ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:歴史史料

nichibeiyakujyou01

 今日は、江戸時代後期の1857年(安政4)に、下田奉行とハリスが「日米和親条約」を修補する「日米約定」(下田協約、下田協定)を締結した日ですが、新暦では6月17日となります。
 「日米約定(にちべいやくじょう)」は、日本とアメリカ合衆国との間で、1854年(嘉永7年3月3日)に締結された「日米和親条約」を修補する目的で、伊豆国下田(現在の静岡県下田市)の了仙寺において、アメリカ総領事であるタウンゼント・ハリスと当時の下田奉行の井上清直と中村時万が結んだ条約で、下田協約、下田協定とも呼ばれてきました。全9ヶ条からなり、新たに長崎を開港すること(第1条)、アメリカ人の下田・箱館居留を許可すること(第2条)、アメリカと日本の貨幣を同種同重量(金は金、銀は銀)で交換し、日本は6%の改鋳費を徴収すること(第3条)、片務的領事裁判権を認めること(第4条)、総領事の商品直接購入権などが定められています。
 特に、両港への外人居住、領事裁判権など片務的な不平等条項を含む内容は、翌年6月19日に締結された「日米修好通商条約」に受け継がれることとなりました。
 以下に、「日米約定」(下田協約、下田協定)の英語版と日本語版と現代語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「日米約定」(下田協約、下田協定) 1857年6月17日(安政4年5月26日) 締結

<英語版>

Treaty Between the United States of America and the Empire of Japan (Japan-US Additional Treaty, Shimoda Treaty)

Concluded at Simoda, in Japanese, English and Dutch, June 17th, 1857; (26th day of 5th month, 4th year of Ansei).
For the purpose of further regulating the intercourse of American citizens within the Empire of Japan, and after due deliberation, His Excellency Townsend Harris, Consul-General of the United States of America for the Empire of Japan, and Their Excellencies Ino-oo-ye, Prince of Siuano, and Nakamura, Prince of Dewa, Governors of Simoda, all Laving full powers
from their respective Goveruments, have agreed on the following articles, to wit:-

ARTICLE I.

The port of Nagasaki, in the priucipality of Hizen, shall be open to American vessels, where they may repair demages, procure water, fuel, provisions, and other necessary articles, even coals, where they are obtainable.

ARTICLE II.

It being known that American ships coming to the ports of Simoda and Hakodate cannot have their wants supplied by the Japanese, it is agreed that American cifcizens may permanently reside at Simoda and Hakodate, and the Government of the United States may appoint a Vice-Consul to reside at Hakodate.
This article to go into effect on the fourth day of July, eighteen hundred fifty eight.

ARTICLE III.

In settlement of accounts the value of the money brought by the Americans shall be ascertained by weighing it with Japanese coin, (gold and silver itsuebues), that is, gold with gold, aud silver with silver, or weights representing Japanese coin may be used, after such weights have been carefully examined and fouud to be correct. The value of the money of
the Americans having been thus ascertained, the sum of six per cent shall be allowed to the Japanese for the expense of recoinage.

AETICLE IV.

Americans committing offenses in Japan shall be tried by the American Consul-General or Consul, and shall be punished according to American laws. Japanese committing offenses against Americans shall be tried by the Japanese autborities, and punished according to Japanese laws.

ARTICLE V.

American ships which may resort to the ports of Simoda, Hakodate, or Nagasaki, for the purpose of obtaining necessary supplies, or to repair damages, shall pay for them in gold or silver coin, and if they have no money, goods shall be taken in exchange.

ARTICLE VI.

The government of Japan admits the right of his excellency the cousul-general of the United States to go beyond the limits of seven ri, but has asked him to delay the use of that right, except iu cases of emergency, shipwreck &c., to which he has assented.

ARTICLE VII.

Purchases for his excellency the cousul-general, or his family, may be made by him only, or by some member of his family, and payment made to the seller for the same without the intervention of any Japanese official, and for this purpose Japanese silver and copper coin shall be supplied to his excellency the consul-general.

ARTICLE VIII.

As his Excellency, the consul-general of the United States of America has no knowledge of the Japanese language, nor their excellencies, the governors of Simoda a knowledge of the English language, it is agreed that the true meaning shall be found in the Dutch, version of the articles.

ARTICLE IX.

All the foregoing articles shall go into effect from the date hereof, except article two, winch shall go into effect on the date indicated in it.

Done in quintuplicate, (each copy being in Euglisli, Japanese, and Dutch,) at the Goyoso of Simoda, on the seventeenth day of June, in the year of the Christian era eighteen hundred and fifty seven, and of the Independence of the United States of America the eighty-first, corresponding to the fourth Japanese year of Ansei, Mi, the fifth month, the twenty sixth day, the English version being signed by his excellencey{sic}, the consul general of the United States of America, aud the Japanese version by their excellencies, the governors of Simoda.

(L. S.) TOWNSEND HARRIS.

<日本語版>

日本國米利堅合衆國條約
安政四年巳五月廿六日(西曆千八百五十七年六月十七日)於下田調印(日、英、蘭文)

帝國日本に於て亞米利加合衆國人民の交を猶處置せん爲に全權下田奉行井上信濃守中村出羽守と合衆國のコンシュル、ゼネラール(官名)エキセルレンシー(敬稱)トウンセンド、ハルリスと各政府の全權を持て可否を評議し約定する條々左の如し

 第一條

日本國肥前長崎の港を亞米利加船の爲に開き其地に於て其船の破損を繕ひ薪水食料或は缼乏の品を給し石炭あらは又夫をも渡すヘし

 第二條

下田並箱館の港に來る亞米利加船必用の品日本に於て得難き分を辨せん爲に亞米利加人右の二港に在住せしめ且合衆國のワイス、コンシュルを箱館の港に置く事を免許す

 但此箇條は日本安政五午年六月中旬合衆國千八百五十八年七月四日より施すへし

 第三條

亞米利加人持來る所の貨幣を計算するには日本金壹分或は銀壹分を日本分銅の正きを以て金は金銀は銀と秤し亞米利加貨幣の量目を定め然して後吹替入費の爲六分丈の餘分を日本人に渡すへし

 第四條

日本人亞米利加人に對し法を犯す時は日本の法度を以て日本司人罰し亞米利加人日本人へ對し法を犯す時は亞米利加の法度を以てコンシュル、ゼネラール或はコンシュル(共に官名)罰すへし

 第五條

長崎下田箱館の港に於て亞米利加船の破損を繕ひ又は買ふ所の諸缼乏品代等は金或は銀の貨幣を以て償ふへし若し金銀共所持せさる時は品物を以て辨すへし

 第六條

合衆國のエキセルレンシー(敬稱)コンシュル、ゼネラール(官名)は七里境外に出へき權ある事を日本政府に於て辨知せり然りと雖も難船等切迫の場合にあらされは其權を用ふるを延す事を下田奉行望めり此に於てコンシュル、ゼネラール(官名)承諾せり

 第七條

商人より品物を直買にする事はエキセルレンシー(敬稱)コンシュル、ゼネラール(官名)並其館內に在る者*1*に限り差免し尤其用辮の爲に銀或は銅錢を渡す可し

 第八條

下田奉行はイギリス語を知らす合衆國のエキセルレンシー(敬稱)コンシュル、ゼネラール(官名)は日本語を知らす故に眞義は條々の蘭譯文を用ふ可し

 第九條

前箇條の內第二條は記す所の日より其餘は各約定せる日より行ふ可し

右の條々*2*日本安政四巳年五月二十六日亞米利加合衆國千八百五十七年六月十七日下田御用所に於て兩國の全權調印せしむるものなり

  井上信濃守 花押

  中村出羽守 花押

*1* (一)「其館內ニ在ル者」トハ「其家族」ヲ云フ

*2* (二)横文ニ據レハ「右ノ條々英語日本語蘭語ニテ四通ヲ書シ日本安政四巳年五月二十六日千八百五十七年六月十七日亞米利加合衆國獨立ノ八十一年下田御用所ニ於テ亞米利加合衆國ヒス、エキセルレンシー、コンシュル、ゼネラールハ英文ニ、ゼール、エキセルレンシー下田奉行ハ日本文ニ各調印セシムルモノナリ」トアリ

   「舊條約彙纂,第一卷第一部」外務省條約局編より

<現代語訳>

1857年6月17日(安政4年5月26日)、下田において、日本語、英語、オランダ語で締結。
大日本帝国内でのアメリカ市民の交流をさらに規定する目的で、大日本帝国総領事のタウンゼント・ハリス閣下、および下田奉行の井上信濃守、中村出羽守は、すべてそれぞれの政府からの全権を持ち、十分な審議を経て、次の条項に同意した:

第1条

肥前国長崎の港は、アメリカの船舶に開放され、そこでは、船舶損傷を修理し、水、燃料、食料、その他の必要な物品、さらには石炭を入手できる場合には、それらを調達することができる。

第2条

下田と箱館の港に来るアメリカの船は、日本人から欲しい物を供給できないことが知られており、アメリカの市民は下田と箱館に永住することができ、米国政府は箱館に駐在する副領事を任命することができる。この条項は、1858年7月4日に発効する。

第3条

決済では、アメリカ人が持ち込んだお金の価値は、日本の硬貨(金と銀の一分)で計量することによって確認される。つまり、金と金、銀と銀、または日本の硬貨と比較秤量することによって確かめられる。そのような秤量が注意深く調べられ、正しいことを確認した後、改鋳の費用のために、6パーセントが加算されることが、日本人に許される。

第4条

日本で犯罪を犯したアメリカ人は、アメリカ総領事又は領事によって裁かれ、アメリカの法律に従って処罰される。アメリカ人に対する日本人の犯行は、日本の司法担当者によって裁判にかけられ、日本の法律に従って処罰される。

第5条

必要な物資の入手や船舶修理の目的で、下田、箱館、長崎の港に寄港する可能性のあるアメリカの船は、金貨または銀貨で支払い、お金がない場合は引き換えに商品を引き渡す。

第6条

日本政府は、米国の総督閣下が7里の制限を超えて範囲外に行く権利を認めているが、緊急事態、難破船などの場合を除いて、その権利の使用を延期するよう要請し、同意された。

第7条

彼の閣下または彼の家族のための物品購入は、彼だけ、または彼の家族の一部によって、日本の役人の介入なしに行われ、そしてこの目的のために日本人の介入なしに売り手に支払いが行われる。そのために日本の銀貨と銅貨は、総領事館の閣下に供給されなければならない。

第8条

アメリカ合衆国総領事館の閣下は日本語の知識に卓越せず、下田奉行は英語の知識に卓越していないので、条項の真偽については、オランダ語版によることに同意する。

第9条

前述のすべての条項は、第2条を除き、本契約の日付から発効するものとし、第2条は、そこに示されている日付に発効するものとする。

西暦1857年6月17日(和暦安政4年5月26日)、下田御用所において、5重に(各コピーは英語、日本語、オランダ語)行われ、英語版は全権のアメリカ合衆国総領事によって、日本語版は全権の下田奉行によって署名された。

(L. S.)タウンゼントハリス。

  ※英語版原文より筆者が訳しました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

869年(貞観11)陸奥国で貞観地震が起き、大津波により甚大な被害を出す(新暦7月9日)詳細
1942年(昭和17)日本文学報国会(会長徳富蘇峰)が設立される詳細
1969年(昭和44)東名高速道路が全線開通する(東名高速道路全線開通記念日)詳細
1977年(昭和52)小説家・劇作家藤森成吉の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

keichyou01

 今日は、奈良時代の717年(養老元)に、「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」が出された日ですが、新暦では6月30日となります。
 浮浪・逃亡(ふろう・とうぼう)は、古代律令体制下で、農民などが戸籍・計帳に登録されている本籍地から離脱した状態にあることでした。厳密には、本籍地を離れた者の内で、他国にあっても課役をすべて負担している場合を浮浪、課役を負担していない場合を逃亡と言うとされています。
 すでに奈良時代初頭には、この実態が顕著になり、715年(霊亀元年5月1日)には、「浮浪の扱いに関する勅」で、諸国の朝集使に対して、浮浪の事実を追認して、3ヶ月を経過している者は、現地で把握して、調・庸を徴収するように命じました。717年(養老元年5月17日)には、「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」が出され、これらの人民を王族・臣下が本籍地の役所を通さずに私的に使用することが禁止されていて、あらためて罰するように命じ、僧尼になるのも16歳以下の者が国司や郡司の許可を得ないならば、軽々しく行ってはならないと厳命しています。
 その後も、この状況は続き、計帳を見るとその1割近くが浮浪・逃亡していたとされていました。しかし、後を絶たないので、8世紀末にはついに「浮浪人帳」を作成し、現地で把握して、調・庸を徴収するようにしています。
 これらのことは、律令制を揺るがせ、徐々に荘園制へと移っていくことにもなりました。
 以下に、『続日本紀』の卷第六霊亀元年(715年)5月1日の「浮浪の扱いに関する勅」と卷第七(元正紀一)養老元年(717年)5月の条の「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」を現代語訳・注釈付きで掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』卷第六(元明紀三) 霊亀元年(715年)5月1日「浮浪の扱いに関する勅」

<原文>

霊亀元年五月辛巳朔。勅諸国朝集使曰。天下百姓。多背本貫。流宕他郷。規避課役。其浮浪逗留。経三月以上者。即云断輸調庸。随当国法。

<読み下し文>

霊亀元年五月辛巳朔。諸国の朝集使[1]に勅して日く、「天下の百姓[2]、多く本貫[3]に背きて、他郷に流宕[4]して課役[5]を規避[6]す。其の浮浪[7]逗留[8]して、三月以上を経たる者は、即ち土断[9]して調[10]庸[11]を輸さしむること、当国の法に随え。」

【注釈】

[1]朝集使:ちょうしゅうし=律令制で、四度の使いの一。国・群の公文書を中央に進上する役人。
[2]百姓:ひゃくしょう=一般の人民。公民。貴族、官人、および、部民、奴婢を除いた一般の人。
[3]本貫:ほんがん=本籍・ 本籍地のこと。律令制下では戸籍に記された土地。
[4]流宕:るとう=遠方へ遊びまわる。また、おちぶれてさまよう。流浪のまますごす。
[5]課役:かえき=令制で、課と役。課は調、役は労役で庸と雑徭を意味する。
[6]規避:きひ=巧みに避けること。巧妙にのがれること。
[7]浮浪:ふろう=律令制において、本籍を離れて他国に流浪している者の内、他郷で調・庸を出す者。
[8]逗留:とうりゅう=旅先などに一定期間とどまること。滞在。
[9]土断:どだん=移住民を現住地の戸籍に登録してその地の官庁から支配を受けさせること。土着。
[10]調:ちょう=令制で、租税の一つ。男子に賦課される人頭税。絹・絁(あしぎぬ)・糸・綿・布のうちの一種を納めた。
[11]庸:よう=令制で、正丁(21~60歳までの男子)に課せられた労役の代わりに国に納入する物品。

<現代語訳>

霊亀元年(715年)5月1日。諸国の朝集使に対して、天皇から命令が出された。「諸国の人民、多くが本籍地を離れて、他国に流浪のまますごして租税や労役を巧妙にのがれている。その本籍を離れて他国に流浪して一定期間とどまっていて、3ヶ月以上を経過した者は、すなわち移住民を現住地の戸籍に登録してその地の官庁から支配を受けさせ調・庸を負担させることとし、その国の法に従わせよ。」と
 
〇『続日本紀』卷第七養老元年(717年)5月の条「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」

<原文>

丙辰。詔曰。率土百姓。浮浪四方。規避課役。遂仕王臣。或望資人。或求得度。王臣不經本属。私自駈使。囑請國郡。遂成其志。因茲。流宕天下。不歸郷里。若有斯輩。輙私容止者。揆状科罪。並如律令。又依令。僧尼取年十六已下不輸庸調者聽爲童子。而非經國郡。不得輙取。又少丁已上。不須聽之。

<読み下し文>

丙辰。詔して曰はく、「率土[1]の百姓[2]、四方[3]に浮浪[4]して、課役[5]を規避[6]し、遂に王臣[7]に仕えて、或は資人[8]を望み、或は得度[9]を求む。王臣[7]、本属[10]を経ずして、私に自ら駈使[11]し、国郡に嘱請[12]して、遂にその志を成す[13]。茲に因りて、天下に流宕[14]して、郷里に帰らず。若し斯の輩[15]有りて、輙く私に容止[16]せば、状を揆り[17]て罪を科せむこと、並に律令[18]の如くせよ。また、令に依るに、僧尼は年十六以下の庸[19]・調[20]を輸さぬ者を取りて童子[21]とすることを聴す。而れども国郡を経るに非ずは、輙く取ることを得じ。また、少丁[22]以上は聴すべからず。」と。

【注釈】

[1]率土:そつど=陸地の続くかぎり。国の果て。
[2]百姓:ひゃくしょう=一般の人民。公民。貴族、官人、および、部民、奴婢を除いた一般の人。
[3]四方:しほう=自国のまわりの国。諸国。また、あらゆる所。諸方。天下。
[4]浮浪:ふろう=律令制において、本籍を離れて他国に流浪している者の内、他郷で調・庸を出す者。
[5]課役:かえき=令制で、課と役。課は調、役は労役で庸と雑徭を意味する。
[6]規避:きひ=巧みに避けること。巧妙にのがれること。
[7]王臣:おうしん=王の家来。天皇の臣下。 上級官僚である王族・臣下。
[8]資人:しじん=律令制における下級官人。親王や上級貴族に仕え,雑役・護衛にあたった。
[9]得度:とくど=剃髪して出家具戒すること。僧侶になること。古代では国家から許可されることによって出家となった。
[10]本属:ほんぞく=律令制で、その人の本籍の地の役所。また、その人の生まれ育った家や土地。
[11]駈使:くし=追いたてて使うこと。こき使うこと。「
[12]嘱請:しょくせい=頼み込むこと。
[13]志を成す:こころざしをなす=思い通りにする。
[14]流宕:るとう=遠方へ遊びまわる。また、おちぶれてさまよう。流浪のまますごす。
[15]輩:ともがら=同類の人々をさしていう語。仲間。
[16]容止:ようし=かくまうこと。
[17]揆り:はかり=はかり考え。やり方や方法を考え。
[18]律令:りつりょう=古代国家の基本法である律と令で、律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定。
[19]庸:よう=令制で、正丁(21~60歳までの男子)に課せられた労役の代わりに国に納入する物品。
[20]調:ちょう=令制で、租税の一つ。男子に賦課される人頭税。絹・絁(あしぎぬ)・糸・綿・布のうちの一種を納めた。
[21]童子:どうじ=寺院へ入ってまだ得度剃髪せずに、仏典の読み方などを習いながら雑役に従事する少年。
[22]少丁:しょうてい=大宝令制で、17歳以上20歳以下の男子の称。正丁の四分の一の税を負担した。

<現代語訳>

5月17日。詔の中で次のように述べられた。「国の果てまでの人民が、本籍を離れて諸国に流浪して、租税や労役を巧妙にのがれ、ついには王族・臣下に仕え、あるいは下級官人を望み、あるいは僧侶になることを求めている。王族・臣下の方でも、本籍の地の役所を通さずに、私的に自ら追い使い、国司や郡司に頼み込んで、ついにその思い通りにしてしまう。このために、世間に流浪のまま過ごして、郷里に帰らなくなってしまう。もしこのような連中がいて、軽々しく私的にかくまうならば、状況をはかり考え、罪を科すこと、律令のごとくにせよ。また、令によると、僧尼は16歳以下の庸・調を出さない者から選んで、寺院に入って修行する者とすることが許されている。けれども国司や郡司の許可を得ないならば、軽々しく行ってはならない。また、少丁(17歳以上20歳以下の男子)以上の者は許されるものではない。」と。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)最初の屯田兵が北海道の琴似(現在の札幌市西区)に入植する詳細
1890年(明治23)府縣制」(明治23年法律第35号)が公布される

詳細

 「郡制」(明治23年法律第36号)が公布される詳細
1965年(昭和40)労働者の結社の自由・団結権の保護を定めた「ILO87号条約」を国内で承認する詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

chiken002

 今日は、明治時代前期の1884年(明治17)に、「地租改正条例」が廃止されて、「地租条例」(明治17年太政官布告第7号)が公布された日です。
 「地租条例(ちそじょうれい)」は、近代的土地制度を確立するために1873年(明治6)に公布された「地租改正条例」を廃して、地租及びその税率の法的根拠とした、全29条からなる太政官布告でした。それまでの「地租改正条例」第6章には、営業税・印紙税などの増加に随って、将来的には地租を地価の1%にまで引き下げるという規定と追加された第8章には改租後、売買により地価に変動があっても、地価を5年間は据え置くとしたものがありました。
 また、その後の地租改正反対一揆や士族反乱、自由民権運動などに対応するために同条例の改正や太政官布告によって地価や地租の引き上げが事実上できない事態に陥ります。このため、「地租改正条例」で規定されていた1885年(明治18)の地価改訂の実施もままならない状況でした。
 明治政府はそれを打開するために、諸規定の整理を名目に、翌年に迫った地価改訂実施と「地租改正条例」第6章以下の廃止(物品税の増加とともに地租率をやがて100分の1にまで引き下げるという公約と5年ごとに地価改訂を行うという規定の撤廃)を目的として制定され、地租をそのまま固定したものです。1889年(明治22)には土地台帳制度の見直しに伴って改正が行われ、地租に関する法的整備は一応完成したことになりました。
 これによって、地租は明治政府を支える主要財源となりますが、高額地租を不満とする地租軽減運動は継続され、帝国議会開設(1890年)から日清戦争(1894~95年)までの初期議会において、自由党や改進党などは、「政費節減・民力休養」のスローガンを掲げ、政府予算の削減による地租軽減を唱えることとなります。その後、他の近代的租税が導入されると共にその割合は徐々に低下し、1911年(明治44)には17.8%となりました。
 そこで、1931年(昭和6)3月31日には、税制改革に伴って「地租法」が公布、翌年4月1日の施行によって「地租条例」は廃止され、課税基準が地価から賃貸価格に改められることになります。
 以下に、「地租条例」(明治17年太政官布告第7号)の大正15年法律第6号による改正後の条文を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「地租条例」(明治17年太政官布告第7号) 1884年(明治17)3月15日公布

地租条例別冊ノ通制定シ明治六年七月第弐百七拾弐号布告地租改正条例及地租改正ニ関スル条規其他本条例ニ抵触スルモノハ廃止ス
 但東京府管轄伊豆七島小笠原島函館県沖縄県札幌県根室県ハ当分従前ノ通タルヘシ
右奉 勅旨布告候事

地租条例

第一条 地租ハ左ノ税率ニ依リ毎年之ヲ賦課ス
  宅地 地価百分ノ二箇半
  田畑 地価百分ノ四箇五
  其他ノ土地 地価百分ノ五箇半
2 北海道ニ於ケル宅地以外ノ土地ノ地租ハ当分左ノ税率ニ依ル
  田畑 地価百分ノ三箇二
  其他ノ土地 地価百分ノ四箇
3 本条例ニ於テ地価ト称スルハ土地台帳ニ掲ケタル価額ヲ謂フ

第二条 地租ハ年ノ豊凶ニ由リテ増減セス

第三条 有租地ヲ区別シテ二類ト為ス
  第一類 田、畑、宅地、塩田、鉱泉地
  第二類 池沼、山林、牧場、原野、雑種地
2 第一類中又ハ第二類中ノ各地目変換スルモノヲ地目変換ト謂フ
3 第一類地ヲ第二類地ニ変換スルモノヲ地類変換ト謂フ
4 第二類地ニ労費ヲ加ヘ第一類地ト為スモノヲ開墾ト謂フ
5 第一類地又ハ第二類地ノ山崩、川欠、押掘、石砂入、川成、海成、湖水成、等ノ如キ天災ニ罹リ地形ヲ変シタルモノヲ荒地ト謂フ

第四条 左ニ掲クル土地ニ付テハ其地租ヲ免ス
 一 国府県市町村其他勅令ヲ以テ指定スル公共団体ニ於テ公用又ハ公共ノ用ニ供スル土地但有料借地ハ此限ニ在ラス
 二 府県市町村其他勅令ヲ以テ指定スル公共団体カ公用又ハ公共ノ用ニ供スヘキモノト定メタル其所有地但命令ノ定ムル期間内ニ公用又ハ公共ノ用ニ供セサルトキハ此限ニ在ラス
 三 府県社地、郷村社地、招魂社地但有料借地ハ此限ニ在ラス
 四 墳墓地
 五 用悪水路、溜池、*塘、井溝
 六 鉄道用地、軌道用地、運河用地
 七 保安林
 八 公衆ノ用ニ供スル道路
2 府県市町村其他ノ公共団体ハ前項ノ土地ニ租税其他ノ公課ヲ課スルコトヲ得ス但所有者以外ノ者前項第一号又ハ第二号ノ土地ヲ使用収益スル場合ニ於テ其土地ニ対シ使用者ニ租税其他ノ公課ヲ課スルハ此限ニ在ラス

第五条 土地ノ丈量ハ曲尺ヲ用ヒ六尺ヲ間ト為シ方壱間ヲ以テ歩ト為シ三拾歩ヲ畝ト為シ拾畝ヲ段ト為シ拾段ヲ町ト為ス但宅地ハ方壱間ヲ以テ坪ト為シ坪ノ拾分壱ヲ合ト為シ合ノ拾分壱ヲ勺ト為ス

第六条 地価ヲ定メ又ハ地価ヲ修正スルトキハ地盤ヲ丈量ス

第七条 地価ハ左ノ場合ニ該当スルニ非サレハ之ヲ修正セス
 一 地目又ハ地類ヲ変換シタルトキ
 二 開墾シタルトキ
 三 開拓鍬下年期明ニ至リタルトキ
 四 荒地免租年期明ニ至リ原地価ニ復シ難ク若クハ他ノ地目ニ変シタルトキ又ハ低価年期明ニ至リ原地価ニ復シ難キトキ

第八条 一般ニ地価ノ改正ヲ要スルトキハ前以テ其旨ヲ布告スヘシ

第九条 地価ハ其地ノ品位等級ヲ詮定シ其所得ヲ審査シ尚ホ其土地ノ情況ニ応シ之ヲ定ム

第十条 地目ヲ変換シ又ハ地類ヲ変換シタルトキハ政府ニ届出ヘシ
2 地目ヲ変換シ又ハ地類ヲ変換シタルトキハ直ニ其地価ヲ修正ス但第十六条第六項ノ場合ハ此限ニ在ラス

第十一条 地租ヲ課スル土地ヲ地租ヲ課セサル土地ト為シ又ハ地租ヲ課セサル土地ヲ地租ヲ課スル土地ト為シタルトキハ政府ニ届出ヘシ但之ニ関シ予メ政府ノ許可ヲ受ケ又ハ届出ヲ為シタルモノニ付テハ此限ニ在ラス
2 地租ヲ課セサル土地ヲ地租ヲ課スル土地ト為シタルトキハ其地ノ現況ニ依リ直ニ其土地ノ地価ヲ定ム但第十六条第四項ノ場合ハ此限ニ在ラス

第十二条 地租ハ左ノ期限ニ依リ之ヲ徴収ス
 一 宅地
  第一期 其年七月一日ヨリ同七月三十一日限 地租額二分ノ一
  第二期 翌年一月一日ヨリ同一月三十一日限 地租額二分ノ一
 二 田
  第一期 其年十二月十六日ヨリ翌年一月十五日限 地租額四分ノ一
  第二期 翌年二月一日ヨリ同二月末日限 地租額四分ノ一
  第三期 翌年三月一日ヨリ同三月三十一日限 地租額四分ノ一
  第四期 翌年五月一日ヨリ同五月三十一日限 地租額四分ノ一
 三 其他ノ土地
  第一期 其年九月一日ヨリ同九月三十日限 地租額二分ノ一
  第二期 其年十一月一日ヨリ同十一月三十日限 地租額二分ノ一
2 特殊ノ事情アル地方ニシテ前項ノ納期ニ依リ難キモノニ付テハ命令ヲ以テ特別ノ納期ヲ設クルコトヲ得

第十三条 地租ハ左ニ掲クル者ヨリ之ヲ徴収ス
 一 質権ノ目的タル土地ニ付テハ質権者
 二 百年ヨリ長キ存続期間ノ定アル地上権ノ目的タル土地ニ付テハ地上権者
 三 其他ノ土地ニ付テハ所有者
2 前項ニ於テ質権者、地上権者、所有者ト称スルハ土地台帳ニ質権者、地上権者、所有者トシテ登録セラレタル者ヲ謂フ

第十三条ノ二 前条ノ規定ニ依リ地租ヲ納ムヘキ者(法人ヲ除ク)ノ住所地市町村及其隣接市町村内ニ於ケル田畑地価ノ合計金額其同居家族ノ分ト合算シ二百円未満ナルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ其田畑ノ地租ヲ徴収セス但小作ニ付シタル田畑ニ付テハ此限ニ在ラス

第十四条 地価ヲ修正シタル土地ニ付テハ其年ヨリ修正地価ニ依リ地租ヲ徴収ス但其年ニ係ル地租ノ全部又ハ一部ノ納期開始後地価ヲ修正シタルトキハ翌年分地租ヨリ修正地価ニ依リ地租ヲ徴収ス

第十五条 地租ヲ課スル土地ニシテ地租ヲ課セサル土地トナリタルトキハ其届出アリタル後又ハ其事実ヲ認メタル後ニ開始スル納期ヨリ地租ヲ徴収セス
2 地租ヲ課セサル土地ニシテ地租ヲ課スル土地トナリタルトキハ地価設定後ニ開始スル納期ヨリ地租ヲ徴収ス但地価設定後ニ開始スル納期ニ於テ前年分地租ヲ徴収スヘキ場合ニ於テハ其納期分ノ地租ハ之ヲ徴収セス
3 前二項ノ規定ハ荒地免租年期若クハ低価年期許可ノ場合又ハ荒地免租年期明若クハ新開免租年期明ノ場合ニ之ヲ準用ス

第十六条 開墾ヲ為サントスルトキハ政府ニ届出ヘシ
2 前項ノ開墾地ハ開墾著手ノ年ヨリ二十一年目ニ其成功ノ部分ニ対シ地価ヲ修正ス但地類変換ヲ為シタル後五年以内ニ開墾シタルモノニ在リテハ其成功ノ部分ニ対シ直ニ其地価ヲ修正ス
3 十年以内ニ成功シ能ハサル開墾ヲ為サントスルトキハ政府ニ願出鍬下年期ノ許可ヲ受クヘシ鍬下年期ハ四十年トス但年期中ハ原地価ニ依リ地租ヲ徴収ス
4 官有地ヲ開拓シテ民有ニ帰セシ土地ハ其素地相当ト認ムル所ノ地価ヲ定メ尚ホ二十年ノ鍬下年期ヲ許可ス但年期中ハ現定地価ニ依リ地租ヲ徴収ス
5 官有ノ水面ヲ埋立テ又ハ干拓シ民有ニ帰セシ土地ハ六十年ノ新開免租年期ヲ許可ス
6 地目ヲ変換スル為メ開墾ニ等シキ労費ヲ要スルモノハ本条第三項ニ準シ四十年ノ地価据置年期ヲ許可スルコトアルヘシ

第十七条 前条ニ依リ開墾ノ届出ヲ為シタル土地又ハ開墾鍬下年期若クハ地価据置年期ノ許可ヲ受ケタル土地ニシテ開墾成功シ又ハ地目変換シタルトキハ其旨政府ニ届出ヘツ此場合ニ於テハ其年ヨリ開墾又ハ変換シタル地目ニ依リ其地租ヲ徴収ス但其年ニ係ル地租ノ全部又ハ一部ノ納期開始後届出アリタルトキハ翌年分地租ヨリ開墾又ハ変換シタル地目ニ依リ其地租ヲ徴収ス
3 前項ノ場合ニ於テ開墾又ハ変換地目ノ税率カ旧地目ノ税率ト同一ナラサルトキハ旧地目ニ対スル地租額ヲ開墾又ハ変換地目ノ税率ヲ以テ除シ之ヲ開墾又ハ変換地目ニ対スル地価トシ修正地価ニ依リ地租ヲ徴収スルニ至ル迄其地価ニ依リ地租ヲ徴収ス

第十八条 廃止

第十九条 鍬下年期明地価据置年期明新開免租年期明ノトキ其地価ヲ定メ又ハ修正ス

第二十条 荒地ハ其被害ノ年ヨリ十五年以内免租年期ヲ定メ年期明ニ至リ原地価ニ復ス
2 海嘯ノ為メ潮水侵入シ作土ヲ損害シタルモノハ其状況ニ依リ前項ニ準拠スルコトアルヘシ

第二十一条 荒地免租年期明ニ至リ其地ノ現況原地価ニ復シ難キモノハ十五年以内七割以下ノ低価年期ヲ定メ年期明ニ至リ原地価ニ復ス

第二十二条 低価年期明ニ至リ尚ホ原地価ニ復シ難キモノ及ヒ荒地免租年期明ニ至リ原地目ニ復セス他ノ地目ニ変スルモノハ地価ヲ修正ス

第二十三条 免租年期明ニ至リ尚ホ荒地ノ形状ヲ存スルモノハ更ニ十五年以内免租継年期ヲ定ム其年期明ニ至リ原地価ニ復シ難キモノハ第二十一条第二十二条ニ依リ処分ス

第二十四条 川成、海成、湖水成ニシテ免租年期明ニ至リ原形ニ復シ難キモノハ更ニ二十年以内免租継年期ヲ許可ス其年期明ニ至リ尚ホ原地目ニ復セス他ノ地目ニ変セサルモノハ川、海、湖ニ帰スルモノトス

第二十四条ノ二 収税官吏ハ土地ノ検査ヲ為シ又ハ納税義務者若クハ所有者ニ対シ必要ノ事項ヲ尋問スルコトヲ得

第二十五条 土地ヲ欺隠シ地租ヲ逋脱スル者ハ四円以上四十円以下ノ罰金又ハ科料ニ処シ現地目ニ依リ地価ヲ定メ欺隠年間ノ地租ヲ追徴ス但発覚ノ日ヨリ三年以前ニ遡ルコトヲ得ス

第二十六条 第十一条ニ違犯スル者ハ三円以上三十円以下ノ罰金又ハ科料ニ処シ且現地目ニ依リ地価ヲ定メ其地租ヲ追徴ス但発覚ノ日ヨリ三年以前ニ遡ルコトヲ得ス

第二十七条 第十条第一項第十六条第一項ニ違犯スル者ハ一円以上一円九十五銭以下ノ科料ニ処ス其開墾ノ届出ヲ為ササルモノハ現地目ニ依リ地価ヲ定メ其地租増額ヲ追徴ス但発覚ノ日ヨリ三年以前ニ遡ルコトヲ得ス

第二十八条 第二十五条以下ノ所犯借地人、小作人ノ所為ニ係リ所有主其情ヲ知ラサルトキハ其借地人、小作人ヲ罰シ地租ハ所有主ヨリ追徴ス

第二十九条 第二十五条第二十六条第二十七条第二十八条ノ刑ニ当ル者自首スルトキハ其罰金科料ヲ免ス但其追徴スヘキ地租ハ仍ホ之ヲ納メシム

  附 則 (明治四十三年法律第二号)

1 本法ハ明治四十四年一月一日ヨリ之ヲ施行ス但シ明治四十三年分地租ノ徴収ニ関シテハ仍旧法ヲ適用ス
2 宅地以外ノ土地ノ税率ハ明治四十三年分地租ヨリ之ヲ適用ス
3 非常特別税法中地租ニ関スル規定ハ宅地ニ付テハ明治四十三年分地租限其ノ他ノ土地ニ付テハ明治四十二年分地租限之ヲ廃止ス
4 本法施行前地目ヲ変換シ又ハ地価ヲ変換シタル土地ニシテ地価ヲ修正セサルモノハ本法施行ノ際其ノ地価ヲ修正シ明治四十四年分地租ヨリ修正地価ニ依リ地租ヲ徴収ス
5 本法施行前地目ヲ変換シ地価ヲ修正シタル土地ニシテ修正地価ニ依リ地租ヲ徴収スルニ至ラサルモノニ付テハ明治四十四年分地租ヨリ修正地価ニ依リ地租ヲ徴収ス
6 明治二十四年法律第二号、明治三十年法律第五号及宅地組換法ハ之ヲ廃止ス

  附 則 (大正八年法律第四十六号)

1 本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
2 本法施行前第十六条第一項ノ届出ヲ為シ又ハ同条第三項乃至第六項ノ許可ヲ受ケタル土地ニ関シテハ仍ホ従前ノ例ニ依ル

     「法令全書」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)明治政府が、民政方針を示す「五榜の掲示」の高札を設置する(新暦4月7日)詳細
1875年(明治8)詩人蒲原有明の誕生日詳細
1890年(明治23)琵琶湖疎水の第一期工事が完成し、全線通水が完了する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

hunka02

 今日は、平安時代前期の800年(延暦19)に、富士山延暦噴火が始まった日ですが、新暦では4月11日となります。
 富士山延暦噴火(ふじさんえんりゃくふんか)は、800年(延暦19)から802年(延暦21)にかけての一連の富士山噴火とされ、記録に残る中でも規模が大きく、貞観噴火(864~866年)、宝永噴火(1707年)と共に、富士山三大噴火の一つとされてきました。史書の『日本紀略』には、延暦十九年六月の癸酉(6日)、駿河国言として、「自去三月十四日迄四月十八日、富士山巓自焼、昼則烟気暗瞑、夜則火花照天、其声若雷、灰下如雨、山下川水皆紅色也」と記され、駿河国からの6月6日付報告として、3月14日~4月18日にかけて富士山が噴火し、噴煙のために昼でも暗くなり、夜は噴火の火柱が天を照らし、鳴動が雷のように聞こえ、雨のように火山灰が降って、ふもとの川が紅色に染まったことがわかります。
 また、同書の延暦二十一年正月の乙丑(8日)、駿河相模国言として、「駿河国富士山、晝夜燎、砂礫如霰者、求之卜筮、占曰、于疫、宜令両国加鎮謝、及読経以攘殃」と再び記され、駿河国・相模国からの1月8日付報告として、再度富士山が噴火して砂礫があられのように降ったことと噴火を沈めるための祈祷が行われたことがわかり、さらに、「五月(中略)甲戌、廃相模国足柄路開筥荷途、以富士焼砕石塞道也」と記され、同年五月甲戌(5月19日)に、富士山の噴火による砕石によってふさがれた相模国へ至る足柄路を閉鎖し、筥荷(箱根)路を開いたことがわかりました。しかし、同書の延暦二十二年(803年)五月丁巳(5月8日)の記述として、「廃相模国筥荷路、復足柄舊路」と記され、箱根路は約1年後に廃され、足柄路が復旧されたことがわかります。
 その後、9世紀後半に、平安朝廷に仕えた都良香が著した『富士山記』には、「山東脚下有小山、土俗謂之新山、本平地也、延暦廿一年三月、雲霧晦冥、十日而後成山、蓋神造也」と記され、延暦二十一年三月に富士山の東斜面において異常が生じ、10日後までに新山が誕生したことを伝え聞いたとし、これは富士山東斜面にある「西小富士」ではないかとされてきました。その他に、『宮下文書』にも詳細で膨大な記述がありますが、明らかな地質学的誤りや大幅な誇張があるのではないかとされています。
 以下に、『日本紀略』と『富士山記』の中の該当の記述を抜粋しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本紀略』の中の富士山延暦噴火の部分の抜粋

・延暦十九年六月の条
 「癸酉、駿河国言、自去三月十四日、迄四月十八日、富士山嶺自焼、晝則烟気暗瞑、夜則火光照天、其聲若雷、灰下如雨。山下川水皆紅色也」

・延暦廿一年正月の条
 「乙丑(中略)駿河相模国言、駿河国富士山、晝夜燎、砂礫如霰者、求之卜筮、占曰、于疫、宜令両国加鎮謝、及読経以攘殃」

・延暦廿一年五月の条
 「甲戊、廃相模国足柄路、開筥荷途、以富士焼碎石塞道也」

・延暦廿二年五月の条
 「丁巳、廃相模国筥荷路、復足柄舊路」

〇『富士山記』からの抜粋

 「山東脚下有小山、土俗謂之新山、本平地也,延暦廿一年三月、雲霧晦冥、十日而後成山、蓋神造也」

  ※縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付して、旧字を新字に直してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1789年(寛政元)哲学者・経済学者・思想家三浦梅園の命日(新暦4月9日)詳細
1868年(慶応4)五箇条の御誓文」が出される(新暦4月6日)詳細
1970年(昭和45)大阪で日本万国博覧会(大阪万博)の開会式が行われる詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

kakonkinshirei01

 今日は、奈良時代の765年(天平神護元)に、墾田永年私財法の停止(加墾禁止令)が出された日ですが、新暦では3月30日となります。
 「加墾禁止令(かこんきんしれい)」は、称徳天皇の寵愛をうけた僧の道鏡が政治の実権を握る中で、寺領を除く王臣貴族の無制限の土地開墾を抑圧するため、「墾田永年私財法」を停止する旨の太政官符の発布で、「墾田禁止令」とも呼ばれました。743年(天平15)の聖武天皇の治世に「三世一身法」を改めて、一定の条件つきで墾田の永世私有を認めた「墾田永年私財法」が出されましたが、勢力を持っている家では、人々を追い立てるように開墾に従事させ、貧窮している人々は生計を立てる余裕がない状態となったとして、寺院の定められた土地や当地の人々の一~二町の開墾を除いて、王臣貴族の無制限の土地開墾を抑圧したものです。
 しかし、称徳天皇が崩御し、光仁天皇が即位したことで道鏡が失脚すると、772年(宝亀3年10月14日)に墾田私有を許可(百姓を苦しませない限り)すると言う旨の太政官符が発布されました。これは、藤原氏ら富豪や大寺院などの圧力によるものと考えられています。
 以下に、このことを記述した『続日本紀』巻第二十六(称徳紀一)天平神護元年三月の条を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「続日本紀」巻第二十六(称徳紀一)天平神護元年三月の条

<原文>

丙申。勅。今聞。墾田縁天平十六年格。自今以後。任爲私財。無論三世一身。咸悉永年莫取。由是。天下諸人競爲墾田。勢力之家駈役百姓。貧窮百姓無暇自存。自今以後。一切禁斷。勿令加墾。但寺先來定地開墾之次不在禁限。又當土百姓一二町者亦宜許之。

<読み下し文>

丙申[1]。勅すらく、「今聞く、墾田[2]は天平十六年格[3]に縁る。今より以後は、任に私財と爲し、三世一身[4]を論ずること無く、咸悉くに永年取る莫れ。」と。是に由りて、天下の諸人競ひて墾田[2]を爲し、勢力の家は百姓を駈役し、貧窮の百姓は自存するに暇無し[5]。今より以後は、一切禁斷[6]して加墾[7]せしむること勿れ。但し寺は、先來の定地開墾の次[8]は禁ずる限に在らず。又、當土の百姓[9]、一二町はまた宜しくこれを許すべし。

【注釈】

[1]丙申:へいしん=ここでは、(天平神護元年三月)五日のこと。
[2]墾田:こんでん=新たに開墾した田。
[3]天平十六年格:てんぴょうじゅうろくねんきゃく=墾田永年私財法のこと。
[4]三世一身:さんぜいっしん=本人・子・孫の代まで受け継ぐこと。
[5]自存するに暇無し:じぞんするにいとまなし=生計を立てる余裕がない。
[6]禁斷:きんだん=ある行為をしてはいけないと厳重に禁止すること。さしとめること。禁制。禁止。
[7]加墾:かこん=開墾を行うこと。
[8]先來の定地開墾の次:せんらいのていちかいこんのついで=かつて定められた土地を開墾すること。
[9]當土の百姓:とうどのひゃくしょう=その土地の人々。

<現代語訳>

(天平神護元年三月)五日、(称徳天皇は)勅した。「今聞くところでは、新たに開墾した田は、墾田永年私財法によって、任意に開墾者の私有財産と為し、本人・子・孫の代まで受け継ぐ(三世一身法)という制限なく、すべて永久に収公されないことになった。」と、これによって、天下の人々は競い合って新たに開田するようになり、勢力を持っている家では、人々を追い立てるように開墾に従事させ、貧窮している人々は生計を立てる余裕がない状態である。今後は、一切禁止するので開墾を行ってはならない。ただし、寺はかつて定められた土地を開墾することについてはこの限りではない。また、その土地の人々が一~二町を開墾するのはこれを許可する。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1870年(明治3)日本3番目の洋式灯台である品川灯台が初点灯する(新暦4月5日)詳細
1926年(大正15)労働農民党」(委員長:杉山元治郎)が結成される詳細
1929年(昭和4)社会運動家・政治家・生物学者山本宣治の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ