ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:武家諸法度

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 今日は、江戸時代後期の1862年(文久2)に、江戸幕府が参勤交代を緩和し、妻子の帰国を許し3年に1度の出府となり、事実上廃止された日(閏8月)ですが、新暦では10月15日となります。
 参勤交代(さんきんこうたい)は、江戸幕府が大名支配の手段として課した大名軍役の一つで、諸大名に時期を定めて江戸に参勤させた制度でした。全国250以上ある大名家が2年毎に江戸に参勤し、1年経ったら自分の領地へ引き上げる交代を行うものです。
 江戸初期に諸大名が自発的に江戸に参勤したことに端を発し、大名は忠誠を示すため、正室と子(男子であれば跡継ぎ)、有力家臣の子弟を人質として江戸に住まわせるようになりました。1615年(元和元)に、制定された「武家諸法度(元和令)」により、参勤作法として従者の員数を定めて、100万石以下20万石以上の大名は20騎以下、10万石以下の大名は分に応ずるよう規定されます。
 1634年(寛永11)に、譜代大名の妻子を江戸に移すこととし、翌年には、「武家諸法度(寛永令)」を改定し、その第2条に「大名・小名、在江戸交替相定むる所なり、毎歳夏四月中、参勤いたすべし」と規定し、参勤交代が制度化されました。1642年(寛永19)には、制度改正が行われ、譜代大名の交代期は6月、とくに関東の譜代大名は在府・在国半年、8月ないし2月交代となります。
 享保の改革の一環として、1722年(享保7)に諸大名に1万石につき100石の上米を命じ、その代償として、参勤交代を緩和し、在府半年・在国1年半としましたが、8年後の1730年(享保15)には、参勤交代が旧制に復しました。1862年(文久2)に、再び参勤交代を緩和し、3年一勤百日在府制を実施しましたが、1865年(慶応元)に再び旧に戻そうとしたものの、命令に従う者がなく、事実上の廃絶となっています。
 この制度は、江戸幕府による大名妻子の人質政策であり、往復の旅費や江戸藩邸での巨額の出費は大名の財政を苦しめたものの、一方で江戸の繁栄、交通(街道や宿場等)・経済(貨幣流通や商工業)の発達、中央文化の地方普及を促したとされてきました。

〇参勤交代関係略年表

・1596年(慶長元) 藤堂高虎が弟の正高を証人として江戸に送り、参勤交代のはじめとされる
・1600年(慶長5) 関ケ原の戦後、外様大名の江戸参勤が増加する
・1602年(慶長7) 前田利長が母を人質として参勤する
・1615年(元和元) 「武家諸法度(元和令)」が制定されたが、参勤作法として従者の員数を定めただけで100万石以下20万石以上の大名は20騎以下、10万石以下の大名は分に応ずるよう規定する
・1634年(寛永11) 譜代大名の妻子を江戸に移す
・1635年(寛永12) 「武家諸法度(寛永令)」を改定し、その第2条に「大名・小名、在江戸交替相定むる所なり、毎歳夏四月中、参勤いたすべし」と規定し、参勤交代を制度化する
・1642年(寛永19) 制度の改正が行われ、譜代大名の交代期は6月、とくに関東の譜代大名は在府・在国半年、8月ないし2月交代となる
・1722年(享保7) 諸大名に1万石につき100石の上米を命じ、その代償として、参勤交代を緩和し、在府半年・在国1年半とする
・1730年(享保15) 参勤交代が旧制に復する
・1862年(文久2) 再び参勤交代を緩和し、三年一勤百日在府制を実施する
・1865年(慶応元)  再び旧に戻したが命令に従う者がなく、参勤交代制度が廃絶となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1869年(明治2)彫刻家米原雲海の誕生日(新暦9月27日)詳細
1903年(明治36)東京電車鉄道(電鉄)が、品川~新橋間を開業(東京初の路面電車)する詳細
1904年(明治37)日本と大韓帝国との間で、「第一次日韓協約」が調印される詳細
1941年(昭和16)劇作家・小説家長谷川時雨の命日詳細
1943年(昭和18) 詩人・小説家島崎藤村の命日(藤村忌)詳細
1944年(昭和19)沖縄からの学童疎開船「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈される(対馬丸事件)詳細
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 今日は、江戸時代中期の1710年(宝永7)に、江戸幕府が漢文体から和文に改訂した「武家諸法度」(宝永令)17ヶ条を発布した日ですが、新暦では5月13日となります。
 「武家諸法度」(宝永令)は、第6代将軍家宣の時のもので、その政治を支え、「正徳の治」を実行した儒学者新井白石の起草によるものでした。本文を和漢混交文から和文に改訂し、読んで理解の行き届く表記とし、「武家諸法度」(寛永令)の条文によりながらも、内容を17ヶ条に整理統合しています。
 その中で、「武家諸法度」(天和令)の時の改訂で行われた殉死の禁等を継承し、また諸役に就いた武家が権勢に誇り賄賂に惑わされることを戒める条を新設しました。これは、儒教の仁政思想(徳治主義)を取り込んで文治政治の理念を明瞭化するなど、より具体的な条文に改定したものとされます。
 しかし、効力を持った期間は7年ほどに過ぎず、第8代将軍吉宗の「武家諸法度」(享保令)によって破棄され、「武家諸法度」(天和令)の内容に戻されました。
 以下に、「武家諸法度」(宝永令)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇武家諸法度(ぶけしょはっと)とは?

 江戸幕府が諸大名統制のために制定した基本法です。天皇、公家に対する「禁中並公家諸法度」、寺家に対する「諸宗本山本寺諸法度」(寺院法度)と並んで、幕府による支配身分統制の基本となりました。
 1615年(慶長20)に大坂城落城による豊臣氏滅亡直後に伏見城に諸大名を集め、徳川秀忠の命という形で発布したのが最初となり、改元された年号を取って元和令とも呼ばれています。元々は1611年(慶長16)に徳川家康が大名から取り付けた誓紙3ヶ条に、家康の命によって金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草した10ヶ条を加えたもので、漢文体(宝永令から和文に改訂)となっていました。
 内容としては、一般的な規範や既に慣習として成立していた幕命などを基本法とし、「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事」を最初として、品行を正し、科人を隠さず、反逆・殺害人の追放、他国者の禁止、居城修理の申告を求め、私婚禁止、朝廷への参勤作法、衣服と乗輿の制、倹約、国主の人選について規定し、各条に注釈を付けています。その後、第3代将軍徳川家光のとき、参勤交代の具体的方法の規定や大船建造の禁などを加えて19ヶ条(寛永令)となり、一応の完成をみましたが、以後も時勢に応じて、寛文令(1663年)、天和令(1683年)、宝永令(1710年)と部分改訂が行われてきました。
 第8代将軍徳川吉宗のとき、宝永令を廃止して第5代将軍徳川綱吉の時の15ヶ条(天和令)への全面的な差し戻しをしてからは、幕末までほぼこれによることになります。将軍の代替りごとに諸大名にこれを読み聞かせ、違反者は厳罰に処されてきました。特に初期には、この違反を理由に、たびたび大名の改易が起きています。

☆「武家諸法度」(宝永令) 1710年(宝永7年4月15日)発布

一、文武の道を修め、人倫を明かにし、風俗を正しくすべき事。
一、国郡家中の政務、各其の心力を尽くし、士民の怨苦を致すべからざる事。
一、軍役の兵馬を整備へ、公役の支料を儲蓄ふべき事。
一、参勤の交替其の定期を違ふべからず、従者の員数其分限に過べからざる事。
一、新築の城郭私に経営する事を聴さず、其の修築に至ては、堀土居石垣等は 上裁を仰ぐべし。矢倉門塀等は制限にあらざる事。
一、大小の諸役、諸番の頭人等、権勢に依りて人を凌ぎ、公儀を仮りて私を営 むべからず。同列 相和らぎて衆議を会し、上聞を□がずして下情を通し、 偏頗なく贔負あらず、各其の職事に練習して公務を精勤すべき事。
一、貨賄を納れて権勢の力を仮り、秘計を廻らして内縁の助を求む、皆是れ邪 路を開きて正道を害す、政事のよりて傷るゝ所なり、一切に禁絶すべき事。
一、群飲佚游の禁、旧制既に明白なり。凡そ奢靡を競ひて礼制によらず、財利 を貪りて廉恥をかへりみず、妄りに人才の長短を論し、竊に時事の得失を議 す、風を傷り、俗を敗る事、是より甚しきはなし、厳に禁止を加ふべき事。
一、私領百姓の訴論は其の領主の裁断たるべし、事もし他領に係るにおひては、 或ひは両地の領主互に相通じ、或ひは支配の頭人各相会して議定すべし、事 尚一決し難きにおひては、評定所に就て採決を請はしむべき事。
一、越境の違乱犯罪の追捕等、其の余何事に限らず、私に争論に及ぶべからず、 事もし相和らぎ難きに至りては、各其の事を注進すべし。若し刑罰の事これ 有る時は、使たる者の外、私に出会ふ事をゆるさず、凡そ使として差遣はす もの、其の人の高下其の事の大小を論ぜず、敢て対捍あるべからざる事。
一、衣服居室の制并びに宴饗の供贈遺の物、或ひは奢侈に及び、或ひは節倹に 過ぐ、皆是礼文に節にあらず、貴賎各其の名分を守りて、大過不及に至るべ からざる事。
一、乗輿の制、凡そ万石以上より、国主の嫡子、庶子、城主并びに侍従以上の 嫡子に至り、其の余、年五十以上の輩の外、みだりに是をゆるさざる事。
一、婚姻は凡そ万石以上、布衣以上の役人并びに近習の輩等私に相約する事を ゆるさず、若しくは公家の人々と相議するにおひては、まづ上裁を蒙りて後 に、其の約を定むべし、嫁娶の儀式すべて旧制を守りて、各其の分限に相随 ふべき事。
一、継嗣は其の子孫相承すべき事論ずるに及ばず、子なからんものは、同姓の 中其の後たるべき者を撰ぶべし、凡そ十七歳より以上は其の後たるべきもの を撰び、現在の日に及びて望請ふ事をゆるす、或ひは実子たりといふとも、 立べき者の外を撰び、或ひは子なくして其の後たるべき者を撰ぶのごときは、 親族家人等議定の上を以て、上裁を仰ぐべし、若し其の望請ふ所のごときは、 其の濫望をゆるすべからず、しかりといへども、或ひは父祖の功績或ひは其 の身の勤労、他に異なる輩におひては、望請ふ所なしといふとも、別儀を以 て恩裁の次第有るべき事。
一、殉死の禁、更に厳制を加ふる所なり、或ひは徒党を植て、或ひは誓約を結 ぶのごとき、妄りに非義を行ひて敢て憲法を犯すの類、一切に厳禁すべき事。
一、諸国散在の寺社古より寄付の地、これを没却することをゆるさず、新建の 寺社に至りては、停止既に訖りぬといへども、若し故ありて望請ふべき事有 におひては、上裁を仰ぐ事を許す、且は耶蘇の厳禁はいふに及ばず、たとひ 古より流布の諸宗たりといふとも、或ひは新異の法をたて、或ひは妖妄の設 を作りて、愚俗を欺き惑はすの類、是又厳禁すべき事。
右の条々、旧章に由りてこれを修飾す、すべて教令の及ぶ所、遠近一つによろしく遵行すべき者なり。
  宝永七年寅四月十五日

    『御触書寛保集成』より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

571年(欽明天皇32)第29代の天皇とされる欽明天皇の命日(新暦5月24日)詳細
905年(延喜5)醍醐天皇の命により紀貫之らが『古今和歌集』を撰進する(新暦5月21日)詳細
1155年(久寿2)天台宗の僧・歌人慈円の誕生日(新暦5月17日)詳細
1716年(享保元)江戸幕府が五街道の呼称を布達する(新暦6月4日)詳細
1994年(平成6)「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」(WTO設立協定)が調印(翌年1月1日発効)される詳細
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 今日は、江戸時代前期の1663年(寛文3)に、江戸幕府が改訂した「武家諸法度」(寛文令)21ヶ条を発布し、キリスト教の厳禁及び不孝者の処罰を追加、商船の500石制限を撤廃した日ですが、新暦では6月29日となります。
 「武家諸法度(ぶけしょはっと)」は、江戸幕府が諸大名統制のために制定した基本法で、最初のものは、1615年(慶長20年7月7日)に13ヶ条発布されました。しかし、その後状況の推移を踏まえ、第3代将軍徳川家光のとき、参勤交代の具体的方法の規定や大船建造の禁などを加えて19ヶ条(寛永令)として、一応の完成をみたものです。
 しかし、その後も時勢に応じて、寛文令(1663年)で一部変更(キリスト教の厳禁及び不孝者の処罰を追加、商船の500石制限撤廃等)され、1683年(天和3年7月25日)には、文治政治の路線を基に大きな改編がなされ、「諸士法度」と統合されました。
 以下に、「武家諸法度(寛文令)」の全文を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇武家諸法度(ぶけしょはっと)とは?

 江戸幕府が諸大名統制のために制定した基本法です。天皇、公家に対する「禁中並公家諸法度」、寺家に対する「諸宗本山本寺諸法度」(寺院法度)と並んで、幕府による支配身分統制の基本となりました。
 1615年(慶長20)に大坂城落城による豊臣氏滅亡直後に伏見城に諸大名を集め、徳川秀忠の命という形で発布したのが最初となり、改元された年号を取って元和令とも呼ばれています。元々は1611年(慶長16)に徳川家康が大名から取り付けた誓紙3ヶ条に、家康の命によって金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草した10ヶ条を加えたもので、漢文体(宝永令から和文に改訂)となっていました。
 内容としては、一般的な規範や既に慣習として成立していた幕命などを基本法とし、「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事」を最初として、品行を正し、科人を隠さず、反逆・殺害人の追放、他国者の禁止、居城修理の申告を求め、私婚禁止、朝廷への参勤作法、衣服と乗輿の制、倹約、国主の人選について規定し、各条に注釈を付けています。その後、第3代将軍徳川家光のとき、参勤交代の具体的方法の規定や大船建造の禁などを加えて19ヶ条(寛永令)となり、一応の完成をみましたが、以後も時勢に応じて、寛文令(1663年)、天和令(1683年)、宝永令(1710年)と改訂が行われてきました。
 第8代将軍徳川吉宗のとき、宝永令を廃止して第5代将軍徳川綱吉の時の15ヶ条(天和令)への全面的な差し戻しをしてからは、幕末までほぼこれによることになります。将軍の代替りごとに諸大名にこれを読み聞かせ、違反者は厳罰に処されてきました。特に初期には、この違反を理由に、たびたび大名の改易が起きています。

☆ 「武家諸法度(寛文令)」 寛文3年(1663年)5月23日発令

  武家諸法度

一、文武弓馬之道専可相嗜事
一、大名、小名在江戸交替之儀、毎年守所相定時節、可致参勤、從者之員数彌不可及繁多、以其相応、可減少之、但公役者任教令、可隨分限事
一、新儀之城郭搆営堅禁止之、居城之隍壘石壁以下敗壞之時者、達奉行所、可受其旨、櫓塀門等者如先規可修補事
一、於江戸幷何国、縱何等之事雖有之、在国之輩守其所、可相待下知事
一、雖於何所而行刑罰、役者之外不可出向、但可任検使之左右事
一、企新儀、結徒党、成誓約之儀、制禁事
一、諸国主幷城主等不可致私之爭論、平日須加謹愼、若有可及遲滯之儀者、達奉行所、可受其旨事
一、国主、城主、壱万石以上、近習幷物頭者、私不可結婚姻事
 附、與公家於結縁邊者、向後達奉行所、可受指圖事
一、音信贈答嫁娶儀式或饗應或家宅營作等可爲簡略、其外万事可用倹約事
一、衣裳之品不可混亂、白綾公卿以上、白小袖諸大夫以上聴之、紫袷、紫裏、練、無紋之小袖不可着之事
一、乗輿者、一門之歴々、国主、城主、壱万石以上幷国大名之息、城主曁侍從以上之嫡子或年五十以上或医陰両道、病人免之、其外禁濫吹、但免許之輩者各別也、至于諸家中者、於其國撰其人、可載之事
一、本主之障有之者不可相拘、若有叛逆殺害人之告者、可返之、向背之族者、或返之、或可追出事
一、陪臣質人所獻之者、可及追放死刑時者、達奉行所、可受其旨、若於當座、有難遁儀而、斬戮之者、其子細可言上事
一、知行所務淸廉沙汰之、不致非法、国郡不可令衰弊事
一、道路驛馬舟梁等、無斷絶、不可令致往還之停滯事
一、私之関所、新法之津留、制禁之事
一、五百石以上之船停止之、但荷船者制外之事
一、諸国散在寺社領、自古至于今所附来者、向後不可取放事
一、耶蘇宗門之儀、於国々所々、彌堅可禁止之事
一、不孝之輩於有之者、可処罪科事
一、万事応江戸之法度、於国々所々可遒行事
 右條々、准當家先制之旨、今度潤色、定之訖、堅可相守者也 
  寛文三年五月廿三日
 右之趣、壱万石以上之面々 御城え被 召之、被仰渡之

  『御触書寛保集成』より

<読み下し文>

一、文武弓馬ノ道[1]、専相嗜ベキ事。
一、大名・小名[2]在江戸交替[3]之儀。毎年定メル所ノ時節を守リ、参勤[4]致スベシ。従者ノ員数、イヨイヨ繁多ニ及ブベカラザル。ソノ相応[5]ヲ以テ、コレヲ減少スベシ。但シ、教令[6]ニ任セ、公役ハ分限[7]ニ随フベキ事。
一、新規ノ城郭構営[8]ハ堅クコレヲ禁止ス。居城ノ隍塁[9]・石壁以下敗壊ノ時ハ、奉行所二達シ、其ノ旨ヲ受クベキナリ。櫓・塀・門等ハ、先規ノゴトク修補[10]スベキ事。
一、江戸ナラビニ何国ニ於テ、タトヘ何等[12]ノ事コレ有ルトイヘドモ、在国ノ輩ハソノ所ヲ守リ、下知[12]相待ツベキ事。
一、何所ニ於テ刑罰ノ行ハルルトイヘドモ、役者ノ外出向スベカラズ。但シ検使[13]ノ左右ニ任セルベキ事。
一、新儀ヲ企テ、徒党ヲ結ビ[14]、誓約ヲ成スノ儀、制禁ノ事。
一、諸国主[15]ナラビニ領主等私ノ諍論致スベカラズ。平日須ク謹慎ヲ加フルベキナリ。モシ遅滞ニ及ブベキノ儀有ラバ、奉行所ニ達シ、ソノ旨ヲ受クベキ事。
一、国主[15]・城主・一万石以上、近習ナラビニ物頭ハ、私ニ[16]婚姻ヲ結ブベカラザル事。
  附、與公家於結縁邊者、向後[17]奉行所二達シ、指図ヲ受クベキ事
一、音信[18]・贈答・嫁娶リ儀式、或ハ饗応[19]或ハ家宅営作等、簡略タルベシ。ソノ外万事倹約ヲ用フルベキ事。
一、衣装ノ品混乱スベカラズ。白綾[20]ハ公卿以上、白小袖[21]ハ諸大夫以上コレヲ聴ス。紫袷・紫裡・練・無紋ノ小袖[21]ハコレヲ着ルベカラズ。
一、乗輿ハ、一門ノ歴々・国主[15]・城主・一万石以上ナラビニ国大名ノ息、城主オヨビ侍従以上ノ嫡子、或ハ五十歳以上、或ハ医・陰ノ両道[22]、病人コレヲ免ジ、ソノ外濫吹[23]ヲ禁ズ。但シ免許ノ輩ハ各別ナリ。諸家中ニ至リテハ、ソノ国ニ於テソノ人ヲ撰ビコレヲ載スベキ事。
一、本主ノ障リコレ有ル者相抱エルベカラズ。モシ反逆・殺害人ノ告ゲ有ラバコレヲ返スベシ。向背[24]ノ族ハ或ハコレヲ返シ、或ハコレヲ追ヒ出スベキ事。
一、陪臣[25]ノ質人ヲ献ズル所ノ者、追放・死刑ニ及ブベキ時ハ、奉行所ニ達シ、ソノ旨ヲ受クベシ。モシ当座ニ於テ、遁レ難キ儀有ルニオイテ、コレヲ斬戮[26]スルハ、ソノ子細言上スベキ事。
一、知行所務清廉[27]ニコレヲ沙汰シ、非法致サズ、国郡衰弊[28]セシムベカラザル事。
一、道路・駅馬・舟梁等、断絶無ク、往還ノ停滞ヲ致サシムベカラザル事。
一、私ノ関所・新法ノ津留メ[29]制禁ノ事。
一、五百石以上ノ船[30]、コレヲ停止、但シ荷船ハ制外ノ事
一、諸国散在寺社領、古ヨリ今ニ至リ附ケ来ル所ハ、向後[17]取リ放ツ[31]ベカラザル事。
一、耶蘇宗門之儀、国々所々ニ於テ、イヨイヨ堅ク禁止スベキノ事
一、不孝ノ輩コレ有ルニオイテハ、罪科ト処スベキ事
一、万事江戸ノ法度[32]ニ応ジ、国々所々ニ於テ遵行[33]スベキ事。
 右條々ハ、當家先制之旨ニヨル、今度潤色[34]、之ヲ定メルニイタル、堅ク相守ルベキ者也。

  寛永三年五月廿三日

 右ノ趣、壱万石以上ノ面々 御城え被 コレヲ召シ、コレヲ仰渡セラル 

【注釈】

[1]文武弓馬ノ道:ぶんぶきゅうばのみち=学問や武術。
[2]小名:しょうみょう=領地・禄高の少ない大名のことで江戸時代初期に用いられた。
[3]在江戸交替:ざいえどこうたい=在は大名の領地(国元)をいい、江戸との参勤交代の意味。
[4]参勤:さんきん=参勤交代のこと。原則として一年交代で、諸大名を江戸と領地とに居住させた制度。
[5]相応:そうおう=大名の格式、家格に応じての意味。
[6]教令:きょうれい=教え戒めて命令すること。教示。
[7]分限:ぶんげん=その人の社会的身分、地位。
[8]新儀ノ城郭構営:しんぎのじょうかくこうえい=新たに築城すること。
[9]隍塁:こうるい=濠と土塁。
[10]修補:しゅうほ=修理。
[11]何等:なんら=どのような。
[12]下知:げち=上から下へ指図すること。命令。
[13]検使:けんし=殺傷・変死の現場に出向いて調べること。また、その役人。
[14]徒党ヲ結ビ:ととうをむすび=仲間、団体、一味などを集めて団結する。
[15]国主:こくしゅ=国持大名のことだが、ここでは諸大名の意味。
[16]私ニ:わたくしに=私的に。公儀の許可なく、勝手に。
[17]向後:きょうこう=今後。
[18]音信:いんしん=便りをすること。便り。また、手紙や訪問によってよしみを通じること。
[19]饗応:きょうおう=酒や料理をとりそろえてもてなすこと。馳走すること
[20]白綾:しらあや=白地の綾織物。
[21]小袖:こそで=袖口の小さく縫いつまっている衣服。
[22]医・陰ノ両道:い・いんのりょうどう=医道と陰陽道。
[23]濫吹:らんすい=無能の者が才能のあるように装うこと。また、過分な地位にあること。
[24]向背:きょうはい=従うこととそむくこと。従ったりそむいたりすること。
[25]陪臣:ばいしん=臣下の、また臣。家来の家来。
[26]斬戮:ざんりく=斬殺、殺戮。
[27]清廉:せいれん=心が清く私欲のないこと。行ないがいさぎよく、私利私欲をはかる心がないこと。また、そのさま。
[28]衰弊:すいへい=勢いなどがおとろえ弱ること。
[29]津留メ:つどめ=領主が米穀その他の物資の他領との移出入を制限・停止したこと。多くが港で行なわれた。
[30]五百石以上ノ船:ごひゃっこくいじょうのふね=米500石(約75トン)以上を積むことが出来る船。
[31]取リ放ツ:とりはなつ=取り上げる。?奪する。
[32]法度:はっと=法令。
[33]遵行:じゅんぎょう=従い行う。遵守。
[34]潤色:じゅんしょく=補うこと。加筆すること。

<現代語訳>

一、学問や武術をみがくことにひたすら励むべきこと。
一、大小の大名の在所と江戸の交替は、毎年定めた時期を守り参勤する事。従者は多数にせず相応に減らすこと。ただし、公役の時は財力に応じる
一、新たに築城することは厳禁する。居城の濠や土塁、石垣などが壊れた時は、奉行所に申し出て指示を仰ぐこと。櫓、塀、門などは先の規則(元和令)に従って修理すること。
一、江戸をはじめいかなる国において、どのような事件が起こったとしても、領国にいる者はその場所を守り、幕府からの命令を待つこと。
一、どこかで刑罰が執行されもといっても、担当者以外は出向いてはならない。ただし、検使の指図には任せること。
一、新たなものを企て、仲間を集め、誓約を取り交わすようなことは禁止すること。
一、諸国の大名や領主等は私闘をしてはならない。日頃から謹んでおくこと。もし、うまくいかないことが起きた場合は、奉行所に届け出て、その指示を受けるべきこと。
一、国持・城持・一万石以上の大名、ならびに近習・物頭は、公儀の許可なく、勝手に結婚してはならないこと。
  附、公家周辺との縁談は、今後奉行所に伺い指示を受けること。
一、よしみを通じたり、品物などの贈答、結婚の儀式、酒や料理をとりそろえてのもてなしや屋敷の建設などは、簡略化に務めること。その他もすべてにおいて倹約に心掛けること。
一、衣装の身分によるしきたりを乱れさせてはならない。白地の綾織物は公卿以上、白地の小袖は大夫以上に許す。紫袷・紫裡・練・無紋の小袖は、みだりにこれを着用してはならない。諸々の家中の下級武士が綾羅や錦の刺繍のある服を着用するのは古くからのしきたりには無いので、禁止とすること。
一、輿を使える者は、徳川一門、国持・城持・一万石以上の大名、ならびに国持大名の息子、城持大名、侍従以上の嫡子、あるいは50歳以上の者、あるいは医者、陰陽道の者、病人はこれを許可する。その他が身分を装って乗せることは禁止する。ただし、許可を得た者は特別とする。諸家中においては、その国内で使える人を選んで定めること。
一、元の主人から障害があるとされた者を家来として召し抱えてはならない。もし反逆者・殺人者とわかったならば元の主人へ返せ。動静がはっきりしない者は元の主人へ返すか、またはこれを追放すべきこと。
一、幕府に人質を出している家臣を追放・死刑に処する際には、奉行所に申し出て指示を仰ぐこと。もし急遽回避することができない事態に至り、これを斬殺した際には、その詳細を報告すべきこと。
一、領地での政務は心清く私欲なく行い、違法なことをせず、国郡の勢いを衰え弱らせてはならないこと。
一、道路、駅の馬、船や橋などを途絶えさせることなく、往来を停滞させてはならないこと。
一、私設の関所を設置したり、新法を制定して物資の他領との移出入を制限・停止してはならないこと。
一、500石積み以上の船を造ってはならないこと。ただし、商船は除く
一、諸国に散在する寺社の領地で昔から現在まで所有しているところは、今後取り上げてはならないこと。
一、キリスト教については、全国どこでも厳禁すべきこと。
一、親不孝者があるときには、処罰の対象とするべきこと。
一、全て江戸幕府の法令のごとく、どこにおいてもこれを遵守すべきこと。
 右の条文は、当家先例の趣旨に従い、この度加筆訂正してこれを定めるに至る、堅く守るべきものである。

   寛文3年(1663年)5月23日

 右の趣旨は、1万石以上の大名については、江戸城に招集し、これを仰せ渡した。

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 今日は、江戸時代前期の1683年(天和3)に、江戸幕府が改訂した「武家諸法度」(天和令)15ヶ条を発布し、「諸士法度」と統合の上、殉死の禁止や末期養子の禁緩和の明文化等をした日ですが、新暦では8月26日となります。
 「武家諸法度(ぶけしょはっと)」は、江戸幕府が諸大名統制のために制定した基本法で、最初のものは、1615年(慶長20年7月7日)に13ヶ条発布されました。しかし、その後状況の推移を踏まえ、第3代将軍徳川家光のとき、参勤交代の具体的方法の規定や大船建造の禁などを加えて19ヶ条(寛永令)として、一応の完成をみたものです。
 しかし、その後も時勢に応じて、寛文令(1663年)で一部変更され、1683年(天和3年7月25日)には、文治政治の路線を基に大きな改編がなされ、「諸士法度」と統合されました。
 以下に、「武家諸法度(天和令)」の全文を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。 

〇武家諸法度(ぶけしょはっと)とは?

 江戸幕府が諸大名統制のために制定した基本法です。天皇、公家に対する「禁中並公家諸法度」、寺家に対する「諸宗本山本寺諸法度」(寺院法度)と並んで、幕府による支配身分統制の基本となりました。
 1615年(慶長20)に大坂城落城による豊臣氏滅亡直後に伏見城に諸大名を集め、徳川秀忠の命という形で発布したのが最初となり、改元された年号を取って元和令とも呼ばれています。元々は1611年(慶長16)に徳川家康が大名から取り付けた誓紙3ヶ条に、家康の命によって金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草した10ヶ条を加えたもので、漢文体(宝永令から和文に改訂)となっていました。
 内容としては、一般的な規範や既に慣習として成立していた幕命などを基本法とし、「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事」を最初として、品行を正し、科人を隠さず、反逆・殺害人の追放、他国者の禁止、居城修理の申告を求め、私婚禁止、朝廷への参勤作法、衣服と乗輿の制、倹約、国主の人選について規定し、各条に注釈を付けています。その後、第3代将軍徳川家光のとき、参勤交代の具体的方法の規定や大船建造の禁などを加えて19ヶ条(寛永令)となり、一応の完成をみましたが、以後も時勢に応じて、寛文令(1663年)、天和令(1683年)、宝永令(1710年)と改訂が行われてきました。
 第8代将軍徳川吉宗のとき、宝永令を廃止して第5代将軍徳川綱吉の時の15ヶ条(天和令)への全面的な差し戻しをしてからは、幕末までほぼこれによることになります。将軍の代替りごとに諸大名にこれを読み聞かせ、違反者は厳罰に処されてきました。特に初期には、この違反を理由に、たびたび大名の改易が起きています。

〇「武家諸法度(天和令)」全15ヶ条 天和3年(1683年)7月25日発布

<原文・旧字>

一、文武忠孝を勵し、可正禮儀事、
一、參勤交替之儀、毎歳可守所定之時節、從者之員數不可及繁多事、
一、人馬兵具等、分限に應し、可相嗜事、
一、新規之城郭搆營堅禁止之、居城之隍壘石壁等敗壞之時は、達奉行所、可受指圖也、櫓塀門以下は如先規可修補事、
一、企新規、結徒黨、成誓約幷私之關所、新法之津留、制禁之事、
一、江戸幷何國にて、不慮之儀有之といふ共、猥不可懸集、在國之輩は其所を守り、下知を可相待也、何處にて雖行刑罰、役者之外不可出向、可任撿使之左右事、
一、喧嘩口論可加謹愼、私之諍論制禁之、若無據子細有之は、達奉行所、可受其旨、不依何事、令荷擔は、其咎本人よりおもかるへし、幷本主之障在之者不可相拘事、
 附、頭有之輩之百姓訴論は、其支配え令談合、可相濟之、有滯儀は、評定所え差出之、可受捌事、
一、國主、城主、壹万石以上、近習幷諸奉行、諸物頭、私不可結婚姻、惣て公家と於結縁邊は、達奉行所、可受指圖事、
一、音信贈答嫁娶之規式或饗應或家宅營作等、其外万事可用儉約、惣て無益之道具を好、不可致私之奢事、
一、衣裳之品不可混亂、白綾公卿以上、白小袖諸大夫以上免許事、
 附、徒若黨之衣類は羽二重絹紬布木綿、弓鐵炮之者は紬布木綿、其下に至は、万に布木綿可用事、
一、乘輿は、一門之歴々、國主、城主、壹万石以上幷國大名之息 城主曁侍從以上之嫡子或年五十以上許之、儒醫諸出家は制外事、
一、養子は同姓相應之者を撰、若於無之は、由緒を正し、存生之内可致言上、五十歳以上十七歳以下之輩、及末期雖致養子、吟味之上可立之、縱雖實子、筋目違たる儀不可立事、
 附、殉死之儀、彌令制禁事、
一、知行所務淸廉沙汰之、國郡不可令衰弊、道路驛馬橋舟等無斷絶、可令往還事、
 附、荷船之外、大船は如先規停止之事、
一、諸國散在之寺社領、自古至于今所附來は、不可取放之、勿論新地之寺社建立彌令停止之、若無據子細有之は、達奉行所、可受指圖事、
一、万事應江戸法度、於國々所々可遒行事。
 右條々、今度定之訖、堅可相守者也、
   天和三年七月廿五日
   『御触書寛保集成』より

<原文・新字>

一、文武忠孝を励し可正礼儀事。 
一、参勤交替之義、毎年可守定所之時節、従者之員数不可及繁多之事。
一、人馬・兵具等分限ニ応じ可相嗜事。 
一、新規之城郭構営堅禁止之、居城湟累石壁等敗壊之時ハ達奉行所、可受差図也、櫓城門以下者如先規可修補事。
一、企新規、結徒党、成誓約并私之関所、新法之津留制禁事。
一、江戸并何国にて不慮之儀有之といふ共猥不可懸集、在国之輩ハ其所を守、下知可相待也、何所ニ而雖行刑罰、役者之外不可出向、可任検使之左右事
一、喧嘩口論可加謹慎、私之争論制禁之、若無拠子細有之、達奉行所可受其旨、不依何事令荷担者其咎本人よりおもかるべし、并 本主の障有之もの不可相抱事。
 附 頭有之輩へ百姓訴論ハ其支配江令談合、可相済之、有滞儀ハ評定所へ差出之可受捌事。
一、国主・城主・壱万石以上近習并諸奉行、諸物頭私不可結婚姻、惣而公家と於結縁辺者、達奉行所可受差図事。 
一、音信・贈答・嫁取之規式餐応、或家宅営作等其外万事可用倹約、惣而無益之道具を好、不可致私之奢事。
一、衣装之品不可混乱、白綾公卿以上、白小袖諸士大夫以上免許之事。
 附 従者・若党之衣類、羽二重縮緬布木綿、弓鉄砲之者ハ紬布木綿其外ニ至てハ万に布木綿可用之事。
一、乗輿者一門之歴々、国主城主壱万石以上并国大名之息、城主及侍従以上之嫡子或五拾以上許之、儒・医・諸出家者制外之事。 
一、養子者同姓相応之者を撰び、若無之においてハ由緒を正し、存生之内可致言上、五十已上十七已下之輩、及末期雖致養子、吟味之上可立之、縦雖実子筋目違たる義不可立事。
 附 殉死之義令弥制禁事。
一、知行所務清廉沙汰之、国郡不可令衰弊、道路駅馬橋船等、無断絶可令往還事。
 附 荷船之外、大船者如先規停止之事。
一、諸国散在之寺社領ハ自古至干今所附来ハ不可取放之、向後新地之寺社建立弥令停止之、若無拠子細有之ハ達奉行所可受差図事。
一、万事応江戸之法度、於国々所々可通行事。 
 右条々今度定之訖、堅可相守者也

  天和三年七月二十五日

<読み下し文>

一、文武忠孝[1]を励し、礼儀を正すべきの事。
一、参勤交替[2]の義、毎年定める所の時節を守るべし、従者の員数これ繁多に及ぶべからざる事。
一、人馬兵具等、分限[3]に応じ、相嗜ふべき事。
一、新規の城郭搆営[4]は堅くこれを禁止す。居城の湟累[5]石壁等敗壊の時は、奉行所に達し、指図を受くべき也、櫓塀門以下は先規のごとく修補[6]すべき事。
一、新儀を企て徒党を結び[7]誓約を成す、ならびに私の関所・新法の津留め[8]制禁の事。
一、江戸ならびに何国にて、不慮の儀これ有るといふ共、猥に懸集めるべからず、在国の輩はその所を守り、下知を相待つへき也、何處にて刑罰の行はるるといえども、役者の外出向すべからず、検使[9]の左右に任せるべき事。
一、喧嘩口論は謹慎加ふるべし、私の争論はこれを制禁す、もし無拠[10]の子細[11]之あるは、奉行所に達し、その旨を受くべし、何事によらず、荷担[12]せしむ者は、その咎[13]本人よりおもかるべし、ならびに本主の障之在るの者は相拘えるべからざる事。
 附、頭有の輩の百姓訴論は、その支配え談合せしめ、之を相済すべし、滯りあるの儀は、評定所え之を差出し、捌[14]を受くべき事。
一、国主[15]、城主[16]、壱万石以上、近習[17]ならびに諸奉行、諸物頭[18]、私に[19]婚姻を結ぶべからず、惣て公家と縁辺[20]を結ぶに於いては、奉行所に達し、指図を受くべき事。
一、音信[21]・贈答・嫁取の規式或は餐応[22]或は家宅営作[23]等、その外万事倹約をもちふるべし、惣て益之なき道具を好み、私の奢りいたすべからざる事。
一、衣装の品混乱すべからず。白綾[24]は公卿[25]以上、白小袖[26]は諸士大夫以上免許の事。
  附 従者・若党の衣類は羽二重[27]絹紬[28]布木綿、弓鉄砲の者は紬布木綿、其下に至は、万ニ布木綿ヲ用ふべき事。
一、乘輿は、一門ノ歴々、国主[15]、城主[16]、壱万石以上ならびに国大名の息 城主[16]及侍従以上の嫡子或は年五十以上之を許す、儒・医・諸出家は制外の事。
一 養子は同姓相応の者を撰び、若之無きにおゐては、由緒を正し、存生の内[29]言上致すべし。五拾以上十七以下の輩末期[30]に及び養子致すと雖も、吟味の上之を立つべし。縦、実子と雖も筋目違たる儀、立つべからざる事。
 附、殉死[31]の儀、弥制禁せしむる事。
一、知行所務清廉[32]に之を沙汰し、国郡衰弊[33]せしむべからず、道路驛馬橋舟等断絶無く、往還せしむべき事。
 附 荷船の外、大船は先規のごとく停止の事。
一、諸国散在の寺社領、古より今に至り附け来る所は、之を取り放つべからず、勿論新地の寺社建立は之を停止せしむ、もし無拠[10]の子細[11]之あるは、奉行所に達し、指図を受くべき事。
一、万事江戸の法度[34]に応へ、国々所々に於て遒行[35]すべき事。
 右條々は、今度之を定むるに訖る、堅く相守るべき者也。
   天和三年七月二十五日

【注釈】

[1]文武忠孝:ぶんぶちゅうこう=学問・武芸・忠義・孝行。
[2]参勤交替:さんきんこうたい=原則として一年交代で、諸大名を江戸と領地とに居住させた制度。
[3]分限:ぶんげん=その人の社会的身分、地位。
[4]新儀ノ城郭構営:しんぎのじょうかくこうえい=新たに築城すること。
[5]湟累:こうるい=濠と土塁。
[6]修補:しゅうほ=修理。
[7]徒党ヲ結ビ:ととうをむすび=仲間、団体、一味などを集めて団結する。
[8]津留メ:つどめ=領主が米穀その他の物資の他領との移出入を制限・停止したこと。多くが港で行なわれた。
[9]検使:けんし=殺傷・変死の現場に出向いて調べること。また、その役人。
[10]無拠:よんどころなし=やむをえない、余儀ないの意。
[11]子細:しさい=特別の理由。こみいったわけ。
[12]荷担:かたん=力添えをすること。仲間になること。
[13]咎:とが=罰されるべきおこない。つみ。
[14]捌:さばき=訴訟を裁決すること。
[15]国主:こくしゅ=国持大名のこと。
[16]城主:じょうしゅ=城持大名のこと。
[17]近習:きんじゅう=主君のそば近くに仕える者。近侍。近寄衆。
[18]物頭:ものがしら=弓組・鉄砲組などの長。足軽頭・同心頭の類。武頭。物頭役。足軽大将。
[19]私ニ:わたくしに=私的に。公儀の許可なく、勝手に。
[20]縁辺:えんぺん=夫婦の縁を結ぶこと。縁組。結婚。縁約。
[21]音信:いんしん=便りをすること。便り。また、手紙や訪問によってよしみを通じること。
[22]餐応:きょうおう=酒や料理をとりそろえてもてなすこと。馳走すること。
[23]営作:えいさく=造営。建造。
[24]白綾:しらあや=白地の綾織物。
[25]公卿:くぎょう=摂政・関白以下、参議以上の現官および三位以上の有位者(前官を含む)の総称。
[26]小袖:こそで=袖口の小さく縫いつまっている衣服。
[27]羽二重:はぶたえ=絹布の一種。優良な絹糸で緻密に織り、精練した純白のもの。
[28]絹紬:けんちゅう/きぬつむぎ=絹織物の一種。柞蚕(さくさん)紡糸または絹紡糸を原料として織ったつむぎ。
[29]存生ノ内:ぞんじょうのうち=生きているうち。生存中。
[30]末期:まつご=臨終の時。
[31]殉死:じゅんし=主君、主人の死後、臣下があとを追って自殺すること。追腹。
[32]清廉:せいれん=心が清く私欲のないこと。行ないがいさぎよく、私利私欲をはかる心がないこと。また、そのさま。
[33]衰弊:すいへい=勢いなどがおとろえ弱ること。
[34]法度:はっと=法令。
[35]遵行:じゅんぎょう=従い行う。遵守。

<現代語訳>

一、学問・武芸・忠義・孝行に励み、礼儀を正しくすべきこと。
一、参勤交替については、毎年定める所の時期を守り、従者の人数が多すぎることがないようにすること。
一、人馬・兵具などは、その人の社会的身分や地位に応じ、相応のものとして準備しておくこと。
一、新たに築城することは厳禁する。居城の濠や土塁、石垣などが壊れた時は、奉行所に申し出て指示を仰ぐこと。櫓、塀、門などは先の規則(元和令)に従って修理すること。
一、新たなものを企て、仲間を集め、誓約を取り交わすこと、ならびに私設の関所を設置したり、新法を制定して物資の他領との移出入を制限・停止してはならないこと。
一、江戸をはじめいかなる国において、不測の事態が起きたと言っても、無分別には集まらず、領国にいる者はその場所を守り、幕府からの命令を待つこと。どこかで刑罰が執行されるといっても、担当者以外は出向いてはならない。ただし、検使の指図には任せること。
一、喧嘩口論は慎むべきで、私的な争いごとは禁止する、もしやむを得ない理由がある場合は、奉行所に申し出て指示を仰ぐこと。どのような理由にもかかわらず、加担する者は、その罪は本人より重いものとする。ならびに元の主人のところで問題があった者は、家来として召し抱えてはならないこと。
 附 主人の有る者への百姓の訴訟は、その統治者に話合わせて解決すること。難航したならば評定所へ差出して、裁決させること。
一、国持・城持・一万石以上の大名、近習および諸奉行、諸物頭は、公儀の許可なく、勝手に結婚してはならない。全体に公家と縁組を結ぶときは、奉行所に届け指示を受けること。
一、よしみを通じたり、品物などの贈答、結婚の儀式、酒や料理をとりそろえてのもてなしや屋敷の建設など、その他何事においても倹約に心掛けること。全体に無益の道具を好むなど私的な贅沢をしないようにすること。
一、衣装の身分によるしきたりを乱れさせてはならない。白地の綾織物は公卿以上、白地の小袖は大夫以上に許可すること。
 附 従者・若党の衣類は羽二重、縮緬、布木綿、弓鉄砲の者は紬布木綿、その他は全て布木綿を着用すること。
一、輿を使える者は、徳川一門、国持・城持・一万石以上の大名、ならびに国持大名の息子、城持大名、侍従以上の嫡子、あるいは50歳以上の者に許可する。儒者・医者・僧侶は制限外とすること。
一 (実子のいない大名の)養子は同姓(一族)から相応の者を選び、もしふさわしい者がない場合は、由緒の正しい者を存命中に言上すること。50歳以上、17歳以下の者が臨終に及んで養子を立てるといっても、調査したた上で養子に立てる様にせよ。たとえ、実子だといっても筋道の違った者は跡継ぎにしてはならないこと。
 附、殉死については、いっそう厳しく禁止すること。
一、領地での政務は心清く私欲なく行い、国郡の勢いを衰え弱らせてはならないこと。道路、駅の馬、船や橋などを途絶えさせることなく、往来させること。
 附 商船以外の大船建造は、先の規則(元和令)に従って禁止すること。
一、諸国に散在する寺社の領地で昔から現在まで所有しているところは、これを取り上げてはならないこと。今後新地の寺社建立はこれを禁止する、もしやむを得ない理由がある場合は、奉行所に申し出て指示を仰ぐこと。
一、全て江戸幕府の法令のごとく、どこにおいてもこれを遵守すべきこと。
 右の条文は、今度これを定めるに至ったので、堅く守るべきものである。

   天和3年(1683年)7月25日

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、江戸時代前期の1635年(寛永12)に、江戸幕府が改訂した「武家諸法度」(寛永令)19ヶ条を発布し、毎年4月の外様大名の参勤交代の義務化等をした日ですが、新暦では8月3日となります。
 「武家諸法度(ぶけしょはっと)」は、江戸幕府が諸大名統制のために制定した基本法で、最初のものは、1615年(慶長20年7月7日)に13ヶ条発布されました。しかし、その後状況の推移を踏まえ、第3代将軍徳川家光のとき、参勤交代の具体的方法の規定や大船建造の禁などを加えて19ヶ条(寛永令)として、一応の完成をみたものです。以下に、「武家諸法度(寛永令)」の全文を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。 

〇武家諸法度(ぶけしょはっと)とは?

 江戸幕府が諸大名統制のために制定した基本法です。天皇、公家に対する「禁中並公家諸法度」、寺家に対する「諸宗本山本寺諸法度」(寺院法度)と並んで、幕府による支配身分統制の基本となりました。
 1615年(慶長20)に大坂城落城による豊臣氏滅亡直後に伏見城に諸大名を集め、徳川秀忠の命という形で発布したのが最初となり、改元された年号を取って元和令とも呼ばれています。元々は1611年(慶長16)に徳川家康が大名から取り付けた誓紙3ヶ条に、家康の命によって金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草した10ヶ条を加えたもので、漢文体(宝永令から和文に改訂)となっていました。
 内容としては、一般的な規範や既に慣習として成立していた幕命などを基本法とし、「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事」を最初として、品行を正し、科人を隠さず、反逆・殺害人の追放、他国者の禁止、居城修理の申告を求め、私婚禁止、朝廷への参勤作法、衣服と乗輿の制、倹約、国主の人選について規定し、各条に注釈を付けています。
 その後、第3代将軍徳川家光のとき、参勤交代の具体的方法の規定や大船建造の禁などを加えて19ヶ条(寛永令)となり、一応の完成をみましたが、以後も時勢に応じて、寛文令(1663年)、天和令(1683年)、宝永令(1710年)と部分改訂が行われてきました。第8代将軍徳川吉宗のとき、宝永令を廃止して第5代将軍徳川綱吉の時の15ヶ条(天和令)への全面的な差し戻しをしてからは、幕末までほぼこれによることになります。
 将軍の代替りごとに諸大名にこれを読み聞かせ、違反者は厳罰に処されてきました。特に初期には、この違反を理由に、たびたび大名の改易が起きています。

〇「武家諸法度(寛永令)」 (全文) 1635年(寛永12年6月21日)発布 19ヶ条

<原文>

一、文武弓馬之道專可相嗜事、左文右武、古法也、不可不兼備矣、弓馬是武家之要樞也、號兵爲凶器、不得已而用之、治不忘亂、何不勵修錬乎     
一、大名、小名在江戸交替所相定也、毎年四月中可致參勤、從者員數近來甚多、且國郡之費且人民之勞也、向後以其相應、可減少之、但上洛之節者、任敎令、公役者可隨分限事
一、新儀之城郭搆營堅禁止之、居城之隍壘石壁以下敗壞之時者、達奉行所、可受其旨也、櫓塀門等之分者、如先規可修補事
一、於江戸幷何國、縱令何等之事雖有之、在國之輩者守其所、可相待下知事
一、雖於何所行刑罰、役者之外不可出向、但可任撿使之左右事
一、企新儀、結徒黨、成誓約之儀制禁事
一、諸國主幷領主等不可致私諍論、平日須加謹愼也、若有可及遲滯之儀、達奉行所、可受其旨事
一、國主、城主、壹万石以上幷近習、物頭者、私不可結婚姻事
一、音信贈答嫁娶之儀式或饗應或家宅營作等、當時甚至華麗、自今以後、可爲簡略、其外万事可用儉約事
一、衣裳之科不可混亂、白綾公卿以上、白小袖諸大夫以上聽之、紫袷、紫裏、練、無紋之小袖、猥不可着之、至諸家中郎從諸卒者、綾羅錦繡之飾服、非古法、令制禁事
一、乘輿者、一門之歴々、國主、城主、壹万石以上幷國大名之息、城主曁侍從以上之嫡子、或歳五十以上或醫陰兩道、病人免之、其外禁濫吹、但免許之輩者各別也、至于諸家中者、於其國撰其人、可乘之、公家、門跡、諸出世之衆制外之事
一、本主之障有之者不可相拘、若有反逆殺害人之告者、可返之、向背之族者或返之、或可追出事
一、陪臣質人所獻之者、可及追放死刑時、可伺 上意、若於當座、有難遁儀、斬戮之者、其子細可言上事
一、知行所務淸廉沙汰之、不致非法、國郡不可令衰弊事
一、道路驛馬舟梁等無斷絶、不可令致往還之停滯事
一、私關所、新法之津留、制禁事
一、五百石積以上之船停止事
一、諸國散在之寺社領、自古至*今所附來、向後不可取放事
一、万事如江戸之法度、於國々所々可遒行事
  右條々、准當家先例之旨、今度潤色而定之訖、堅可相守者也

    寛永十二年六月廿一日

                   『近世法制史料叢書 第二』より

    *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<読み下し文>

一、文武弓馬ノ道[1]、専相嗜ベキ事。文ヲ左ニシ武ヲ右ニスルハ、古ノ法也。兼備セサルヘカラス、弓馬ハ是レ武家ノ要枢也。兵ヲ号ンデ凶器トナス、已ムヲ得スシテ之ヲ用フ。治ニ乱ヲ忘レズ、何ゾ修錬ヲ励マサランヤ。
一、大名・小名[2]在江戸交替[3]相定ムル所ナリ。毎歳夏四月[4]中、参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費[5]、且ハ人民ノ労ナリ。向後[6]ソノ相応[7]ヲ以テコレヲ減少スベシ。但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限[8]ニ随フベキ事。
一、新規ノ城郭構営[9]ハ堅クコレヲ禁止ス。居城ノ隍塁[10]・石壁以下敗壊ノ時ハ、奉行所二達シ、其ノ旨ヲ受クベキナリ。櫓・塀・門等ノ分ハ、先規ノゴトク修補[11]スベキ事。
一、江戸ナラビニ何国ニ於テタトヘ何篇[12]ノ事コレ有ルトイヘドモ、在国ノ輩ハソノ処ヲ守リ、下知相待ツベキ事。
一、何所ニ於テ刑罰ノ行ハルルトイヘドモ、役者ノ外出向スベカラズ。但シ検使[13]ノ左右ニ任セルベキ事。
一、新儀ヲ企テ徒党ヲ結ビ[14]誓約ヲ成スノ儀、制禁ノ事。
一、諸国主[15]ナラビニ領主等私ノ諍論致スベカラズ。平日須ク謹慎ヲ加フルベキナリ。モシ遅滞ニ及ブベキノ儀有ラバ、奉行所ニ達シソノ旨ヲ受クベキ事。
一、国主[15]・城主・一万石以上ナラビニ近習・物頭ハ、私ニ[16]婚姻ヲ結ブベカラザル事。
一、音信[17]・贈答・嫁娶リ儀式、或ハ饗応[18]或ハ家宅営作等、当時甚ダ華麗ノ至リ、自今以後簡略タルベシ。ソノ外万事倹約ヲ用フルベキ事。
一、衣装ノ品混乱スベカラズ。白綾[19]ハ公卿以上、白小袖[20]ハ諸大夫以上コレヲ聴ス。紫袷・紫裡・練・無紋ノ小袖[20]ハ猥リニコレヲ着ルベカラズ。諸家中ニ至リ郎従・諸卒ノ綾羅錦繍[21]ノ飾服ハ古法ニ非ズ、制禁セシムル事。
一、乗輿ハ、一門ノ歴々・国主[15]・城主・一万石以上ナラビニ国大名ノ息、城主オヨビ侍従以上ノ嫡子、或ハ五十歳以上、或ハ医・陰ノ両道、病人コレヲ免ジ、ソノ外濫吹[22]ヲ禁ズ。但シ免許ノ輩ハ各別ナリ。諸家中ニ至リテハ、ソノ国ニ於テソノ人ヲ撰ビコレヲ載スベシ。公家・門跡[23]・諸出世ノ衆ハ制外ノ事。
一、本主ノ障リコレ有ル者相抱エルベカラズ。モシ反逆・殺害人ノ告ゲ有ラバコレヲ返スベシ。向背[24]ノ族ハ或ハコレヲ返シ、或ハコレヲ追ヒ出スベキ事。
一、陪臣ノ質人ヲ献ズル所ノ者、追放・死刑ニ及ブベキ時ハ、上意ヲ伺フベシ。モシ当座ニ於テ遁レ難キ儀有ルニオイテコレヲ斬戮[25]スルハ、ソノ子細言上スベキ事。
一、知行所務清廉[26]ニコレヲ沙汰シ、非法致サズ、国郡衰弊[27]セシムベカラザル事。
一、道路・駅馬・舟梁等断絶無ク、往還ノ停滞ヲ致サシムベカラザル事。
一、私ノ関所・新法ノ津留メ[28]制禁ノ事。
一、五百石以上ノ船[29]、停止ノ事。
一、諸国散在寺社領、古ヨリ今ニ至リ附ケ来ル所ハ、向後[6]取リ放ツ[30]ベカラザル事。
一、万事江戸ノ法度[31]ノゴトク、国々所々ニ於テコレヲ遵行[32]スベキ事。
 右條々ハ、當家先例之旨ニヨル、今度潤色[33]而シテ之ヲ定メルニイタル、堅ク相守ルベキ者也。

  寛永十二年六月廿一日

【注釈】

[1]文武弓馬ノ道:ぶんぶきゅうばのみち=学問や武術。
[2]小名:しょうみょう=領地・禄高の少ない大名のことで江戸時代初期に用いられた。
[3]在江戸交替:ざいえどこうたい=在は大名の領地(国元)をいい、江戸との参勤交代の意味。
[4]夏四月:なつしがつ=旧暦では夏は4月~6月まで。
[5]国郡ノ費:こくぐんのついえ=領国の財政の無駄。
[6]向後:きょうこう=今後。
[7]相応:そうおう=大名の格式、家格に応じての意味。
[8]分限:ぶんげん=その人の社会的身分、地位。
[9]新儀ノ城郭構営:しんぎのじょうかくこうえい=新たに築城すること。
[10]隍塁:こうるい=濠と土塁。
[11]修補:しゅうほ=修理。
[12]何篇:いずれのへん=変事。
[13]検使:けんし=殺傷・変死の現場に出向いて調べること。また、その役人。
[14]徒党ヲ結ビ:ととうをむすび=仲間、団体、一味などを集めて団結する。
[15]国主:こくしゅ=国持大名のことだが、ここでは諸大名の意味。
[16]私ニ:わたくしに=私的に。公儀の許可なく、勝手に。
[17]音信:いんしん=便りをすること。便り。また、手紙や訪問によってよしみを通じること。
[18]饗応:きょうおう=酒や料理をとりそろえてもてなすこと。馳走すること
[19]白綾:しらあや=白地の綾織物。
[20]小袖:こそで=袖口の小さく縫いつまっている衣服。
[21]綾羅錦繍:りょうらきんしゅう=あやぎぬとうすぎぬと錦(にしき)と刺繍のある布。
[22]濫吹:らんすい=無能の者が才能のあるように装うこと。また、過分な地位にあること。
[23]門跡:もんぜき=皇族・貴族の子弟が出家して、入室している特定の寺格の寺家・院家。また、その寺家・院家の住職。
[24]向背:きょうはい=従うこととそむくこと。従ったりそむいたりすること。
[25]斬戮:ざんりく=斬殺、殺戮。
[26]清廉:せいれん=心が清く私欲のないこと。行ないがいさぎよく、私利私欲をはかる心がないこと。また、そのさま。
[27]衰弊:すいへい=勢いなどがおとろえ弱ること。
[28]津留メ:つどめ=領主が米穀その他の物資の他領との移出入を制限・停止したこと。多くが港で行なわれた。
[29]五百石以上ノ船:ごひゃっこくいじょうのふね=米500石(約75トン)以上を積むことが出来る船。
[30]取リ放ツ:とりはなつ=取り上げる。剝奪する。
[31]法度:はっと=法令。
[32]遵行:じゅんぎょう=従い行う。遵守。
[33]潤色:じゅんしょく=補うこと。加筆すること。

<現代語訳>  

一、学問や武術をみがくことにひたすら励むべきこと。文武両道に励むことは、昔からの法である。文武両道を兼備しなければならない。武術は武家の要となることである。兵をさけんで凶器となる、やむを得ずしてこれを用いる。治に乱を忘れない、どうして修錬を励まないでいいことがあろうか。
一、大小の大名は、国元と江戸との間を交代勤務することを定める。毎年夏の4月中に参勤せよ。従者の数が近年非常に多く、領国の財政の無駄や領民の負担となる。今後はその大名の格式、家格に応じて人数を減少せよ。ただし、上洛の際は定めの通り、役一、目は身分にふさわしいものにすること。
一、新たに築城することは厳禁する。居城の濠や土塁、石垣などが壊れた時は、奉行所に申し出て指示を仰ぐこと。櫓、塀、門などは先の規則(元和令)に従って修理すること。
一、江戸を゜はじめいかなる国において、どのような事件が起こったとしても、両国にいる者はその場所を守り、幕府からの命令を待つこと。
一、どこかで刑罰が執行されもといっても、担当者以外は出向いてはならない。ただし、検使の指図には任せること。
一、新たなものを企て、仲間を集め、誓約を取り交わすようなことは禁止すること。
一、諸国の大名や領主等は私闘をしてはならない。日頃から謹んでおくこと。もし、うまくいかないことが起きた場合は、奉行所に届け出て、その指示を受けるべきこと。
一、国持・城持・一万石以上の大名、ならびに近習・物頭は、公儀の許可なく、勝手に結婚してはならないこと。
一、よしみを通じたり、品物などの贈答、結婚の儀式、酒や料理をとりそろえてのもてなしや屋敷の建設などが最近華美になってきているので、今後は簡略化すること。その他もすべてにおいて倹約に心掛けること。
一、衣装の身分によるしきたりを乱れさせてはならない。白地の綾織物は公卿以上、白地の小袖は大夫以上に許す。紫袷・紫裡・練・無紋の小袖は、みだりにこれを着用してはならない。諸々の家中の下級武士が綾羅や錦の刺繍のある服を着用するのは古くからのしきたりには無いので、禁止とすること。
一、輿を使える者は、徳川一門、国持・城持・一万石以上の大名、ならびに国持大名の息子、城持大名、侍従以上の嫡子、あるいは50歳以上の者、あるいは医者、陰陽道の者、病人はこれを許可するが、その他が身分を装って使用することは禁止する。ただし許可を得た者は特別とする。諸家中においては、その国内で使える人を選んで定めること。公家・門跡・その他身分の高い者は、その定めの例外とすること。
一、元の主人から障害があるとされた者を家来として召し抱えてはならない。もし反逆者・殺人者とわかったならば元の主人へ返せ。動静がはっきりしない者は元の主人へ返すか、またはこれを追放すべきこと。
一、幕府に人質を出している家臣を追放・死刑に処する際には、公儀の意向を伺うこと。もし急遽回避することができない事態に至り、これを斬殺した際には、その詳細を報告すべきこと。
一、領地での政務は心清く私欲なく行い、違法なことをせず、国郡の勢いを衰え弱らせてはならないこと。
一、道路、駅の馬、船や橋などを途絶えさせることなく、往来を停滞させてはならないこと。
一、私設の関所を設置したり、新法を制定して物資の他領との移出入を制限・停止してはならないこと。
一、500石積み以上の船を造ってはならないこと。
一、諸国に散在する寺社の領地で昔から現在まで所有しているところは、今後取り上げてはならないこと。
一、全て江戸幕府の法令のごとく、どこにおいてもこれを遵守すべきこと。
  右の条文は、当家先例の趣旨に従い、この度加筆訂正してこれを定めるに至る、堅く守るべきものである。

  寛永12年(1635年)6月21日

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