化賞美術賞受賞、絵本『瓜と龍蛇 いまは昔 むかしは今』で第43回毎日出版文化賞を受賞する
・1992年(平成4) ビデオブック『大系日本歴史と芸能 全14巻』で、第46回毎日出版文化賞特別賞を受賞する
・1993年(平成5) 神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科を開設する
・1995年(平成7) 神奈川大学経済学部特任教授となる
・1998年(平成10) 神奈川大学を定年退職する
・2000年(平成12) 『日本の歴史〈』(講談社刊)の第1回配本、『日本とは何か』が10万部を超え、肺癌だと分かり闘病生活に入る
・2004年(平成16)2月27日 東京都内の病院において、76歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1887年(明治20)東京電燈会社が営業開始し、移動式発電機により鹿鳴館に日本初の電灯が灯る詳細
1893年(明治26)歌舞伎狂言作者河竹黙阿弥の命日詳細
1925年(大正14)第50回帝国議会で加藤高明首相の普通選挙法提案理由の説明がなされる詳細
1929年(昭和4)日本プロレタリア美術家同盟(AR)が結成される詳細
1941年(昭和16)「人口政策確立要綱」を閣議決定し、1夫婦の出産目標数を平均5児とする詳細
1993年(平成5)小説家・劇作家・演出家安部公房の命日詳細

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 今日は、平成時代の1997年(平成9)に、歴史学者竹内理三の亡くなった日です。
 竹内理三(たけうち りぞう)は、明治時代後期の1907年(明治40)12月20日に、愛知県知多郡岡田町(現在の知多市)において、機織工場の共同経営者である父・竹内仁重と母・志んの三男として生まれました。半田中学校(現在の愛知県立半田高等学校)、第八高等学校を経て、1927年(昭和2)に東京帝国大学文学部国史学科入学します。
 1930年(昭和5)に、卒業論文「奈良朝時代に於ける寺院経済の研究」を書いて卒業後、、東京帝国大学史料編纂所業務嘱託となり、『大日本史料』第一編部に配属されました。1935年(昭和10)に、東京帝国大学史料編纂所史料編纂官補となり、1945年(昭和20)には編纂官に昇任され、1948年(昭和23)には、九州大学法文学部教授、翌年には文学部教授となります。
 1956年(昭和31)に西日本文化賞、1958年(昭和33)に『律令制と貴族政権』で、朝日文化賞を受賞、1959年(昭和34)には、東京大学史料編纂所教授となりました。1961年(昭和36)に論文「日本に於ける貴族政権の成立」により、東京大学より文学博士の学位を取得、1965年(昭和40)には、東京大学史料編纂所所長となります。
 1968年(昭和43)に東京大学教授を定年退官、早稲田大学文学部教授となり、翌年には紫綬褒章を受章しました。1978年(昭和53)に早稲田大学教授定年退職、勲三等旭日中綬章を受章、1988年(昭和63)には、日本学士院会員、文化功労者となります。
 1991年(平成3)に『角川日本地名大辞典』編纂で、第45回毎日出版文化賞を受賞、1996年(平成8)には、文化勲章を受章しました。荘園史料集をまとめた『寧楽遺文 』(1943~44年) 、『平安遺文』 (1947~62年)などの実証的かつ緻密な研究で知られましたが、1997年(平成9)3月2日に、東京において、89歳で亡くなり、知多市名誉市民、叙従三位、賜銀杯一組を追贈されています。

〇竹内理三の主要な著作

・『奈良朝時代に於ける寺院経済の研究』(1931年)
・『日本上代寺院経済史の研究』(1934年)
・『寺領荘園の研究』(1942年)
・『寧楽遺文 (ならいぶん) 』(1943~44年)
・『平安遺文』全16巻 (1947~62年)
・『律令制と貴族政権』(1957年)
・『武士の登場』 (1965年)
・『鎌倉遺文』全46巻(1971~95年)

☆竹内理三関係略年表

・1907年(明治40)12月20日 愛知県知多郡岡田町(現在の知多市)において、機織工場の共同経営者である父・竹内仁重と母・志んの三男として生まれる
・1920年(大正9) 半田中学校(現在の愛知県立半田高等学校)へ入学する
・1924年(大正13) 半田中学校4年修了し、第八高等学校文科甲類入学する
・1927年(昭和2) 第八高等学校卒業し、東京帝国大学文学部国史学科入学する
・1930年(昭和5) 東京帝国大学文学部国史学科卒業、卒業論文は「奈良朝時代に於ける寺院経済の研究」、東京帝国大学史料編纂所業務嘱託となり、『大日本史料』第一編部に配属される
・1931年(昭和6) 大岡山書店から『奈良朝時代に於ける寺院経済の研究』が出版される
・1935年(昭和10) 東京帝国大学史料編纂所史料編纂官補となる
・1945年(昭和20) 東京帝国大学史料編纂所編纂官となる
・1948年(昭和23) 九州大学法文学部教授となる
・1949年(昭和24) 九州大学文学部教授となる
・1956年(昭和31) 西日本文化賞を受賞する
・1958年(昭和33) 『律令制と貴族政権』で、朝日文化賞を受賞する
・1959年(昭和34) 東京大学史料編纂所教授となる
・1961年(昭和36) 論文「日本に於ける貴族政権の成立」により東京大学より文学博士の学位を取得する
・1965年(昭和40) 東京大学史料編纂所所長となる
・1968年(昭和43) 東京大学教授定年退官、早稲田大学文学部教授となる
・1969年(昭和44) 紫綬褒章を受章する
・1978年(昭和53) 早稲田大学教授定年退職、勲三等旭日中綬章を受章する
・1988年(昭和63) 日本学士院会員、文化功労者となる
・1991年(平成3) 『角川日本地名大辞典』で、第45回毎日出版文化賞を受賞する
・1996年(平成8) 文化勲章を受章する
・1997年(平成9)3月2日 東京において、89歳で亡くなり、知多市名誉市民、叙従三位、賜銀杯一組を追贈される
・1992年(平成4) 早稲田大学名誉博士の称号を授与、東京大学名誉教授の称号を授与される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

959年(天徳3)第64代の天皇とされる円融天皇の誕生日(新暦4月12日)詳細
1392年(元中9/明徳3)武将・守護大名・室町幕府管領細川頼之の命日(新暦3月25日)詳細
1886年(明治19)「帝国大学令」が公布される詳細
1899年(明治32)北海道アイヌの「保護」を名目として、「北海道旧土人保護法」が公布(同年4月1日施行)される詳細
1943年(昭和18)敵性語をやめ、野球用語も全面日本語化することを職業野球の理事会で決定する詳細
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 今日は、 昭和時代後期の1987年(昭和62)に、歴史学者・文学博士坂本太郎が亡くなった日です。
 坂本太郎(さかもと たろう)は、明治時代後期の1901年(明治34)10月7日に、静岡県浜名郡浜松町(現在の浜松市)において、小学校の教員だった父・坂本宗十郎、母・ちかの長男として生まれました。静岡県立浜松中学校、第八高等学校文科甲類を経て、1923年(大正12)に東京帝国大学文学部国史学科へ入学します。
 1926年(大正15)に卒業し、臨時東山御文庫取調掛(~1927年)となり、翌年には、東京帝国大学大学院へ入学、東京帝国大学文学部副手(~1929年)ともなりました。1932年(昭和7)に東京帝国大学大学院を修了し、1935年(昭和10)には、東京帝国大学文学部助教授となります。
 1936年(昭和11)に財団法人史学会評議員となり、1937年(昭和12)には、論文「大化の改新の研究」により、東京帝国大学から文学博士の学位を取得しました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に東京帝国大学文学部教授となり、国史学第二講座を担当、翌年には、國學院大學講師(~1962年)も兼任し、1949年(昭和24)には、史学会理事長(~1959年)ともなります。
 1951年(昭和26)に東京大学史料編纂所所長(~1962年)を兼任し、厳密な史料批判にもとづいた実証主義の立場から日本古代史の研究を推進しました。1958年(昭和33)に日本学士院会員(死去まで)となり、東京大学評議員(~1962年)も務めます。
 1962年(昭和37)に東京大学教授を定年退官して名誉教授となり、國學院大學教授となりました。1969年(昭和44)に日本歴史学会会長(死去まで)、1972年(昭和47)に文化功労者顕彰、1975年(昭和50)に国立歴史民俗博物館設立準備委員会委員長(~1981年)、1978年(昭和53)に文化財保護審議会会長(~1980年)と要職を歴任します。
 1981年(昭和56)に国立歴史民俗博物館評議員会議議長(死去まで)、1982年(昭和57)に文化勲章受章、1983年(昭和58)には、國學院大學教授を退職し、國學院大學名誉教授となりましたが、1987年(昭和62)2月16日に、東京において、85歳で亡くなり、従三位・勲一等瑞宝章を追贈されました。

〇坂本太郎の主要な著作

・『上代駅制の研究』(1928年)
・『大化改新の研究』(1938年)
・『日本古代史の基礎的研究』(1964年)
・『日本歴史の特性』(1967年)

☆坂本太郎関係略年表

・1901年(明治34)10月7日 静岡県浜名郡浜松町(現在の浜松市)において、小学校の教員だった父・坂本宗十郎、母・ちかの長男として生まれる
・1908年(明治41) 元城尋常高等小学校へ入学する
・1914年(大正3) 元城尋常高等小学校を卒業し、静岡県立浜松中学校へ入学する
・1919年(大正8) 静岡県立浜松中学校を卒業し、第八高等学校文科甲類へ入学するも、病気により休学する
・1920年(大正9) 第八高等学校へ復学する
・1923年(大正12) 第八高等学校文科甲類を卒業し、東京帝国大学文学部国史学科へ入学する
・1926年(大正15) 東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、臨時東山御文庫取調掛(~1927年)となる
・1927年(昭和2) 東京帝国大学大学院へ入学、東京帝国大学文学部副手(~1929年)、財団法人聖徳太子奉賛会研究給費生(~1929年)となる
・1929年(昭和4) 筑波侯爵家研究部調査事務(~1945年)となり、国史大系編纂刊行業務専任となる
・1932年(昭和7) 東京帝国大学大学院満期退学する
・1935年(昭和10) 東京帝国大学文学部助教授となる
・1936年(昭和11) 財団法人史学会評議員となる
・1937年(昭和12) 論文「大化の改新の研究」により、東京帝国大学から文学博士の学位を取得する
・1938年(昭和13) 史料編纂官、日本文化大観編纂嘱託、神武天皇聖蹟調査委員会委員となる
・1941年(昭和16) 浜松市史編纂顧問、「舒明天皇の御事蹟」を昭和天皇に進講、帝室制度史編纂委嘱、肇国聖蹟調査委員会委員となる
・1942年(昭和17) 國學院大學講師(~1944年)、昭和17年度中師範学校教科書編纂委員となる
・1943年(昭和18) 史学会常務理事となる
・1944年(昭和19) 広島文理科大学講師、文部省国史編修官(~1946年)となる
・1945年(昭和20) 東京帝国大学文学部教授、国史学第二講座を担当する
・1946年(昭和21) 國學院大學講師(~1962年)、昭和21年勅令第193号の2の規定により、適格と判定される
・1947年(昭和22) 昭和22年勅令第1号第7条第1項の規定により、適格と判定され、財団法人聖徳太子奉賛会理事(死去まで)となる
・1948年(昭和23) 東洋大学兼任教授(~1965年)となり、「元正天皇の御事蹟」を昭和天皇に進講する
・1949年(昭和24) 宮内庁書陵部委員、駒澤大学講師(~1950年)、史学会理事長(~1959年)となる
・1950年(昭和25) 大学設置審議会臨時委員(~1960年)、文化財専門審議会専門委員(~1970年)となる
・1951年(昭和26) 東京大学史料編纂所所長(~1962年)、信濃史料編纂委員(~1969年)、史料館評議会評議員(~1967年)、陽明文庫評議員(死去まで)となる
・1952年(昭和27) 大分県史料刊行会監修委員となる
・1953年(昭和28) 東京国立博物館評議員会評議員となる
・1954年(昭和29) 「孝徳天皇の御事蹟」を昭和天皇に進講する
・1957年(昭和32) 浜松市史編纂顧問、日本学術会議歴史学研究連絡委員会委員、正倉院評議会(正倉院懇談会)会員(死去まで)となる
・1958年(昭和33) 日本学士院会員(死去まで)、東京大学評議員(~1962年)、大学設置審議会臨時委員となる
・1959年(昭和34) 平城宮調査委員会委員(死去まで)となる
・1960年(昭和35) 浩宮徳仁親王浴湯の儀読書役、教材等調査研究会委員となる
・1961年(昭和36) 法隆寺文化財保存協議会協議員(死去まで)、ユネスコ東アジア文化研究センター運営委員、北海道史編集審議会顧問(~1966年)となる
・1962年(昭和37) 国際教育情報センター委員(~1969年)、東京大学教授定年退官し、國學院大學教授、学習院大学講師(~1972年)、東京大学名誉教授となる
・1963年(昭和38) 名古屋大学文学部講師(集中講義)となる
・1964年(昭和39) 中央大学講師(~1972年)となる
・1965年(昭和40) 国史大辞典編集委員会代表、礼宮文仁親王浴湯の儀読書役となる
・1966年(昭和41) 熊本大学講師(~1967年)、藤原宮調査指導委員(死去まで)となる
・1967年(昭和42) 講書始講師(題名は「日本書紀の歴史的意義」)、歴史博物館設立準備懇談会座長(~1970年)となる
・1969年(昭和44) 紀宮清子内親王浴湯の儀読書役奉仕、日本歴史学会会長(死去まで)となる
・1970年(昭和45) 文化財保護審議会委員(~1980年)となる
・1971年(昭和46) 国立歴史民俗博物館基本構想委員会委員長(~1975年)となり、秋の叙勲で勲二等瑞宝章を受章する
・1972年(昭和47) 文化功労者顕彰を受ける
・1975年(昭和50) 国立歴史民俗博物館設立準備委員会委員長(~1981年)となる
・1978年(昭和53) 文化財保護審議会会長を委嘱(~1980年)される
・1981年(昭和56) 国立歴史民俗博物館評議員会議議長(死去まで)となる
・1982年(昭和57) 文化勲章を受章する
・1983年(昭和58) 國學院大學教授を退職し、國學院大學名誉教授となる
・1987年(昭和62)2月16日 東京において、85歳で亡くなり、従三位・勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1190年(文治6)武士・僧侶・歌人西行の命日(新暦3月31日)詳細
1666年(寛文6)儒学者・思想家・文献学者荻生徂徠の誕生日(新暦3月21日)詳細
1884年(明治17)日本画家・能書家安田靫彦の誕生日詳細
1948年(昭和23)「当用漢字音訓表」と「当用漢字別表」が公布され、881字がいわゆる「教育漢字」とされる詳細
2006年(平成18)兵庫県神戸市に神戸空港(愛称:マリンエア)が開港する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、歴史学者・仏教史家辻善之助の亡くなった日です。
 辻善之助(つじ ぜんのすけ)は、明治時代前期の1877年(明治10)4月15日に、兵庫県姫路元塩町(現在の姫路市)において、父・辻善次郎、母・つねの子として生まれました。姫路中学校、第三高等中学校予科を経て、1896年(明治29)に第一高等学校を卒業し、帝国大学文科大学国史科へ入学します。
 1899年(明治32)に卒業後、同大大学院へ進み、日本仏教史の研究を進め、1902年(明治35)には、東京帝国大学史料編纂掛史料編纂員となりました。「政治ノ方面ヨリ観察シタル日本仏教史 - 徳川時代ノ初期 - 」と「安国寺考」「安国寺志料」により、1909年(明治42)に東京帝国大学より文学博士の学位を取得します。
 1911年(明治44)に東京帝国大学文科大学助教授兼任となり、欧米に留学、万国東洋学会に出席し、翌年帰国しました。1920年(大正9)に東京帝国大学史料編纂掛事務主任となり、1921年(大正10)には、『日本仏教史之研究』で、帝国学士院恩賜賞を受賞します。
 1922年(大正11)に古社寺保存会委員となり、1923年(大正12)に東京帝国大学教授に昇任し、国史学第二講座を担当、1924年(大正13)には、臨時御歴代史実考査委員会委員、京都御所東山御文庫取調掛となりました。1926年(大正15)に東京帝国大学教授兼史料編纂官となり、国史学第一講座を担当、1929年(昭和4)には、東京帝国大学史料編纂所初代所長となり、国宝保存会委員ともなります。
 1932年(昭和7)に帝国学士院会員となり、1938年(昭和13)、東京帝国大学を停年退官し、名誉教授となり、聖心女子学院専門学校教授となりました。1949年(昭和24)に立正大学教授となり、1952年(昭和27)‎文化勲章を受章、1953年(昭和28)、立正大学教授を退職、『日本仏教史』で、朝日文化賞を受賞します。
 実証的な仏教史研究に業績を残し、いわゆる“辻仏教史学”を打ち立てましたが、1955年(昭和30)10月13日に、東京において、78歳で亡くなりました。

〇辻善之助の主要な著作

・『田沼時代』(1915年)
・『日本仏教史の研究』正・続(1919年、1931年)帝国学士院恩賜賞受賞
・『日本仏教史』10巻(1944~1955年)朝日文化賞受賞
・『日本文化史』7巻・別録4巻(1948~1953年)
・編著『明治維新神仏分離史料』
・編著『国史大辞典』(4巻までで未完)

☆辻善之助関係略年表

・1877年(明治10)4月15日 兵庫県姫路元塩町(現在の姫路市)において、父・辻善次郎、母・つねの子として生まれる
・1893年(明治26) 姫路中学校(現在の兵庫県立姫路西高等学校)より京都の第三高等中学校予科3年に編入する
・1894年(明治27) 学制改革で第三高等学校に改組の上、予科が廃止されると、第一高等学校に転校する
・1896年(明治29) 第一高等学校を卒業し、帝国大学文科大学国史科へ入学する
・1899年(明治32) 東京帝国大学文科大学国史科を卒業し、同大大学院へ入学する
・1902年(明治35) 東京帝国大学史料編纂掛史料編纂員となる
・1904年(明治37) 博士論文として、「政治ノ方面ヨリ観察シタル日本仏教史 - 徳川時代ノ初期 - 」と「安国寺考」「安国寺志料」を東京帝国大学に提出する
・1905年(明治38) 東京帝国大学史料編纂掛史料編纂官となる
・1909年(明治42) 東京帝国大学より文学博士の学位を取得する
・1910年(明治43) 三重県の高田専修寺で親鸞の真蹟30数点を発見し紹介する
・1911年(明治44) 東京帝国大学文科大学助教授となり、欧米に留学する
・1912年(大正元) 欧米留学より帰国し、従五位となる
・1918年(大正7) 正五位となる
・1920年(大正9) 東京帝国大学史料編纂掛事務主任となる
・1921年(大正10) 『日本仏教史之研究』で、帝国学士院恩賜賞を受賞する
・1922年(大正11) 古社寺保存会委員となる
・1923年(大正12) 東京帝国大学教授となり、国史学第二講座を担当する
・1924年(大正13) 臨時御歴代史実考査委員会委員、京都御所東山御文庫取調掛となる
・1926年(大正15) 東京帝国大学教授兼史料編纂官となり、国史学第一講座を担当する
・1929年(昭和4) 東京帝国大学史料編纂所初代所長となり、国宝保存会委員ともなる
・1932年(昭和7) 帝国学士院会員となる
・1938年(昭和13) 東京帝国大学教授を停年退官し、名誉教授となり、聖心女子学院専門学校教授となる
・1940年(昭和15) 紀元二千六百年奉祝記念にあたり『聖徳餘光』を編む
・1949年(昭和24) 立正大学教授となる
・1952年(昭和27) 文化勲章を受章する
・1953年(昭和28) 立正大学教授を退職、『日本仏教史』で、朝日文化賞を受賞する
・1955年(昭和30)10月13日 東京において、78歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、平成時代の2002年(平成14)に、歴史学者・一連の教科書裁判の原告家永三郎が亡くなった日です。
 家永三郎(いえなが さぶろう)は、1913年(大正2)9月3日に、後に陸軍少将となった父・家永直太郎の子として、愛知県名古屋市に生まれましたが、1921年(大正10)に東京に転居しました。1934年(昭和9)に東京高等学校を卒業後、東京帝国大学文学部国史学科へ入学し、1937年(昭和12)に卒業します。
 教学局日本文化大観編纂助手を経て、1941年(昭和16)に新潟高等学校教授となり、1944年(昭和19)には、東京高等師範学校教授に転じました。太平洋戦争末期の1945年(昭和20)に仙台へ疎開したものの、戦後は東京に戻り、1946年(昭和21)には、文部省教科書編纂委員嘱託として、歴史教科書「くにのあゆみ」を執筆します。
 初めは実証主義の史家として知られ、やまと絵の研究に関わる『上代倭絵全史』、『上代倭絵年表』で、1948年(昭和23)に日本学士院恩賜賞を受賞しました。1949年(昭和24)に、学制改革により、東京教育大学文学部史学科教授となり、1950年(昭和25)には、学位論文『主として文献に拠る上代倭絵の文化史的研究』により、東京大学より文学博士を得ます。
 1952年(昭和27)に高校教科書「新日本史」(三省堂発行)の執筆を始め、1954年(昭和29)には、「教育二法」の制定などを「歴史教育の逆コース化」であるとして批判し、その反対運動に参加しました。1955年(昭和30)に自身が執筆した高校歴史教科書「新日本史」の再訂版の検定合格条件を巡り文部省と対立、1957年(昭和32)には、第三版が検定不合格となり文部省に抗議書を提出します。
 1959年(昭和34)の東京都教組勤務評価反対裁判に証人として出廷、東京教育大学への不法捜査に対しては警察庁に抗議をおこない、1963年(昭和38)に「新日本史」第五版が一旦検定不合格、翌1964年に条件付きで合格、この際に300余りの修正意見が付され、教科用図書検定制度に対する反対意見を強めました。1965年(昭和40)に国を相手に教科書検定違憲訴訟(第1次)を提起、1967年(昭和42)に「新日本史」が再び不合格となると検定不合格の取り消しを求める訴訟(第2次)を提起します。
 1977年(昭和52)に東京教育大学定年退官後、中央大学法学部教授に就任、1984年(昭和59)に中央大学を定年退職、再び1980年代の教科書検定を対象に国家賠償請求訴訟(第3次)を提起しました。1989年(平成元)に第2次訴訟は東京高等裁判所差し戻し審判決で最終的に却下され、1993年(平成5)に第1次訴訟は最高裁判所判決で原告全面敗訴の2審が支持されましたが、第3次訴訟では、検定制度自体は合憲としながらも1審で1ヶ所、控訴審理で3ヶ所、上告審で4ヶ所の検定意見の違法が認められ、国側に40万円の支払いを命ずる判決が、1997年(平成9)に最高裁で出され、“一部勝訴”となって、一連の教科書裁判は終結します。
 これによって、当時の文部省は検定制度見直しを迫られ、簡素化を中心にした1989年(平成元)の制度の全面改定につながりました。古代から近代にいたる日本思想史の研究、3次にわたる教科書裁判で注目を浴びたものの、2002年(平成14)11月29日に東京において、89歳で亡くなっています。

〇教科書裁判とは?

 歴史学者家永三郎(当時は東京教育大学教授)が執筆した、高等学校用日本史教科書『新日本史』(三省堂発行)に対する教科書検定に関して、昭和時代後期に日本国政府を相手に起こした3つの裁判のことです。
 1965年(昭和40)提訴の第一次訴訟(教科書検定被害に対する国家賠償を請求)、1967年(昭和42)提訴の第二次訴訟(不当な教科書検定行政処分取り消しを請求)、1984年(昭和59)提訴の第三次訴訟(正誤訂正申請不受理処分を対象に国家賠償を請求)がありました。これに至る経緯は、1962年度の文部省教科書検定において、『新日本史』が不合格とされ、1963年度には条件つき合格となったものの大量の改善・修正意見がついたことによるものです。
 これは、「日本国憲法」 21条の表現の自由、検閲の禁止、23条の学問の自由、26条の教育を受ける権利に違反し、また、「教育基本法」 10条に定める教育行政の裁量権を逸脱した不当行為として、提訴したものでした。しかし、最高裁は「検閲にはあたらない」とし、教科書検定制度を合憲とした上で、原告の主張の大半を退け、原告の実質的敗訴が確定します。
 一方、検定内容の適否については、1993年(平成5)東京高裁は「草莽隊」、「南京大虐殺」、「南京戦における婦女暴行」の3ヶ所の記述削除を違法とし、1997年(平成9)最高裁はさらに「731部隊」を加えた計 4ヵ所の記述削除を「国の裁量権逸脱」として違法とし、計40万円の支払いを国に命じました。この一連の裁判は、教科書検定制度の問題点を世間に明らかにし、公教育の在り方を広く問うものとなります。

〇家永三郎の主要な著作

・『日本思想史に於ける否定の論理の発達』(1940年)
・『上代倭絵年表』(1942年)日本学士院賞恩賜賞受賞
・『上代倭絵全史』(1946年)日本学士院賞恩賜賞受賞
・『日本道徳思想史』(1960年)
・『美濃部達吉の思想史的研究』(1964年)
・『権力悪とのたたかい 正木ひろしの思想活動』(1964年)
・『教科書検定:教育をゆがめる教育行政』(1965年)
・『近代日本の争点』(1967年)
・『一歴史学者の歩み』(1967年)
・『太平洋戦争』(1968年)
・『戦争責任』(1985年)
・小説『真城子』(1996年)
・戯曲『新編上宮太子未来記』

☆家永三郎関係略年表

・1913年(大正2)9月3日 後に陸軍少将となった父・家永直太郎の子として、愛知県名古屋市に生まれる
・1921年(大正10) 東京に転居する
・1934年(昭和9) 東京高等学校を卒業する
・1937年(昭和12) 東京帝国大学文学部国史学科を卒業する
・1938年(昭和13)10月31日 教学局日本文化大観編纂助手を嘱託される
・1941年(昭和16)1月31日 教学局日本文化大観編纂助手を解嘱される
・1941年(昭和16) 新潟高等学校教授となる
・1943年(昭和18)3月20日 国民精神文化研究所教員研究科高等教員研究科を修了する
・1944年(昭和19) 東京高等師範学校教授となる
・1945年(昭和20) 仙台へ疎開する
・1946年(昭和21) 文部省教科書編纂委員嘱託、歴史教科書「くにのあゆみ」を執筆する
・1948年(昭和23)6月11日 『上代倭絵全史』、『上代倭絵年表』で、日本学士院より恩賜賞を受賞する
・1949年(昭和24) 東京教育大学文学部史学科教授となる
・1950年(昭和25) 文学博士(東京大学:学位論文『主として文献に拠る上代倭絵の文化史的研究』)となる
・1952年(昭和27) 高校教科書「新日本史」(三省堂)の執筆を始める
・1954年(昭和29) 「教育二法」の制定などを「歴史教育の逆コース化」であるとして批判し、その反対運動に参加する
・1955年(昭和30) 自身が執筆した高校歴史教科書「新日本史」の再訂版の検定合格条件を巡り文部省と対立する
・1957年(昭和32) 第三版が検定不合格となり文部省に抗議書を提出する
・1959年(昭和34) 東京都教組勤務評価反対裁判に証人として出廷、東京教育大学への不法捜査に対しては警察庁に抗議をおこなう
・1963年(昭和38) 「新日本史」第五版が一旦検定不合格、翌1964年に条件付きで合格、この際に300余りの修正意見が付され、教科用図書検定制度に対する反対意見を強める
・1965年(昭和40) 国を相手に教科書検定違憲訴訟(第1次)を提起する
・1967年(昭和42) 「新日本史」が再び不合格となると検定不合格の取り消しを求める訴訟(第2次)を提起する
・1977年(昭和52) 東京教育大学定年退官、中央大学法学部教授に就任する
・1984年(昭和59) 中央大学を定年退職、再び国家賠償請求訴訟(第3次)を提起する
・1989年(平成元)6月 第2次訴訟は東京高等裁判所差し戻し審判決で最終的に却下される
・1993年(平成5)3月 第1次訴訟は最高裁判所判決で原告全面敗訴の2審が支持される
・1997年(平成9) 第3次訴訟は、最高裁で1ヵ所の書き換え処分が違法とされ、国側に40万円の支払いを命ずる“一部勝訴”判決が出る(一連の教科書裁判終結)
・2002年(平成14)11月29日 東京において、89歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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