
1350年(正平5/観応元)から翌年にかけて、父の名代として阿波に派遣され、南朝方と戦いました。1352年(正平7/文和元)に、父・頼春が京都で討ち死にすると阿波守護を継承し、1354年(正平9/文和3)には、伊予守護も兼ねます。
1356年(正平11/延文元)に中国管領となって足利直冬党を追討、1358年(正平13/延文3)に足利尊氏がなくなって、義詮が第2代将軍となり、従兄細川清氏が執事に就任しました。しかし、1362年(正平17/貞治元)に、幕命により従兄の前幕府執事細川清氏を讃岐に討ち取り、一族の分立を淘汰して讃岐・土佐守護を兼ねます。
1367年(正平22/貞治6)に第2代将軍義詮の遺命により、幕府の管領となって幼少の第3代将軍義満を助けることとなり、翌年には公家や寺社の荘園を保護する半済令(応安大法)を施行しました。1369年(正平24/応安2)に、楠木正儀を足利方に寝返らせる工作に成功、翌年には、今川貞世が九州探題に任じて懐良親王(後醍醐天皇の皇子)の軍勢を駆逐し、南朝勢力に大打撃を与えます。
ところが、斯波義将らの諸大名の反発を招き、1379年(天授5/康暦元)に失脚し、剃髪して四国に下り(康暦の政変)、1381年(弘和元/永徳元)には、通堯の遺児通義と和睦し、分国統治を進めました。1389年(元中6/康応元)に第3代将軍義満の厳島神社参詣の折には、船舶の提供を手配し、讃岐の宇多津で赦免され、翌年には、備後守護となって山名時煕の反乱を討ちます。
1391年(元中8/明徳2)に斯波義将が義満と対立して管領を辞任したことを機に、管領に就任した細川頼元を後見してふたたび幕政に参画、明徳の乱の鎮定に殊功を収めたものの、1392年(元中9/明徳3年3月2日)には、病気によって数え年64歳で亡くなりました。尚、歌や連歌の素養もあり、『新千載和歌集』他に13首が掲載されていますし、失脚して四国に落ちていく際に詠んだ漢詩「海南行」も有名です。