ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:歌人

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 今日は、平安時代後期の1155年(久寿2)に、天台宗の僧・歌人慈円の生まれた日ですが、新暦では5月17日となります。
 慈円(じえん)は、京都において、摂政関白の父・藤原忠通の子(母は藤原仲光女加賀)として生まれました。2歳の時に母を亡くし、10歳の時に父を亡くし、1165年(永万元)には、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門し、道快を名のりました。1167年(仁安2)に天台座主・明雲について受戒し、1170年(嘉応2)には、一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられます。
 1176年(安元2)に比叡山の無動寺で千日入堂を果し、1178年(治承2)に法性寺座主に任ぜられ、1181年(養和元)には、師覚快の入滅に遭い、この頃慈円と名を改めました。1182年(養和2)に覚快法親王の没後に空席になっていた青蓮院を継ぎ、全玄より伝法灌頂をうけ、1186年(文治2)には、平氏が滅亡し、源頼朝の支持のもと、兄兼実が摂政に就いています。
 1189年(文治5)に後白河院御悩により初めて宮中に召され、修法をおこない、1192年(建久3)には、38歳で天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられ、無動寺に大乗院を建立し、ここに勧学講を開きました。1196年(建久7)に兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居しましたが、1201年(建仁元)には、再び座主に補せられています。
 1202年(建仁2)に再び、座主を辞し、翌年大僧正に任ぜられたものの、すぐにそれも辞しました。1204年(元久元)に自坊白川坊に大懺法院を建立しましたが、翌年には祇園東方の吉水坊に移し、1206年(建永元)には、そこに熾盛光堂を造営し、大熾盛光法を修しています。
 1212年(建暦2)に後鳥羽院の懇請により三たび座主職に就きましたが、翌年一旦座主職を辞し、同年11月に四度目の座主に復帰したものの、1214年(建保2)にはそれも辞しました。その間、日本最初の歴史哲学書として有名な『愚管抄』を著わし、歌も能くし、後鳥羽上皇に重んじられて和歌所寄人ともなり、家集『拾玉集』も成しています。
 1222年(貞応元)に青蓮院に熾盛光堂・大懺法院を再興し、将軍頼経のための祈祷をしましたが、1225年(嘉禄元年9月25日)に近江国東坂本で、数え年71歳で亡くなりました。尚、『千載和歌集』以降の勅撰集には269首が入集、内『新古今和歌集』には92首が採られ、『小倉百人一首』にも入っています。

<代表的な歌>

・「おほけなく 憂き世の民に おほふかな わが立つ杣(そま)に 墨染の袖」(小倉百人一首)
・「散りはてて 花のかげなき 木このもとに たつことやすき 夏衣かな」(新古今和歌集)
・「初瀬川 さよの枕に おとづれて 明くる檜原に 嵐をぞきく」(玉葉和歌集)
・「旅の世に また旅寝して 草まくら 夢のうちにも 夢をみるかな」(千載和歌集)
・「せめてなほ うき世にとまる 身とならば 心のうちに 宿はさだめむ」(拾玉集)

〇慈円の主要な著作

・歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』7巻
・家集『拾玉集』

☆慈円関係略年表(日付は旧暦です)

・1155年(久寿2年4月15日) 京都において、摂政関白の父・藤原忠通の子(母は藤原仲光女加賀)として生まれる
・1156年(久寿3年) 2歳の時、母が亡くなる
・1164年(長寛2年2月19日) 10歳の時、父が亡くなる
・1165年(永万元年) 覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門し、道快を名のる
・1167年(仁安2年) 天台座主・明雲について受戒する
・1170年(嘉応2年) 一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられる
・1176年(安元2年) 比叡山の無動寺で千日入堂を果す
・1178年(治承2年) 法性寺座主に任ぜられる
・1180年(治承4年) 隠遁籠居の望みを兄の兼実に述べ、結局兼実に説得されて思いとどまる
・1181年(治承5年) 9歳の親鸞を得度させる
・1181年(養和元年11月) 師覚快の入滅に遭い、この頃慈円と名を改める
・1182年(養和2年) 覚快法親王の没後に空席になっていた青蓮院を継ぐ
・1182年(寿永元年) 全玄より伝法灌頂をうける
・1186年(文治2年) 平氏が滅亡し、源頼朝の支持のもと、兄兼実が摂政に就く
・1188年(文治4年) 西行勧進の「二見浦百首」に出詠する
・1189年(文治5年) 後白河院御悩により初めて宮中に召され、修法をおこなう
・1190年(建久元年) 姪の任子が後鳥羽天皇に入内する
・1192年(建久3年) 38歳で天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられ、ついで護持僧・法務に補せられる
・1192年(建久3年) 無動寺に大乗院を建立し、ここに勧学講を開く
・1195年(建久6年) 上洛した源頼朝と会見、意気投合し、盛んに和歌の贈答をする
・1196年(建久7年11月) 兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居する
・1198年(建久9年1月) 譲位した後鳥羽天皇は院政を始める
・1201年(建仁元年2月) 再び座主に補せられる
・1201年(建仁元年6月) 千五百番歌合に出詠する
・1201年(建仁元年7月) 後鳥羽院の和歌所寄人となる
・1202年(建仁2年) 源通親が急死し、兼実の子良経が摂政となる
・1202年(建仁2年7月) 座主を辞す
・1203年(建仁3年3月) 大僧正に任ぜられる
・1203年(建仁3年6月) 大僧正の職を辞する
・1204年(元久元年12月) 自坊白川坊に大懺法院を建立する
・1205年(元久2年) 大懺法院を祇園東方の吉水坊に移す
・1206年(建永元年) 良経は頓死する
・1206年(建永元年) 吉水坊に熾盛光堂(しじょうこうどう)を造営し、大熾盛光法を修する
・1207年(承元元年) 兄兼実が死去する
・1212年(建暦2年1月) 後鳥羽院の懇請により三たび座主職に就く
・1213年(建暦3年) 一旦座主職を辞する
・1213年(建暦3年11月) 四度目の座主に復帰する
・1214年(建保2年6月) 座主職を辞する
・1219年(建保7年1月) 鎌倉で第3代将軍実朝が暗殺され、九条道家の子頼経が次期将軍として鎌倉に下向する
・1221年(承久3年5月) 後鳥羽院が北条義時追討の宣旨を発し、挙兵する(承久の乱)
・1222年(貞応元年) 青蓮院に熾盛光堂・大懺法院を再興し、将軍頼経のための祈祷をする
・1225年(嘉禄元年9月25日)  近江国東坂本で、数え年71歳で亡くなる
・1237年(嘉禎3年)  慈鎮和尚の諡号を賜わる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

571年(欽明天皇32)第29代の天皇とされる欽明天皇の命日(新暦5月24日)詳細
905年(延喜5)醍醐天皇の命により紀貫之らが『古今和歌集』を撰進する(新暦5月21日)詳細


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 今日は、南北朝時代の1336年(建武3年/延元元)に、第93代の天皇とされる後伏見天皇(持明院統)が亡くなった日ですが、新暦では5月17日となります。
 後伏見天皇(ごふしみてんのう)は、鎌倉時代の1288年(弘安11年3月3日)に、伏見天皇の第一皇子(母は参議左近衛中将五辻経氏の娘・経子)として生まれましたが、名は胤仁(たねひと)と言いました。同年8月に親王宣下され、翌年に立太子し、永福門院の猶子となります。
 1298年(永仁6)の11歳の時、父・伏見天皇からの譲位により、践祚するものの、父が院政を敷き、両統迭立により大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子(邦治親王)を皇太子に立て、第93代の天皇として即位しました。1300年(正安2)の13歳の時、元服しましたが、翌年には、大覚寺統の邦治親王(後二条天皇)に譲位させられます。
 1308年(徳治3)に後二条天皇が急死し、弟の花園天皇が即位し、1313年(正和2)には、院政を敷いていた伏見上皇が出家したので、これを引き継いで院政を敷きました。1318年(文保2)に花園天皇は在位10年で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位し、院政はその父後宇多上皇に代わり、1326年(嘉暦元)には後二条天皇の第一皇子(邦良親王)が病死し、幕府の裁定で子の量仁親王がようやく皇太子に立ちます。
 1331年(元弘元)に後醍醐天皇が幕府に反旗を翻し、捕らえられ、鎌倉幕府により、皇太子量仁が即位して光厳天皇となり、後伏見上皇はしばらく院政を行ないました。しかし、1333年(元弘3)に幕府に反旗を翻した足利尊氏らの軍勢が京都に攻め込み、光厳天皇らとともに近江の太平護国寺に逃れたものの、捕らえられて京都に連れ戻されます。
 同年5月17日に光厳天皇廃位によって、上皇の院政も終わり、持明院殿で出家剃髪し、法名は理覚(のち行覚)となりましたが、1336年(建武3年/延元元年4月6日)に京都において、数え年49歳で亡くなりました。一方歌を能くし、仙洞五十番歌合(1303年)、十五夜五首会(1312年)などに出詠、歌集『後伏見院御集』(107首所収)を成し、『新後撰和歌集』以下の勅撰集へ計94首が入集、また、能書家としても知られています。

<代表的な歌>

・「夕山や ふもとの檜 原色さめて 残る日影ぞ みねにすくなき」(風雅和歌集)
・「雨しほる やよひの山の 木がくれに のこるともなき 花の色かな」(風雅和歌集)
・「夜すがらの 野分の風の 跡みれば 末ふす萩に 花ぞまれなる」(玉葉和歌集)
・「今更に その世もよほす 雲の色 よわすれてただに 過ぎし夕べを」(玉葉和歌集)
・「都には あらしばかりの さゆる日も 外山をみれば 雪ふりにけり」(続千載和歌集)

〇後伏見天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1288年(弘安11年3月3日) 伏見天皇の第一皇子(母は参議左近衛中将五辻経氏の娘・経子)として生まれる
・1288年(弘安11年8月10日) 親王宣下される
・1289年(正応2年4月25日) 2歳の時、立太子し、永福門院の猶子となる
・1298年(永仁6年7月22日) 11歳の時、父・伏見天皇からの譲位により、践祚するものの、父が院政を敷く
・1298年(永仁6年8月) 両統迭立により大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子(邦治親王)を皇太子に立てる
・1298年(永仁6年10月13日) 第93代とされる天皇として即位する
・1300年(正安2年1月3日) 13歳の時、元服する
・1301年(正安3年1月21日) 14歳の時、大覚寺統の邦治親王(後二条天皇)に譲位する
・1303年(乾元2年閏4月) 仙洞五十番歌合に出詠する
・1308年(徳治3年8月25日) 後二条天皇が急死し、弟の花園天皇が即位する
・1312年(正和元年8月) 十五夜五首会に出詠する
・1313年(正和2年) 伏見上皇が出家して院政を停止したので、これを引き継いで院政を敷く
・1313年(正和2年7月9日) 母を女御寧子として、第三皇子(量仁親王)が生まれる
・1318年(文保2年2月26日) 花園天皇は在位10年で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位し、院政はその父後宇多上皇に代わる
・1326年(嘉暦元年) 後二条天皇の第一皇子(邦良親王)が病死し、幕府の裁定で子の量仁親王がようやく皇太子に立つ
・1331年(元弘元年) 後醍醐天皇が幕府に反旗を翻し、捕らえられる
・1331年(元弘元年9月20日) 鎌倉幕府により、皇太子量仁が即位して光厳天皇となり、後伏見上皇はしばらく院政を行なう
・1333年(元弘3年5月) 鎌倉幕府に反旗を翻した足利尊氏らの軍勢が京都に攻め込み、光厳天皇らとともに近江の太平護国寺に逃れるが、捕らえられて京都に連れ戻される
・1333年(元弘3年5月17日) 光厳天皇廃位によって、上皇の院政も終わる
・1333年(元弘3年6月26日) 46歳の時、持明院殿で出家剃髪し、法名は理覚(のち行覚)となる
・1336年(建武3年/延元元年4月6日) 京都において、数え年49歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1742年(寛保2)江戸幕府の成文法「公事方御定書」上下2巻が一応完成する(新暦5月10日)詳細
2017年(平成29)「城の日」を記念して、日本城郭協会より「続日本100名城」が発表される詳細
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 今日は、江戸時代中期の1701年(元禄14)に、真言宗僧・国学者・歌人契沖の亡くなった日ですが、新暦では3月4日となります。
 契沖(けいちゅう)は、江戸時代前期の1640年(寛永17)に、摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市)で、尼崎青山氏に仕えた下川(しもがわ)家の、父・元全(もとさだ)の第3子(母は間氏の出)として生まれました。11歳で出家し、大坂今里妙法寺の定(かいじょう)の弟子となり、13歳で高野山に上り東室院快賢(とうしついんかいけん)について修業します。
 23歳で大坂の曼陀羅院の住職となり、24歳で阿闍梨位を得、その間に下河辺長流の知遇を得て学問的な示唆を受け、古典に親しみ始めました。27歳の頃、諸国修行の旅に出て、大和室生、高野を経て、30歳頃より和泉の名家伏屋家などに寄食、この間和漢の典籍を読破したとされます。
 1677年(延宝5)に延命寺・覚彦に安流灌頂を受け、1679年(延宝7)には大坂に戻り、再び妙法寺の住持となりました。1690年(元禄3)51歳の頃、妙法寺を弟子の如海に譲り、自分は大阪高津の円珠庵に退き、古典研究等に没頭、多くの著述を成します。
 その過程で、徳川光圀の知遇を得、水戸家の嘱をうけて万葉集の注釈をし、『万葉代匠記』を書きあげ、続いて、古代歌謡の注釈書『厚顔抄』(1691年成立)、古今和歌集の注釈書『古今余材抄』(1692年成立)、伊勢物語の注釈書『勢語臆断』などを著しました。その他、『和字正濫鈔』などで歴史的仮名遣いの基礎を確立し、『勝地吐懐編』など歌枕研究も行い、また新古今調で写実的な和歌を詠み、『契沖和歌延宝集』、『漫吟集』等を出し、随筆『円珠庵雑記』なども残します。
 国学発展の基礎を築き、後世に大きな影響を与えることとなりますが、1701年(元禄14年1月25日)に、大坂の円珠庵において、数え年62歳で亡くなりました。

<代表的な和歌>

・「和歌の浦に 至らぬ迄も きの國や 心なくさの やまと言の葉」
・「はつせのや 里のうなゐに 宿とへば 霞める梅の 立枝をぞさす」(漫吟集類題)
・「ふじのねは 山の君にて 高御座 空にかけたる 雪のきぬがさ」(漫吟集類題)
・「出でてこし わが故里を 人とはば いづれの雲を さしてこたへん」(漫吟集類題)

〇契沖の主要な著作

・注釈書『万葉代匠記』(1690年)
・注釈書『厚顔抄』(1691年成立)
・注釈書『古今余材抄』(1692年成立)
・注釈書『新勅撰評註』
・注釈書『勢語臆断』
・注釈書『源註拾遺』(1696年成立)
・注釈書『百人一首改観抄』
・国語学書『和字正濫鈔』(1693年成立、1695年刊)
・国語学書『和字正濫通妨抄』(1697年成立)
・歌枕研究書『勝地吐懐編(しょうちとかいへん)』
・歌集『漫吟集(まんぎんしゅう)』
・歌集『契沖和歌延宝集(えんぽうしゅう)』
・随筆『河社(かわやしろ)』
・随筆『契沖雑考』
・随筆『円珠庵雑記』

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1902年(明治35)北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)で日本の最低気温-41℃を記録する詳細
1957年(昭和32)医学者・細菌学者志賀潔の命日詳細


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 今日は、明治時代前期の1892年(明治25)に、詩人・歌人・フランス文学者・翻訳家堀口大学の生まれた日です。
 堀口大学(ほりぐち だいがく)は、東京・本郷区森川町(現在の東京都文京区)で、長岡藩士の家系の堀口九萬一(のち外交官)の長男(母は村上藩士江坂氏の長女)として生まれました。母が早世して祖母に育てられ、1904年(明治37)に、旧制の新潟県立長岡中学校(現在の新潟県立長岡高等学校)に入学、文学に親しみます。
 1909年(明治42)に上京し、与謝野寛・晶子の「新詩社」に入り、翌年には慶應義塾大学文学部予科に入学、「三田文学」に詩歌を発表したりしました。しかし、1911年(明治44)に中退して父の任地であるメキシコへ赴き、以後父に従って、ベルギー、スペイン、ブラジル、ルーマニアと、青春時代の大部分を海外で過ごしたものの、2度日本へ帰っています。
 フランス語に精通し、その間に訳詩集『昨日の花』(1918年)、第一詩集『月光とピエロ』(1919年)、第一歌集『パンの笛』(1919年)、翻訳小説『夜ひらく』ポール=モーラン作(1924年)などを発表、自由な日本語を駆使した知的抒情詩人として登場しました。1925年(大正14)に帰国しましたが、同年に出版した訳詩集『月下の一群』は高く評価され、日本近代の代表的な名訳詩集とされます。
 1928年(昭和3)に日夏耿之介、西条八十らと詩誌『PANTHÉON』を出し、次いで翌年に独力で詩誌『オルフェオン』を刊行して後進を育てました。1932年(昭和7)に『昼顔』を発行しましたが発禁処分となるものの、1935年(昭和10)には日本ペンクラブの副会長に推されます。
 その後、フランス語訳に専念しますが、戦時下において著書が情報局検閲で削除されるなど思想弾圧を受けました。戦火を逃れるため新潟県に疎開していましたが、太平洋戦争後は、著作活動を再開し、詩集『人間の歌』(1947年)などを出します。
 1950年(昭和25)に疎開先から神奈川県葉山町へ転居、1957年(昭和32)に日本芸術院会員となり、1959年(昭和34)に詩集『夕の虹』で第10回読売文学賞を受賞しました。1970年(昭和45)に文化功労者、1979年(昭和54)には文化勲章を受章したものの、1981年(昭和56)3月15日に、神奈川県葉山町において、89歳で亡くなっています。

〇堀口大学の主要な著作

・訳詩集『昨日の花』(1918年)
・詩集『月光とピエロ』(1919年)
・歌集『パンの笛』(1919年)
・詩集『水の面 (おもて) に書きて』(1921年)
・詩集『新しき小径』(1922年)
・翻訳小説『夜ひらく』ポール=モーラン作(1924年)
・訳詩集『月下の一群』(1925年)
・詩集『砂の枕』(1926年)
・詩集『人間の歌』(1947年)
・詩集『夕の虹』(1957年)第10回読売文学賞受賞
・詩集『月かげの虹』(1971年)
・詩集『沖に立つ虹』(1974年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1646年(正保3)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の誕生日(新暦2月23日)詳細
1944年(昭和19)「緊急学徒勤労動員方策要綱」が閣議決定され、学徒勤労動員が強化される詳細
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 今日は、平安時代中期の1041年(長久2)に、公卿・歌人藤原公任の亡くなった日ですが、新暦では2月4日となります。
 藤原公任(ふじわら の きんとう)は、966年(康保3)に関白頼忠の長男(母は醍醐天皇皇子代明親王の娘厳子)として生まれました。980年(天元3)に清涼殿にて円融天皇出御の元で元服し、正五位下に叙され、翌年に従四位下、982年(天元5)に従四位上、983年(天元6)に讃岐守を兼ね、985年(寛和元)には正四位下に昇叙します。
 漢詩・和歌・管弦に優れ、986年(寛和2)には、円融上皇の大井河遊覧に参加し、3舟(漢詩・和歌・管弦の3艘の舟)に併せ乗る名誉を得ました。989年(永延3)に蔵人頭となり、992年(正暦3)には、27歳で参議となって公卿に列します。
 藤原道長と親しくなり、道長主催の歌合や遊興にはよく出席し和歌を披露し、999年(長保元)秋の嵯峨遊覧では大覚寺の滝がなくなったのを惜しみ、「滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ」と詠じたことは有名で、後に「小倉百人一首」にも採られました。1001年(長保3)に中納言兼左衛門督となり、正三位に昇叙、1005年(寛弘2)に従二位、1009年(寛弘6)には44歳で権大納言、1012年(寛弘9)には正二位に昇叙されます。
 有職故実に通じて『北山抄』を著し、『新撰髄脳』、『和歌九品』などの歌学書を書き、秀歌選として『金玉集』、『深窓秘抄』を撰び、『和漢朗詠集』の撰者となり、名筆家としても知られました。しかし、1024年(万寿元)に権大納言を辞し、1026年(万寿3)には洛北長谷(現在の京都市左京区岩倉長谷町)の解脱寺で出家を果たします。
 多才博識で知られ、道長全盛時の歌壇を代表する指導者の位置を占めていましたが、1041年(長久2)1月1日に、数え年76歳で亡くなりました。尚、勅撰集には『拾遺集』以下に91首入集しています。

<藤原公任の代表的な歌>

・「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」(小倉百人一首)
・「小倉山嵐の風の寒ければもみぢの錦きぬ人ぞなき」(大鏡)
・「春きてぞ人もとひける山里は花こそ宿のあるじなりけれ」(拾遺集)
・「うき世をば峰の霞やへだつらむなほ山里は住みよかりけり」(千載集)

〇藤原公任の主要な著作

・故実書『北山(ほくざん)抄』
・私選集『拾遺抄』
・歌学書『新撰髄脳(しんせんずいのう)』
・歌学書『和歌九品(くほん)』
・秀歌選『三十六人撰』
・秀歌選『金玉集』
・秀歌選『深窓秘抄』
・私撰集『和漢朗詠(ろうえい)集』
・私撰集『如意宝集』
・家集『公任集』

☆藤原公任関係略年表(日付は旧暦です)

・966年(康保3) 関白頼忠の長男(母は醍醐天皇皇子代明親王の娘厳子)として生まれる
・980年(天元3年2月25日) 清涼殿にて円融天皇出御の元で元服し、正五位下に叙される
・980年(天元3年3月3日) 禁色となる
・980年(天元3年7月1日) 侍従となる
・981年(天元4年1月7日) 従四位下に昇叙される
・982年(天元5年5月8日) 従四位上に昇叙される
・983年(天元6年1月26日) 兼讃岐守となる
・983年(天元6年12月13日) 左近衛権中将、讃岐守如元
・984年(永観2年2月1日) 兼尾張権守となる
・985年(寛和元年11月21日) 正四位下に昇叙される
・986年(寛和2年3月5日) 兼伊予権守となる
・986年(寛和2年10月) 円融上皇の大井河遊覧に参加し、3舟に併せ乗る名誉を得る
・989年(永延3年2月23日) 蔵人頭となる
・990年(永祚2年4月5日) 兼備前守となる
・992年(正暦3年8月28日) 参議となってて公卿に列する
・993年(正暦4年1月13日) 兼近江守となる
・993年(正暦4年) 一条天皇の大原野神社への行幸に不参する事件を起し、一時参内を止められる
・994年(正暦5年) 藤原道兼の養女(実は昭平親王の娘)と結婚する
・995年(長徳元年8月28日) 兼左兵衛督
・995年(長徳元年9月21日) 兼皇后宮大夫(皇后・藤原定子)となる
・996年(長徳2年1月) 兼讃岐守となる
・996年(長徳2年7月14日) 兼右衛門督・検非違使別当となる
・998年(長徳4年1月25日) 兼備前権守となる
・998年(長徳4年10月23日) 兼勘解由長官となる
・999年(長徳5年1月7日) 従三位に昇叙される
・999年(長徳5年閏3月29日) 勘解由長官を辞する
・999年(長徳5年5月6日) 藤原道長邸の改築に伴う祝宴に参加する
・999年(長徳5年9月12日) 道長に随行して西山に紅葉を尋ねる
・999年(長徳5年10月27日) 藤原彰子入内に際して、屏風歌を詠進する
・1001年(長保3年8月25日) 中納言となる
・1001年(長保3年10月3日) 兼左衛門督となる
・1001年(長保3年10月10日) 正三位に昇叙される
・1001年(長保3年12月7日) 検非違使別当を辞する
・1001年(長保3年12月16日) 皇后宮大夫(藤原定子崩御)を辞し、兼皇太后宮大夫(皇太后・藤原遵子)となる
・1005年(寛弘2年7月21日) 従二位に昇叙される
・1009年(寛弘6年3月4日) 権大納言となる
・1012年(寛弘9年2月14日) 兼太皇大后宮大夫(藤原遵子太皇太后贈号)
・1012年(寛弘9年4月) 長女を藤原教通に嫁がせる
・1012年(寛弘9年12月22日) 正二位に昇叙される
・1017年(寛仁元年6月1日) 太皇太后宮大夫を辞する
・1021年(寛仁5年1月28日) 兼陸奥出羽按察使となる
・1023年(治安3年) 次女(遵子の養女)を亡くする
・1024年(翌治安4年) 長女(藤原教通室)を亡くする
・1024年(万寿元年12月12日) 権大納言を辞し、陸奥出羽按察使となる
・1025年(万寿2年1月) 邸宅の四条宮が焼亡する
・1026年(万寿3年1月4日) 洛北長谷(現在の京都市左京区岩倉長谷町)の解脱寺で出家を果たす
・1040年(長久元年12月) 瘡湿に罹る
・1041年(長久2年1月1日) 数え年76歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

646年(大化2)改新の詔」が発布される(新暦1月22日)詳細
1946年(昭和21)昭和天皇が「新日本建設に関する詔書」(人間宣言)で自己の神格を否定する詳細
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