ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:武田信玄

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 今日は、戦国時代の1568年(永禄11)に、武田信玄軍と今川氏真・北条氏政軍との間で薩埵峠の戦いが始まった日ですが、新暦では12月30日となります。
 薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい)は、戦国時代の1568年(永禄11年12月)から翌年にかけてて、駿河国薩埵峠(現在の静岡県静岡市清水区)で、武田信玄軍と今川氏真・北条氏政軍との間で行われた合戦でした。1560年(永禄3)の桶狭間の戦いで、織田信長に今川義元が敗れて討ち取られると、今川氏当主の地位は嫡男の今川氏真が継ぎますが、勢力が衰退していきます。その中で、甲斐国の武田信玄は、それまでの同盟関係を破棄し、1568年(永禄11年12月)に、駿河国へ攻め込みました。これに対して今川氏真は、これを迎え討つべく、庵原安房守を大将とする1万5千の軍勢を薩埵峠に向かわせましたが、12日より峠の東側で始まった戦いでは、今川方に内通者が出るなどして、薩埵峠を突破されます。そして、翌13日には駿府の今川館も陥落し、氏真は重臣の朝比奈泰朝の拠る遠江国掛川城へと落ち延びることとなりました。今川氏と同盟関係にあった北条氏康は、嫡男である北条氏政に命じて4万5千の兵を駿河へ向かわせ、翌年の1月18日から薩埵峠を挟んで、武田軍と対峙することとなりました。にらみ合いは3ヶ月に及びましたが、4月には、武田軍は穴山信君を江尻城に残して甲斐国に撤退、その後北条軍も幾つかの城を傘下に収めた後、相模国に兵を撤退させて、戦いは終わっています。

☆主要な戦国合戦一覧(1493年~1573年)

・1525年(大永5) 岩槻城の戦い[武蔵国 - 埼玉県岩槻市] ○北条軍×●上杉軍 
・1532年(天文元) 山科本願寺の戦い[山城国 - 京都府京都市] ○柳本軍×●山科本願寺軍 
・1542年(天文11) 第1次小豆坂の戦い[三河国 - 愛知県岡崎市] ○織田軍×●今川軍 
・1546年(天文15) 河越城の戦い[武蔵国 - 埼玉県川越市] ○北条軍×●上杉軍 
・1548年(天文17) 第2次小豆坂の戦い[三河国 - 愛知県岡崎市] ○今川・松平軍×●織田軍 
・1548年(天文17) 上田原の戦い[信濃国 - 長野県上田市] ○村上軍×●武田軍 
・1548年(天文17) 塩尻峠の闘い[信濃国 - 長野県岡谷市・塩尻市] ○武田軍×●小笠原軍 
・1550年(天文19) 砥石城の戦い[信濃国 - 長野県上田市] ○村上軍×●武田軍 
・1551年(天文20) 坂戸城の戦い[越後国 - 新潟県南魚沼市] ○長尾景虎×●長尾政景 
・1555年(天文24) 厳島の戦い[安芸国 - 広島県廿日市市] ○毛利軍×●陶軍 
・1560年(永禄3) 桶狭間の戦い[尾張国 - 愛知県名古屋市・豊明市] ○織田軍×●今川軍 
・1560-61年(永禄3-4) 小田原城の戦い[相模国、上野国、武蔵国] △北条軍×△上杉・長尾軍 
・1561年(永禄4) 第4次川中島の戦い[信濃国 - 長野県長野市] △武田軍×△上杉軍 
・1563年(永禄6) 三河一向一揆[三河国 - 愛知県] ○徳川軍×●三河一向一揆 
・1563-64年(永禄6-7) 第2次国府台合戦[下総国 - 千葉県市川市] ○北条軍×●里見軍 
・1565年(永禄8) 永禄の変[山城国 - 京都府] ○三好・松永軍×●足利義輝軍 
・1567年(永禄10) 稲葉山城の戦い[美濃国 - 岐阜県岐阜市] ○織田軍×●斎藤軍 
・1568年(永禄11) 薩埵峠の戦い[駿河国 - 静岡県静岡市] ○武田軍×●今川・北条軍 
・1569年(永禄12) 三増峠の戦い[相模国 - 神奈川県愛甲郡愛川町] ○武田軍×●北条軍 
・1570-74年(元亀元-天正2) 長島一向一揆[伊勢国- 三重県桑名市] ○織田軍×●長島一向一揆 
・1570-80年(元亀元-天正8) 石山合戦[摂津国 - 大阪府大阪市] ○織田軍×●石山本願寺軍 
・1570年(元亀元) 金ヶ崎の戦い[越前国 - 福井県敦賀市] ○朝倉軍×●織田軍 
・1570年(元亀元) 姉川の戦い[近江国 - 滋賀県長浜市] ○織田軍×●浅井・朝倉軍 
・1571年(元亀2) 比叡山焼き討ち[山城国・近江国 - 京都府京都市・滋賀県大津市] ○織田軍×●比叡山延暦寺 
・1572年(元亀3) 三方ヶ原の戦い[遠江国 - 静岡県浜松市] ○武田軍×●徳川・織田軍 
・1573年(天正元) 槇島城の戦い[山城国 - 京都府京都市・宇治市] ○織田軍×●足利義昭軍 
・1573年(天正元) 一乗谷城の戦い[越前国 - 福井県福井市] ○織田軍×●朝倉軍 
・1573年(天正元) 小谷城の戦い[近江国 - 滋賀県長浜市] ○織田軍×●浅井軍 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1898年(明治31)小説家黒島伝治の誕生日詳細
1947年(昭和22)「児童福祉法」が公布される詳細
1963年(昭和38)映画監督・脚本家小津安二郎の命日詳細
1989年(平成元)漫画家田河水泡の命日詳細
2015年(平成27)「気候変動に関する国際連合枠組み条約第21回締約国会議」(COP21)で「パリ協定」を採択する詳細
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 今日は、戦国時代の元亀3年に、三方ヶ原の戦いが起き、武田軍が徳川・織田軍を破った日ですが、新暦では1573年1月25日となります。
 三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、遠江国三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区)において、約2万5千人の武田信玄軍と約1万1千人の徳川家康・織田信長連合軍との間で起こった戦国合戦の一つでした。武田軍は魚鱗の陣を布いて待ち構えており、徳川・織田連合軍は鶴翼の陣をとって戦闘が始まりましたが、武田軍が勝利します。
 徳川家康は、命からがら浜松城に逃げ帰り、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真といった有力武将が亡くなって、織田信長の援将平手汎秀も戦死しました。しかし、武田軍は浜松城を攻撃せずに西へ向かい、落城は免れます。
 現在は、三方原墓園(浜松市北区根洗町)の一角に三方ヶ原古戦場の碑が建ち、少し北に行ったところに武田信玄の本陣があったという根洗松と碑がありました。また、多くの戦死者が出た犀ヶ崖(浜松市中区鹿谷町)は、三方原古戦場として1939年(昭和14)に、県の史跡に指定され、史跡公園となっていて、三方ヶ原古戦場犀ヶ崖の碑、本多肥後守忠真顕彰碑、夏目次郎左衛門吉信の碑や「犀ヶ崖資料館」があって見学できます。
 ここには、その戦死者を供養するために始まったといわれる遠州大念仏や、三方ヶ原の戦いに関する資料が展示されていて興味深いところでした。
 以下に、『信長公記』第5巻の三方ヶ原の戦いの部分を抜粋(注釈・現代語訳付)しておきますので、ご参照ください。

〇『信長公記』第五巻より

身方ヶ原合戦の事

是れは遠州表の事。霜月[1]下旬、武田信玄、遠州二股の城[2]取巻くの由、注進[3]これあり。則ち、信長公御家老の衆、佐久間右衛門、平手甚左衛門、水野下野守大将として、御人数遠州浜松に至り参陣のところに、早、二股の城[1]攻め落し、其の競ひに、武田信玄堀江の城[4]へ打ち廻り、相働き候。家康も浜松の城[5]より御人数出だされ、身方ケ原[6]にて足軽ども取合ひ、佐久間・平手を初めとして、懸けつき、互に人数立ち合ひ、既に一戦に取り向かふ。武田信玄、水股の者[7]と名付けて、三百人ばかり、真先にたて、彼等にはつぶてをうたせ[8]て、推し大鼓[9]を打ちて、人数かゝり来たる。一番合戦に、平手甚左衛門、同家臣の者、家康公の御内衆、成瀬藤蔵。
十二月廿二日、身方ケ原[6]にて数輩討死これあり。さる程に[10]、信長公、幼稚より召し使はれ侯御小姓衆、長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨・加藤弥三郎四人、信長公の御勘当を蒙り、家康公を憑み奉り[11]、遠州に身を隠し、居住侯らひし。是れ叉、一番合戦に一手[12]にかゝり合ひ、手前[13]にて比類なき[14]討死なり。爰に希代[15]の事ある様子は、尾州清洲の町人、具足屋[16]玉越三十郎とて、年の頃廿四、五の者あり。四人衆見舞ひとして、遠州浜松へ参られ侯折節、武田信玄、堀江の城[4]取り詰め、在陣の時に侯。定めて、此の表相働くべく侯。さ侯はぱ一戦に及ぶべく侯間、早々罷り[17]帰り侯へと、四人衆達つて異見侯へば、是れまで罷り[17]参り侯のところを、はづして罷り[17]帰り侯はば、以来、口はきかれまじく侯間、四人衆討死ならば、同心すべきと申し切り、罷り[17]帰らず、四人衆と一所に切つてまはり、枕を並べて討死なり。
家康公中筋[18]切り立てられ、軍の中に乱れ入り、左へつきて、身方が原[3]のきし道[19]の一騎打ちを退かせられ侯を、御敵、先に待ち請け、支へ[20]侯。馬上より御弓にて射倒し、懸け抜け、御通り侯。是れのみならず、弓の御手柄今に始まらず、浜松の城[5]堅固に御拘へなさる。信玄は勝利を得、人数打ち入れ[21]侯なり。

【注釈】

[1]霜月:しもつき=11月。
[2]二股の城:ふたまたのしろ=二俣城。現在の浜松市天竜区に城跡がある。
[3]注進:ちゅうしん=事件を急いで目上の人に報告すること。
[4]堀江の城:ほりえのしろ=堀江譲。現在の浜松市西区舘山寺町に城跡がある。
[5]浜松の城:はままつのしろ=徳川家康の居城で、現在の浜松市中区に城跡がある。
[6]身方ケ原:みかたがはら=三方ヶ原。現在の浜松市北区三方原町のあたり。
[7]水股の者:みずまたのもの=足軽のことか?
[8]つぶてをうたせ=小石を投げること。
[9]推し大鼓:おしだいこ=戦場で、進軍や攻撃開始の合図に打ち鳴らす太鼓。かかり太鼓。
[10]さる程に:さるほどに=さて。ところで。
[11]憑み奉り:たのみたてまつり=頼りにして。
[12]一手:ひとて=一隊。一組。
[13]手前:てまえ=他人の目の前。人の見る前。
[14]比類なき:ひるいなき=比べようもない。例えようもない。
[15]希代:きたい=世にもまれなこと。めったに見られないこと。また、そのさま。
[16]具足屋:ぐそくや=甲冑の商売人。武具商。
[17]罷り:まかり=貴人の前や貴所から退くこと。退出。行くこと。
[18]中筋:なかすじ=戦線の中央部の意味。
[19]きし道:きしみち=岸道。崖道。山際の道。
[20]支へ:ささへ=じゃまをする。立ちふさがる。
[21]人数打ち入れ:にんずううちいれ=軍勢を納めること。

<現代語訳>

三方ヶ原合戦の事

 これは遠州方面の出来事である。11月下旬、武田信玄が遠州二俣城を取り囲んだとの報告がもたらされた。ただちに信長公は、家老衆の佐久間信盛・平手汎秀・水野信元らを大将として出陣させ、軍勢が遠州浜松に到着し参陣したが、すでに二俣城は攻め落とされ、その勢いに乗じて、武田信玄は堀江城へまわって、攻略中であった。徳川家康も、浜松城から軍勢を出されて、三方ヶ原で最初に足軽による攻め合いとなり、佐久間・平手を初め、その他の者も懸けつけてきて、双方が軍勢を繰り出しての一戦となった。武田信玄は水股の者(足軽?)と呼ぶ兵300人ほどを先頭に立てて、彼らに小石を投げさせ、かかり太鼓を打ち鳴らして、攻撃してきた。最初の合戦では、平手甚左衛門とその家臣の者、家康公の御身内衆の成瀬藤蔵が討ち死にした。
 12月22日、三方ヶ原にて数名の者が討ち死にした。ところで、信長公が幼い時より召し使われていた御小姓衆の長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨・加藤弥三郎の四人は、信長公の御勘当を受けて、家康公を頼りにして、遠州に身を隠して、居住していた。これまた、最初の合戦の一隊としてに攻めかかり、人々の眼前にて比べようもない討ち死にをとげた。この時に世にもまれなことがあったが、尾州清洲の町人で、武具商の玉越三十郎という、年の頃24、5歳の者のことである。四人衆の見舞いとして、遠州浜松へ来ていた折に、武田信玄が堀江城に攻めかかっている、在陣の時であった。「きっと、この浜松方面へも仕掛けてくるであろう。そうならぱ、一戦にとなる前に、早々に退去して帰りなさい。」と、四人衆が強いて忠告したならば、「ここまでやってきたところを、放棄して立ち返ったならば、以後、口を聞いてくれる人はいまくなってしまいでありましょう、四人衆が討死するならば、ご一所すべきでしょう。」と言い切って帰らず、四人衆といっしょに切り込んで、枕を並べて討死したのであった。
 家康公は、戦線の中央部へ切り込み、軍の中に乱れ入って、左手に逃れ、三方ヶ原の山際の道を一騎で退却していったが、敵は退却の先にも待ちかまえて、立ちふさがってきた。家康公は馬上より弓で射倒して駆け抜けた。家康公の弓の手柄は、今に始まったことではないが、その後浜松城に籠り、堅固に守りを固めた。信玄は勝利を得て、軍勢を納めたことである。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1902年(明治35)年齢計算ニ関スル法律」が施行され、数え年に代わり満年齢のみの使用となる詳細
1945年(昭和20)労働組合法」が制定される詳細
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 今日は、戦国時代の1561年(永禄4)に、第4次川中島の戦い(八幡原の戦い)が始まった日ですが、新暦では10月27日となります。
 川中島の戦いは、主要な戦国合戦の一つで、越後の上杉謙信軍対甲斐の武田信玄軍によるものでした。戦国時代の1553年(天文22)から 1564年(永禄7)までに、主なものは、1553年(天文22)、1555年(天文24)、1557年(弘治3)、1561年(永禄4)、1564年(永禄7)の5回あったとされていますが、その4回目の1561年(永禄4)の合戦(八幡原の戦い)が一番有名で、武田軍2万と上杉軍1万2千が激突します。
 武田軍は信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死するなどして序盤劣勢でしたが持ち直し、結局この戦いによる死者は、上杉軍が3,000余、武田軍が4,000余と伝えられ、上杉軍は越後へ引き上げることになりました。
 現在は、武田軍が本陣を置いたとされる場所が、八幡原史跡公園となり、首塚や信玄・謙信両雄一騎討ちの像、「三太刀七太刀跡」の石碑、執念の石、逆槐などがあり、公園の一角に「長野市立博物館」があって、川中島合戦のことも展示されています。また少し離れて、典厩寺(信玄の弟・典厩信繁の墓がある)、山本勘助の墓、胴合橋、赤川の碑 などもあり、史跡めぐりコースもできました。

〇戦国合戦とは?

 戦国時代には、戦国大名間で、あるいは、家臣が主家を倒すような合戦が日本中で行われました。また、土一揆、一向一揆、国一揆など全国で民衆の抵抗がおこり、戦国大名と対峙した場合もあります。
 そのような中で、徐々に有力な戦国大名による天下統一の方向へと向かっていくことになります。その場合には、楽市楽座や関所の廃止、治山治水、鉱山開発など経済の発展や民衆の期待を担えるような戦国大名が勝ち残っていくことにもなりました。

☆主要な戦国合戦一覧(1493年~1573年)

・1525年(大永5) 岩槻城の戦い[武蔵国 - 埼玉県岩槻市] ○北条軍×●上杉軍
・1532年(天文元) 山科本願寺の戦い[山城国 - 京都府京都市] ○柳本軍×●山科本願寺軍
・1542年(天文11) 第1次小豆坂の戦い[三河国 - 愛知県岡崎市] ○織田軍×●今川軍
・1546年(天文15) 河越城の戦い[武蔵国 - 埼玉県川越市] ○北条軍×●上杉軍
・1548年(天文17) 第2次小豆坂の戦い[三河国 - 愛知県岡崎市] ○今川・松平軍×●織田軍
・1548年(天文17) 上田原の戦い[信濃国 - 長野県上田市] ○村上軍×●武田軍
・1548年(天文17) 塩尻峠の闘い[信濃国 - 長野県岡谷市・塩尻市] ○武田軍×●小笠原軍
・1550年(天文19) 砥石城の戦い[信濃国 - 長野県上田市] ○村上軍×●武田軍
・1551年(天文20) 坂戸城の戦い[越後国 - 新潟県南魚沼市] ○長尾景虎×●長尾政景
・1555年(弘治元) 厳島の戦い[安芸国 - 広島県廿日市市] ○毛利軍×●陶軍
・1560年(永禄3) 桶狭間の戦い[尾張国 - 愛知県名古屋市・豊明市] ○織田軍×●今川軍
・1560-61年(永禄3-4) 小田原城の戦い[相模国、上野国、武蔵国] △北条軍×△上杉・長尾軍
・1561年(永禄4) 第4次川中島の戦い[信濃国 - 長野県長野市] △武田軍×△上杉軍
・1563年(永禄6) 三河一向一揆[三河国 - 愛知県] ○徳川軍×●三河一向一揆
・1563-64年(永禄6-7) 第2次国府台合戦[下総国 - 千葉県市川市] ○北条軍×●里見軍
・1565年(永禄8) 永禄の変[山城国 - 京都府] ○三好・松永軍×●足利義輝軍
・1567年(永禄10) 稲葉山城の戦い[美濃国 - 岐阜県岐阜市] ○織田軍×●斎藤軍
・1568年(永禄11) 薩埵峠の戦い[駿河国 - 静岡県静岡市] ○武田軍×●今川・北条軍
・1569年(永禄12) 三増峠の戦い[相模国 - 神奈川県愛甲郡愛川町] ○武田軍×●北条軍
・1570-74年(元亀元-天正2) 長島一向一揆[伊勢国- 三重県桑名市] ○織田軍×●長島一向一揆
・1570-80年(元亀元-天正8) 石山合戦[摂津国 - 大阪府大阪市] ○織田軍×●石山本願寺軍
・1570年(元亀元) 金ヶ崎の戦い[越前国 - 福井県敦賀市] ○朝倉軍×●織田軍
・1570年(元亀元) 姉川の戦い[近江国 - 滋賀県長浜市] ○織田軍×●浅井・朝倉軍
・1571年(元亀2) 比叡山焼き討ち[山城国・近江国 - 京都府京都市・滋賀県大津市] ○織田軍×●比叡山延暦寺
・1572年(元亀3) 三方ヶ原の戦い[遠江国 - 静岡県浜松市] ○武田軍×●徳川・織田軍
・1573年(天正元) 槇島城の戦い[山城国 - 京都府京都市・宇治市] ○織田軍×●足利義昭軍
・1573年(天正元) 一乗谷城の戦い[越前国 - 福井県福井市] ○織田軍×●朝倉軍
・1573年(天正元) 小谷城の戦い[近江国 - 滋賀県長浜市] ○織田軍×●浅井軍
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 今日は、戦国時代の1573年(天正元)に、戦国大名武田信玄の亡くなった日ですが、新暦では5月13日となります。
 武田信玄は、戦国時代に活躍した戦国大名の一人で、実名は晴信といい、1521年(大永元)に、甲斐の守護武田信虎の長男として生まれました。
 1536年(天文5)に室町幕府将軍足利義晴の諱の1字を得て元服し、同年11月に11月には、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めで初陣を飾ります。
 1541年(天文10)には、父信虎を追放して、甲斐の守護となり、信濃に進出し、1553年(天文22)以降、5回にわたって、上杉謙信と川中島の戦いを繰り広げました。
 その間、近傍諸国を侵略し、甲斐本国以外に、信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領するに至ります。
 そして、将軍足利義昭ら反織田信長勢力と結び、1572年(元亀3)には、京都進出を企てて大軍をおこし、三方ヶ原の戦いで、徳川家康を破りました。
 しかし、三河国野田城攻囲中に発病し、帰国途中信濃国伊那の駒場で、1573年(天正元)に51歳で亡くなったとされています。
 その後、1576年(天正4)に本葬が営まれ、恵林寺(山梨県甲州市)が墓所と定められました。

〇武田信玄関係略年表(日付は旧暦です)

・1521年(大永元)11月3日 甲斐の守護武田信虎の長男として生まれる
・1536年(天文5) 室町幕府将軍足利義晴の諱の1字を得て元服する
・1536年(天文5)11月 佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めで初陣を飾る
・1541年(天文10) 父信虎を駿河の今川義元のところへ追放し、当主となる
・1542年(天文11) 妹婿の諏訪頼重を打倒する
・1548年(天文17) 上田原の戦い[信濃国 - 長野県上田市] ○村上軍×●武田軍
・1548年(天文17) 塩尻峠の戦い[信濃国 - 長野県岡谷市・塩尻市] ○武田軍×●小笠原軍
・1550年(天文19) 砥石城の戦い[信濃国 - 長野県上田市] ○村上軍×●武田軍
・1553年(天文22)4月 第1次川中島の戦い[信濃国 - 長野県長野市] △武田軍×△上杉軍
・1556年(天文25) 今川氏・北条氏と同盟を結ぶ
・1559年(永禄2) 出家して信玄と号する
・1561年(永禄4) 第4次川中島の戦い[信濃国 - 長野県長野市] △武田軍×△上杉軍
・1566年(永禄9) 長野氏を滅ぼし西上野をも支配下に収める
・1567年(永禄10) 長男義信を反逆罪で刑死させ、その妻を今川氏のもとへ返し、同盟関係を絶つ
・1569年(永禄12) 三増峠の戦い[相模国 - 神奈川県愛甲郡愛川町] ○武田軍×●北条軍
・1569年(永禄12)4月 今川氏真を追放して駿河を領有する
・1571年(元亀2) 北条氏政、本願寺、一向一揆、浅井・朝倉氏らと結び、信長包囲網を形成する
・1572年(元亀3)12月22日 三方ヶ原の戦い[遠江国 - 静岡県浜松市] ○武田軍×●徳川・織田軍
・1573年(天正元)4月 三河野田城を包囲中に陣中で病床に伏す 
・1573年(天正元)4月12日 甲府へ帰陣する途中の信濃伊那谷の駒場で亡くなる
・1576年(天正4)4月 本葬が営まれ、恵林寺(山梨県甲州市)が墓所と定められる
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