今日は、平安時代中期の968年(安和元)に、第65代の天皇とされる花山天皇が生まれた日ですが、新暦では11月29日となります。
花山天皇(かざんてんのう/かさんてんのう)は、京都において、冷泉天皇の第一皇子(母は摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子)として生まれましたが、名は師貞(もろさだ)と言いました。969年(安和2)の2歳の時、父の弟叔父である守平親王の即位(円融天皇)と共に皇太子になります。
975年(天延3)に母の藤原懐子が亡くなり、982年(天元5)に元服、984年(永観2)には、円融天皇の譲位を受けて、第65代とされる天皇として即位しました。藤原頼忠が関白となりましたが、外戚でなかったことから実権をもたず、外戚の藤原義懐と惟成を重用し、饗宴の禁制を布告して宮廷貴族社会の統制、引締めを図り、902年(延喜2)に出されて以来布告されていなかった荘園)整理令を久々に布告するなど、革新的な政治路線を打ち出します。
ところが、985年(寛和元)に深く寵愛した女御の忯子(藤原為光の娘)が懐妊後、17歳で死去すると、翌年の19歳の時、突然に宮中を出て東山の花山寺(現在の元慶寺)に入って剃髪して退位(次代は一条天皇)、入覚と号して花山法皇と称せられるようになりました。出家後は、播磨国に赴いて書写山円教寺の性空に結縁、さらに比叡山、熊野などに赴き仏道修行に励み、すぐれた法力を身につけたとされます。
993年(正暦4年)頃に、帰京して東院に住みましたが、邸宅には数寄を凝らし、風雅の暮らしを送る一方、悪僧を周囲に侍らせて様々な奇行をなしたとされ、藤原為光女に通ったことから、中関白家の内大臣藤原伊周・隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件が起きました。一方、絵や和歌に巧みで、在位中の寛和元年と2年に内裏で歌合を主催、退位後もたびたび歌合を催し、自らも詠出、1005~06年(寛弘2~3)頃 藤原公任撰の『拾遺抄』を増補し、第三勅撰和歌集『拾遺和歌集』を親撰したとされます。
しかし、1008年(寛弘5年2月8日)に京都において、病により数え年41歳で亡くなり、御陵は紙屋川上陵(現在の京都市帰宅衣笠)とされました。尚、『花山院御集』も中世頃まで伝存して散逸したものの、『後拾遺和歌集』初出後、勅撰集には68首が入集しています。
以下に、『大鏡』第一巻の「第六十五代 花山院」を載せておきましたので、ご参照下さい。
<代表的な歌>
・「あしひきの山に入り日の時しもぞあまたの花は照りまさりける」(風雅和歌集)
・「今年だにまづ初声をほととぎす世にはふるさで我に聞かせよ」(詞花和歌集)
・「朝ぼらけおきつる霜の消えかへり暮待つほどの袖を見せばや」(新古今和歌集)
・「つらければかくてやみなむと思へども物忘れせぬ恋にもあるかな」(玉葉和歌集)
・「旅の空夜半のけぶりとのぼりなば海人の藻塩火たくかとや見む」(後拾遺和歌集)
・「長き夜のはじめをはりもしらぬまに幾世のことを夢に見つらむ」(続拾遺和歌集)
〇花山天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・968年(安和元年10月26日) 京都において、冷泉天皇の第一皇子(母は摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子)として生まれる
・969年(安和2年) 2歳の時、父冷泉帝の弟叔父である守平親王の即位(円融天皇)と共に皇太子になる
・975年(天延3年4月3日) 母の藤原懐子が亡くなる
・982年(天元5年2月19日) 元服する
・984年(永観2年8月27日) 円融天皇の譲位を受ける
・984年(永観2年10月10日) 第65代とされる天皇として即位する
・985年(寛和元年) 内裏で歌合を主催する
・985年(寛和元年7月18日) 深く寵愛した女御の忯子(藤原為光の娘)が懐妊後、17歳で死去する
・986年(寛和2年) 内裏で歌合を主催する
・986年(寛和2年6月22日) 19歳の時、宮中を出て剃髪し、花山寺で仏門に入り退位(次代は一条天皇)、入覚と号して花山法皇と称せられる
・991年(正暦2年2月12日) 円融院(円融天皇)が亡くなる
・993年(正暦4年)頃 帰京して東院に住む
・996年(長徳2年) 29歳の時、中関白家の内大臣藤原伊周・隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件が起きる
・1005~06年(寛弘2~3年)頃 藤原公任撰の『拾遺抄』を増補し、第三勅撰和歌集『拾遺和歌集』を親撰したとされる
・1008年(寛弘5年2月8日) 京都において、病により数え年41歳で亡くなる
☆『大鏡』第一巻の「第六十五代 花山院」より
<原文>
一 六十五代 花山院
次の帝、花山院天皇と申しき。冷泉院第一皇子なり。御母、贈皇后宮懐子と申す。太政大臣伊尹のおとどの第一御女なり。この帝、安和元年戊辰十月二十六日丙子、母方の御祖父の一条の家にて生まれさせたまふとあるは、世尊寺のことにや。その日は、冷泉院御時の大嘗会御禊あり。同二年八月十三日、春宮にたちたまふ。御年二歳。天元五年二月十九日、御元服。御年十五。永観二年八月二十八日、位につかせたまふ。御年十七。寛和二年丙戌六月二十二日の夜、あさましくさぶらひしことは、人にも知らせさせたまはで、みそかに花山寺におはしまして、御出家入道せさせたまへりしこそ。御年十九。世をたもたせたまふこと二年。その後二十二年おはしましき。あはれなることは、おりおはしましける夜は、藤壷の上の御局の子戸より出でさせたまひけるに、有明の月のいみじく明かかりければ、「顕証にこそありけれ。いかがすべからむ」と仰せられけるを、「さりとて、とまらせたまふべきやうはべらず。神璽・宝剣わたりたまひぬるには」と、粟田殿のさわがし申したまひけるは、まだ、帝出でさせおはしまさざりけるさきに、手づからとりて、春宮の御方にわたしたてまつりたまひてければ、かへり入らせたまはむことはあるまじく思して、しか申させたまひけるとぞ。さやけき影を、まばゆく思し召しつるほどに、月のかほにむら雲のかかりて、すこしくらがりゆきければ、「わが出家は成就するなりけり」と仰せられて、歩み出でさせたまふはどに、弘徽殿の女御の御文の、日頃破り残して御身も放たず御覧じけるを思し召し出でて、「しばし」とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、粟田殿の、「いかにかくは思し召しならせおはしましぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうできなむ」と、そら泣きしたまひけるは。さて、土御門より東ざまに率て出だしまゐらせたまふに、晴明が家の前をわたらせたまへば、みづからの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打ちて、「帝王おりさせたまふと見ゆる天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。まゐりて奏せむ。車に装束とうせよ」といふ声聞かせたまひけむ、さりともあはれには思し召しけむかし。「且、式神一人内裏にまゐれ」と申しければ、目には見えぬものの、戸をおしあけて、御後をや見まゐらせけむ、「ただ今、これより過ぎさせおはしますめり」といらへけりとかや。その家、土御門町口なれば、御道なりけり。花山寺におはしまし着きて、御髪おろさせたまひて後にぞ、粟田殿は、「まかり出でて、おとどにも、かはらぬ姿、いま一度見え、かくと案内申して、かならずまゐりはべらむ」と申したまひければ、「朕をば謀るなりけり」とてこそ泣かせたまひけれ。あはれにかなしきことなりな。日頃、よく、「御弟子にてさぶらはむ」と契りて、すかし申したまひけむがおそろしさよ。東三条殿は、「もしさることやしたまふ」とあやふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどはかくれて、堤の辺よりぞうち出でまゐりける。寺などにては、「もし、おして人などやなしたてまつる」とて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞまもり申しける。
小学館刊日本古典文学全集『大鏡』(底本は、京都大学付属図書館蔵平松家旧蔵の古本系三巻本)より
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