
1395年(応永2)に従四位、1396年に正四位下へ昇叙し、参議となり、1397年(応永4)に従三位に昇叙、権中納言となり、1400年(応永7)には幕府評定始に出るようになりました。さらに、1402年(応永9)に正二位から従一位に昇叙、1406年(応永13)には、権大納言兼右大将に上ります。
1408年(応永15年5月6日)に父・足利義満が亡くなると、管領斯波義将らの支持を得てその地位を保全し、朝廷が太上法皇(太上天皇)の尊号を与えようとしましたがそれを拒否しました。1409年(応永16)に内大臣となり、北山第から新築成った三条坊門第に移り、1411年(応永18)には、明と国交を断絶し、冊封関係も消滅させ、独自の政策を進めます。
1416年(応永23)に関東に起った上杉禅秀の乱に参画した弟義嗣を1418年(応永25)に殺害しました。1423年(応永30)に鎌倉公方の足利持氏を制圧、子義量(よしかず)に将軍職を譲って、等持院で出家します。
1425年(応永32)に義量が19歳で急死すると、再び政務をとるようになりましたが、1428年(正長元年1月18日)に京都において、数え年43歳で亡くなり、太政大臣を追贈されました。