ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:武将

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 今日は、1632年(寛永9)に、武将・江戸幕府第二代将軍徳川秀忠の亡くなった日ですが、新暦では3月14日となります。
 徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、1579年(天正7年4月7日)に、遠江国浜松城で、徳川家康の三男(母は側室の西郷局)として生まれましたが、幼名は長松(のち竹千代)と言いました。長兄信康が自害、次兄秀康が豊臣秀吉の養子になったため、世子となり、1590年(天正18)には、上洛して、聚楽第において豊臣秀吉に謁して元服、秀吉の一字を与えられて秀忠と名のります。
 1592年(文禄元)に従三位権中納言となり、1595年(文禄4年9月)に豊臣秀吉の意思で浅井長政の娘於江与(崇源院)と結婚しました。1600年(慶長5)の関ケ原の戦いでは、東山道を西上し、途中信濃上田城の真田昌幸攻めに時間を空費、決戦に間にあわずに家康の叱責を受けます。
 1601年(慶長6)に権大納言になり、翌年には従二位に昇叙、1605年(慶長10)には正二位に昇叙し、内大臣に転任しました。同年(慶長10)に父より譲られて、第二代将軍となりましたが、父が大御所として実権を掌握し続けます。
 1614年(慶長19)の大坂冬の陣、翌年の夏の陣に父と共に出陣し、豊臣氏を滅亡させました。1616年(元和2)の父・家康死去のあとをうけて、幕府組織の拡充、整備を行ない、福島正則はじめ多くの大名を改易、1620年(元和6年)には娘和子(東福門院)を後水尾天皇に入内させます。
 1623年(元和9)に世子家光と共に上洛し、家光が正二位に昇叙し、内大臣に転任、併せて将軍宣下を受けて第三代将軍となり、右大臣を辞任して大御所となって後見しました。その後、1627年(寛永4年)の紫衣事件により、後水尾天皇が退位すると、和子の娘が即位(明正天皇)し、外祖父となります。
 一方、学問を好み、筆跡は優美な御家流を示し、茶を古田織部に学んでよくその法を伝えましたが、1632年(寛永9年1月24日)に、江戸城において、数え年54歳で亡くなりました。

〇徳川秀忠関係略年表(日付は旧暦です)

・1579年(天正7年4月7日) 遠江国浜松で、徳川家康の三男(母は側室の西郷局)として生まれる
・1582年(天正10年3月) 信長が武田氏を滅ぼすと父・徳川家康は駿河を手に入れる
・1582年(天正10年6月) 本能寺の変において信長が死亡すると、父・徳川家康は旅先の堺から岡崎へ逃げかえる
・1582年(天正10年9月) 天正壬午の乱を制して父・徳川家康は甲斐・信濃を手中に収める
・1584年(天正12年2月27日) 父・徳川家康が従三位の参議に叙任される
・1584年(天正12年) 父・徳川家康は羽柴(のち豊臣)秀吉と小牧・長久手の戦いで対峙したが、和睦して臣下となる
・1586年(天正14年) 秀吉の妹朝日姫が父・徳川家康の正室となって浜松に赴く
・1587年(天正15年8月8日) 豊臣秀忠として従五位下に叙され、侍従に任官、蔵人頭を兼帯する
・1588年(天正16年1月5日) 正五位下に昇叙し、武蔵守を兼任、蔵人頭を辞する
・1589年(天正17年) 父・徳川家康は7ヶ条の定書を領内の村々に公布して、年貢や夫役について規定する
・1590年(天正18年1月15日) 上洛して、聚楽第において豊臣秀吉に謁して元服、秀吉の一字を与えられて秀忠と名のる
・1590年(天正18年) 父・徳川家康は秀吉の小田原征伐に従軍する
・1590年(天正18年8月1日) 父・徳川家康は後北条氏滅亡後はその旧領(関八州)に移封されて江戸城に入る
・1590年(天正18年12月29日) 従四位下に昇叙する
・1591年(天正19年) 父・徳川家康は九戸政実の乱鎮定のため陸奥岩手沢に出陣する
・1591年(天正19年) 正四位下に昇叙し、右近衛権少将に転任する
・1591年(天正19年11月8日) 豊臣秀忠として参議に補任し右近衛権中将を兼帯する
・1592年(文禄元年5月9日) 豊臣秀忠として従三位に昇叙し、権中納言に転任する
・1592年(文禄元年) 文禄の役では、肥前名護屋に駐留する
・1594年(文禄3年2月13日) 権中納言を辞任する
・1595年(文禄4年9月) 豊臣秀吉の意思で浅井長政の娘於江与(崇源院)と結婚する
・1596年(慶長元年) 父・徳川家康は正二位内大臣となり、五大老の筆頭として、秀吉政権下で重きをなす
・1598年(慶長3年8月) 秀吉が亡くなると、父・徳川家康は朝鮮からの諸大名の撤兵を指揮する
・1599年(慶長4年) 五大老の一人前田利家の死後、父・徳川家康は秀吉の築いた伏見城本丸に入る
・1600年(慶長5年9月15日) 父・徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利するものの、秀忠は遅参して叱責を受ける
・1601年(慶長6年3月28日) 豊臣秀忠として権大納言に転任する
・1602年(慶長7年1月8日) 従二位に昇叙する
・1602年(慶長7年) 父・徳川家康は京都二条城の造営を命じる
・1603年(慶長8年) 娘千姫が秀吉の遺児秀頼に入輿する
・1603年(慶長8年2月12日) 父・徳川家康が征夷大将軍の宣旨を受け、江戸幕府を開く
・1603年(慶長8年4月16日) 源秀忠として右近衛大将を兼任する
・1604年(慶長9年) 次男家光が生まれる
・1605年(慶長10年4月16日) 源秀忠として正二位に昇叙し、内大臣に転任する 
・1605年(慶長10年5月1日) 征夷大将軍が宣下されるが、父・徳川家康が大御所として実権を掌握し続ける
・1606年(慶長11年) 内大臣と右近衛大将を辞任する
・1607年(慶長12年) 父・徳川家康が駿府城に引退する
・1614年(慶長19年) 大坂冬の陣が起こる
・1614年(慶長19年3月9日) 従一位に昇叙し、右大臣に転任する
・1615年(元和元年5月8日) 大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼす
・1615年(元和元年7月7日) 「武家諸法度」を定める
・1615年(元和元年7月17日) 「禁中並公家諸法度」を定める
・1616年(元和2年3月17日) 父・徳川家康が太政大臣となる
・1616年(元和2年4月17日) 駿府において、父・徳川家康が数え年75歳で亡くなる
・1619年(元和5年) 広島城修築を理由に福島正則を改易する
・1620年(元和6年1月5日) 息子家光が正三位権大納言となり、続いて元服する
・1620年(元和6年) 娘和子(東福門院)を後水尾天皇に入内させる
・1622年(元和8年) 家康以来の年寄本多正純を改易に処し,土井利勝を信任して幕藩制の確立に力をそそぐ
・1623年(元和9年7月27日) 息子家光と共に上洛し、息子家光が正二位に昇叙し、内大臣に転任、併せて将軍宣下を受けて第三代将軍となり、右大臣を辞任して大御所となる
・1623年(元和9年) 息子家光に摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下って輿入れする
・1623年(元和10年) 息子家光が諸国巡見使を派遣する
・1624年(寛永元年) 江戸城西の丸に移る
・1626年(寛永3年) 息子家光が再度上洛し従一位左大臣となる
・1626年(寛永3年8月19日) 太政大臣に転任する
・1627年(寛永4年) 紫衣事件により後水尾天皇が退位すると、和子の娘が即位(明正天皇)する
・1631年(寛永8年) 忠長の領地を召し上げて蟄居を命じる
・1632年(寛永9年1月24日) 江戸城において、数え年54歳で亡くなる
・1632年(寛永9年2月10日) 正一位が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1869年(明治2)詩人・随筆家・評論家大町桂月の誕生日(新暦3月6日)詳細
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 今日は、安土桃山時代の1591年(天正19)に、武将・戦国大名・後北条氏5代目当主北条氏直の亡くなった日ですが、新暦では12月19日となります。
 北条氏直(ほうじょう うじなお)は、戦国時代の1562年(永禄5)に、後北条氏4代目当主北条氏政の次男(母は武田信玄の娘・黄梅院)として相模国の小田原城で生まれ(兄の新九郎は早世)ましたが、幼名は国王丸、通称は新九郎と言いました。1569年(永禄12)に、父・氏政に身を寄せる今川氏真の養子となり、名目上駿河国を譲られます。
 1571年(元亀2)に祖父が亡くなり父・氏政が当主となり、武田との甲相同盟が回復、1577年(天正5)に元服しました。1577年(天正5)に常陸の小田城に梶原政景を攻め初陣を飾り、1580年(天正8)に武田勝頼と駿河黄瀬川で対陣中、父・氏政の隠居により家督を譲られ、後北条家の第5代当主となります。
 1582年(天正10)に織田信長の侵攻で勝頼などが討死して武田氏が滅亡後、同年6月の本能寺の変で信長が横死すると、神流川の戦いで氏直本軍が織田方の滝川一益軍に勝利しました。同年8月には、徳川家康と甲斐の若神子で対陣しましたが、同年10月に上野は氏直、甲斐・信濃は家康が領有し、家康の娘が氏直に嫁ぐことで両軍の和睦・同盟が成立し、後北条氏最大の領地を成します。
 翌年に家康の娘・督姫が氏直に嫁ぎましたが、1587年(天正15)から、豊臣秀吉に対抗するため軍備増強に務め、秀吉の再三の上洛勧告に応じませんでした。1590年(天正18)には、秀吉による小田原征伐が開始され、3ヶ月に及ぶ籠城戦のすえ、降伏します。
 父・氏政と叔父・氏照は切腹させられましたが、家康の女婿であったため命を助けられ、高野山に籠居させられ、「見性斎」と称しました。1591年(天正19)に赦免され、1万石を与えられ大名として復活したものの、同年11月4日に大坂において、数え年30歳で病死しています。

〇北条氏直関係略年表(日付は旧暦です)

・1562年(永禄5年) 北条氏政の次男(母は武田信玄の娘・黄梅院)として小田原城で生まれる
・1568年(永禄11年)末 武田氏の駿河侵攻が行われ、母である黄梅院は父と離縁させられ、実家の武田家に戻される
・1569年(永禄12年) 母である黄梅院が病死する
・1569年(永禄12年5月) 父・氏政に身を寄せる今川氏真の養子となる
・1571年(元亀2年) 祖父が亡くなり父・氏政が当主となり、武田との甲相同盟が回復する
・1577年(天正5年3月) 元服し、古河公方・足利義氏にはじめて書状を送る
・1577年(天正5年11月) 常陸の小田城に梶原政景を攻め初陣を飾る
・1580年(天正8年8月19日) 父・氏政の隠居により家督を継いで後北条家の第5代当主となる
・1581年(天正9年) 代替り検地にかえて段銭の増徴を行う
・1581年(天正9年) 叔父・武田勝頼と三島で戦ったが、決着はつかずに終わる
・1582年(天正10年3月) 信長の侵攻で勝頼などが討死して武田氏が滅亡する
・1582年(天正10年6月19日) 神流川の戦いで氏直本軍が滝川一益軍に勝利する
・1582年(天正10年8月) 徳川家康と甲斐の若神子で対陣する
・1582年(天正10年10月27日) 上野は氏直、甲斐・信濃は家康が領有し、家康の娘が氏直に嫁ぐことで両軍の和睦・同盟が成立する
・1583年(天正11年8月15日) 家康の娘・督姫が氏直に嫁ぐ
・1587年(天正15年) 豊臣秀吉に対抗するため軍備増強に務める
・1588年(天正16年8月) 家康の仲介も受けて、叔父の北条氏規を上洛させて秀吉との交渉に臨む
・1589年(天正17年) 秀吉の沼田裁定による沼田城受取後に、猪俣邦憲による真田昌幸の支城・名胡桃城奪取事件が起きる
・1590年(天正18年) 秀吉による小田原征伐が開始される
・1590年(天正18年7月5日) 秀吉に降伏したが、助命される
・1590年(天正18年7月11日) 父・氏政と叔父・氏照が切腹する
・1590年(天正18年8月12日) 高野山に入り、高室院で謹慎生活を送り、「見性斎」と称する
・1591年(天正19年2月) 氏直に対して秀吉から家康に赦免が通知される
・1591年(天正19年5月上旬) 大坂で旧織田信雄邸を与えられる
・1591年(天正19年8月19日) 秀吉と対面し正式に赦免と河内及び関東において1万石を与えられ大名として復活する
・1591年(天正19年11月4日) 大坂において、数え年30歳で病死する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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2000年(平成12)宮城県上高森遺蹟等で発見の前期旧石器が捏造と判明(旧石器捏造事件の発覚)詳細
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 今日は、安土桃山時代の1598年(慶長3)に、武将・大名・天下人豊臣秀吉が亡くなった日ですが、新暦では9月18日となります。
 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)は、1537年(天文6)に、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)の百姓で織田信秀の足軽だった父・木下弥右衛門、母・なか(天瑞院)の子として生まれましたが、幼名は日吉丸と言いました。7歳のときに父を亡くし、母は秀吉と姉ひとりを抱え信秀の同朋衆竹阿弥と再婚します。
 1551年(天文20)元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文をもって家出、行商ののち、今川氏の家臣松下之綱、次いで1554年(天文23)18歳のとき、尾張清洲城主であった織田信長に小者として仕えました。1561年(永禄4)に浅野長勝の養女おね(杉原定利の女)と結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗るようになります。
 清洲城普請、墨俣築城、京都警備などで活躍し、1570年(元亀元)の姉川の戦い、小谷城の攻略などで戦功を上げました。1573年(天正元)には、羽柴藤吉郎秀吉と名のり、浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となって、近江長浜に築城します。
 1577年(天正5)に中国征伐の将として毛利氏と対戦しますが、1582年(天正10)に信長が明智光秀のために本能寺の変で横死すると、山崎の戦いで明智光秀を破り、次いで柴田勝家を倒して、信長の後継者としての地位を獲得しました。1583年(天正11)に大坂城を築城、四国・九州を征し、徳川家康を臣従させ、1590年(天正18)には小田原北条氏を滅ぼして天下統一を完成します。
 この間、1585年(天正13)に関白、翌年に太政大臣となり、豊臣の姓を賜りました。1591年(天正19)には関白を養子秀次に譲り太閤と称し、1592年(文禄元)と1597年(慶長2)の2度朝鮮に出兵しますが失敗します。
 貨幣統一、兵農分離、太閤検地、石高制等の施行によって幕藩体制の基礎をつくったとされますが、1598年(慶長3年8月18日)に伏見城において、数え年63歳で亡くなりました。

〇豊臣秀吉関係略年表(日付は旧暦です)

・1537年(天文6年正月元日?) 尾張国愛知郡中村で織田信長の足軽木下弥右衛門の子として生まれる
・1543年(天文12年) 秀吉7歳のとき、父弥右衛門が病死する
・1551年(天文20年) 元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文をもって家出する
・1554年(天文23年) 18歳のとき、尾張清洲の城主であった織田信長に小者として仕えた
・1561年(永禄4年) 弓の衆浅野長勝の養女おね(杉原定利の女)と結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗る
・1566年(永禄9年) 濃尾国境に位置する墨俣(岐阜県大垣市)に築城し、美濃攻略の拠点を確保した功により部将に取り立てられる
・1568年(永禄11年9月) 信長が足利義昭を擁して上洛すると、京都の奉行の一人として活動する
・1570年(元亀元年) 姉川の戦い、小谷城の攻略などで戦功をたてる
・1573年(天正元年7月) 木下を改め羽柴 藤吉郎秀吉と名のる
・1573年(天正元年8月) 浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となる
・1575年(天正3年) 越前一向一揆攻めで活躍する
・1575年(天正3年12月) 筑前守に任じられる
・1577年(天正5年) 播磨に出陣して姫路城に本拠を置く
・1582年(天正10年) 備中に出兵し、清水宗治の拠る高松城に迫って水攻めにする
・1582年(天正10年6月2日) 信長が明智光秀のために本能寺の変で横死する
・1582年(天正10年6月13日) 光秀を山崎の戦いで破る
・1582年(天正10年6月27日) 清須会議が行われる
・1583年(天正11年) 秀吉打倒を策する信長の三男信孝、滝川一益に対し、美濃・伊勢に出兵して攻める
・1583年(天正11年) 柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、越前に攻め入って北庄城の柴田氏を滅ぼす
・1583年(天正11年) 滝川一益を降して尾張・伊勢を支配下に入れる
・1584年(天正12年) 信雄・徳川家康の連合軍と小牧・長久手の戦いをする
・1584年(天正12年11月) 従三位・権大納言となる
・1585年(天正13年) 信雄・家康に呼応して蜂起した紀伊根来・雑賀の一揆を討伐する
・1585年(天正13年) 四国征伐を行って長宗我部氏を降す
・1585年(天正13年3月) 正二位・内大臣となる
・1585年(天正13年) 徳川家康に対しては、実妹(旭姫)を嫁がせる
・1585年(天正13年7月) 近衛龍山の猶子として関白・従一位となる
・1586年(天正14年) 徳川家康を臣従させる
・1586年(天正14年12月) 太政大臣となり、豊臣の姓を賜る
・1587年(天正15年) 九州征伐を行って島津氏を降し、九州の国割りを行うとともに、博多・長崎を直轄化する
・1587年(天正15年) キリシタン禁令を発する
・1587年(天正15年9月13日) 聚楽第が完成する
・1587年(天正15年10月1日) 茶頭千利休の演出のもとで、庶民を集めて北野大茶湯を催す
・1588年(天正16年) 聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぐ
・1590年(天正18年) 小田原征伐を行って北条氏を滅ぼし、さらに奥州を平定して、天下統一を成し遂げる
・1591年(天正19年) 側室淀殿との間にもうけた愛児鶴丸を喪う
・1591年(天正19年8月) 関白職を甥の秀次に譲り、自らは太閤と称する
・1591年(天正19年) 全国に御前帳を作成して提出することを命じて、国ごとの石高の把握する
・1592年(文禄元年) 関白秀次により人掃令が出され、全国の家数・人数の調査が行われる
・1592年(文禄元年) 諸大名に朝鮮出兵の軍令を下して征明軍16万人を編成し、自らも肥前名護屋の本陣に赴き、総指揮にあたる(文禄の役)
・1593年(文禄2年) 側室淀殿に実子秀頼が生まれる
・1594年(文禄3年8月) 伏見城が完成し、秀吉が入城する 
・1595年(文禄4年7月) 秀次を謀反人として切腹せしめ、妻妾子女悉くを処刑する
・1597年(慶長2年) ふたたび朝鮮出兵となる(慶長の役)
・1598年(慶長3年) 醍醐の花見を行なう
・1598年(慶長3年8月5日) 五大老に幼い秀頼の将来のことを訴えた遺言状を認める
・1598年(慶長3年8月18日) 伏見城において、数え年63歳で亡くなる
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 今日は、南北地用時代の1338年(暦応元/延元3)に、御家人・武将新田義貞の亡くなった日ですが、新暦では8月17日となります。
 新田義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代の1301年(正安3)に、上野国新田荘(現在の群馬県太田市周辺)を拠点とする豪族新田朝氏(朝兼)の長子として生まれましたが、小太郎とも言いました。1318年(文保2)に父が亡くなり、家督を継いで新田一族の惣領となります。
 1332年(正慶元/元弘2)に河内(現在の大阪府)の楠木正成攻めの鎌倉幕府の動員令に応じましたが、護良親王の令旨をうけたため、病気を理由に途中で帰国しました。翌年討幕の兵を挙げ、関東各地の反幕府勢力を糾合し、鎌倉街道を武蔵に進撃します。
 小手指原(現在の埼玉県所沢市)・分倍河原(現在の東京都府中市)の合戦に勝ち、同年5月22日鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府を滅ぼしました。その功により、後醍醐天皇の建武新政では、越後守・上野介などや武者所頭人に任ぜられ、左兵衛佐(のちに左近衛中将)、従四位上の官位を得ます。
 やがて、足利尊氏と激しく対立するようになり、翌年の中先代 の乱を機に足利尊氏が建武政府にそむくと、関東に下った尊氏を追撃しました。箱根竹ノ下の戦いには敗れたものの、その直後、上洛した尊氏を迎撃、京都合戦で勝利を収めて、一時は尊氏を九州に敗走させます。
 しかし、1336年(延元元/建武3)に再起した尊氏に兵庫で敗れて、京都を占領されると、恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠ります。落城前に脱出して再挙をはかりますが、1338年(暦応元/延元3年閏7月2日)に、斯波高経との藤島の戦い(現在の福井県足羽郡藤島)において、数え年38歳で討ち死にしました。

〇新田義貞関係略年表(日付は旧暦です)

・1301年(正安3年) 上野国新田荘を拠点とする豪族新田朝氏(朝兼)の長子として生まれる
・1318年(文保2年) 父が亡くなり、家督を継いで新田一族の惣領となる
・1332年(正慶元/元弘2年) 河内(現在の大阪府)の楠木正成攻めの鎌倉幕府の動員令に応じる
・1333年(正慶2/元弘3年) 護良親王の令旨をうけたため、病気を理由に途中で帰国する
・1333年(正慶2/元弘3年5月8日) 討幕の兵を挙げ、鎌倉街道を武蔵に進撃する
・1333年(正慶2/元弘3年5月11日) 小手指原(現在の埼玉県所沢市)の合戦に勝利する
・1333年(正慶2/元弘3年5月15日) 分倍河原(現在の東京都府中市)の合戦に勝利する
・1333年(正慶2/元弘3年5月22日) 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府を滅ぼす
・1333年(正慶2/元弘3年8月5日) 従四位上に叙され、左馬助に任官する
・1333年(正慶2/元弘3年10月) 播磨守となる
・1334年(正慶3/建武元年11月) 中先代 の乱を機に足利尊氏が建武政府にそむくと、関東に下った尊氏を追撃する
・1334年(正慶3/建武元年12月) 箱根竹ノ下の戦いには敗れる
・1335年(正慶4/建武2年1月) 上洛した尊氏を迎撃し、京都合戦で勝利を収める
・1336年(延元元/建武3年5月25日) 再起した尊氏に湊川の戦いで敗れて、楠木正成が戦死する
・1336年(延元元/建武3年5月29日) 尊氏方に京都を占領される
・1336年(延元元/建武3年10月13日) 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る
・1338年(延元3/暦応元年3月6日) 越前金ケ崎城が陥落する
・1338年(延元3/暦応元年閏7月2日) 斯波高経との藤島の戦いにおいて、数え年38歳で討ち死にする
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 今日は、安土桃山時代の1571年(元亀2)に、戦国武将・大名毛利元就の亡くなった日ですが、新暦では7月6日となります。
 毛利元就(もうり もとなり)は、戦国時代の1497年(明応6年3月14日)に、室町幕府御家人で安芸郡山城主(現在の広島県安芸高田市吉田町)だった毛利弘元の次男(母は福原広俊の娘)として生まれましたが、幼名は松寿丸と言いました。
 1501年(文亀元)には実母が死去、1506年(永正3)には10歳で父・弘元を亡くします。長兄・興元が家督を継いでいましたが、1516年(永正13)の興元急死後、家督は甥の幸松丸に譲られるなど不遇な時代を過ごします。
 しかし、1523年(大永3)に幸松丸の夭折により老臣に擁立されて家督を継ぎ、安芸郡山城主となりました。初めは出雲の尼子晴久に属していましたが、1525年(大永5)以降は尼子氏と絶って、周防大内氏に属します。
 1529年(享禄2)に安芸石見国人領主連合を率いていた高橋氏を滅ぼし、その位置を継承しました。1540年(天文9)には、尼子晴久の大軍に郡山城を包囲されましたが、籠城戦の末に翌年これを撃退、さらに安芸守護家の武田氏を滅亡させて、広島湾に進出します。
 1546年(天文15)に長男隆元に家督を譲って隠居しましたが、その後見として実権は放さず、1550年(天文19)に三男隆景を小早川氏の嗣とし、次男元春を吉川家督に据えて芸備支配を磐石としました。1551年(天文20)に大内義隆がその家臣陶晴賢に殺されると、いったん晴賢に従ったものの、1555年(弘治元)の厳島の戦で晴賢を破り、周防・長門・安芸の三国を支配下に置きました。
 1557年(弘治3)には陶の傀儡主大内義長(大友宗麟の弟)を山口に滅亡させ、さらに1566年(永禄9)には出雲富田城の尼子義久を降伏させます。その領国は山陰、山陽の10ヶ国と九州、四国の一部をも服務一大勢力を形成しましたが、1571年(元亀2年6月14日)に安芸郡山城において、数え年75歳で亡くなっています。

〇毛利元就関係略年表(日付は旧暦です)

・1497年(明応6年3月14日) 安芸郡山城主の毛利弘元の次男(母は福原広俊の娘)として生まれる
・1500年(明応9年3月) 父・弘元が隠居し、嫡男の毛利興元に家督を譲る
・1501年(文亀元年12月) 実母(福原広俊の娘)が死去
・1506年(永正3年1月) 10歳で父・弘元を亡くす
・1511年(永正8年8月) 元服して、多治比(丹比)元就を名乗って分家を立てる
・1516年(永正13年) 長兄・興元が急死し、家督は甥幸松丸に譲られる
・1523年(大永3年) 幸松丸の夭折により老臣に擁立されて家督を継ぎ、安芸郡山城主となる
・1525年(大永5年3月) 尼子氏と絶って、周防大内氏に属する
・1529年(享禄2年) 安芸石見国人領主連合を率いていた高橋氏を滅ぼし、その位置を継承する
・1537年(天文6年12月) 長男隆元を大内義隆へ質子として差し出す
・1540年(天文9年) 尼子晴久の大軍に郡山城を包囲される
・1541年(天文10年1月) 籠城戦の末に尼子晴久軍を撃退する
・1541年(天文10年5月) 安芸守護家の武田氏を滅亡させて、広島湾に進出する
・1542年(天文11年) 翌年にかけて大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いに従軍する
・1546年(天文15年12月) 長男隆元に家督を譲って隠居し、後見として実権は握る
・1550年(天文19年7月) 重臣井上氏一族誅伐を契機に家中支配権を確立する
・1550年(天文19年) 三男隆景を小早川氏の嗣とし、次男元春を吉川家督に据える
・1551年(天文20年9月) 大内義隆がその家臣陶晴賢に殺されると、いったん晴賢に従う
・1553年(天文22年) 石見の吉見正頼の反陶蜂起に呼応して、晴賢と断交する
・1555年(弘治元年10月) 厳島の戦で晴賢を破り、周防・長門・安芸の三国を支配下に置く
・1557年(弘治3年4月) 陶の傀儡主大内義長(大友宗麟の弟)を山口に滅亡させる
・1557年(弘治3年11月) 毛利隆元・吉川元春・小早川隆景の三子に結束を説いた教訓状を書く
・1566年(永禄9年11月) 出雲富田城の尼子義久を降伏させる
・1571年(元亀2年6月14日) 安芸郡山城において、数え年75歳でなくなる
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