ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:歌人

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 今日は、江戸時代中期の1705年(宝永2)に、歌人・俳人・和学者北村季吟の亡くなった日ですが、新暦では8月4日となります。
 北村季吟(きたむら きぎん)は、1625年1月19日(寛永元年12月11日)に、近江国野洲郡北村(現在の滋賀県野洲市)の医師だった父・北村宗円の修業先の京都で出生したとされますが、名は静厚(しずあつ)と言いました。祖父・宗竜と父・宗円が連歌を能くし、医業修行の傍ら、早くから俳諧に親しみます。
 京都に出て、16歳で安原貞室に、22歳で松永貞徳に入門、1648年(正保5)には、処女作『山之井』を刊行しました。1653年(慶安6)に『紅梅千句』の大興行に参加し跋文も書き、1655年(明暦元)に中国宋代の劉向の「列女伝」を翻訳し『仮名烈女伝』を出しましたが、1656年(明暦2)には、『誹諧合』を出して独立を宣言します。
 1660年(寛文元)に句集『新続犬筑波集』を編集し、1673年(延宝元)には、俳論書『埋木』を刊行しました。また、飛鳥井雅章・清水谷実業に和歌、歌学を学び、『徒然草文段抄』(1667年)、『源氏物語湖月抄』(1673年)、『枕草子春曙抄』(1674年)、『伊勢物語拾穂抄』(1680年)、『八代集抄』(1682年)などの注釈書も出しています。
 1683年(天和3)に京都新玉津島神社の社司となり、天和年間には、俳業をほとんど廃して古典注釈に没頭したとされてきました。1689年(元禄年)に、子息の湖春と共に幕府歌学方500石として召され、江戸に下ったものの、1697年(元禄10)に子息の湖春が亡くなり、1699年(元禄12)には、再昌院の号と法印の称号を受けています。
 門下からは、山岡元隣、松尾芭蕉、山口素堂などを輩出しましたが、1705年(宝永2年6月15日)に、江戸において、数え年82歳で亡くなりました。

〇北村季吟の主要な著作

・俳諧季寄せ『山之井(やまのい)』(1648年)
・翻訳『仮名烈女伝』(1655年)
・句集『新続犬筑波集』(1667年)
・注釈書『徒然草文段抄』(1667年)
・注釈書『源氏物語湖月抄』(1673年)
・俳諧論書『埋木 (うもれぎ) 』(1673年)
・注釈書『枕草子春曙 (しゆんしよ) 抄』(1674年)
・『続連珠』(1676年)
・仮名草子『岩つつじ』(1676年)
・句合書『六百番誹諧発句合(ほつくあわせ)』(1677年)
・注釈書『伊勢物語拾穂抄』(1680年)
・注釈書『八代集抄』(1682年)
・注釈書『万葉拾穂抄』(1682~86年)
・歌集『季吟子和歌』(1684年)
・名所記『菟芸泥赴』(1684年)

☆北村季吟関係略年表(日付は旧暦です)

・1625年1月19日(寛永元年12月11日) 近江国野洲郡北村(現在の滋賀県野洲市)の医師だった父・宗円の修業先の京都で出生したとされる
・1639年(寛永16年) 16歳の時、安原貞室に入門する
・1645年(正保2年) 22歳の時、松永貞徳に入門する
・1648年(正保5年) 処女作『山之井』を刊行する
・1653年(慶安6年) 『紅梅千句』の大興行に参加し跋文も書く
・1655年(明暦元年) 中国宋代の劉向の「列女伝」を翻訳し『仮名烈女伝』を出す
・1656年(明暦2年) 『誹諧合(はいかいあわせ)』を出して独立を宣言する
・1660年(寛文元年) 句集『新続犬筑波(いぬつくば)集』を出す
・1673年(延宝元年) 俳論書『埋木(うもれぎ)』を刊行する
・1673年(延宝元年) 注釈書『源氏物語湖月抄』を著す
・1674年(延宝2年) 注釈書『枕草子春曙 (しゆんしよ) 抄』を出す
・1676年(延宝4年) 『続連珠』を出す
・1677年(延宝5年) 句合書『六百番誹諧発句合(ほつくあわせ)』を著す
・1680年(延宝8年) 注釈書『伊勢物語拾穂抄』を出す
・1682年(天和2年) 注釈書『八代集抄』を出す
・1683年(天和3年) 京都新玉津島神社の社司となる
・1681~84年(天和年間) 俳業をほとんど廃して古典注釈に没頭する
・1684年(貞享元年) 歌集『季吟子和歌』、名所記『菟芸泥赴』を出す 
・1689年(元禄2年) 子息の湖春と共に幕府歌学方500石として召され、江戸に下る
・1697年(元禄10年) 子息の湖春が亡くなる
・1699年(元禄12年) 再昌院の号と法印の称号をうける
・1705年(宝永2年6月15日) 江戸において、数え年82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

707年(慶雲4)第42代天皇とされる文武天皇の命日(新暦7月18日)詳細
1242年(仁治3)鎌倉幕府の第3代執権北条泰時の命日(新暦7月14日)詳細
1896年(明治29)明治三陸地震による大津波で死者約2万7千人の被害がが出る 詳細


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 今日は、鎌倉時代の1265年(文永2)に、第92代の天皇とされる伏見天皇の生まれた日ですが、新暦では5月10日となります。
 伏見天皇(ふしみてんのう)は、京都において、持明院統の後深草天皇の第二皇子(母は左大臣洞院実雄の娘)として生まれましたが、名は熈仁(ひろひと)と言いました。1275年(建治元)に大覚寺統の亀山上皇の猶子となり親王宣下され、1287年(弘安10)の23歳の時、後宇多天皇の譲位により践祚、翌年に第92代とされる天皇として即位、両統が交互に皇位に就く例(両統迭立)を開きます。
 1289年(正応2)に自分の皇子である胤仁親王(のちの後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まったものの、翌年には院政を敷いていた後深草院が出家し、以後は親政をとり、院評定衆の代わりに宮中に議定衆をおくなど公家政治振興に努めました。1290年(正応3)に宮中に甲斐源氏の浅原為頼父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起き、1298年(永仁6)には、胤仁親王(後伏見天皇)に譲位して、院政を執り行ないます。
 しかし、1301年(正安3)に、大覚寺統の巻き返しにより後伏見天皇は後二条天皇に譲位し、院政は後宇多院の手に移りました。1303年(正応5)に十三ヶ条の新制を制定し、政治の刷新をすすめ、1308年(徳治3)には、後二条天皇の崩御に伴い、花園天皇の即位を実現し、再び院政を敷きます。
 1311年(応長元)に以前頓挫した勅撰集編纂を再企画し、京極為兼に単独撰進を命じ、翌年には、14番目の勅撰集『玉葉和歌集』が完成し、奏覧されました。自身も歌を能くし、歌集『伏見院御集』を成し、以後の勅撰集にも多く掲載されます。また、当代随一の能書家として知られ、宸翰の多くが後に国指定重要文化財となりました。
 1313年(正和2)に出家し、後伏見上皇が院政を引き継いだものの、1317年(文保元年9月3日)に京都において、数え年53歳で亡くなり、陵墓は深草北陵(現在の京都市伏見区)とされます。

<代表的な歌>

・「更(ふ)けぬるか 過ぎ行く宿も しづまりて 月の夜道に あふ人もなし」(玉葉和歌集)
・「立ちかへる 月日やいつを まつら船 行方もなみの 千重に隔てて」(玉葉和歌集)
・「春をうくる 時のこころは ひとしきを 柳桜の おのがいろいろ」(伏見院御集)
・「秋風は 遠き草葉を わたるなり 夕日の影は 野辺はるかにて」(風雅和歌集)
・「星うたふ 声や雲ゐに すみぬらん 空にもやがて 影のさやけき」(新拾遺和歌集)

〇伏見天皇の主要な著作

・日記『伏見院御記』
・歌集『伏見院御集』

☆伏見天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1265年(文永2年4月23日) 京都において、後深草天皇の第二皇子(母は左大臣洞院実雄の娘)として生まれる
・1275年(建治元年) 大覚寺統の亀山上皇の猶子となり親王宣下される
・1287年(弘安10年10月21日) 23歳の時、後宇多天皇の譲位により践祚する
・1288年(正応元年3月3日) 藤原経子の腹に胤仁親王(のちの後伏見天皇)が生まれる
・1288年(正応元年3月15日) 第92代とされる天皇として即位する
・1288年(正応元年8月20日) 西園寺実兼の長女(のちの永福門院)を中宮とする
・1289年(正応2年4月) 自分の皇子である胤仁親王(のちの後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まる
・1290年(正応3年2月) 院政を敷いていた後深草院が出家し、以後は親政となる
・1290年(正応3年3月9日) 宮中に甲斐源氏の浅原為頼父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起きる
・1294年(永仁2年) 勅撰集の編纂を企図し、京極為兼・飛鳥井雅有・二条為世・九条隆博に撰進を命じるものの中断する
・1298年(永仁6年7月22日) 胤仁親王(後伏見天皇)に譲位して院政を執り行なう
・1301年(正安3年1月21日) 大覚寺統の巻き返しにより後伏見天皇は後二条天皇に譲位し、院政は後宇多院の手に移る
・1303年(正応5年) 十三ヶ条の新制を制定し、政治の刷新をすすめる
・1308年(徳治3年8月25日) 後二条天皇の崩御に伴い、花園天皇の即位を実現し、再び院政を敷く
・1311年(応長元年) 再び勅撰集編纂を企画し、京極為兼に単独撰進を命ずる
・1312年(正和元年3月28日) 十四番目の勅撰集『玉葉和歌集』が完成し、奏覧される
・1313年(正和2年) 出家し、後伏見上皇が院政を引き継ぐ
・1317年(文保元年9月3日) 京都において、数え年53歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、平安時代後期の1155年(久寿2)に、天台宗の僧・歌人慈円の生まれた日ですが、新暦では5月17日となります。
 慈円(じえん)は、京都において、摂政関白の父・藤原忠通の子(母は藤原仲光女加賀)として生まれました。2歳の時に母を亡くし、10歳の時に父を亡くし、1165年(永万元)には、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門し、道快を名のりました。1167年(仁安2)に天台座主・明雲について受戒し、1170年(嘉応2)には、一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられます。
 1176年(安元2)に比叡山の無動寺で千日入堂を果し、1178年(治承2)に法性寺座主に任ぜられ、1181年(養和元)には、師覚快の入滅に遭い、この頃慈円と名を改めました。1182年(養和2)に覚快法親王の没後に空席になっていた青蓮院を継ぎ、全玄より伝法灌頂をうけ、1186年(文治2)には、平氏が滅亡し、源頼朝の支持のもと、兄兼実が摂政に就いています。
 1189年(文治5)に後白河院御悩により初めて宮中に召され、修法をおこない、1192年(建久3)には、38歳で天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられ、無動寺に大乗院を建立し、ここに勧学講を開きました。1196年(建久7)に兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居しましたが、1201年(建仁元)には、再び座主に補せられています。
 1202年(建仁2)に再び、座主を辞し、翌年大僧正に任ぜられたものの、すぐにそれも辞しました。1204年(元久元)に自坊白川坊に大懺法院を建立しましたが、翌年には祇園東方の吉水坊に移し、1206年(建永元)には、そこに熾盛光堂を造営し、大熾盛光法を修しています。
 1212年(建暦2)に後鳥羽院の懇請により三たび座主職に就きましたが、翌年一旦座主職を辞し、同年11月に四度目の座主に復帰したものの、1214年(建保2)にはそれも辞しました。その間、日本最初の歴史哲学書として有名な『愚管抄』を著わし、歌も能くし、後鳥羽上皇に重んじられて和歌所寄人ともなり、家集『拾玉集』も成しています。
 1222年(貞応元)に青蓮院に熾盛光堂・大懺法院を再興し、将軍頼経のための祈祷をしましたが、1225年(嘉禄元年9月25日)に近江国東坂本で、数え年71歳で亡くなりました。尚、『千載和歌集』以降の勅撰集には269首が入集、内『新古今和歌集』には92首が採られ、『小倉百人一首』にも入っています。

<代表的な歌>

・「おほけなく 憂き世の民に おほふかな わが立つ杣(そま)に 墨染の袖」(小倉百人一首)
・「散りはてて 花のかげなき 木このもとに たつことやすき 夏衣かな」(新古今和歌集)
・「初瀬川 さよの枕に おとづれて 明くる檜原に 嵐をぞきく」(玉葉和歌集)
・「旅の世に また旅寝して 草まくら 夢のうちにも 夢をみるかな」(千載和歌集)
・「せめてなほ うき世にとまる 身とならば 心のうちに 宿はさだめむ」(拾玉集)

〇慈円の主要な著作

・歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』7巻
・家集『拾玉集』

☆慈円関係略年表(日付は旧暦です)

・1155年(久寿2年4月15日) 京都において、摂政関白の父・藤原忠通の子(母は藤原仲光女加賀)として生まれる
・1156年(久寿3年) 2歳の時、母が亡くなる
・1164年(長寛2年2月19日) 10歳の時、父が亡くなる
・1165年(永万元年) 覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門し、道快を名のる
・1167年(仁安2年) 天台座主・明雲について受戒する
・1170年(嘉応2年) 一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられる
・1176年(安元2年) 比叡山の無動寺で千日入堂を果す
・1178年(治承2年) 法性寺座主に任ぜられる
・1180年(治承4年) 隠遁籠居の望みを兄の兼実に述べ、結局兼実に説得されて思いとどまる
・1181年(治承5年) 9歳の親鸞を得度させる
・1181年(養和元年11月) 師覚快の入滅に遭い、この頃慈円と名を改める
・1182年(養和2年) 覚快法親王の没後に空席になっていた青蓮院を継ぐ
・1182年(寿永元年) 全玄より伝法灌頂をうける
・1186年(文治2年) 平氏が滅亡し、源頼朝の支持のもと、兄兼実が摂政に就く
・1188年(文治4年) 西行勧進の「二見浦百首」に出詠する
・1189年(文治5年) 後白河院御悩により初めて宮中に召され、修法をおこなう
・1190年(建久元年) 姪の任子が後鳥羽天皇に入内する
・1192年(建久3年) 38歳で天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられ、ついで護持僧・法務に補せられる
・1192年(建久3年) 無動寺に大乗院を建立し、ここに勧学講を開く
・1195年(建久6年) 上洛した源頼朝と会見、意気投合し、盛んに和歌の贈答をする
・1196年(建久7年11月) 兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居する
・1198年(建久9年1月) 譲位した後鳥羽天皇は院政を始める
・1201年(建仁元年2月) 再び座主に補せられる
・1201年(建仁元年6月) 千五百番歌合に出詠する
・1201年(建仁元年7月) 後鳥羽院の和歌所寄人となる
・1202年(建仁2年) 源通親が急死し、兼実の子良経が摂政となる
・1202年(建仁2年7月) 座主を辞す
・1203年(建仁3年3月) 大僧正に任ぜられる
・1203年(建仁3年6月) 大僧正の職を辞する
・1204年(元久元年12月) 自坊白川坊に大懺法院を建立する
・1205年(元久2年) 大懺法院を祇園東方の吉水坊に移す
・1206年(建永元年) 良経は頓死する
・1206年(建永元年) 吉水坊に熾盛光堂(しじょうこうどう)を造営し、大熾盛光法を修する
・1207年(承元元年) 兄兼実が死去する
・1212年(建暦2年1月) 後鳥羽院の懇請により三たび座主職に就く
・1213年(建暦3年) 一旦座主職を辞する
・1213年(建暦3年11月) 四度目の座主に復帰する
・1214年(建保2年6月) 座主職を辞する
・1219年(建保7年1月) 鎌倉で第3代将軍実朝が暗殺され、九条道家の子頼経が次期将軍として鎌倉に下向する
・1221年(承久3年5月) 後鳥羽院が北条義時追討の宣旨を発し、挙兵する(承久の乱)
・1222年(貞応元年) 青蓮院に熾盛光堂・大懺法院を再興し、将軍頼経のための祈祷をする
・1225年(嘉禄元年9月25日)  近江国東坂本で、数え年71歳で亡くなる
・1237年(嘉禎3年)  慈鎮和尚の諡号を賜わる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

571年(欽明天皇32)第29代の天皇とされる欽明天皇の命日(新暦5月24日)詳細
905年(延喜5)醍醐天皇の命により紀貫之らが『古今和歌集』を撰進する(新暦5月21日)詳細


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 今日は、南北朝時代の1336年(建武3年/延元元)に、第93代の天皇とされる後伏見天皇(持明院統)が亡くなった日ですが、新暦では5月17日となります。
 後伏見天皇(ごふしみてんのう)は、鎌倉時代の1288年(弘安11年3月3日)に、伏見天皇の第一皇子(母は参議左近衛中将五辻経氏の娘・経子)として生まれましたが、名は胤仁(たねひと)と言いました。同年8月に親王宣下され、翌年に立太子し、永福門院の猶子となります。
 1298年(永仁6)の11歳の時、父・伏見天皇からの譲位により、践祚するものの、父が院政を敷き、両統迭立により大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子(邦治親王)を皇太子に立て、第93代の天皇として即位しました。1300年(正安2)の13歳の時、元服しましたが、翌年には、大覚寺統の邦治親王(後二条天皇)に譲位させられます。
 1308年(徳治3)に後二条天皇が急死し、弟の花園天皇が即位し、1313年(正和2)には、院政を敷いていた伏見上皇が出家したので、これを引き継いで院政を敷きました。1318年(文保2)に花園天皇は在位10年で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位し、院政はその父後宇多上皇に代わり、1326年(嘉暦元)には後二条天皇の第一皇子(邦良親王)が病死し、幕府の裁定で子の量仁親王がようやく皇太子に立ちます。
 1331年(元弘元)に後醍醐天皇が幕府に反旗を翻し、捕らえられ、鎌倉幕府により、皇太子量仁が即位して光厳天皇となり、後伏見上皇はしばらく院政を行ないました。しかし、1333年(元弘3)に幕府に反旗を翻した足利尊氏らの軍勢が京都に攻め込み、光厳天皇らとともに近江の太平護国寺に逃れたものの、捕らえられて京都に連れ戻されます。
 同年5月17日に光厳天皇廃位によって、上皇の院政も終わり、持明院殿で出家剃髪し、法名は理覚(のち行覚)となりましたが、1336年(建武3年/延元元年4月6日)に京都において、数え年49歳で亡くなりました。一方歌を能くし、仙洞五十番歌合(1303年)、十五夜五首会(1312年)などに出詠、歌集『後伏見院御集』(107首所収)を成し、『新後撰和歌集』以下の勅撰集へ計94首が入集、また、能書家としても知られています。

<代表的な歌>

・「夕山や ふもとの檜 原色さめて 残る日影ぞ みねにすくなき」(風雅和歌集)
・「雨しほる やよひの山の 木がくれに のこるともなき 花の色かな」(風雅和歌集)
・「夜すがらの 野分の風の 跡みれば 末ふす萩に 花ぞまれなる」(玉葉和歌集)
・「今更に その世もよほす 雲の色 よわすれてただに 過ぎし夕べを」(玉葉和歌集)
・「都には あらしばかりの さゆる日も 外山をみれば 雪ふりにけり」(続千載和歌集)

〇後伏見天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1288年(弘安11年3月3日) 伏見天皇の第一皇子(母は参議左近衛中将五辻経氏の娘・経子)として生まれる
・1288年(弘安11年8月10日) 親王宣下される
・1289年(正応2年4月25日) 2歳の時、立太子し、永福門院の猶子となる
・1298年(永仁6年7月22日) 11歳の時、父・伏見天皇からの譲位により、践祚するものの、父が院政を敷く
・1298年(永仁6年8月) 両統迭立により大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子(邦治親王)を皇太子に立てる
・1298年(永仁6年10月13日) 第93代とされる天皇として即位する
・1300年(正安2年1月3日) 13歳の時、元服する
・1301年(正安3年1月21日) 14歳の時、大覚寺統の邦治親王(後二条天皇)に譲位する
・1303年(乾元2年閏4月) 仙洞五十番歌合に出詠する
・1308年(徳治3年8月25日) 後二条天皇が急死し、弟の花園天皇が即位する
・1312年(正和元年8月) 十五夜五首会に出詠する
・1313年(正和2年) 伏見上皇が出家して院政を停止したので、これを引き継いで院政を敷く
・1313年(正和2年7月9日) 母を女御寧子として、第三皇子(量仁親王)が生まれる
・1318年(文保2年2月26日) 花園天皇は在位10年で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位し、院政はその父後宇多上皇に代わる
・1326年(嘉暦元年) 後二条天皇の第一皇子(邦良親王)が病死し、幕府の裁定で子の量仁親王がようやく皇太子に立つ
・1331年(元弘元年) 後醍醐天皇が幕府に反旗を翻し、捕らえられる
・1331年(元弘元年9月20日) 鎌倉幕府により、皇太子量仁が即位して光厳天皇となり、後伏見上皇はしばらく院政を行なう
・1333年(元弘3年5月) 鎌倉幕府に反旗を翻した足利尊氏らの軍勢が京都に攻め込み、光厳天皇らとともに近江の太平護国寺に逃れるが、捕らえられて京都に連れ戻される
・1333年(元弘3年5月17日) 光厳天皇廃位によって、上皇の院政も終わる
・1333年(元弘3年6月26日) 46歳の時、持明院殿で出家剃髪し、法名は理覚(のち行覚)となる
・1336年(建武3年/延元元年4月6日) 京都において、数え年49歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1742年(寛保2)江戸幕府の成文法「公事方御定書」上下2巻が一応完成する(新暦5月10日)詳細
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 今日は、江戸時代中期の1701年(元禄14)に、真言宗僧・国学者・歌人契沖の亡くなった日ですが、新暦では3月4日となります。
 契沖(けいちゅう)は、江戸時代前期の1640年(寛永17)に、摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市)で、尼崎青山氏に仕えた下川(しもがわ)家の、父・元全(もとさだ)の第3子(母は間氏の出)として生まれました。11歳で出家し、大坂今里妙法寺の定(かいじょう)の弟子となり、13歳で高野山に上り東室院快賢(とうしついんかいけん)について修業します。
 23歳で大坂の曼陀羅院の住職となり、24歳で阿闍梨位を得、その間に下河辺長流の知遇を得て学問的な示唆を受け、古典に親しみ始めました。27歳の頃、諸国修行の旅に出て、大和室生、高野を経て、30歳頃より和泉の名家伏屋家などに寄食、この間和漢の典籍を読破したとされます。
 1677年(延宝5)に延命寺・覚彦に安流灌頂を受け、1679年(延宝7)には大坂に戻り、再び妙法寺の住持となりました。1690年(元禄3)51歳の頃、妙法寺を弟子の如海に譲り、自分は大阪高津の円珠庵に退き、古典研究等に没頭、多くの著述を成します。
 その過程で、徳川光圀の知遇を得、水戸家の嘱をうけて万葉集の注釈をし、『万葉代匠記』を書きあげ、続いて、古代歌謡の注釈書『厚顔抄』(1691年成立)、古今和歌集の注釈書『古今余材抄』(1692年成立)、伊勢物語の注釈書『勢語臆断』などを著しました。その他、『和字正濫鈔』などで歴史的仮名遣いの基礎を確立し、『勝地吐懐編』など歌枕研究も行い、また新古今調で写実的な和歌を詠み、『契沖和歌延宝集』、『漫吟集』等を出し、随筆『円珠庵雑記』なども残します。
 国学発展の基礎を築き、後世に大きな影響を与えることとなりますが、1701年(元禄14年1月25日)に、大坂の円珠庵において、数え年62歳で亡くなりました。

<代表的な和歌>

・「和歌の浦に 至らぬ迄も きの國や 心なくさの やまと言の葉」
・「はつせのや 里のうなゐに 宿とへば 霞める梅の 立枝をぞさす」(漫吟集類題)
・「ふじのねは 山の君にて 高御座 空にかけたる 雪のきぬがさ」(漫吟集類題)
・「出でてこし わが故里を 人とはば いづれの雲を さしてこたへん」(漫吟集類題)

〇契沖の主要な著作

・注釈書『万葉代匠記』(1690年)
・注釈書『厚顔抄』(1691年成立)
・注釈書『古今余材抄』(1692年成立)
・注釈書『新勅撰評註』
・注釈書『勢語臆断』
・注釈書『源註拾遺』(1696年成立)
・注釈書『百人一首改観抄』
・国語学書『和字正濫鈔』(1693年成立、1695年刊)
・国語学書『和字正濫通妨抄』(1697年成立)
・歌枕研究書『勝地吐懐編(しょうちとかいへん)』
・歌集『漫吟集(まんぎんしゅう)』
・歌集『契沖和歌延宝集(えんぽうしゅう)』
・随筆『河社(かわやしろ)』
・随筆『契沖雑考』
・随筆『円珠庵雑記』

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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