ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:武士

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 今日は、南北朝時代の1386年(至徳3/元中3)に、室町幕府第4代将軍足利義持が生まれた日ですが、新暦では3月12日となります。
 足利義持(あしかが よしもち)は、京都において、第3代将軍の父・足利義満の子(母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子)として生まれました。1394年(応永元)に9歳で元服し、第4代将軍となり、正五位下に叙されたものの、実権は父・義満が握り続けます。
 1395年(応永2)に従四位、1396年に正四位下へ昇叙し、参議となり、1397年(応永4)に従三位に昇叙、権中納言となり、1400年(応永7)には幕府評定始に出るようになりました。さらに、1402年(応永9)に正二位から従一位に昇叙、1406年(応永13)には、権大納言兼右大将に上ります。
 1408年(応永15年5月6日)に父・足利義満が亡くなると、管領斯波義将らの支持を得てその地位を保全し、朝廷が太上法皇(太上天皇)の尊号を与えようとしましたがそれを拒否しました。1409年(応永16)に内大臣となり、北山第から新築成った三条坊門第に移り、1411年(応永18)には、明と国交を断絶し、冊封関係も消滅させ、独自の政策を進めます。
 1416年(応永23)に関東に起った上杉禅秀の乱に参画した弟義嗣を1418年(応永25)に殺害しました。1423年(応永30)に鎌倉公方の足利持氏を制圧、子義量(よしかず)に将軍職を譲って、等持院で出家します。
 1425年(応永32)に義量が19歳で急死すると、再び政務をとるようになりましたが、1428年(正長元年1月18日)に京都において、数え年43歳で亡くなり、太政大臣を追贈されました。

〇足利義持関係略年表(日付は旧暦です)

・1386年(至徳3/元中3年2月12日) 京都において、第3代将軍の父・足利義満の子(母は安芸法眼の娘で側室の藤原慶子)として生まれる
・1394年(応永元年12月17日) 9歳で元服し、左近衛中将に任官、併せて征夷大将軍宣下、正五位下に叙される
・1395年(応永2年6月3日) 従四位に昇叙する
・1396年(応永3年4月20日) 正四位下に昇叙する 
・1396年(応永3年9月12日) 参議となる
・1397年(応永4年1月5日) 従三位に昇叙する
・1397年(応永4年3月29日) 権中納言となる
・1398年(応永5年1月5日) 正三位に昇叙する
・1400年(応永7年1月5日) 従二位に昇叙する
・1400年(応永7年1月11日) 幕府評定始に出る
・1401年(応永8年3月24日) 権大納言に転任する
・1402年(応永9年1月6日) 正二位に昇叙する
・1402年(応永9年11月19日) 従一位に昇叙する
・1406年(応永13年8月17日) 権大納言兼右近衛大将に上る
・1407年(応永14年1月5日) 右馬寮御監を兼務する
・1408年(応永15年5月6日) 父・足利義満が亡くなる
・1408年(応永15年5月9日) 朝廷が義満に太上法皇(太上天皇)の尊号を与えようとしたが、拒否する
・1409年(応永16年3月23日) 内大臣に転任する
・1409年(応永16年10月) 北山第から新築成った三条坊門第に移る
・1411年(応永18年) 明と国交を断絶し、冊封関係も消滅する
・1411年(応永18年7月) 飛騨国司の姉小路尹綱が反乱を起こして同国守護の佐々木高光に討たれる
・1412年(応永19年) 北朝の称光天皇を擁立する
・1412年(応永19年5月) 右近衛大将を辞任する
・1413年(応永20年10月22日) 淳和奨学両院別当を兼務する
・1414年(応永21年6月8日) 宿老・斯波義将の甥・斯波満種が不興を買い、加賀守護職を召し上げられて高野山に隠退する
・1414年(応永21年11月29日) 細川宮内少輔が東大寺の所領を横領したとして自害させられる
・1415年(応永22年) 河内で楠木氏が反乱を起こす
・1416年(応永23年10月) 関東で上杉禅秀の乱が起こる
・1417年(応永24年) 土岐持頼が義嗣に与力したとして所領数か所が召し上げられる
・1418年(応永25年1月24日) 義嗣が義持の密命を受けた富樫満成に殺害される
・1419年(応永26年8月29日) 内大臣を辞任する
・1423年(応永30年) 鎌倉公方の足利持氏を制圧する
・1423年(応永30年3月18日) 将軍職を義量(よしかず)に譲る
・1423年(応永30年4月25日) 等持院で出家する
・1425年(応永32年2月27日) 義量が19歳で急死すると再び政務をとる
・1428年(正長元年1月18日) 京都において、数え年43歳で亡くなり、太政大臣を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

729年(神亀6)長屋王が謀叛の疑いで邸宅を包囲され自害する(新暦3月16日)詳細
1823年(文政6)写真業創始者・写真家・画家下岡蓮杖の誕生日(新暦3月24日)詳細
1889年(明治22)黒田清隆内閣総理大臣が鹿鳴館において、地方長官らに対し超然主義演説をする詳細
1996年(平成8)小説家司馬遼太郎の命日詳細
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 今日は、江戸時代中期の1702年(元禄15)に、武士・尾張藩士・国学者・俳人横井也有の生まれた日ですが、新暦では10月24日となります。
 横井也有(よこい やゆう)は、尾張国名古屋で尾張藩の御用人や大番頭を務めた父・横井時衡の長男として生まれましたが、名は時般(ときつら)と言いました。祖父・時英 (野双)、父・時衡 (一水) に俳諧の感化を受け、15歳の頃から自学自習をはじめたとされます。
 1727年(享保12)の26歳の時、父が他界して家督知行1,000石(後に1,200石)を継承して普請組寄合となり、1730年(享保15)に御用人、1741年(元文6)の40歳の時、大番頭兼御用人となり、後寺社奉行を務めるなど藩の要職を歴任しました。文武に優れ、儒学を深く修めると共に、俳諧は各務支考の一門である武藤巴雀、太田巴静らに師事します。
 1745年(延享2)に、第8代尾張藩主宗勝公のお供をして中山道を下ったりもしましたが、1754年(宝暦4)の53歳の時、病を理由に隠居し、名古屋郊外の前津(現・名古屋市中区前津)の草庵「知雨亭」にて風雅な余生を送りました。俳文、漢詩、和歌、狂歌、茶道などに親しむ風流人として知られ、俳文集『鶉衣(うずらごろも)』を初め、『野夫 (やふ) 談』(1762年)、連句集『蘿葉集』(1767年)、句集『垤 (ありづか) 集』(1770年)などを出しています。
 多芸多能で、書や謡曲等も能くしましたが、1783年(天明3年6月16日)に、尾張国名古屋で、数え年82歳で亡くなりました。

<代表的な句>

・「俎板(まないた)のなる日はきかずかんこ鳥」
・「筏師に何をか問む青あらし」
・「くさめして見失ふたるひばりかな」
・「綿入れを木曽路の夏や花の旅」
・「化物の正体見たり枯尾花」
・「短夜や我にはながき夢さめぬ」(辞世)

〇横井也有の主要な著作

・俳文集『鶉衣(うずらごろも)』
・編著『野夫 (やふ) 談』(1762年)
・連句集『蘿葉集』(1767年)
・句集『垤 (ありづか) 集』(1770年)
・句集『蘿葉 (らよう) 集』
・俳論『管見草 (くだみそう) 』
・『美南無寿比』
・『的なし』
・漢詩文集『蘿隠編』
・狂歌集『行々子』

☆横井也有関係略年表(日付は旧暦です)

・1702年(元禄15年9月4日) 尾張国名古屋で尾張藩の御用人や大番頭を務めた横井時衡の長男として生まれる

・1716年(享保元年) 15歳の時、自学自習をはじめる

・1727年(享保12年) 26歳の時、父が他界して家督知行1,000石を継承して普請組寄合となる

・1730年(享保15年) 御用人となる

・1740年(元文5年) 野火留を訪ねて、「業平塚」を見る

・1741年(元文6年) 40歳の時、大番頭兼御用人となる

・1745年(延享2年4月6日) 第八代尾張藩主宗勝公のお供をして中山道を下る

・1754年(宝暦4年) 53歳にして病を理由に隠居、「遊西音寺」という詩を詠む

・1755年(宝暦5年) 「遊霊松山」という詩を詠む

・1758年(宝暦8年) 大島蓼太は吉野行脚の途上半掃菴に也有を訪れる

・1760年(宝暦10年) 『七時雨』(横田柳几編)の序を書く

・1762年(宝暦11年) 『野夫 (やふ) 談』を出す

・1763年(宝暦13年6月18日) 不之庵木児が75歳で没し、追悼文を書く

・1766年(明和3年) 巴笑が木曽の桟に芭蕉の句碑を建立し、也有が筆を取る

・1766年(明和3年) 『八橋集』(片水・除来編)の序を書く

・1767年(明和4年) 連句集『蘿葉集』を出す

・1769年(明和6年4月) 植田古帆、大木巴牛は「松葉塚」を再建、也有が筆を取る

・1770年(明和7年) 句集『垤 (ありづか) 集』を出す

・1771年(明和8年) 古稀の賀が行われる

・1772年(安永元年12月) 『秋の日』(暁台編)刊の序を書く

・1773年(安永2年8月18~28日) 内津(現在の愛知県春日井市内津町)に遊ぶ

・1774年(安永3年) 三狂庵門人箕輪連中は芭蕉の句碑を建立し、也有が筆を取る

・1779年(安永8年3月25日) 横田柳几が筑紫紀行の途次、也有を訪れる

・1783年(天明3年6月16日) 尾張国名古屋で、数え年82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1820年(文政3)備中鴨方藩士・文人画家浦上玉堂の命日で(新暦10月10日)詳細
1913年(大正2)政治家田中正造の命日詳細
1994年(平成6)関西国際空港が開港する(関西国際空港開港記念日)詳細
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 今日は、江戸時代後期の1810年(文化7)に、武士・医師・蘭学者緒方洪庵(おがた こうあん)の生まれた日ですが、新暦では8月13日となります。
 緒方洪庵は、備中国足守(現在の岡山県岡山市)において、足守藩士佐伯瀬左衛門の三男として生まれましたが、幼名は田上之助といいました。1825年(文政8)に元服して田上惟章と名乗るようになり、父が大坂蔵屋敷留守居役になったため同行して大坂に出ます。
 翌年に中天游の私塾「思々斎塾」に入門、4年間蘭学を学び、1831年(天保2)には、江戸へ出て坪井信道に入門(3年間在塾)、さらに宇田川玄真にも学びました。
 1836年(天保7)に長崎へ遊学し、オランダ商館長ニーマンのもとで医学を学び、この頃から洪庵と号すようになります。
 1838年(天保9)に、大坂に帰って瓦町で医業を開業するとともに、蘭学塾「適塾(適々斎塾)」を始めました。名が知られるようになり、門弟も増えたので、1845年(弘化2)に、過書町の商家跡へ適塾を移転します。
 多くの人材が集い、門人は600名以上に及び、大鳥圭介、佐野常民、大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内らを輩出しました。
 また、1849年(嘉永2)に、牛痘種痘法による切痘を始め、『虎狼痢治準』、『扶氏経験遺訓』、『病学通論』などの著訳書を出して、蘭学・医学の発展に貢献します。
 1862年(文久2)には、幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕し、「法眼」にも叙せられました。
 しかし、1863年(文久3年6月11日)、江戸の役宅において突然喀血し、52歳で急逝します。

〇適塾とは?

 蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が、江戸時代後期の1838年(天保9)に、大坂の瓦町に開いた蘭学の家塾ですが、正式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)といいます。
 1843年(天保14)には、船場過書町に移転して、大いに発展し、緒方洪庵が1862年(文久2)に江戸に移るまで続きます。この間の門人数は600名余りで、出身地はほぼ全国に及び、大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内、大鳥圭介など幕末から明治にかけて活躍した人材を多数輩出しました。
 尚、建物は現存していて、「緒方洪庵旧宅および塾」として1941年(昭和16)に国の史跡指定を受け、1964年(昭和39)には国の重要文化財ともなっています。

☆緒方洪庵の主要な著訳書

・『人身窮理小解』
・『虎狼痢 (ころり) 治準』
・訳書『病学通論』
・訳書『扶氏経験遺訓』
・訳書『人身窮理小解』
・訳書『視力乏弱病論』
・訳書『和蘭詞解略説』
・訳書『白内翳治(はくないえいち)術集編』
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 今日は、江戸時代後期の1793年(寛政5)に、武士・画家 渡辺崋山の生まれた日ですが、新暦では10月20日となります。
 渡辺崋山は、江戸時代後期の三河国田原藩の家老で、画家でも、蘭学者でもありました。本名は渡辺定静といい、1793年(寛政5)江戸詰の田原藩士である渡辺定通の長男として、江戸麹町の田原藩邸(現在の東京都千代田区)で生まれました。
 16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕し、1823年(文政6)田原藩の和田氏の娘・たかと結婚しました。そして、1825年(文政8)父の病死に伴い32歳で家督を相続しています。
 その後頭角を現し、1832年(天保3)に田原藩の年寄役末席(家老職)となりしました。家老として藩務に勤めながら、蘭学を学び、画は谷文晁に師事し、画才を認められました。
 天保の飢饉の時には、食料対策に「報民倉」を設け餓死者を一人も出さなかったなど、施政者としても評価されています。
 しかし、「慎機論」を著して、幕府の鎖国政策を批判したため、蛮社の獄で捕らえられました。その後、田原に蟄居していましたが、1841年(天保12)に、49歳で自刃しています。
 画作としては、「鷹見泉石像」(国宝)、「佐藤一斎像」(国重要文化財)、「市河米庵像」(国重要文化財)などが知られています。

〇「蛮社の獄」とは?

 江戸時代後期の1839年(天保10)に、江戸幕府により渡辺崋山、高野長英ら尚歯会の洋学者グループに加えられた言論弾圧事件でした。
 1837年(天保8)に、米船モリソン号が日本漂流民返還のため浦賀に来航した際、幕府が「異国船打払令」によって撃退した事件(モリソン号事件)に関わって、渡辺崋山は『慎機論』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語) 』を書いて幕府の政策を批判したのです。
 これに対して、幕府は目付鳥居耀蔵らに命じて洋学者を弾圧し、渡辺崋山、高野長英らを逮捕したのですが、小関三英は逮捕の際に自殺しました。
 そして、幕政批判の罪により、同年12月、渡辺崋山には国許蟄居 (のち自殺) 、高野長英は永牢 (のち脱牢、自殺) の判決が下されたのです。
 尚、「蛮社」は洋学仲間の意味である「蛮学社中」の略として使われていました。
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