ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:歌人

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 今日は、平安時代中期の968年(安和元)に、第65代の天皇とされる花山天皇が生まれた日ですが、新暦では11月29日となります。
 花山天皇(かざんてんのう/かさんてんのう)は、京都において、冷泉天皇の第一皇子(母は摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子)として生まれましたが、名は師貞(もろさだ)と言いました。969年(安和2)の2歳の時、父の弟叔父である守平親王の即位(円融天皇)と共に皇太子になります。
 975年(天延3)に母の藤原懐子が亡くなり、982年(天元5)に元服、984年(永観2)には、円融天皇の譲位を受けて、第65代とされる天皇として即位しました。藤原頼忠が関白となりましたが、外戚でなかったことから実権をもたず、外戚の藤原義懐と惟成を重用し、饗宴の禁制を布告して宮廷貴族社会の統制、引締めを図り、902年(延喜2)に出されて以来布告されていなかった荘園)整理令を久々に布告するなど、革新的な政治路線を打ち出します。
 ところが、985年(寛和元)に深く寵愛した女御の忯子(藤原為光の娘)が懐妊後、17歳で死去すると、翌年の19歳の時、突然に宮中を出て東山の花山寺(現在の元慶寺)に入って剃髪して退位(次代は一条天皇)、入覚と号して花山法皇と称せられるようになりました。出家後は、播磨国に赴いて書写山円教寺の性空に結縁、さらに比叡山、熊野などに赴き仏道修行に励み、すぐれた法力を身につけたとされます。
 993年(正暦4年)頃に、帰京して東院に住みましたが、邸宅には数寄を凝らし、風雅の暮らしを送る一方、悪僧を周囲に侍らせて様々な奇行をなしたとされ、藤原為光女に通ったことから、中関白家の内大臣藤原伊周・隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件が起きました。一方、絵や和歌に巧みで、在位中の寛和元年と2年に内裏で歌合を主催、退位後もたびたび歌合を催し、自らも詠出、1005~06年(寛弘2~3)頃 藤原公任撰の『拾遺抄』を増補し、第三勅撰和歌集『拾遺和歌集』を親撰したとされます。
 しかし、1008年(寛弘5年2月8日)に京都において、病により数え年41歳で亡くなり、御陵は紙屋川上陵(現在の京都市帰宅衣笠)とされました。尚、『花山院御集』も中世頃まで伝存して散逸したものの、『後拾遺和歌集』初出後、勅撰集には68首が入集しています。
 以下に、『大鏡』第一巻の「第六十五代 花山院」を載せておきましたので、ご参照下さい。

<代表的な歌>

・「あしひきの山に入り日の時しもぞあまたの花は照りまさりける」(風雅和歌集)
・「今年だにまづ初声をほととぎす世にはふるさで我に聞かせよ」(詞花和歌集)
・「朝ぼらけおきつる霜の消えかへり暮待つほどの袖を見せばや」(新古今和歌集)
・「つらければかくてやみなむと思へども物忘れせぬ恋にもあるかな」(玉葉和歌集)
・「旅の空夜半のけぶりとのぼりなば海人の藻塩火たくかとや見む」(後拾遺和歌集)
・「長き夜のはじめをはりもしらぬまに幾世のことを夢に見つらむ」(続拾遺和歌集)

〇花山天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・968年(安和元年10月26日) 京都において、冷泉天皇の第一皇子(母は摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子)として生まれる
・969年(安和2年) 2歳の時、父冷泉帝の弟叔父である守平親王の即位(円融天皇)と共に皇太子になる
・975年(天延3年4月3日) 母の藤原懐子が亡くなる
・982年(天元5年2月19日) 元服する
・984年(永観2年8月27日) 円融天皇の譲位を受ける
・984年(永観2年10月10日) 第65代とされる天皇として即位する
・985年(寛和元年) 内裏で歌合を主催する
・985年(寛和元年7月18日) 深く寵愛した女御の忯子(藤原為光の娘)が懐妊後、17歳で死去する
・986年(寛和2年) 内裏で歌合を主催する
・986年(寛和2年6月22日) 19歳の時、宮中を出て剃髪し、花山寺で仏門に入り退位(次代は一条天皇)、入覚と号して花山法皇と称せられる
・991年(正暦2年2月12日) 円融院(円融天皇)が亡くなる
・993年(正暦4年)頃 帰京して東院に住む
・996年(長徳2年) 29歳の時、中関白家の内大臣藤原伊周・隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件が起きる
・1005~06年(寛弘2~3年)頃 藤原公任撰の『拾遺抄』を増補し、第三勅撰和歌集『拾遺和歌集』を親撰したとされる
・1008年(寛弘5年2月8日) 京都において、病により数え年41歳で亡くなる

☆『大鏡』第一巻の「第六十五代 花山院」より

<原文>

一 六十五代 花山院

次の帝、花山院天皇と申しき。冷泉院第一皇子なり。御母、贈皇后宮懐子と申す。太政大臣伊尹のおとどの第一御女なり。この帝、安和元年戊辰十月二十六日丙子、母方の御祖父の一条の家にて生まれさせたまふとあるは、世尊寺のことにや。その日は、冷泉院御時の大嘗会御禊あり。同二年八月十三日、春宮にたちたまふ。御年二歳。天元五年二月十九日、御元服。御年十五。永観二年八月二十八日、位につかせたまふ。御年十七。寛和二年丙戌六月二十二日の夜、あさましくさぶらひしことは、人にも知らせさせたまはで、みそかに花山寺におはしまして、御出家入道せさせたまへりしこそ。御年十九。世をたもたせたまふこと二年。その後二十二年おはしましき。あはれなることは、おりおはしましける夜は、藤壷の上の御局の子戸より出でさせたまひけるに、有明の月のいみじく明かかりければ、「顕証にこそありけれ。いかがすべからむ」と仰せられけるを、「さりとて、とまらせたまふべきやうはべらず。神璽・宝剣わたりたまひぬるには」と、粟田殿のさわがし申したまひけるは、まだ、帝出でさせおはしまさざりけるさきに、手づからとりて、春宮の御方にわたしたてまつりたまひてければ、かへり入らせたまはむことはあるまじく思して、しか申させたまひけるとぞ。さやけき影を、まばゆく思し召しつるほどに、月のかほにむら雲のかかりて、すこしくらがりゆきければ、「わが出家は成就するなりけり」と仰せられて、歩み出でさせたまふはどに、弘徽殿の女御の御文の、日頃破り残して御身も放たず御覧じけるを思し召し出でて、「しばし」とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、粟田殿の、「いかにかくは思し召しならせおはしましぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうできなむ」と、そら泣きしたまひけるは。さて、土御門より東ざまに率て出だしまゐらせたまふに、晴明が家の前をわたらせたまへば、みづからの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打ちて、「帝王おりさせたまふと見ゆる天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。まゐりて奏せむ。車に装束とうせよ」といふ声聞かせたまひけむ、さりともあはれには思し召しけむかし。「且、式神一人内裏にまゐれ」と申しければ、目には見えぬものの、戸をおしあけて、御後をや見まゐらせけむ、「ただ今、これより過ぎさせおはしますめり」といらへけりとかや。その家、土御門町口なれば、御道なりけり。花山寺におはしまし着きて、御髪おろさせたまひて後にぞ、粟田殿は、「まかり出でて、おとどにも、かはらぬ姿、いま一度見え、かくと案内申して、かならずまゐりはべらむ」と申したまひければ、「朕をば謀るなりけり」とてこそ泣かせたまひけれ。あはれにかなしきことなりな。日頃、よく、「御弟子にてさぶらはむ」と契りて、すかし申したまひけむがおそろしさよ。東三条殿は、「もしさることやしたまふ」とあやふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどはかくれて、堤の辺よりぞうち出でまゐりける。寺などにては、「もし、おして人などやなしたてまつる」とて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞまもり申しける。

 小学館刊日本古典文学全集『大鏡』(底本は、京都大学付属図書館蔵平松家旧蔵の古本系三巻本)より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1908年(明治41)幕臣・外交官・政治家榎本武揚の命日詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細
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 今日は、鎌倉時代の1231年(寛喜3)に、第83代の天皇とされる土御門天皇が、配流先の阿波国で亡くなった日ですが、新暦では11月6日となります。
 土御門天皇(つちみかどてんのう)は、1195年(建久6年11月1日)に、後鳥羽天皇の第一皇子(母は法勝寺執行法印能円の女)として生まれましたが、名は為仁と言いました。1198年(建久9)の4歳の時、父・後鳥羽天皇の譲位により践祚し、第83代とされる天皇として即位したものの、父による院政がしかれます。
 1199年(正治元年1月13日)に、鎌倉幕府初代将軍源頼朝が亡くなり、事実上北条時政による御家人政治が行われるようになりました。1210年(承元4)の16歳の時、父の意向により、異母弟の守成親王(順徳天皇)に譲位させられ、上皇となったものの、遺恨を残したと伝えられています。
 歌を能くし、1216年(建保4)には、『土御門院御百首』が成立しましたが、藤原定家・家隆の合点、定家の評が付されました。1221年(承久3)の承久の乱では。父・後鳥羽上皇の倒幕計画に直接にかかわらず、乱鎮圧後幕府からの沙汰もなかったものの、後鳥羽・順徳両上皇が配流が決まると、自ら申し出て同年閏11月に土佐国に流されます。
 翌年には幕府の意向により阿波国に移り、守護に対して阿波の宮殿を造営させるなどの厚遇を受け、1231年(寛喜3)には出家して、法名は行源となりました。しかし、同年10月11日に配流先の阿波国(現在の徳島県)において、数え年37歳で亡くなり、陵墓は京都の金原陵(現在の京都府長岡京市金ヶ原金原寺)とされたものの、徳島県板野郡堀江 (現在の鳴門市) に火葬塚も残されています。
 尚、優れた歌人でもあり、御製を集めた『土御門院御集』が残され、『続後撰和歌集』以後の勅撰集に154首入集し、新三十六歌仙にも選ばれました。

<代表的な歌>

・「しづかなる心のうちも久方の空に隈なき月やしるらむ」(土御門院御百首)
・「雪のうちに春はありとも告げなくにまづ知るものは鶯の声」(続後撰和歌集)
・「舟つなぐ影も緑になりにけり六田の淀のたまのを柳」(風雅和歌集)
・「むら雲のたえまたえまに星見えてしぐれをはらふ庭の松風」(玉葉和歌集)
・「白雲をそらなるものと思ひしはまだ山こえぬ都なりけり」(続古今和歌集)

〇土御門天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1195年(建久6年11月1日) 後鳥羽天皇の第一皇子(母は法勝寺執行法印能円の女)として生まれる
・1198年(建久9年1月11日) 4歳の時、父・後鳥羽天皇の譲位により践祚する
・1198年(建久9年3月3日) 第83代とされる天皇として即位するが、父による院政がしかれる
・1199年(正治元年1月13日) 鎌倉幕府初代将軍源頼朝が亡くなり、事実上北条時政による御家人政治が行われる
・1210年(承元4年11月25日) 16歳の時、異母弟の守成親王(順徳天皇)に譲位する
・1210年(承元4年12月5日) 上皇となる
・1216年(建保4年3月) 『土御門院御百首』が成立するが、藤原定家・家隆の合点、定家の評が付される
・1221年(承久3年6月) 承久の乱が起きる、
・1221年(承久3年閏11月) 自ら申し出て土佐国に流される
・1222年(承久4年) 幕府の意向により阿波国に移る
・1231年(寛喜3年10月) 出家して、法名は行源となる
・1231年(寛喜3年10月11日) 配流先の阿波国(現在の徳島県)において、数え年37歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1940年(昭和15)俳人種田山頭火の命日(一草忌)詳細
1945年(昭和20)幣原首相・マッカーサー会談で、GHQから「五大改革指令」が通達される詳細
1950年(昭和25)新日本観光地百選」が毎日新聞紙上で発表される詳細


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 今日は、平安時代前期の931年(承平元)に、第59代の天皇とされる宇多天皇の亡くなった日ですが、新暦では9月3日となります。
 宇多天皇(うだてんのう)は、867年(貞観9年5月5日)に、京都において、父・時康親王(のち光孝天皇)の子(母は班子女王・仲野親王の娘)として生まれましたが、名は定省(さだみ)と言いました。元慶年間(877~85年)に陽成天皇の侍従を務め、884年(元慶8)に陽成天皇が譲位して、父・時康親王が践祚(光孝天皇)すると、兄弟姉妹と共に源姓を賜って臣籍にります。
 887年(仁和3)に父・光孝天皇が亡くなると藤原基経の推挙により親王に復して立太子し、11月17日に第59代とされる天皇として即位しました。887年(仁和3)に基経に再び関白の役割を果たすよう勅書を送りましたが、その文言に基経が立腹、政務を拒んで自邸に引き籠もる阿衡事件が起き、翌年6月には勅書を取り消した上に起草した左大弁橘広相を解官させざるを得なくなります。
 891年(寛平3年)に基経が亡くなると、菅原道真を重用し、藤原氏を抑えて政治の刷新(寛平の治)を図りました。896年(寛平8)に内裏で菊の歌宴を開き、翌年に皇太子敦仁親王(醍醐天皇)の元服を機に譲位し、訓誡「寛平御遺誡」を与え、太上天皇となります。
 風流の世界に遊ぶことが多くなり、898年(昌泰元)に亭子院女郎花合を主宰、紀貫之らを臨席させ、898年(昌泰元)には、大和国に行幸し、菅原道真・素性法師らが供奉して歌を詠むなどしました。899年(昌泰2)に仁和寺で出家(法名は空理のち金剛覚)、以後は法皇と称しましたが、901年(延喜元)に菅原道真が大宰府へ左遷される事件が起きています。
 その後、904年(延喜4)に仁和寺に御室を造営、907年(延喜7)に熊野へ行幸、913年(延喜13)に亭子院歌合を主宰するなどしました。歌を能くし、『亭子院御集』、『寛平御集』の名で伝わる御集を残し、後の勅撰集へ計17首入集しています。
 また、その日記『宇多天皇御記』を残しましたが、931年(承平元年7月19日)に、京都において数え年65歳で亡くなり、陵墓は大内山陵(現在の京都市右京区鳴滝宇多野谷)とされました。

<宇多天皇の代表的な歌>

・「水底に春や来るらむみよしのの吉野の川にかはづ鳴くなり」(秋風集)
・「行きて見ぬ人の為にと思はずば誰か折らまし庭の白菊」(続古今和歌集)
・「手枕にかせる袂の露けきは明けぬと告ぐる涙なりけり」(新古今和歌集)
・「宮の滝むべも名におひて聞こえけり落つるしらあわの玉とひびけば」(後撰和歌集)
・「世の中に言ひながしてし龍田川見るに涙ぞ雨と降りける」(新拾遺和歌集)

〇宇多天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・867年(貞観9年5月5日) 京都において、光孝天皇と班子女王(仲野親王の娘)の子として生まれる
・877~85年(元慶年間) 陽成天皇の侍従を務める
・884年(元慶8年2月) 陽成天皇が譲位して、父・時康親王が践祚(光孝天皇)し、兄弟姉妹と共に源姓を賜って臣籍に下る
・887年(仁和3年8月26日) 父・光孝天皇が亡くなると藤原基経の推挙により親王に復して立太子する
・887年(仁和3年11月17日) 第59代とされる天皇として即位する 
・887年(仁和3年11月21日) 基経に再び関白の役割を果たすよう勅書を送るが、その文言に基経が立腹、政務を拒んで自邸に引き籠もる(阿衡事件)
・888年(仁和4年6月) 勅書を取り消した上に左大弁橘広相を解官させる
・891年(寛平3年) 藤原基経が亡くなると、菅原道真を重用して政治の刷新を図る(寛平の治)
・896年(寛平8年9月) 内裏で菊の歌宴を開く
・897年(寛平9年7月) 皇太子敦仁親王(醍醐天皇)の元服を機に譲位し、訓誡「寛平御遺誡」を与え、る
・898年(昌泰元年) 亭子院女郎花合を主宰、紀貫之らを臨席させる
・898年(昌泰元年10月) 大和国に行幸し、菅原道真・素性法師らが供奉して歌を詠む
・899年(昌泰2年) 仁和寺で出家(法名は空理のち金剛覚)、以後は法皇と称する
・901年(延喜元年) 菅原道真が大宰府へ左遷される
・904年(延喜4年) 仁和寺に御室を造営する
・907年(延喜7年) 熊野へ行幸する
・913年(延喜13年) 亭子院歌合を主宰する
・931年(承平元年7月19日) 京都において数え年65歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1829年(文政12)国学者・旅行家菅江真澄の命日(新暦8月18日)詳細
1864年(元治元)京都で蛤御門の変(禁門の変)が起きる(新暦8月20日)詳細
1888年(明治21)剣術家・政治家山岡鉄舟の命日詳細

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 今日は、江戸時代中期の1705年(宝永2)に、歌人・俳人・和学者北村季吟の亡くなった日ですが、新暦では8月4日となります。
 北村季吟(きたむら きぎん)は、1625年1月19日(寛永元年12月11日)に、近江国野洲郡北村(現在の滋賀県野洲市)の医師だった父・北村宗円の修業先の京都で出生したとされますが、名は静厚(しずあつ)と言いました。祖父・宗竜と父・宗円が連歌を能くし、医業修行の傍ら、早くから俳諧に親しみます。
 京都に出て、16歳で安原貞室に、22歳で松永貞徳に入門、1648年(正保5)には、処女作『山之井』を刊行しました。1653年(慶安6)に『紅梅千句』の大興行に参加し跋文も書き、1655年(明暦元)に中国宋代の劉向の「列女伝」を翻訳し『仮名烈女伝』を出しましたが、1656年(明暦2)には、『誹諧合』を出して独立を宣言します。
 1660年(寛文元)に句集『新続犬筑波集』を編集し、1673年(延宝元)には、俳論書『埋木』を刊行しました。また、飛鳥井雅章・清水谷実業に和歌、歌学を学び、『徒然草文段抄』(1667年)、『源氏物語湖月抄』(1673年)、『枕草子春曙抄』(1674年)、『伊勢物語拾穂抄』(1680年)、『八代集抄』(1682年)などの注釈書も出しています。
 1683年(天和3)に京都新玉津島神社の社司となり、天和年間には、俳業をほとんど廃して古典注釈に没頭したとされてきました。1689年(元禄年)に、子息の湖春と共に幕府歌学方500石として召され、江戸に下ったものの、1697年(元禄10)に子息の湖春が亡くなり、1699年(元禄12)には、再昌院の号と法印の称号を受けています。
 門下からは、山岡元隣、松尾芭蕉、山口素堂などを輩出しましたが、1705年(宝永2年6月15日)に、江戸において、数え年82歳で亡くなりました。

〇北村季吟の主要な著作

・俳諧季寄せ『山之井(やまのい)』(1648年)
・翻訳『仮名烈女伝』(1655年)
・句集『新続犬筑波集』(1667年)
・注釈書『徒然草文段抄』(1667年)
・注釈書『源氏物語湖月抄』(1673年)
・俳諧論書『埋木 (うもれぎ) 』(1673年)
・注釈書『枕草子春曙 (しゆんしよ) 抄』(1674年)
・『続連珠』(1676年)
・仮名草子『岩つつじ』(1676年)
・句合書『六百番誹諧発句合(ほつくあわせ)』(1677年)
・注釈書『伊勢物語拾穂抄』(1680年)
・注釈書『八代集抄』(1682年)
・注釈書『万葉拾穂抄』(1682~86年)
・歌集『季吟子和歌』(1684年)
・名所記『菟芸泥赴』(1684年)

☆北村季吟関係略年表(日付は旧暦です)

・1625年1月19日(寛永元年12月11日) 近江国野洲郡北村(現在の滋賀県野洲市)の医師だった父・宗円の修業先の京都で出生したとされる
・1639年(寛永16年) 16歳の時、安原貞室に入門する
・1645年(正保2年) 22歳の時、松永貞徳に入門する
・1648年(正保5年) 処女作『山之井』を刊行する
・1653年(慶安6年) 『紅梅千句』の大興行に参加し跋文も書く
・1655年(明暦元年) 中国宋代の劉向の「列女伝」を翻訳し『仮名烈女伝』を出す
・1656年(明暦2年) 『誹諧合(はいかいあわせ)』を出して独立を宣言する
・1660年(寛文元年) 句集『新続犬筑波(いぬつくば)集』を出す
・1673年(延宝元年) 俳論書『埋木(うもれぎ)』を刊行する
・1673年(延宝元年) 注釈書『源氏物語湖月抄』を著す
・1674年(延宝2年) 注釈書『枕草子春曙 (しゆんしよ) 抄』を出す
・1676年(延宝4年) 『続連珠』を出す
・1677年(延宝5年) 句合書『六百番誹諧発句合(ほつくあわせ)』を著す
・1680年(延宝8年) 注釈書『伊勢物語拾穂抄』を出す
・1682年(天和2年) 注釈書『八代集抄』を出す
・1683年(天和3年) 京都新玉津島神社の社司となる
・1681~84年(天和年間) 俳業をほとんど廃して古典注釈に没頭する
・1684年(貞享元年) 歌集『季吟子和歌』、名所記『菟芸泥赴』を出す 
・1689年(元禄2年) 子息の湖春と共に幕府歌学方500石として召され、江戸に下る
・1697年(元禄10年) 子息の湖春が亡くなる
・1699年(元禄12年) 再昌院の号と法印の称号をうける
・1705年(宝永2年6月15日) 江戸において、数え年82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

707年(慶雲4)第42代天皇とされる文武天皇の命日(新暦7月18日)詳細
1242年(仁治3)鎌倉幕府の第3代執権北条泰時の命日(新暦7月14日)詳細
1896年(明治29)明治三陸地震による大津波で死者約2万7千人の被害がが出る 詳細


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 今日は、鎌倉時代の1265年(文永2)に、第92代の天皇とされる伏見天皇の生まれた日ですが、新暦では5月10日となります。
 伏見天皇(ふしみてんのう)は、京都において、持明院統の後深草天皇の第二皇子(母は左大臣洞院実雄の娘)として生まれましたが、名は熈仁(ひろひと)と言いました。1275年(建治元)に大覚寺統の亀山上皇の猶子となり親王宣下され、1287年(弘安10)の23歳の時、後宇多天皇の譲位により践祚、翌年に第92代とされる天皇として即位、両統が交互に皇位に就く例(両統迭立)を開きます。
 1289年(正応2)に自分の皇子である胤仁親王(のちの後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まったものの、翌年には院政を敷いていた後深草院が出家し、以後は親政をとり、院評定衆の代わりに宮中に議定衆をおくなど公家政治振興に努めました。1290年(正応3)に宮中に甲斐源氏の浅原為頼父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起き、1298年(永仁6)には、胤仁親王(後伏見天皇)に譲位して、院政を執り行ないます。
 しかし、1301年(正安3)に、大覚寺統の巻き返しにより後伏見天皇は後二条天皇に譲位し、院政は後宇多院の手に移りました。1303年(正応5)に十三ヶ条の新制を制定し、政治の刷新をすすめ、1308年(徳治3)には、後二条天皇の崩御に伴い、花園天皇の即位を実現し、再び院政を敷きます。
 1311年(応長元)に以前頓挫した勅撰集編纂を再企画し、京極為兼に単独撰進を命じ、翌年には、14番目の勅撰集『玉葉和歌集』が完成し、奏覧されました。自身も歌を能くし、歌集『伏見院御集』を成し、以後の勅撰集にも多く掲載されます。また、当代随一の能書家として知られ、宸翰の多くが後に国指定重要文化財となりました。
 1313年(正和2)に出家し、後伏見上皇が院政を引き継いだものの、1317年(文保元年9月3日)に京都において、数え年53歳で亡くなり、陵墓は深草北陵(現在の京都市伏見区)とされます。

<代表的な歌>

・「更(ふ)けぬるか 過ぎ行く宿も しづまりて 月の夜道に あふ人もなし」(玉葉和歌集)
・「立ちかへる 月日やいつを まつら船 行方もなみの 千重に隔てて」(玉葉和歌集)
・「春をうくる 時のこころは ひとしきを 柳桜の おのがいろいろ」(伏見院御集)
・「秋風は 遠き草葉を わたるなり 夕日の影は 野辺はるかにて」(風雅和歌集)
・「星うたふ 声や雲ゐに すみぬらん 空にもやがて 影のさやけき」(新拾遺和歌集)

〇伏見天皇の主要な著作

・日記『伏見院御記』
・歌集『伏見院御集』

☆伏見天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1265年(文永2年4月23日) 京都において、後深草天皇の第二皇子(母は左大臣洞院実雄の娘)として生まれる
・1275年(建治元年) 大覚寺統の亀山上皇の猶子となり親王宣下される
・1287年(弘安10年10月21日) 23歳の時、後宇多天皇の譲位により践祚する
・1288年(正応元年3月3日) 藤原経子の腹に胤仁親王(のちの後伏見天皇)が生まれる
・1288年(正応元年3月15日) 第92代とされる天皇として即位する
・1288年(正応元年8月20日) 西園寺実兼の長女(のちの永福門院)を中宮とする
・1289年(正応2年4月) 自分の皇子である胤仁親王(のちの後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まる
・1290年(正応3年2月) 院政を敷いていた後深草院が出家し、以後は親政となる
・1290年(正応3年3月9日) 宮中に甲斐源氏の浅原為頼父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起きる
・1294年(永仁2年) 勅撰集の編纂を企図し、京極為兼・飛鳥井雅有・二条為世・九条隆博に撰進を命じるものの中断する
・1298年(永仁6年7月22日) 胤仁親王(後伏見天皇)に譲位して院政を執り行なう
・1301年(正安3年1月21日) 大覚寺統の巻き返しにより後伏見天皇は後二条天皇に譲位し、院政は後宇多院の手に移る
・1303年(正応5年) 十三ヶ条の新制を制定し、政治の刷新をすすめる
・1308年(徳治3年8月25日) 後二条天皇の崩御に伴い、花園天皇の即位を実現し、再び院政を敷く
・1311年(応長元年) 再び勅撰集編纂を企画し、京極為兼に単独撰進を命ずる
・1312年(正和元年3月28日) 十四番目の勅撰集『玉葉和歌集』が完成し、奏覧される
・1313年(正和2年) 出家し、後伏見上皇が院政を引き継ぐ
・1317年(文保元年9月3日) 京都において、数え年53歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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