ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:歌舞伎作者

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 今日は、江戸時代後期の1829年(文政12)に、歌舞伎作者四代目鶴屋南北の亡くなった日ですが、新暦では12月22日となります。
 四代目鶴屋南北(よだいめ つるや なんぼく)は、1755年(宝暦5年)に江戸・日本橋の紺屋海老屋伊三郎の子として生まれたとされますが、本名は伊之助または勝次郎と言いました。生来の芝居好きで、20代初めに狂言作者を志し、1776年(安永5)に初代桜田治助の門に入り、翌年には、初世桜田治助の苗字をもらい桜田兵蔵の名で番付に載ります。
 1782年(天明2)に、道化方の俳優3世南北の娘をめとり、勝俵蔵を名のり、1786年(天明6)から狂言作者に専心、道外方大谷徳次を使った「おかしみの狂言」を書き、認められました。1797年(寛政9)に三世坂東彦三郎付きの作者となり、1799年(寛政10)の5歳の時、立作者となります。
 1803年(享和3)の49歳の時、三代目坂東彦三郎のために『世響音羽桜』を書き、翌年の江戸河原崎座で初代尾上松助のために書き下ろした『天竺徳兵衛韓噺』(天竺徳兵衛)が大当たりとなりました。1805年(享和5)に河原崎座で『四天王楓江戸粧』を成功させ、1806年(享和6)には五世松本幸四郎一座の立作者となります。
 1808年(文化5)に市村座『彩入御伽草』で怪談物の狂言を完成させ、1811年(文化8)には、四代目鶴屋南北を襲名しました。以後、25年間に五世松本幸四郎、五世岩井半四郎、三世尾上菊五郎のため、120編の作品を書き、中でも1825年(文政8)の『東海道四谷怪談』は代表作とされます。
 生世話(きぜわ)に巧みで、趣向に富むとされたものの、1829年(文政12)に『金幣猿島郡』を一世一代として引退、同年11月27日に江戸において、75歳で亡くなりました。尚、一般的に鶴屋南北といえば、四代目を指し、大南北と呼ばれ、孫の五代目は小南北とも呼ばれています。

〇鶴屋南北(4代目)の主要な著作

・『世響音羽桜』(1803年)
・『天竺徳兵衛韓噺』(1804年)
・『四天王楓江戸粧』(1805年)
・『彩入御伽草』(1808年)
・『絵本合法衢 (がっぽうがつじ) 』(1810年)
・『於染久松色読販 (おそめひさまつうきなのよみうり) 』(1813年)
・『隅田川花御所染』(1814年)
・『桜姫東文章』(1817年)
・『盟三五大切』(1825年)
・『東海道四谷怪談』(1825年)
・『金幣猿島郡(きんのざいさるしまだいり)』(1829年)

☆鶴屋南北(4代目)関係略年表(日付は旧暦です)

・1755年(宝暦5年) 江戸・日本橋の紺屋海老屋伊三郎の子として生まれる
・1776年(安永5年) 初代桜田治助の門に入る
・1777年(安永6年) 初世桜田治助(じすけ)の苗字(みょうじ)をもらい桜田兵蔵の名で番付に載る
・1782年(天明2年) 道化方の俳優3世南北の娘をめとり、勝俵蔵を名のる
・1786年(天明6年) 狂言作者に専心、道外方大谷徳次を使った「おかしみの狂言」を書き、認められる
・1797年(寛政9年) 3世坂東(ばんどう)彦三郎付きの作者となる
・1799年(寛政10年) 45歳の時、立(たて)作者となる
・1803年(享和3年閏1月) 49歳の時、三代目坂東彦三郎のために『世響音羽桜』を書く
・1804年(享和4年7月) 江戸河原崎座で初代尾上松助のために書き下ろした『天竺徳兵衛韓噺』(天竺徳兵衛)が大当たりとなる
・1805年(享和5年1月) 河原崎座で『四天王楓江戸粧』を成功させる
・1806年(享和6年) 5世松本幸四郎一座の立作者となる
・1808年(文化5年閏6月) 市村座『彩入御伽草』で怪談物の狂言を完成する
・1811年(文化8年) 四代目鶴屋南北を襲名する
・1825年(文政8年) 代表作『東海道四谷怪談』を書く
・1829年(文政12年) 『金幣猿島郡(きんのざいさるしまだいり)』を一世一代として引退する
・1829年(文政12年11月27日) 江戸において、75歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1886年(明治19)洋画家藤田嗣治の誕生日詳細
1890年(明治23)小説家・翻訳家・仏文学者・児童文学者豊島与志雄の誕生日詳細
1942年(昭和17)戦時標語である「国民決意の標語」懸賞募集の入選と佳作が紙面上に発表される詳細


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 今日は、江戸時代中期の享保9年に、浄瑠璃・歌舞伎作者近松門左衛門の亡くなった日ですが、新暦では1725年1月6日となります。
 近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん)は、江戸時代前期の1653年(承応2)に、越前国において、吉江藩士の父・杉森信義(のぶよし)の二男として生まれましたが、名は信盛(通称は平馬)と言いました。父が浪人となったため、15、16歳の頃に家族と共に京都に移り、堂上貴族の一条恵観、正親町公通らに仕えます。
 後に近江の近松寺に遊学し、近松の姓の由来になったともされてきました。京都の宇治加賀掾のもとで修業、1685年(貞享2)に竹本義太夫(筑後掾)のために『出世景清』を書いて名声を博し、以後二人の協力関係が始まったとされます。
 1693年(元禄6)から歌舞伎の坂田藤十郎に作品を提供、『傾城仏の原』(1699年)、『傾城壬生大念仏』(1702年)などの傑作を書き、その名演技と相まって上方歌舞伎の全盛を招きましたが、1709年(宝永6)の藤十郎没後は歌舞伎を離れました。一方、1703年(元禄16)に義太夫のために執筆した『曾根崎心中』で世話浄瑠璃を確立し、宝永2年(1705年)には竹本座座付作者となり、『冥途の飛脚』(1711年)を書きます。
 1714年(正徳4)に義太夫が没した後も、『国性爺合戦』(1715年)、『心中天の網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)などの代表作を書きました。時代物、世話物ともに優れ、従来の古浄瑠璃と一線を画した功績は大きかったのですが、1725年1月6日(享保9年11月22日)に、大坂において、数え年72歳で亡くなっています。
 後世には、井原西鶴、松尾芭蕉と並ぶ江戸文学界の巨頭とされるようになりました。

〇近松門左衛門の主要な作品

・『出世景清』(1685年・大坂竹本座初演)
・『傾城阿波の鳴門』(1695年・京の早雲座初演)
・『傾城仏の原』(1699年・京の都万太夫座上演)
・『傾城壬生大念仏』(1702年・京の都万太夫座上演)
・『曾根崎心中』(1703年初演)
・『薩摩歌』(1704年・大坂竹本座初演?)
・『用明天王職人鑑』(1705年・大坂竹本座初演)
・『心中重井筒』(1707年・大坂竹本座初演)
・『丹波与作待夜の小室節』(1707年・大坂竹本座初演)
・『けいせい反魂香 (はんごんこう) 』(1708年・大坂竹本座初演)
・『心中刃は氷の朔日』(1709年・大坂竹本座初演)
・『心中万年草』(1710年・大坂竹本座初演)
・『堀川波鼓』(1711年以前・大坂竹本座初演)
・『冥途の飛脚』(1711年初演?)
・『長町女腹切』(1712年秋・大坂竹本座初演)
・『嫗山姥』(1712年・大坂竹本座初演)
・『阿波鳴門物』(1712年・大坂竹本座初演)
・『国性爺合戦』(1715年・大坂竹本座初演)
・『大経師昔暦』(1715年・大坂竹本座初演)
・『生玉心中』(1715年・大坂竹本座初演)
・『鑓の権三重帷子』(1717年・大坂竹本座初演)
・『山崎与次兵衛寿の門松』(1718年・大坂竹本座初演)
・『日本振袖始』(1718年・大坂竹本座初演)
・『博多小女郎波枕』(1718年・大坂竹本座初演)
・『平家女護島』(1719年・大坂竹本座初演)
・『双生隅田川』(1720年・大坂竹本座初演)
・『心中天の網島』(1720年・大坂竹本座初演)
・『女殺油地獄』(1721年・大坂竹本座初演)
・『信州川中島合戦』(1721年・大坂竹本座初演)
・『心中宵庚申(しんじゅうよいごうしん)』(1722年・大坂竹本座初演)
・『関八州繫馬』(1724年・大坂竹本座初演)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1917年(大正6)江戸幕府15代将軍・公爵徳川慶喜の命日詳細
1944年(昭和19)米・英・中首脳による日本の戦後処理についてのカイロ会談が始まる詳細


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