ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:武将

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 今日は、南北朝時代の1392年(元中9/明徳3)に、武将・守護大名・室町幕府管領細川頼之の亡くなった日ですが、新暦では3月25日となります。
 細川頼之(ほそかわ よりゆき)は、鎌倉時代末期の1329年(元徳元)に、三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町)で、阿波守護・侍所頭人だった父・細川頼春と母・黒沢禅尼の息子として生まれましたが、幼名は弥九郎と言いました。父・頼春は、元弘の変より足利尊氏に従い、鎌倉幕府を倒すのに貢献し、建武政権では蔵人となります。
 1350年(正平5/観応元)から翌年にかけて、父の名代として阿波に派遣され、南朝方と戦いました。1352年(正平7/文和元)に、父・頼春が京都で討ち死にすると阿波守護を継承し、1354年(正平9/文和3)には、伊予守護も兼ねます。
 1356年(正平11/延文元)に中国管領となって足利直冬党を追討、1358年(正平13/延文3)に足利尊氏がなくなって、義詮が第2代将軍となり、従兄細川清氏が執事に就任しました。しかし、1362年(正平17/貞治元)に、幕命により従兄の前幕府執事細川清氏を讃岐に討ち取り、一族の分立を淘汰して讃岐・土佐守護を兼ねます。
 1367年(正平22/貞治6)に第2代将軍義詮の遺命により、幕府の管領となって幼少の第3代将軍義満を助けることとなり、翌年には公家や寺社の荘園を保護する半済令(応安大法)を施行しました。1369年(正平24/応安2)に、楠木正儀を足利方に寝返らせる工作に成功、翌年には、今川貞世が九州探題に任じて懐良親王(後醍醐天皇の皇子)の軍勢を駆逐し、南朝勢力に大打撃を与えます。
 ところが、斯波義将らの諸大名の反発を招き、1379年(天授5/康暦元)に失脚し、剃髪して四国に下り(康暦の政変)、1381年(弘和元/永徳元)には、通堯の遺児通義と和睦し、分国統治を進めました。1389年(元中6/康応元)に第3代将軍義満の厳島神社参詣の折には、船舶の提供を手配し、讃岐の宇多津で赦免され、翌年には、備後守護となって山名時煕の反乱を討ちます。
 1391年(元中8/明徳2)に斯波義将が義満と対立して管領を辞任したことを機に、管領に就任した細川頼元を後見してふたたび幕政に参画、明徳の乱の鎮定に殊功を収めたものの、1392年(元中9/明徳3年3月2日)には、病気によって数え年64歳で亡くなりました。尚、歌や連歌の素養もあり、『新千載和歌集』他に13首が掲載されていますし、失脚して四国に落ちていく際に詠んだ漢詩「海南行」も有名です。

〇「海南行」(かいなんこう)

<原文>
 人生五十愧無功
 花木春過夏已中
 満室蒼蝿掃難尽
 去尋禅榻臥清風

<書き下し文>
 人生五十功無きを愧(は)ず
 花木(かぼく)春過ぎて夏已(すで)に中ばなり
 満室の蒼蝿(そうよう)掃(はら)えども去り難し
 起って禅榻(ぜんとう)を尋ねて清風に臥(が)せん

<現代語訳>
 人生50にもなって、何の功績もないのが恥ずかしい。
 花や木は、春が過ぎ去り、夏は既に半ばになっている。
 部屋中に青蠅が飛び交っており、いくら追い払っても逃げ去らない。
 座禅に使う腰掛をもってきて、清らかな風の吹くところで寝転がろうか。

〇『太平記』巻第四十 

細河右馬頭自西国上洛事

爰に細河右馬頭頼之、其比西国の成敗を司て、敵を亡し人をなつけ、諸事の沙汰の途轍、少し先代貞永・貞応の旧規に相似たりと聞へける間、則天下の管領職に令居、御幼稚の若君を可奉輔佐と、群議同赴に定りしかば、右馬頭頼之を武蔵守に補任して、執事職を司る。外相内徳げにも人の云に不違しかば、氏族も是を重んじ、外様も彼命を不背して、中夏無為の代に成て、目出かりし事共也。

☆細川頼之関係略年表(日付は旧暦です)

・1329年(元徳元年) 三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町)で、父・細川頼春と母・黒沢禅尼の息子として生まれる
・1350年(正平5/観応元年) 父の名代として阿波にある南朝方と戦う
・1352年(正平7/文和元年) 父・頼春が京都で討ち死にすると阿波守護を継ぐ
・1354年(正平9/文和3年) 伊予守護を兼ねる
・1356年(正平11/延文元年) 中国管領となって足利直冬党を追討する
・1358年(正平13/延文3年) 足利尊氏がなくなって、義詮が第2代将軍となり、従兄細川清氏が執事に就任する
・1362年(正平17/貞治元年) 従兄の前幕府執事細川清氏を幕命により讃岐に討ち取り、一族の分立を淘汰して讃岐・土佐守護を兼ねる
・1367年(正平22/貞治6年) 室町幕府第2代将軍義詮の遺命により、幕府の管領となって幼少の将軍義満を助ける
・1368年(正平23/応安元年) 公家や寺社の荘園を保護する半済令(応安大法)を施行、武蔵守となる
・1369年(正平24/応安2年) 楠木正儀を足利方に寝返らせる工作に成功する
・1370年(建徳元/応安3年) 今川貞世が九州探題に任じて懐良親王(後醍醐天皇の皇子)の軍勢を駆逐する
・1371年(建徳2/応安4年) 相模守となる
・1379年(天授5/康暦元年) 失脚し、剃髪して四国に下る(康暦の政変)
・1381年(弘和元/永徳元年) 通堯の遺児通義と和睦し、分国統治を進める
・1389年(元中6/康応元年) 義満の厳島神社参詣の折には船舶の提供を手配し、讃岐の宇多津で赦免される
・1390年(元中7/明徳元年) 備後守護となって山名時煕の反乱を討つ
・1391年(元中8/明徳2年) 斯波義将が義満と対立して管領を辞任したことを機に、管領に就任した細川頼元を後見してふたたび幕政に参画し、明徳の乱の鎮定に殊功を収める
・1392年(元中9/明徳3年3月2日) 病気によって数え年64歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

959年(天徳3)第64代の天皇とされる円融天皇の誕生日(新暦4月12日)詳細
1886年(明治19)「帝国大学令」が公布される詳細
1899年(明治32)北海道アイヌの「保護」を名目として、「北海道旧土人保護法」が公布(同年4月1日施行)される詳細
1943年(昭和18)敵性語をやめ、野球用語も全面日本語化することを職業野球の理事会で決定する詳細
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 今日は、鎌倉時代の1264年(文永元)に、武将・鎌倉幕府第6代執権北条長時の亡くなった日ですが、新暦では9月12日となります。
 北条長時(ほうじょう ながとき)は、1230年(寛喜2年)に、六波羅探題北方・鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任した父・北条重時の次男(母は平時親の娘)として生まれましたが、1235年(嘉禎元)に、異母兄の為時が疱瘡にかかって重篤となって廃嫡され、嫡男とされました。1245年(寛元3)に従五位下に叙し、左近衛将監に任官、1247年(宝治元)には、北条時盛の娘と結婚します。
 1247年(宝治元)に宝治合戦が起きると、父・重時は第5代執権で娘婿の北条時頼を補佐するため鎌倉に下向、そのあと幕府の六波羅探題北方となり、宗尊親王の将軍就任にも活躍しました。1256年(建長8)に六波羅探題を退き、鎌倉へ下向して、引退した父のあとを受けて、幕府評定衆となり、武蔵守に転任します。
 同年に執権北条時頼が出家、あとをつぐ時宗が幼少だったため第6代執権に就任しました。1258年(正嘉2)に従五位上に昇叙し、1260年(正嘉4年)には、赤痢のため病床に付していた宗尊親王の代理として鶴岡放生会に参列します。
 1261年(弘長元)に父・北条重時が亡くなり、病魔にも侵されるようになって、翌年に奈良西大寺の叡尊が鎌倉下向したとき、母・妻と共に受戒しました。1264年(文永元)に病により執権職を辞任して出家しましたが、同年8月21日に、相模国鎌倉泉ヶ谷浄光明寺において数え年35歳で亡くなっています。
 尚、歌人としても知られ、勅撰集に12首の歌が採録されました。

〇北条長時関係略年表(日付は旧暦です)

・1230年(寛喜2年) 父・北条重時の次男(母は平時親の娘)として生まれる
・1235年(嘉禎元年10月) 異母兄の為時が疱瘡にかかって重篤となって廃嫡され、嫡男とされる
・1245年(寛元3年3月29日) 従五位下に叙し、左近衛将監に任官する
・1247年(宝治元年春) 北条時盛の娘と結婚する
・1247年(宝治元年6月) 宝治合戦が起きる 
・1247年(宝治元年7月18日) 父・重時のあと幕府の六波羅探題北方となる
・1256年(建長8年3月29日、3月20日) 六波羅探題を退任する
・1256年(建長8年6月) 引退した父のあとを受けて、幕府評定衆となる
・1256年(建長8年7月20日) 武蔵守に転任する
・1256年(建長8年11月22日) 鎌倉幕府の第6代執権執権と就る
・1258年(正嘉2年12月14日) 従五位上に昇叙、武蔵守如元
・1260年(正嘉4年) 赤痢のため病床に付していた宗尊親王の代理として鶴岡放生会に参列する
・1261年(弘長元年11月3日) 父・北条重時が亡くなる
・1262年(弘長2年) 奈良西大寺の叡尊が鎌倉下向のとき、母・妻と受戒する
・1264年(文永元年7月3日) 病により執権職を辞任して出家する
・1264年(文永元年8月21日) 相模国鎌倉泉ヶ谷浄光明寺において数え年35歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1862年(文久2)生麦事件が起きる(新暦9月14日)詳細
1877年(明治10)東京の上野公園で第1回内国勧業博覧会が開会される詳細
1909年(明治42)数学者・教育家遠山啓の誕生日詳細


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 今日は、江戸時代前期の1615年(慶長20)に、武将・大名・茶人・織部流茶道の祖古田重然(織部)が豊臣方内通の罪に問われ自刃した日ですが、新暦では7月6日となります。
 古田重然(ふるた しげなり)は、1544年(天文13年)に、美濃国(現在の岐阜県)において、古田勘阿弥(重定)の子として生まれたとされますが、通称は左介と言いました。後に伯父・重安の養子となったといわれ、守護大名土岐氏に属していたものの、1567年(永禄9)の織田信長の美濃進駐時までに織田氏の家臣として仕えたとされます。
 1568年(永禄10)の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加、翌年には摂津茨木城主・中川清秀の妹・仙と結婚しました。1576年(天正4)に山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となり、1578年(天正6)には、織田信忠の播磨神谷城攻めに使番として手柄を立てます。
 1578年(天正6)に荒木村重が謀反(有岡城の戦い)を起こした際には、義兄の中川清秀を織田方に引き戻すのに成功、1582年(天正10)頃から千利休と親交を始めて茶を学び、利休七哲の一人とされました。本能寺の変で信長死後は秀吉に仕え、山崎の戦いの前に中川清秀に秀吉へ人質を出すことを認めさせたと言われ、翌年の伊勢亀山城の滝川一益攻め、続く賤ヶ岳の戦いで軍功をあげ、中川清秀戦死に際し、子の秀政の後見を委ねられます。
 1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いに出陣、翌年の紀州征伐、四国平定にも中川秀政と共に出陣しました。1585年(天正13)に、秀吉が関白になると、従五位下織部正に叙任され、京都西岡に3万5千石をを与えられ、中川秀政の後見を免ぜられます。
 1587年(天正15)の九州征伐に参加、1590年(天正18)の小田原征伐にも従い、1591年(天正19)に千利休が堺に蟄居を命ぜられたとき、これを細川三斎(忠興)と淀の舟本で見送りました。1592年(文禄元)の文禄の役には肥前(現在の佐賀県)名護屋に下りましたが、1598年(慶長3)の秀吉没後は徳川家康に仕えます。
 1600年(慶長5)の関ヶ原の合戦には徳川方(東軍)に属して活躍し、その恩賞として1万石の大名となりました。1603年(慶長8)から8年間、小堀遠州に茶の湯を伝授(慶長伝授)、1610年(慶長15)には、江戸城で将軍秀忠に茶の湯指南にあたります。
 大名茶を確立し織部流茶道の祖とされ、陶芸の面では織部陶の名を後世に伝えましたが、1615年(慶長20)の大坂夏の陣で、大坂方に通じたとされて罪に問われ、同年6月11日に、伏見木幡の屋敷において、数え年73歳で自刃しました。

〇古田重然(織部)関係略年表(日付は旧暦です)

・1544年(天文13年) 美濃国(現在の岐阜県)において、古田勘阿弥(重定)の子として生まれる
・1567年(永禄9年) 織田信長の美濃進駐時に織田氏の家臣として仕えたとされる
・1568年(永禄10年) 信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加する
・1569年(永禄11年) 摂津茨木城主・中川清秀の妹・仙と結婚する
・1576年(天正4年) 山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となる
・1578年(天正6年7月) 織田信忠の播磨神谷城攻めに使番として手柄を立てる
・1578年(天正6年11月) 荒木村重が謀反(有岡城の戦い)を起こした際には、義兄の中川清秀を織田方に引き戻すのに成功する
・1582年(天正10年) 千利休と親交を始める
・1583年(天正11年1月) 伊勢亀山城の滝川一益を攻める
・1583年(天正11年4月) 賤ヶ岳の戦いで軍功をあげる
・1584年(天正12年) 小牧・長久手の戦いに出陣する
・1585年(天正13年) 紀州征伐、四国平定にも中川秀政と共に出陣する
・1585年(天正13年7月) 従五位下織部正に叙任され、京都西岡に3万5千石をを与えられる
・1585年(天正13年9月) 中川秀政の後見を免ぜられる
・1587年(天正15年) 九州征伐に参加する
・1590年(天正18年) 小田原征伐に従う
・1591年(天正19年2月) 千利休が堺に蟄居を命ぜられたとき、これを細川三斎(忠興)と淀の舟本で見送る
・1592年(文禄元年) 文禄の役には肥前(佐賀県)名護屋に下る
・1598年(慶長3年) 秀吉没後は徳川家康に仕える
・1600年(慶長5年9月) 関ヶ原の合戦には徳川方に属して活躍し、その恩賞として1万石の大名となる
・1603年(慶長8年) 以後8年間、小堀遠州に茶の湯を伝授する(慶長伝授)
・1610年(慶長15年) 江戸城で将軍秀忠に茶の湯指南にあたる
・1615年(慶長20年6月11日) 大坂夏の陣に大坂方に通じたとされて罪に問われ、伏見木幡の屋敷において、数え年73歳で自刃する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1951年(昭和26)産業教育振興法」が公布される詳細
1969年(昭和44)東京国立近代美術館」(現在の本館)が開館する詳細
1975年(昭和50)考古学者宮坂英弌の命日詳細


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 今日は、室町時代の1473年(文明5)に、武将・守護大名・室町幕府管領細川勝元の亡くなった日ですが、新暦では6月6日となります。
 細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代の1430年(永享2)に守護大名で第14代室町幕府管領となった細川持之の嫡男(母は京極高光の娘)として生まれましたが、幼名は聡明丸と言いました。1442年(嘉吉2)の13歳の時、父・持之が亡くなり、細川家宗家・京兆家当主となり、摂津、丹波、讃岐、土佐の守護を兼任、従五位下右京大夫に叙任され、7代将軍足利義勝の名を一字を賜り、勝元と名乗ります。
 幼少のため叔父細川持賢がこれを後見し、1445年(文安2)の16歳の時、畠山持国(徳本)に代わって、室町幕府の第16代管領に就任しました。同年に近江で反乱を起こした六角時綱を時綱の弟久頼と京極持清に鎮圧させ、1447年(文安4)には、調和を図って山名持豊(宗全)の養女を正室に迎えています。
 1449年(文安6)に従四位下に昇叙、武蔵守を兼任しましたが、同年に管領を辞任し、畠山持国に替わりました。一方、禅に傾倒し、1450年(宝徳2)に京都に竜安寺、1452年(享徳元)に丹波に竜興寺を創建しています。
 1452年(享徳元)に幕府の管領に再度就任し、翌年に伊予守護職問題に介入、1455年(享徳4)には一時伊予守護を兼任しました。持豊と結び、1460年(寛正元)に畠山義就を失脚させたりしたものの、赤松家再興問題で持豊と対立するようになり、1464年(寛正5)には、再び管領を辞任し、弟の政長と交替します。
 1466年(文正元)に実子政元の誕生後、養子の豊久(山名持豊の子)を廃嫡して仏門に入れたり、足利義政と正室の日野富子に息子の義尚が誕生して足利将軍家でも将軍後継者をめぐって争いが始まりました。将軍家の跡目を巡って勝元が足利義視を、持豊が足利義尚を支援したことは、1467年(応仁元)に応仁の乱が起こる一因となります。
 将軍足利義政をはじめ後土御門天皇、後花園天皇を奉じ、主に京都東北に陣取り、十余万の兵を率いる東軍総帥となり、持豊の率いる西軍と戦いました。翌年に三度目の管領に就任しましたが、戦いは全国規模の長期戦となり、膠着状態が続き、1473年(文明5)の3月に山名持豊(宗全)が病死する中、同年5月11日に、陣中において、数え年44歳で亡くなっています。
 尚、和歌・書画・鷹狩・犬追物などを好み、医学に通じ医書『霊蘭集』を著すなど、多方面に長けていました。

〇細川勝元関係略年表(日付は旧暦です)

・1430年(永享2年) 守護大名で第14代室町幕府管領となった細川持之の嫡男(母は京極高光の娘)として生まれる
・1442年(嘉吉2年8月) 13歳の時、父・持之が亡くなり、細川家宗家・京兆家当主となり、摂津、丹波、讃岐、土佐の守護を兼任、従五位下右京大夫に叙任され、7代将軍足利義勝の名を一字を賜り、勝元と名乗る
・1445年(文安2年3月24日) 16歳の時、畠山持国(徳本)に代わって、室町幕府の管領に就任する
・1445年(文安2年) 近江で反乱を起こした六角時綱を時綱の弟久頼と京極持清に鎮圧させる
・1447年(文安4年) 山名持豊(宗全)の養女を正室に迎える
・1449年(文安6年4月14日) 従四位下に昇叙、武蔵守を兼任する
・1449年(文安6年9月5日) 管領を辞任し、畠山持国に替わる
・1450年(宝徳2年) 主君である和泉守護細川常有(細川元有の父)と対立して持国と古市胤仙を頼った守護代宇高有光が殺害される事件が起こる
・1450年(宝徳2年) 京都に竜安寺を創建させる
・1451年(宝徳3年) 兵庫津に入港していた琉球商船の押し取った物を返さないという事件か起きる
・1452年(享徳元年) 丹波に竜興寺を建てる
・1452年(享徳元年12月23日) 幕府の管領に再度就任する
・1455年(享徳4年) 伊予守護となる
・1458年(長禄2年) 赤松家再興問題が起きる
・1460年(寛正元年) 畠山義就を失脚させる
・1464年(寛正5年11月13日) 管領を辞任し、弟の政長と交替する
・1466年(文正元年) 実子政元の誕生後、豊久を廃嫡して仏門に入れる
・1466年(文正元年) 足利義政と正室の日野富子に息子の義尚が誕生して足利将軍家でも将軍後継者をめぐって争いが始まる
・1467年(応仁元年) 応仁の乱が起こり、東軍総帥となり、持豊の率いる西軍と戦う
・1468年(応仁2年7月10日) 管領に三度目の就任をする
・1468年(応仁2年閏10月) 足利義政が伊勢貞親を復職させると、足利義尚を支持、宗全が足利義視を支持する立場に変わる
・1471年(文明3年) 西軍の部将朝倉孝景を越前守護に任じて寝返らせる
・1472年(文明4年) 宗全に和平交渉を試みるが、決裂する
・1473年(文明5年3月) 山名持豊(宗全)が病死する
・1473年(文明5年5月11日) 管領辞任、数え年44歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1183年(寿永2)倶利伽羅峠の戦い源(木曽)義仲が平氏を破る(新暦6月2日)詳細
1942年(昭和17)詩人萩原朔太郎の命日(朔太郎忌)

詳細

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 今日は、室町時代の1473年(文明5)に、室町時代の武将・守護大名山名宗全(持豊)が亡くなった日ですが、新暦では4月15日となります。
 山名宗全(やまな そうぜん)は、1404年(応永11年5月29日)に、守護大名山名時熙の三男(母は山名氏清の娘)として生まれましたが、幼名は小次郎と言いました。1413年(応永20)に10歳で元服、第4代将軍足利義持の名の一字を賜り、持豊を名乗りましたが、1420年(応永27)に長兄満時が死去し、後継問題が浮上します。
 1421年(応永28)に初陣として父の従弟に当たる因幡守護山名熙高と共に備後国人の討伐に向かい、翌年に京都へ戻りました。1431年(永享3)に次兄・持熙が足利義教の勘気を受けて廃嫡されると1433年(永享5)に父・時煕から家督を相続し、但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護大名となります。
 1435年(永享7年)に父・山名時熙が死去すると、1437年(永享9)には持豊の家督相続に不満を持った次兄・持熙が備後で挙兵したものの、これを鎮圧しました。1439年(永享11)に正四位下左衛門佐に任官、翌年に幕府侍所頭人兼山城守護となりましたが、1441年(嘉吉元)には、赤松満祐が第6代将軍足利義教を殺害する嘉吉の変が起こります。
 しかし、同年9月に持豊軍は播磨木山に満祐一族を滅ぼし、その功により満祐の旧分国播磨・備前・美作を与えられ、最大の国持ち大名となりました。1444年(文安元)に東播磨の3郡を巡って争いが起き、翌年には赤松満政を討伐し、東播磨を実力で領有します。
 1450年(宝徳2)に宗全と号を改め、南禅寺に塔頭真乗院を創建しました。1454年(享徳3)に赤松氏の出仕を巡り8代将軍足利義政と対立、翌年には赤松則尚を播磨に討っています。
 1466年(文正元年)に、斯波、畠山の内訌が激化すると畠山義就、斯波義廉に味方して、畠山政長、斯波義敏を応援した細川勝元と対立し、さらに将軍家の継嗣問題についても、日野富子の産んだ足利義尚を助けて、将軍義政の弟義視を支持する勝元らに対抗しました。これが、応仁の乱に発展し、西軍の総帥となり、東軍の総帥細川勝元と対峙します。
 しかし、1472年(文明4)に家督を政豊に譲り、翌年3月18日に、京都西陣の邸内において、数え年70歳で病死しました。

〇山名宗全(持豊)関係略年表(日付は旧暦です)

・1404年(応永11年5月29日) 室町時代の武将山名時熙の3男(母は山名氏清の娘)として生まれる
・1413年(応永20年1月) 10歳で元服、4代将軍足利義持の名の一字を賜り、持豊を名乗る
・1420年(応永27年) 長兄満時が死去し、後継問題が浮上する
・1421年(応永28年12月) 初陣として父の従弟に当たる因幡守護山名熙高(ひろたか)と共に備後国人の討伐に向かう
・1422年(応永29年) 京都へ戻る
・1428年(応永35年) 父・山名時熙が重病になり持豊を後継にしようとするが、6代将軍足利義教が自分の側近であった次兄持熙を後継に立てるように命じる
・1431年(永享3年5月) 兄・持熙が義教の勘気を受けて廃嫡される
・1433年(永享5年8月9日) 父・時煕から家督を相続し、但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護大名となる
・1435年(永享7年) 父・山名時熙が死去する
・1437年(永享9年) 持豊の家督相続に不満を持った持熙が備後で挙兵したが、これを鎮圧する
・1439年(永享11年) 正四位下左衛門佐に任官する
・1440年(永享12年) 幕府侍所頭人兼山城守護となる
・1440年(永享12年) 代官犬橋氏を改替するよう高野山側から訴えられる
・1441年(嘉吉元年6月24日) 6代将軍足利義教と共に播磨・備前・美作守護赤松満祐の屋敷を訪問したが、満祐が義教を殺害すると抵抗せずに脱出する(嘉吉の変)
・1441年(嘉吉元年7月28日) 侍所頭人を解かれる
・1441年(嘉吉元年9月) 持豊軍は播磨木山に満祐一族を滅ぼし、その功により満祐の旧分国播磨・備前・美作を与えられ、最大の国持ち大名となる
・1442年(嘉吉2年) 出家して宗峯と号する
・1443年(嘉吉3年) 嘉吉の乱で殺された山名熙貴の娘を猶子に迎えて大内教弘に嫁がせる
・1444年(文安元年) 東播磨の明石郡、美嚢郡、加東郡3郡は満祐の従弟の赤松満政が代官になっていたが、幕府に申し出てこの3郡も領有する
・1444年(文安元年10月) 不満を抱いた赤松満政が播磨へ下向する
・1445年(文安2年1月~4月) 赤松満政を討伐し、東播磨を実力で領有する
・1447年(文安4年) 熙貴の娘を幕府管領の細川勝元に嫁がせて、大内氏や細川氏と縁戚関係を結び勝元と共に畠山持国に対抗する
・1450年(宝徳2年) 宗全と号を改める
・1450年(宝徳2年4月) 南禅寺に塔頭真乗院を創建する
・1454年(享徳3年) お家騒動で足元が揺らいだ持国を失脚させることに成功する
・1454年(享徳3年11月2日) 赤松氏の出仕を巡り8代将軍足利義政と対立する
・1455年(康正元年5月) 赤松則尚を播磨に討つ
・1458年(長禄2年) 赤松政則が神璽奪回の功により赦免される
・1460年(寛正元年) 教豊と対立して教豊が播磨へ逃れる事件が発生するが、程なく和解する
・1462年(寛正3年) 次男の是豊が備後・安芸守護に任命される
・1464年(寛正5年) 山城守護も兼ねる
・1465年(寛正6年) 男子を出産した足利義政正室の日野富子は、実子の足利義尚の将軍職を望み宗全に接近する
・1466年(文正元年) 勝元と共謀して、政所執事の伊勢貞親や季瓊真蘂らを失脚させる(文正の政変)
・1466年(文正元年12月) 畠山義就を上洛させ、将軍と対面させる
・1467年(応仁元年)畠山政長が失脚して、管領は山名派の斯波義廉となる
・1467年(応仁元年5月) 対立する赤松政則が播磨へ侵攻したのをはじめ是豊も備後へ侵攻、双方で散発的な衝突が起こる
・1467年(応仁元年5月26日) 上京の戦いをきっかけに応仁の乱が始まる
・1469年(応仁3年) 東軍が西軍本陣に斬り込んできたときには66歳の老齢ながら具足をつけ刀をとって庭に出て、敵兵を追い払った
・1469年(文明元年) 義政と義視とが不和になり、義視を迎える
・1470年(文明2年6月) 宗全が東軍に降参するという奇妙な噂も流れ、西軍の結束力に乱れが起こる
・1471年(文明3年) 小倉宮の血を引く西陣南帝を擁立したが、程なく放逐される
・1472年(文明4年) 和平交渉も行われたが、赤松政則の抵抗などで失敗する
・1472年(文明4年8月) 家督を政豊に譲る
・1473年(文明5年1月) 一族の最重鎮だった教之が死去する
・1473年(文明5年3月18日) 京都西陣の邸内において、数え年70歳で病死する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1945年(昭和20)小磯国昭内閣で「決戦教育措置要綱」が閣議決定される詳細
1965年(昭和40)愛知県犬山市に「博物館明治村」が開村する詳細


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