ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:歌人

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 今日は、昭和時代後期の1967年(昭和42)に、歌人で大正三美人の1人とされる柳原白蓮が亡くなった日です。
 柳原白蓮(やなぎわら びゃくれん)は、東京において、伯爵だった父・柳原前光(さきみつ)と妾の母・りょうの子として生まれ、品川に里子に出されましたが、本名は愛子と言いました。1892年(明治25)に柳原家に戻り、麻布南山小学校入学、1894年(明治27)には、子爵・北小路隨光(よりみつ)の養女となり、竹早の師範附属小学校に転校します。
 1898年(明治31)に華族女学校に入学したものの、1900年(明治33)に中退して、北小路資武と結婚、佐佐木信綱に師事し『心の花』に作品を発表しました。1901年(明治34)に男児(功光)を出産しましたが、1905年(明治38)には、北小路資武と離婚、子を残して実家に戻っています。
 1908年(明治41)に東洋英和女学校に編入学し竹柏会に入門し、1910年(明治43)に卒業後、翌年には九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚し“筑紫の女王”と呼ばれるようになりました。1915年(大正4)に白蓮の雅号で第一歌集『踏絵』上梓、1917年(大正6)に筑豊疑獄事件で証人として出廷、1919年(大正8)には、詩集『几帳のかけ』・歌集『幻の華』を刊行します。
 1920年(大正9)に編集者として別府を訪れた社会主義者の宮崎龍介と出会い、翌年には、白蓮事件(宮崎龍介と駆け落ち)を起こし、伊藤伝右衛門と離婚しました。1922年(大正11)に男児(香織)を出産しましたが、翌年9月1日に関東大震災に遭遇、香織と共に宮崎家に入り、華族を除籍され、以降、柳原白蓮、柳原燁子の筆名で活動することとなります。
 その中で、小説『則天武后』(1924年)、歌集『紫の梅』(1925年)、自伝小説『荊棘の実』、小説『恋愛懺悔』(1928年)などを刊行しました。1931年(昭和6)に宮崎滔天遺族の国賓として龍介と中国訪問し、1934年(昭和9)には、歌誌『ことたま』を創刊し主宰するようになります。
 1945年(昭和20)に、子の香織が鹿児島県串木野市で戦災死し、太平洋戦争後の1946年(昭和21)には、悲母の会を結成し平和運動に参加しました。1947年(昭和22)に歌集『踏絵・幻の華』(日本文学選)、1950年(昭和25)には『短歌教室』を刊行します。
 1956年(昭和31)に歌集『地平線』を刊行したものの、1961年(昭和36)には、緑内障で徐々に両眼の視力を失い、1967年(昭和42)2月22日に、東京・西池袋の自宅において、81歳で亡くなりました。

<代表的な歌>

・「踏絵もて ためさるる日の 来しごとも 歌反故(ほご)いだき 立てる火の前」(踏絵)
・「わが命 惜まるるほどの 幸を 初めて知らむ 相許すとき」
・「われなくば わが世もあらじ 人もあらじ まして身をやく 思ひもあらじ」
・「思ひきや 月も流転の かげぞかし わがこし方に 何をなげかむ」

〇柳原白蓮の主要な著作

・歌集『踏絵』(1915年)
・歌集『幻の華』(1919年)
・詩集『几帳のかげ』(1919年)
・小説『則天武后』(1924年)
・歌集『紫の梅』(1925年)
・自伝小説『荊棘の実』(1928年)
・小説『恋愛懺悔』(1928年)
・『短歌教室』(1950年)
・歌集『地平線』(1956年)

☆柳原白蓮関係略年表

・1885年(明治18)10月15日 東京において、伯爵だった父・柳原前光(さきみつ)と妾の母・りょうの子として生まれ、品川に里子に出される
・1892年(明治25) 柳原家に戻り、麻布南山小学校入学する
・1894年(明治27) 子爵・北小路隨光(よりみつ)の養女となり、竹早の師範附属小学校に転校する
・1898年(明治31) 華族女学校に入学する
・1900年(明治33) 華族女学校を中退、北小路資武と結婚、佐佐木信綱に師事し『心の花』に作品を発表する
・1901年(明治34) 男児(功光)を出産する
・1905年(明治38) 北小路資武と離婚、実家に戻る
・1908年(明治41) 東洋英和女学校に編入学、竹柏会に入門する
・1910年(明治43)3月 東洋英和女学校卒業する
・1911年(明治44)2月 九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚する
・1915年(大正4) 白蓮の雅号で第一歌集『踏絵』上梓する
・1917年(大正6)4月 筑豊疑獄事件で証人として出廷する
・1919年(大正8) 詩集『几帳のかけ』・歌集『幻の華』を刊行する
・1920年(大正9)1月 編集者として別府を訪れた社会主義者の宮崎龍介と出会う、戯曲『指鬘外道』を刊行する
・1921年(大正10)10月 白蓮事件(宮崎龍介と駆け落ち)、伊藤伝右衛門と離婚、『白蓮自選歌集』を刊行する
・1922年(大正11)5月 男児(香織)を出産する
・1923年(大正12)9月 関東大震災に会い、香織と共に宮崎家に入る
・1923年(大正12)11月16日 華族を除籍され、以降、柳原白蓮、柳原燁子の筆名で活動する
・1924年(大正13) 小説『則天武后』を刊行する
・1925年(大正14)9月 長女・蕗苳誕生、歌集『紫の梅』を刊行する
・1928年(昭和3) 歌集『流転』、『筑紫集』、自伝小説『荊棘の実』、小説『恋愛懺悔』を刊行する
・1930年(昭和5) 小説『青春譜』を刊行する
・1931年(昭和6) 宮崎滔天遺族の国賓として龍介と中国訪問する
・1934年(昭和9) 歌誌『ことたま』を創刊し主宰する
・1937年(昭和12)7月 盧溝橋事件がある
・1939年(昭和14) 『歴代女流歌人の鑑賞』を刊行する
・1943年(昭和18) 小説『民族のともしび』を刊行する
・1945年(昭和20)8月 子の香織が鹿児島県串木野市で戦災死する
・1946年(昭和21)1月 長女・蕗苳結婚、悲母の会を結成し平和運動に参加する
・1947年(昭和22) 歌集『踏絵・幻の華』(日本文学選)を刊行する
・1950年(昭和25) 『短歌教室』を刊行する
・1954年(昭和29) 『ことたま選集』
・1956年(昭和31)5月 龍介と中国訪問し毛沢東主席、周恩来総理と対面、歌集『地平線』を刊行する
・1961年(昭和36) 緑内障で徐々に両眼の視力を失う
・1967年(昭和42)2月22日 東京・西池袋の自宅において、81歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

622年(推古天皇30)政治家・宗教的思想家聖徳太子が亡くなったとされる日(新暦4月8日)詳細
1239年(延応元)第82代の天皇後鳥羽天皇の命日(新暦3月28日)詳細
1875年(明治8)板垣退助が大阪で自由民権運動の政治団体「愛国社」を創設する詳細
1989年(平成元)佐賀県吉野ヶ里遺跡で弥生時代後期の国内最大規模の環濠集落発見と報道される詳細
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 今日は、平安時代後期の1074年(延久6)に、公卿・歌人藤原頼通が亡くなった日ですが、新暦では3月2日となります。
 藤原頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期の992年(正暦3年1月)に、京都において、摂政・関白・太政大臣だった、父・藤原道長の嫡男(母は左大臣源雅信の娘倫子)として生まれましたが、幼名は田鶴(たづ)と言いました。1003年(長保5)に元服し、正五位下に叙位、昇殿と禁色を許され、侍従に任官します。
 翌年には、従四位下に昇叙し、近江介を兼任、春日祭使(藤原氏の氏社奈良の春日社の大祭に朝廷から派遣される使者)に選ばれました。1006年 (寛弘3) に従三位、1009年(寛弘6)に権中納言、1011年(寛弘8)に正二位、1013年(長和2)に権大納言、1015年(長和4)に左近衛大将と順調に昇叙・任官します。
 同年に内大臣となり、後一条天皇の摂政を父・道長から譲られ、藤原氏長者ともなり、1019年(寛仁3)には関白宣下されました。1021年(治安元)に居邸高陽院を壮麗に造営して世の耳目を集め、1021年(治安元)に従一位に昇叙し、左大臣に転任します。
 1024年(万寿元)に高陽院において競馬を催したりしますが、1028年(万寿4)には、父・道長が亡くなりました。1035年(長元8)に関白左大臣頼通歌合を開催、1037年(長暦元)に養女嫄子(げんし)が後朱雀天皇に入内、1051年(永承6)には、平親王の女との間に生まれた寛子(かんし)が後冷泉天皇の皇后となり、天皇との姻戚関係を強め、藤原氏全盛時代を築きます。
 一方で、1040年(長久元)、1045年(寛徳2)、1055年(天喜3)に「荘園整理令」に着手したものの、権門擁護策に終わりました。後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の3代、50余年に渡って、摂政あるいは関白の座を占め、女子を天皇の後宮にいれて、外孫皇子の誕生を期待しましたが、その誕生がないままとなります。
 1061年(康平4)に太政大臣まで上り詰めたものの、翌年には辞し、1064年(康平7)に藤原氏長者も辞め、1067年(治暦3)には関白も辞し、准三宮を宣下されました。翌年には、170年ぶりに藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位し、1072年(延久4)には、出家し法名を蓮華覚、のち、寂覚とします。
 1052年(永承8)に宇治の別荘を宇治平等院鳳凰堂として建立していましたが、そこに隠遁し、1074年(延久6年2月2日)に宇治において、数え年83歳で亡くなりました。尚、歌人としても知られ、歌壇の後援者として大きな存在で、私家集の集成や歌合類聚事業など、和歌史上の功績も大きく、『後拾遺和歌集』初出後、勅撰集入集は15首にも及んでいます。

<藤原頼通の代表的歌>

・「そらならば たづねきなまし 梅の花 まだ身にしまぬ 匂ひとぞみる」(新勅撰和歌集)
・「有明の 月だにあれや ほととぎす ただ一声の ゆくかたも見む」(後拾遺和歌集)
・「見もはてで さめけむ夢を 思ふにも これぞうつつと いかで知らせむ」(玉葉和歌集)

〇藤原頼通関係略年表(日付は旧暦です)

・992年(正暦3年1月) 京都において、摂政・関白・太政大臣だった父・藤原道長の嫡男(母は左大臣源雅信の娘倫子)として生まれる
・1003年(長保5年2月20日) 元服し、正五位下に叙位、昇殿と禁色を許される
・1003年(長保5年2月28日) 侍従に任官する
・1004年(長保6年1月7日) 従四位下に昇叙し、右近衛少将如元
・1004年(長保6年1月24日) 近江介を兼任する
・1004年(長保6年) 春日祭使(藤原氏の氏社奈良の春日社の大祭に朝廷から派遣される使者)に選ばれる
・1005年(寛弘2年10月22日) 従四位上に昇叙し、右近衛少将如元
・1006年(寛弘3年3月4日) 従三位に昇叙し、右近衛少将如元
・1006年(寛弘3年9月22日) 正三位に昇叙し、右近衛少将如元
・1007年(寛弘4年1月28日) 春宮(のちの三条天皇こと、居貞親王)権大夫に転任する
・1008年(寛弘5年10月16日) 従二位に昇叙し、春宮権大夫如元
・1009年(寛弘6年3月4日) 権中納言に転任し、左衛門督を兼任、春宮権大夫如元
・1011年(寛弘8年6月9日) 正二位に昇叙し、権中納言・左衛門督如元
・1011年(寛弘8年6月13日) 春宮権大夫如元
・1013年(長和2年6月23日) 権大納言に転任し、春宮権大夫如元
・1015年(長和4年10月27日) 左近衛大将を兼任する
・1016年(長和5年1月29日) 春宮権大夫を停む
・1017年(長和6年3月4日) 内大臣に転任する
・1017年(長和6年3月6日) 左近衛大将如元
・1017年(長和6年3月16日) 摂政宣下、内大臣・左近衛大将如元
・1017年(長和6年3月22日) 左近衛大将を辞任する
・1019年(寛仁3年12月22日) 摂政を止め、関白宣下、内大臣如元
・1021年(治安元年) 居邸高陽院を壮麗に造営して世の耳目を集める
・1021年(治安元年1月7日) 従一位に昇叙し、関白・内大臣如元
・1021年(治安元年7月25日) 左大臣に転任し、関白如元
・1021年(治安元年8月10日) 太政大臣(藤原公季)の下に列する旨の宣旨あり
・1024年(万寿元年秋) 高陽院において競馬を催す
・1028年(万寿4年12月4日) 父・藤原道長が亡くなる
・1035年(長元8年) 関白左大臣頼通歌合を開催する
・1037年(長暦元年) 養女嫄子(げんし)が後朱雀天皇に入内する
・1040年(長久元年) 「荘園整理令」を出す
・1045年(寛徳2年) 「荘園整理令」を出す
・1051年(永承6年) 陸奥国で前九年の役が勃発する
・1051年(永承6年) 平親王の女との間に生まれた寛子(かんし)が後冷泉天皇の皇后となる
・1052年(永承8年) 宇治の別荘を宇治平等院鳳凰堂として建立する
・1055年(天喜3年) 「荘園整理令」を出す
・1060年(康平3年7月17日) 左大臣を辞し、関白如元
・1061年(康平4年12月21日) 太政大臣宣下、関白如元
・1062年(康平5年9月2日) 太政大臣を辞す
・1064年(康平7年12月13日) 藤原氏長者を辞す
・1067年(治暦3年4月16日) 関白を辞し、准三宮宣下される
・1068年(治暦4年4月19日) 170年ぶりに藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位する
・1072年(延久4年4月29日) 出家し法名を蓮華覚、のち、寂覚とする
・1074年(延久6年2月2日) 山城国宇治において、数え年83歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

749年(天平21)社会事業に尽力した法相宗の僧行基の命日詳細
1929年(昭和4)日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)が結成される詳細
1942年(昭和17)大日本国防婦人会・愛国婦人会・大日本聯合婦人会を統合し、大日本婦人会が発足詳細
1971年(昭和46)湿地の保存に関する「ラムサール条約」が調印される(世界湿地デー)詳細
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 今日は、奈良時代の757年(天平宝字元)に、皇族・公卿・歌人橘諸兄が亡くなった日ですが、新暦では1月30日となります。
 橘諸兄(たちばな の もろえ)は、684年(天武13)に、敏達天皇の玄孫で、従四位下の美努(みぬ)王の子(母は県犬養橘三千代)として生まれましたが、最初は葛城王と称しました。710年(和銅3)に無位から従五位下に叙され、翌年に馬寮監に任ぜられると、以後累進して、724年(神亀元)に聖武天皇の即位後間もなく、従四位下に昇叙されます。
 729年(神亀6)の「長屋王の変」後に行われたの叙位にて正四位下に昇叙され、続いて左大弁に任ぜられ、731年(天平3)には、藤原宇合、麻呂らと共に諸司の挙によって、参議に任ぜられ、公卿に列しました。732年(天平4)に従三位に昇叙し、736年(天平8)には、弟の作為王と共に、朝廷に請うて臣籍に降り、母の氏姓橘宿禰姓を賜わって、名を諸兄と改めます。
 737年(天平9)に天然痘の流行による藤原4卿(武智麻呂、房前、宇合、麻呂) の急死によって、大納言に任ぜられ、翌年に正三位・右大臣、翌々年には従二位に昇叙され、唐から帰国した玄昉や吉備真備らを顧問に起用しました。740年(天平12)秋に、大宰少弐の藤原広嗣が九州で大軍を率いて反乱(藤原広嗣の乱)を起こすと、鎮圧後に恭仁京を都と定められ、その遷都に尽力します。
 741年(天平13)に聖武天皇によって「国分寺建立の詔」が出され、743年(天平15)には、「墾田永年私財法」、「大仏造立の詔」が出され、それにあたりました。同年に従一位・左大臣に叙任されたものの、744年(天平15)に恭仁京の造営が中止され、翌年には難波宮行幸があり、諸兄の宣で難波を皇都とする詔が出されましたが、745年(天平17)には、平城京に還都し、諸兄の遷都計画は失敗に帰します。
 749年(天平感宝元)の東大寺行幸に際し、正一位に昇叙されて、翌年に朝臣の姓を賜るなど全盛を極めたものの、藤原仲麻呂の台頭によって、しだいに実権を失っていきました。755年(天平勝宝7年11月)に祗承人佐味宮守に、太上天皇不予の際、飲酒の庭で礼なしと告訴されると、翌年には辞職を申し出て致仕します。
 歌人としても知られ、『万葉集』に7首所載されましたが、757年(天平宝字元年1月6日)に失意のうちに、数え年74歳で亡くなりました。

<橘諸兄の代表的な和歌>

・「降る雪の白髪(しろかみ)までに大君に仕へまつれば貴くもあるか」(万葉集)
・「あぢさゐの八重咲くごとく弥つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」(万葉集)
・「高山の巌に生ふる菅の根のねもころごろに降り置く白雪」(万葉集)

〇橘諸兄関係略年表(日付は旧暦です)

・684年(天武13年) 敏達(びだつ)天皇の玄孫で従四位下の美努(みぬ)王の子(母は県犬養橘三千代)として生まれる
・710年(和銅3年1月) 無位から従五位下に叙される
・711年(和銅4年12月) 馬寮監に任ぜられる
・717年(霊亀3年1月) 従五位上に昇叙される
・721年(養老5年1月) 正五位下に昇叙される
・723年(養老7年1月) 正五位上に昇叙される
・724年(神亀元年2月) 聖武天皇の即位後間もなく従四位下に昇叙される
・729年(神亀6年2月13日) 長屋王が自殺する(長屋王の変)
・729年(神亀6年3月) 長屋王の変後に行われたの叙位にて、正四位下に昇叙される
・729年(神亀6年9月) 左大弁に任ぜられる 
・731年(天平3年8月) 藤原宇合、麻呂らとともに諸司の挙によって、参議に任ぜられ、公卿に列する
・732年(天平4年1月) 従三位に昇叙される
・736年(天平8年11月) 弟の作為王と共に、朝廷に請うて臣籍に降り、母の氏姓橘宿禰姓を賜わって、名を諸兄と改める
・737年(天平9年9月) 天然痘の流行による藤原4卿の急死によって、大納言に任ぜられる
・738年(天平10年1月) 正三位に昇叙され、右大臣に任ぜられる
・739年(天平11年1月) 従二位に昇叙される
・740年(天平12年)秋 大宰少弐の)藤原広嗣が九州で大軍を率いて反乱(藤原広嗣の乱)を起こす
・740年(天平12年12月15日) 恭仁京を都と定める 
・741年(天平13年3月24日) 聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出す
・743年(天平15年5月27日) 「墾田永年私財法」が制定される 
・743年(天平15年10月15日) 聖武天皇が「大仏造立の詔」を出す 
・743年(天平15年5月) 従一位に昇叙され、左大臣に任ぜられる
・744年(天平15年12月26日) 恭仁京の造営を中止する 
・744年(天平16年2月26日) 難波(なにわ)宮行幸があり、諸兄の宣で難波を皇都とする詔が出される
・745年(天平17年)頃 諸兄の子息・奈良麻呂が長屋王の遺児である黄文王を擁立して謀反の企図を始める
・745年(天平17年5月1日) 平城京に還都し、諸兄の遷都計画は失敗に帰する 
・749年(天平感宝元年4月) 東大寺行幸に際し、正一位に昇叙される
・749年(天平勝宝元年7月2日) 聖武天皇が譲位し、安倍内親王が孝謙天皇として即位する
・750年(天平勝宝2年1月) 朝臣の姓を賜る  
・752年(天平勝宝4年4月9日) 大仏開眼供養会が開催される 
・755年(天平勝宝7年11月) 祗承人佐味宮守に、太上天皇不予の際、飲酒の庭で礼なしと告訴される
・756年(天平勝宝8年2月) 辞職を申し出て致仕する
・756年(天平勝宝8年5月2日) 聖武上皇が崩御し、道祖王が立太子する 
・757年(天平宝字元年1月6日) 失意のうちに数え年74歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1215年(建保3)鎌倉幕府初代執権北条時政の命日(新暦2月6日)詳細
1822年(文政5)洒落本・滑稽本・黄表紙・合巻作者式亭三馬の命日(新暦2月27日)詳細
1831年(天保2)禅僧・歌人・書家良寛の命日(新暦2月18日)詳細
1902年(明治35)生態学者・文化人類学者・登山家・探検家今西錦司の誕生日詳細
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 今日は、江戸時代前期の1669年(寛文9)に、国学者・歌人で、国学の四大人の一人とされる荷田春満の生まれた日ですが、新暦では2月3日となります。
 荷田 春満(かだ の あずままろ)は、京都において、京都伏見稲荷神社の神官、父・羽倉信詮(のぶあき)と母・貝子(細川忠興の家臣深尾氏の娘)の二男として生まれましたが、初名は信盛と称し、のちに東丸となりました。1697年(元禄10)の20歳の時、妙法院宮尭延法親王の家来となって和歌を進講し、翌年に歌集『春葉集』が成りましたが、1699年(元禄12)には暇をもらっています。
 1700年(元禄13)に江戸へ派遣された大炊御門経光卿に随伴して、教授講義をもって家名を興すために江戸に下りました。稲荷神道の喧伝につとめ、1707年(宝永4)頃から、『万葉集』をはじめとする古典の研究、講義に入ります。
 1713年(正徳3)にいったん帰京するも、すぐ出府しましたが、1714年(正徳4)に再び帰京して、老母に孝養を尽くました。1722年(享保7)に三度めの出府をし、将軍徳川吉宗から幕府書物奉行下田師古への和学相伝の命を受け、幕府書庫の蔵書の鑑定などを命じられ、また故実、書籍、古語についての下問に答えています。
 1723年(享保8)に帰京したものの、幕府からの下問には書簡で答えてきましたが、1727年(享保12)には、胸の病に罹って、幕臣としの職を辞しました。1728年(享保13)には、著作『創学校啓(そうがくこうけい)』を江戸幕府に献じ、養子在満を出府させ、幕府からの下問の仕事に当たらせています。
 日本古典の儒教的・仏教的解釈を排斥して、古語・古文によって、日本固有の古代精神を明らかにすることを試み、『万葉集』、『古事記』、『日本書紀』などを研究しましたが、1730年(享保15)に中風に罹り、1736年(元文元年7月2日)に、京都において、数え年68歳で亡くなりました。賀茂真淵や養子の荷田在満をはじめ、多くの門人を取り立て、後の国学の発展に大きな影響を与え、後世に賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤(あつたね)と共に「国学の四大人(うし)」と呼ばれるようになります。

〇荷田春満の主要な著作

・『日本書紀訓釈』
・『万葉集改訓抄』
・『万葉集僻案抄』
・『万葉集童蒙抄(どうもうしょう)』
・『万葉集童子問』
・『伊勢(いせ)物語童子問』(1728年成立)
・『創学校啓 (そうがつこうけい) 』(1728年)
・歌集『春葉集』(1698年)

☆荷田春満関係略年表(日付は旧暦です)

・1669年(寛文9年1月3日) 京都において、京都伏見稲荷神社の神官、父・羽倉信詮(のぶあき)と母・貝子(細川忠興の家臣深尾氏の娘)の二男として生まれる
・1697年(元禄10年) 20歳の時、妙法院宮尭延法親王の家来となって和歌を進講する
・1698年(元禄11年) 歌集『春葉集』が成る
・1699年(元禄12年) 暇をもらう
・1700年(元禄13年) 江戸へ派遣された大炊御門経光卿に随伴して、教授講義をもって家名を興すために江戸に下る
・1707年(宝永4年)頃 『万葉集』をはじめとする古典の研究、講義に入る
・1713年(正徳3年) いったん帰京するも、すぐ出府する
・1714年(正徳4年) 帰京して老母に孝養を尽くす
・1722年(享保7年) 三度めの出府、将軍徳川吉宗から幕府書物奉行下田師古への和学相伝の命を受け、幕府書庫の蔵書の鑑定などを命じられ、また故実、書籍、古語についての下問に答える
・1723年(享保8年) 帰京したが、幕府からの下問に書簡で答える
・1727年(享保12年) 幕臣として仕えてきたが、胸の病に罹って職を辞す
・1728年(享保13年) 著作『創学校啓(そうがくこうけい)』を江戸幕府に献じ、養子在満を出府させ、幕府からの下問の仕事に当たらせる
・1730年(享保15年) 中風に罹る
・1733年(享保18年) 賀茂真淵 (まぶち) が入門する
・1736年(元文元年7月2日) 京都において、数え年68歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

976年(天延4)第67代の天皇とされる三条天皇の誕生日(新暦2月5日)詳細
985年(永観3)天台宗の僧・比叡山中興の祖良源の命日(新暦1月26日)詳細
1868年(慶応4)戊辰戦争の幕開けである鳥羽伏見の戦いが始まる(新暦1月27日)詳細
1870年(明治3)「神霊ヲ鎮祭スルノ詔」(鎮祭の詔)・「宣教使ヲ置クノ詔」(大教宣布の詔)が出される(新暦2月3日)詳細
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kosugihouan01

 今日は、明治時代前期の1881年(明治14)に、画家・歌人・随筆家小杉放庵の生まれた日です。
 小杉放庵(こすぎ ほうあん)は、栃木県上都賀郡日光町(現在の日光市)で、二荒山神社の神官だった父・小杉富三郎、母・妙の6人兄弟の末弟として生まれましたが、本名は国太郎(くにたろう)と言いました。1895年(明治28)の15歳の時、宇都宮中学一年で中退、翌年には、父につれられて日光在住の洋画家五百城文哉の内弟子に入ります。
 1898年(明治31)の18歳の時、画業を志して無断で上京、赤坂溜池の白馬会研究所に通ったものの、まもなく肺尖カタルに犯されて帰郷しました。1900年(明治33)の20歳の時、師匠の許可をえて再上京、吉田博の感化で小山正太郎の不同舎に入門します。
 1902年(明治35)に太平洋画会に入会、翌年からは国木田独歩の主催する近時画報社に籍をおいて挿絵を描き、漫画も描くようになり、太平洋画会第2回展に「晩鐘」他4点を出品、未醒と号しました。1906年(明治39)に独歩社発行の「新右文林」に漫画を描き、ようやく漫画家として頭角をあらわします。
 1907年(明治40)に美術雑誌「方寸」を創刊、翌年の第2回文展に「湟槃会」が初入選しました。1910年(明治43)の第4回文展で「杣」が三等賞、翌年の第5回文展で「水郷」が二等賞、翌々年の第6回文展で「豆の秋」が二等賞無鑑査となり、画壇的地歩を確定します。
 1913年(大正2)に渡欧し主にフランスに滞在、翌年シベリア経由で帰国、欧州紀行「画筆の跡」を刊行、再興日本美術院の創立に参加しました。1920年(大正9)に日本美術院を脱退、1922年(大正11)には、春陽会創立に参加、しだいに画風、題材に東洋的な傾向を示し、1929年(昭和4)には放庵と改号します。
 1935年(昭和10)に帝国美術院会員、帝国芸術院会員となりましたが、1945年(昭和20)には、太平洋戦争の空襲で東京・田端の画室を焼失、住居を新潟県赤倉に移し定住しました。1959年(昭和34)に日本芸術院会員を辞退、1961年(昭和36)には肺炎により肉体の衰えが目立ち、1964年(昭和39)4月16日に、新潟県赤倉において、84歳で亡くなっています。
 尚、歌人、随筆家としても知られ、歌集『山居』、『石』、『炉』、反戦詩画集『陣中詩篇』、随筆『帰去来』、『故郷』など多くの著作を残しました。

〇小杉放庵の主要な作品

<絵画>
・『山幸彦』(1917年)
・『泉,採薬,静意,動意』(1925年)東京大学安田講堂壁画
・『奥の細道帖』(1927~29年)
・『大宰帥大伴旅人卿讃酒像』(1935年)
・『荘子』(1940年)
・『瘤取』(1949年)出光美術館蔵
・『四季画諧』(1961年)
・『水郷』
・『西遊記』

<著作>
・随筆集『故郷』
・随筆集『帰去来』
・歌集『山居』
・歌集『石』
・歌集『炉』
・歌集『放庵歌集』
・反戦詩画集『陣中詩篇』(1904年)
・『放庵画論』
・『東洋画総論』

☆小杉放庵関係略年表

・1881年(明治14)12月30日 栃木県上都賀郡日光町(現在の日光市)で、父・小杉富三郎、母・妙の6人兄弟の末弟として生まれる
・1886年(明治19) 6歳の頃より父(蘇翁平田派の国学者)について大学、日本外史等の素読をならう
・1888年(明治21) 8歳の時、日光小学校に入学する
・1895年(明治28) 15歳の時、宇都宮中学一年で中退する
・1896年(明治29) 16歳の時、父につれられて日光在住の洋画家五百城文哉の内弟子に入る
・1898年(明治31) 18歳の時、画業を志し上京、赤坂溜池の白馬会研究所に通い、まもなく肺尖カタルに犯されて帰郷、再び文哉宅に帰る
・1899年(明治32) 19歳の時、吉田博日光へ来遊、はじめて知る
・1900年(明治33) 20歳の時、師匠の許をえて再上京、吉田博の感化で小山正太郎の不同舎に入門、同期生に青木繁、荻原守衛らがいた
・1901年(明治34) 21歳の時、田端で自炊生活をする
・1902年(明治35) 22歳の時、太平洋画会第一回展覧会が上野公園5号館で開催、会員となる
・1903年(明治36) 23歳の時、不同舎小山正太郎の推薦で近事画報社に入る。太平洋画会第2回展に「晩鐘」他4点出品、未醒と号す
・1904年(明治37) 24歳の時、渡鮮、日露戦争画勃発して従軍、戦場の挿画や戦地の小景を画報通信、帰国後近事画報社の正社員として入社する
・1905年(明治38) 25歳の時、太平洋画会第4回展に「戦友」他数展を出品する
・1906年(明治39) 26歳の時、独歩社発行の「新右文林」に漫画を描き、ようやく漫画家として頭角をあらわす、独歩の仲人で春夫人と結婚する
・1907年(明治40) 27歳の時、美術雑誌「方寸」を創刊、石井柏亭、山本鼎、森田恒友、倉田白羊、坂本繁二郎、平福百穂らと共に同人で活躍する
・1908年(明治41) 28歳の時、第2回文展に「湟槃会」が初入選する
・1909年(明治42) 29歳の時、第7回太平洋画会展に「黄昏」を出品、押川春浪、中沢臨川ら武侠社仲間と交友あり
・1910年(明治43) 30歳の時、第8回太平洋画会展に「浦島」、「一本杉」を出品、第4回文展で「杣」が三等賞となる
・1911年(明治44) 31歳の時、第9回太平洋画会展に「河原の杉」を出品、第5回文展に「水郷」を出品し二等賞となる
・1912年(明治45) 32歳の時、第6回文展に「豆の秋」を出品、二等賞無鑑査となり、画壇的地歩を確定する
・1913年(大正2) 33歳の時、渡欧し主にフランスに滞在、イタリア、スペイン、イギリス、ドイツ、ロシア等を見学する
・1914年(大正3) 34歳の時、シベリア経由で帰国、欧州紀行「画筆の跡」を刊行、再興日本美術院の創立に参加する
・1920年(大正9) 40歳の時、院展洋画部同人と連袂脱退事件あり、倉田白羊、長谷川昇、森田恒友、山本鼎、足立源一郎らと共に日本美術院を脱退する
・1922年(大正11) 42歳の時、春陽会創立に参加する
・1923年(大正12) 43歳の時、第1回春陽会展に「泉」を出品する
・1924年(大正13) 44歳の時、第2回春陽会展に「採薬」を出品する
・1925年(大正14) 45歳の時、第3回春陽会展に「泉」を出品、東大安田講堂に壁画「泉,採薬,静意,動意」を製作する
・1927年(昭和2) 47歳の時、芭蕉「奥の細道」紀行の足跡をしたい友人岸浪百艸居と同道、東北、北陸に遊ぶ
・1929年(昭和4) 49歳の時、中国に遊び、この機会に「放庵」と改号する
・1935年(昭和10) 55歳の時、帝国美術院会員、帝国芸術院会員となる
・1945年(昭和20) 65歳の時、戦災にて田端の画室焼失、居を越後赤倉に移し定住する
・1959年(昭和34) 79歳の時、日本芸術院会員を辞退する
・1960年(昭和35) 80歳の時、小杉放庵の画集60年展を開催する
・1961年(昭和36) 81歳の時、肺炎にて肉体の衰えめだつ、春陽会展に「童話三題」を出品する
・1963年(昭和38) 83歳の時、再三の肺炎に体力を失い寡作となる
・1964年(昭和39)4月16日 新潟県赤倉において、84歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1927年(昭和2)上野~浅草に日本初の地下鉄(現在の東京メトロ銀座線)が開通(地下鉄記念日)詳細
1930年(昭和5)小説家開高健の誕生日詳細
1952年(昭和27)作曲家中山晋平の命日詳細
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