ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:歌人

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 今日は、昭和時代後期の1984年(昭和59)に、野鳥研究家・歌人・詩人・天台宗僧侶中西悟堂が亡くなった日です。
 中西悟堂(なかにし ごどう)は、1895年(明治28)11月16日に、石川県金沢市長町において、生まれましたが、本名は富嗣(とみつぐ)と言いました。幼くして父母と別れ、天台宗の僧侶であった伯父中西悟玄に育てられます。
 1907年(明治40)に、東京府麻布区飯倉町の小暮小学校高等科卒業後、京橋区数寄屋橋の紙問屋に奉公し、1910年(明治43)には、火災保険会社の給仕となり、その給料で築地工手学校夜間部に入学しました。1911年(明治44)に、東京都下深大寺で得度し天台宗僧徒となり、悟堂と改名、翌年には、天台宗学林(後の大正大学)2年に入り、この前後から歌作を始めます。
 1913年(大正2)に、法王教を唱えた高田道見の認可僧堂瑞応寺で禅生活に入り、赤松月船と知り合い、翌年には、曹洞宗学林(後の駒澤大学)に通うようになりました。1915年(大正4)に、内藤鋠作の抒情詩社に入社、詩や小説を手がけ、1917年(大正6)に、曹洞宗学林を修了、1920年(大正9)には、島根県能義郡(現在の安来市)の長楽寺の住職となります。
 1921年(大正10)に、詩作も発表しはじめ、翌年には、島根県松江市の普門院の住職となり、第一詩集『東京市』を出版しました。1926年(大正15)に、千歳烏山(現在の東京都世田谷区烏山)に移り住み、詩壇と決別し本格的作家をめざし田園生活に入り、1929年(昭和4)には、杉並区井荻町の善福寺風致地区に移り、野鳥の他に昆虫や淡水魚などの生態観察に取り組みます。
 1934年(昭和9)に、柳田国男、北原白秋らをさそって、日本野鳥の会を設立し初代会長となり、1936年(昭和11)には、竹野家立、籾山徳太郎らと共に、鷹狩の保存・振興のため、日本放鷹倶楽部の設立に発起人として参加しました。1947年(昭和22)に、戦後も休止状態にあった日本野鳥の会を再開し、1957年(昭和32)に、『野鳥と生きて』で、第5回日本エッセイストクラブ賞を受賞、1961年(昭和36)には、紫綬褒章を受章します。
 1965年(昭和40)に、『定本野鳥記』で、第17回読売文学賞(研究翻訳賞)、1968年(昭和43)に『悟堂詩集』で、第14回日本歌人クラブ推薦歌集を受賞しました。1972年(昭和47)に、勲三等旭日中綬章を受章、1973年(昭和48)正月の宮中歌会始の召人となり、1977年(昭和52)には、文化功労者に選ばれています。
 1980年(昭和55)に法人化した日本野鳥の会の運営に強い不満を表明して会長を辞任しましたが、翌年には、名誉会長として復籍しました。自然保護運動に尽力してきたものの、1984年(昭和59)12月11日に、神奈川県横浜市港南区の病院において、転移性肝臓癌のため、88歳で亡くなっています。

<中西悟堂の主要な著作>

・第一詩集『東京市』(1922年)
・『虫・鳥と生活する』(1932年) 
・『山岳詩集』(1934年)
・『野鳥と生きて』(1957年)第5回日本エッセイストクラブ賞受賞
・『定本野鳥記』(1962~66年)第17回読売文学賞(研究翻訳賞)受賞
・『悟堂詩集』(1968年)第14回日本歌人クラブ推薦歌集受賞
・歌集『唱名』(1916年)
・歌集『安達太良』(1959年)
・詩集『花巡礼』(1924年)

〇中西悟堂関係略年表

・1895年(明治28)11月16日 石川県金沢市長町において、生まれる
・1900年(明治33) 5歳の時、東京府麻布区飯倉町の小暮小学校に入学する
・1907年(明治40) 高等科卒業後、京橋区数寄屋橋の紙問屋に奉公する
・1910年(明治43) 火災保険会社の給仕となり、その給料で築地工手学校夜間部に入学する
・1911年(明治44) 16歳の時、東京都下深大寺で得度し天台宗僧徒となり、悟堂と改名する
・1912年(明治45) 天台宗学林(後の大正大学)2年に入り、この前後から歌作を始める
・1913年(大正2) 法王教を唱えた高田道見の認可僧堂瑞応寺で禅生活に入り、赤松月船と知り合う
・1914年(大正3) 曹洞宗学林(後の駒澤大学)に通う
・1915年(大正4) 内藤鋠作の抒情詩社に入社、詩や小説を手がける
・1917年(大正6) 曹洞宗学林を修了する
・1920年(大正9) 島根県能義郡(現在の安来市)の長楽寺の住職となる
・1921年(大正10) 詩作も発表しはじめる
・1922年(大正11) 島根県松江市の普門院の住職となり、第一詩集『東京市』を出版する
・1926年(大正15) 千歳烏山(現在の東京都世田谷区烏山)に移り住み、詩壇と決別し本格的作家をめざし田園生活に入る
・1929年(昭和4) 杉並区井荻町の善福寺風致地区に移り、野鳥の他に昆虫や淡水魚などの生態観察に取り組む
・1934年(昭和9) 柳田国男、北原白秋らをさそって、日本野鳥の会を設立し初代会長となる
・1936年(昭和11) 竹野家立、籾山徳太郎らとともに、鷹狩の保存・振興のため、日本放鷹倶楽部の設立に発起人として参加する
・1944年(昭和19) 日本野鳥の会の会員数はおよそ1,800名となる
・1947年(昭和22) 戦後も休止状態にあった日本野鳥の会を再開する
・1957年(昭和32) 『野鳥と生きて』で、第5回日本エッセイストクラブ賞を受賞する
・1961年(昭和36) 紫綬褒章を受章する
・1965年(昭和40) 『定本野鳥記』で、第17回読売文学賞(研究翻訳賞)を受賞する
・1968年(昭和43) 『悟堂詩集』で、第14回日本歌人クラブ推薦歌集を受賞する
・1970年(昭和45) 「自然を返せ」という自然保護運動が起こったとき、若い人々とともにデモ行進の先頭を歩く
・1972年(昭和47) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1973年(昭和48) 正月の宮中歌会始の召人となる
・1977年(昭和52) 文化功労者となる
・1980年(昭和55) 法人化した日本野鳥の会の運営に強い不満を表明して会長を辞任する
・1981年(昭和56) 日本野鳥の会に名誉会長として復籍する
・1984年(昭和59)12月11日 神奈川県横浜市港南区の病院において、転移性肝臓癌のため、88歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1335年(建武2)箱根・竹ノ下の戦いが起き、南北朝動乱が始まる(新暦1336年1月24日)詳細
1645年(正保元)臨済宗の僧沢庵宗彭の命日で「沢庵忌」とされる(新暦1646年1月27日)詳細
1877年(明治10)薬学者(薬化学)近藤平三郎の誕生日詳細
1959年(昭和34)三井三池炭鉱で指名解雇を通告し、「三井三池争議」が始る詳細
1967年(昭和42)佐藤栄作首相が第57回国会の衆議院予算委員会において、「非核三原則」を表明する詳細
1986年(昭和61)歌人宮柊二の命日 詳細
1993年(平成5)日本で初めて、屋久島・白神山地・法隆寺・姫路城の4ヶ所が世界遺産に登録される詳細
1997年(平成9)地球温暖化防止京都会議(COP3)が閉幕、温室効果ガスの削減目標を定めた「京都議定書」を採択する詳細
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 今日は、平安時代後期の1111年(天永2)に、公卿・儒学者・歌人大江匡房の亡くなった日ですが、新暦では12月7日となります。
 大江匡房(おおえ の まさふさ)は、平安時代中期の1041年(長久2)に、父・大学頭成衡(しげひら)、母・文章博士宮内大輔橘孝親の娘の子として生まれました。幼少のころから文才があったと伝えられ、8歳で『史記』『漢書』に通じ、11歳で詩を賦し、世人から神童といわれます。
 1056年(天喜4)に、省試に合格して文章得業生、翌年に、丹波掾となり、1058年(康平元)には、対策に及第しました。1060年(康平3)に、治部少丞・式部少丞を経て従五位下に叙せられ、1067年(治暦3)には、東宮学士(春宮・尊仁親王)となりました。1068年(治暦4)に、尊仁親王が即位(後三条天皇)すると五位蔵人に補せられ、1069年(治暦5)には、蔵人・左衛門権佐・右少弁の三事を兼任する異例の昇任を果たします。
 1078年(承暦2)に、自らの邸宅に江家文庫を設置、『内裏歌合』に出詠し、1080年(承暦4)に権左中弁として弁官局に復し、1081年(永保元)に左中弁となり、1083年(永保3)には、式部権大輔も兼ねました。1084年(応徳元)に左大弁となり、1086年(応徳3)に従三位に叙せられ、1087年(応徳4年)に式部大輔、1088年(寛治2年)には、正三位に叙せられ、参議となって公卿に列します。
 1094年(寛治8)に従二位、権中納言となり、1096年(寛治10年)には、永長の大田楽を記録した『洛陽田楽記』を著しました。1097年(承徳元)に大宰権帥を兼ね、翌年には、筑前の大宰府に下向しましたが、1102年(康和4)には、任期満了に伴って京都に戻り、正二位に叙せられます。1105年(長治2)には、所領に関連して興福寺西金堂衆と争い、西金堂衆に襲われて荘園を焼き払われました。1106年(嘉承元)に再び大宰権帥を兼ねましたが、病気もあって任地には下向せずに終わります。
 1111年(天永2)に大蔵卿に遷任されたものの、同年11月5日に京都において、数え年71歳で亡くなっています。博学で、和歌、漢詩はもとより、歴史、儀式、遊芸から兵学にいたるまで通じていて、その著作は非常に多く、後三条、白河、堀河天皇の侍読ともなり、『後拾遺和歌集』以後の勅撰集に多くの秀作を残し、百人一首にも入りました。

<大江匡房の代表的な和歌>

・「高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ」(百人一首73番:後拾遺和歌集)
・「津の國の 蘆の葉凌ぎ 降る雪に 昆陽の篠屋も 埋もれにけり」
・「たかをかに 群れゐる人も 諸共に 千代契りし わかなをぞつむ」
・「箱根山 うすむらさきの つぼすみれ ふたしほみしほ たれか染めけむ」
・「春霞 立ちかくせども 姫小松 ひくまの野邊に 我は来にけり」(金葉和歌集)
・「山ざくら 千々に心の くだくるは 散る花ごとに そふにやあるらむ」(千載和歌集)

〇大江匡房の主要な著作

・『洛陽田楽(らくようでんがく)記』(1096年)
・有職故実書『江家次第(ごうけしだい)』
・『和漢朗詠集』の注釈『朗詠江注』
・説話集『江談抄』
・兵法書『闘戦経』
・『続本朝往生伝』(1101年~1111年成立)
・『本朝神仙伝』
・和歌集『江帥(ごうのそつ)集』
・『江都督納言願文(がんもん)集』(1061~1111年)

☆大江匡房関係略年表(日付は旧暦です)

・1041年(長久2年) 父・大学頭成衡(しげひら)、母・文章博士・宮内大輔橘孝親の女の子として生まれる
・1048年(永承3年) 8歳で『史記』『漢書』に通じる
・1051年(永承6年) 11歳で詩を賦し、世人から神童といわれる
・1056年(天喜4年) 16歳で、省試に合格して文章得業生となる
・1057年(天喜5年) 丹波掾となる
・1058年(康平元年) 18歳で対策に及第する
・1060年(康平3年) 治部少丞・式部少丞を経て従五位下に叙せられる
・1067年(治暦3年) 東宮学士(春宮・尊仁親王)となる
・1068年(治暦4年) 尊仁親王が即位(後三条天皇)すると五位蔵人に補せられる
・1069年(治暦5年) 29歳で蔵人・左衛門権佐・右少弁の三事を兼任する異例の昇任をする
・1078年(承暦2年) 自らの邸宅に江家文庫を設置、『内裏歌合』に出詠する
・1080年(承暦4年) 権左中弁として弁官局に復する
・1081年(永保元年) 左中弁となる
・1083年(永保3年) 式部権大輔も兼ねる
・1084年(応徳元年) 左大弁となる
・1086年(応徳3年) 従三位に叙せられる
・1087年(応徳4年) 式部大輔となる
・1088年(寛治2年) 正三位に叙せられ、参議となり、公卿に列する
・1094年(寛治8年) 従二位、権中納言となる
・1096年(寛治10年)  永長の大田楽を記録した『洛陽田楽(らくようでんがく)記』を著す
・1097年(承徳元年) 大宰権帥を兼ねる
・1098年(永長3年) 58歳で筑前の大宰府に下向する
・1102年(康和4年) 正二位に叙せられる
・1105年(長治2年) 所領に関連して興福寺西金堂衆と争い、西金堂衆に襲われて荘園を焼き払われる
・1106年(嘉承元年) 再び大宰権帥を兼ねるが、病気もあって任地には下向せず
・1111年(天永2年11月5日) 京都において、71歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事).

1854年(嘉永7)安政南海地震が起き、甚大な被害が出る(新暦12月24日)詳細
1857年(安政4)吉田松陰が長州藩の許可を得て萩に松下村塾を開講する(新暦12月9日)詳細
1888年(明治21)日本画家・近代日本画の父狩野芳崖の命日詳細
1895年(明治28)「日伯修好通商航海条約」が締結される(日本ブラジル修好記念日)詳細
1930年(昭和5)大原孫三郎が集めた西欧名画を展示する大原美術館(岡山県倉敷市)が開館する詳細
1937年(昭和12)社会運動家・小説家・評論家木下尚江の命日詳細
1941年(昭和16)第7回御前会議の「帝国国策遂行要領」で対米交渉の甲乙二案を決定、決裂時は武力行使と決まる詳細
1954年(昭和29)日本とビルマ連邦が、ビルマのラングーンで「日本国とビルマ連邦との間の平和条約」に調印する詳細
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tsukamotokunio01
 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、歌人・詩人・評論家・小説家塚本邦雄が生まれた日です。
 塚本邦雄(つかもと くにお)は、大正時代の1920年(大正9)8月7日に、滋賀県神崎郡南五個荘村川並(現東近江市五個荘川並町)において、近江商人の家系に生まれました。1938年(昭和13)に神崎商業学校(現在の滋賀県立八日市高等学校)を卒業後、又一株式会社(現在の三菱商事RtMジャパン)に勤務しながら、兄・塚本春雄の影響で作歌を始めます。
 1941年(昭和16)に呉海軍工廠に徴用され、1943年(昭和18)には、地元の短歌結社「木槿」に入会しました。大平洋戦争後は大阪に転居し、1947年(昭和22)には、奈良に本部のあった「日本歌人」に入会、前川佐美雄に師事します。1948年(昭和23)に「青樫」の竹島慶子と結婚、山陽地方に転勤となり、1949年(昭和24)には、同人誌『メトード』を創刊しました。
 1951年(昭和26)に杉原一司の追悼として第1歌集『水葬物語』を刊行、1952年(昭和27)には、大阪へ転勤となり、大阪府中河内郡盾津町(現在の東大阪市南鴻池町)へ転居、創刊されたアドニス会の機関誌「ADONIS」に菱川紳名義で寄稿しています。1954年(昭和29)に結核に感染したことが判明、自宅療養に専念(~1956年)後、商社勤務を続け、1956年(昭和31)には、第2歌集『裝飾樂句(カデンツァ)』を刊行しました。
 1958年(昭和33)に第3歌集『日本人靈歌』を刊行、翌年にこれにより、第3回現代歌人協会賞を受賞します。1985年(昭和60)に「玲瓏(短歌結社)」を設立して機関誌『玲瓏』を創刊、1987年(昭和62)に第15歌集『詩歌變』で第2回詩歌文学館賞、1989年(平成元)には、第16歌集『不變律』で第23回迢空賞を受賞しました。
 1990年(平成2)に近畿大学文芸学部教授となり、紫綬褒章を受章、1992年(平成4)に第18歌集『黄金律』で第3回斎藤茂吉短歌文学賞、1993年(平成5)には、第19歌集『魔王』で第16回現代短歌大賞を受賞します。1997年(平成9)に勲四等旭日小綬章を受章しましたが、1998年(平成10)に妻・慶子が他界、2000年(平成12)には、自らの健康も損ねました。
 前衛短歌運動に影響を与えてきましたが、2005年(平成17)6月9日に、大阪府吹田市の病院において、呼吸不全のため84歳で亡くなっています。

<代表的な短歌>

・「国体につひに考へ及びたる時凍蝶(いててふ)ががばと起てり」(黄金律)
・「革命歌作詞家に凭りかかられてすこしずつ液化してゆくピアノ」(水葬物語)
・「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」(日本人靈歌)
・「突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼」(日本人靈歌)
・「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ」(感幻樂)

〇塚本邦雄の主要な著作

・第1歌集『水葬物語』(1951年)
・第2歌集『装飾楽句(カデンツア)』(1956年)
・第3歌集『日本人霊歌』(1958年)第3回現代歌人協会賞受賞
・第4歌集『水銀伝説』(1961年)
・第5歌集『緑色研究』(1965年)
・第6歌集『感幻楽』(1969年)
・第15歌集『詩歌變』(1987年)第2回詩歌文学館賞受賞
・第16歌集『不變律』(1989年)第23回迢空賞受賞
・第17歌集『波瀾(はらん)』(1989年)
・第18歌集『黄金律』(1992年)第3回斎藤茂吉短歌文学賞受賞
・第19歌集『魔王』(1993年)第16回現代短歌大賞受賞
・第24歌集『約翰伝偽書(ヨハネでんぎしょ)』(2001年)
・評論『定家百首』
・評論『夕暮の諧調』
・評論『定型幻視論』
・評論『茂吉秀歌』
・小説『紺青のわかれ』

☆塚本邦雄関係略年表

・1920年(大正9)8月7日 滋賀県神崎郡南五個荘村川並(現東近江市五個荘川並町)において、近江商人の家系に生まれる
・1938年(昭和13) 神崎商業学校(現在の滋賀県立八日市高等学校)を卒業後、又一株式会社(現在の三菱商事RtMジャパン)に勤務する
・1941年(昭和16) 呉海軍工廠に徴用される
・1943年(昭和18) 地元の短歌結社「木槿」に入会する
・1947年(昭和22) 奈良に本部のあった「日本歌人」に入会、前川佐美雄に師事する
・1948年(昭和23) 「青樫」の竹島慶子と結婚、山陽地方に転勤となる
・1949年(昭和24) 同人誌『メトード』を創刊する
・1951年(昭和26) 杉原一司の追悼として第1歌集『水葬物語』を刊行する
・1952年(昭和27) 大阪へ転勤となり、大阪府中河内郡盾津町(現在の東大阪市南鴻池町)へ転居、創刊されたアドニス会の機関誌「ADONIS」に菱川紳名義で寄稿する
・1954年(昭和29) 結核に感染したことが判明、自宅療養に専念(~1956年)する
・1956年(昭和31) 第2歌集『裝飾樂句(カデンツァ)』を刊行する
・1958年(昭和33) 第3歌集『日本人靈歌』を刊行する
・1959年(昭和34) 第3歌集『日本人靈歌』で第3回現代歌人協会賞を受賞する
・1985年(昭和60) 「玲瓏(短歌結社)」を設立して機関誌『玲瓏』を創刊する
・1987年(昭和62) 第15歌集『詩歌變』で第2回詩歌文学館賞を受賞する
・1989年(平成元) 第16歌集『不變律』で第23回迢空賞を受賞する
・1990年(平成2)  近畿大学文芸学部教授となり、紫綬褒章を受章する
・1992年(平成4) 第18歌集『黄金律』で第3回斎藤茂吉短歌文学賞を受賞する
・1993年(平成5) 第19歌集『魔王』で第16回現代短歌大賞を受賞する
・1997年(平成9) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1998年(平成10) 妻・慶子が他界する
・2000年(平成12) 自らの健康を損ねる
・2005年(平成17)6月9日 大阪府吹田市の病院において、呼吸不全のため84歳で亡くなる
・2009年(平成21) 自宅にあった邦雄の蔵書・直筆原稿・愛用品や書簡など様々な遺品が日本現代詩歌文学館へ寄贈されている
・2020年(平成32) 短歌研究社により「塚本邦雄賞」が創設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

479年(雄略天皇23)第21代の天皇とされる雄略天皇の命日(『日本書紀』による)詳細
1831年(天保2)戯作者十返舎一九の命日(新暦9月12日)詳細
1880年(明治13)新潟明治13年の大火で、死者3名、負傷名37名、焼失6,175戸の被害を出す詳細
1936年(昭和11)広田弘毅内閣の五相会議において、「国策の基準」が決定される詳細
1945年(昭和20)豊川空襲があり、豊川海軍工廠空襲が爆撃されて、女子挺身隊員・国民学校児童ら2,477人が亡くなる詳細
1953年(昭和28)「スト規制法」が公布・施行され、電気・石炭事業のストが規制される詳細
1977年(昭和52)北海道の有珠山が32年ぶりに噴火する(有珠山1977年噴火)詳細
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 今日は、明治時代中頃の1893年(明治26)に、洋画家・歌人・詩人・随筆家中川一政の生まれた日です。
 中川一政(なかがわ かずまさ)は、東京市本郷区駒込西片町(現在の東京都文京区西片)において、刀剣鍛冶松戸家を営む父・中川政朝、母・スワの子として生まれましたが、1902年(明治35)に母・スワが亡くなりました。1903年(明治36)に東京市北豊島郡巣鴨村向原(現在の豊島区東池袋)に転居、1907年(明治40)には、本郷区誠之尋常高等小学校を卒業し、神田錦町の錦城中学校に入学します。
 在学中の1908年(明治41)に『少年世界』の表紙図案に入選、与謝野晶子撰歌集『白光』に歌3首が収録され、1910年(明治43)に『スバル』や『創作』に短歌が紹介され、1911年(明治44)には、『萬朝報』の懸賞小説に自伝的短編小説「椎の樹」が当選し掲載されました。1912年(明治45)に錦城中学校を卒業、『萬朝報』の懸賞小説に「螻蛄の歌」が当選し掲載され、1913年(大正2)には、中村星湖の推薦で『早稲田文学』に短歌「逝春」を発表しています。
 1914年(大正3)に処女作油彩「酒倉」が画会第14回展に出品され、岸田劉生の推薦で入選、画家を志すようになり、1915年(大正4)には、巽画会第15回展に「霜のとける道」ほかを出品し、最高位二等賞銀牌を受賞、草土社を結成しました。1916年(大正5)に同人誌『貧しき者』を創刊し、詩や随想を発表、1917年(大正6)から二科会展に連続して入賞し、1921年(大正10)には、詩集『見なれざる人』を出版、二科会第8回展に「静物」などを出品し、二科賞を受賞しています。
 1922年(大正11)に萬鉄五郎、岸田劉生らと春陽会設立に参加、1924年(大正13)に短歌雑誌『日光』の同人となり、1925年(大正14)には、訳著『ゴオホ』を出版、東京府和田堀之内村永福寺隣(現在の杉並区永福)に転居しました。1926年(大正15)に初の画集『中川一政畫集』を出版、1928年(昭和3)に東京朝日新聞に連載の片岡鉄兵「生ける人形」の挿画を担当、1930年(昭和5)には、随筆『美術の眺め』を出版します。
 1931年(昭和6)に個展「中川一政水墨展」を開催、佐藤春夫、日夏耿之介と同人文芸誌『古東多万』を創刊、1933年(昭和8)に都新聞に連載の尾﨑士郎「人生劇場 青春篇」の挿画を担当、1937年(昭和12)には、小川芋銭、小杉放菴らと「墨人倶楽部」を結成しました。1938年(昭和13)に第2回文部省美術展覧会(新文展)第二部審査員を委嘱され、1939年(昭和14)に初の中国旅行で鹿島龍蔵と北京、ハルピン、熱河、大同を巡り、1940年(昭和15)には、藤田嗣治、小杉放菴、木村荘八らと邦画一如会を結成します。
 1948年(昭和23)に武者小路実篤を中心に結成された生成会に同人として参加、1949年(昭和24)に神奈川県足柄下郡真鶴町にアトリエを構え、1953年(昭和28)には、初の洋行で、約5か月にわたりブラジル、フランス、イタリア、イギリスを歴訪しました。1958年(昭和33)に訪中団団長として中国を訪問、1960年(昭和35)に全国知事会の依頼で「漁村凱風」を制作、東宮御所に献納され、1961年(昭和36)には、宮中歌会始の召人となります。
 1964年(昭和39)に日中文化交流協会代表団として訪中し、中国建国15周年を祝う国慶節式典に参列、1965年(昭和40)には、ソ連文化省の招きでソ連を訪問し、同国の美術演劇事情を視察しました。1975年(昭和50)に『中川一政全集』(全5巻)、『腹の虫』を出版、文化勲章を受章し、文化功労者となり、1982年(昭和57)には、日中文化交流協会代表団の顧問として訪中します。
 1984年(昭和59) 東京都名誉都民となり、1986年(昭和61)には、母の故郷である石川県松任市(現在の白山市)に「松任市立中川一政記念美術館」が開館、松任市名誉市民となりました。1989年(平成元)には、神奈川県真鶴町に「真鶴町立中川一政美術館」が開館しましたが、1991年(平成3)2月5日に、東京において、97歳で亡くなっています。

〇中川一政の主要な作品

<絵画>

・「酒倉」(1914年)巽(たつみ)画会展入選
・「監獄の横」(1917年)
・「板橋風景」(1919年)東京国立近代美術館蔵
・「静物」(1921年)二科会第8回展二科賞受賞
・「少年像」(1942年)
・「漁村凱風」(1960年)東宮御所蔵
・「福浦」(1965年)
・「箱根駒ケ岳(こまがたけ)」(1982年)

<著作>

・詩集『見なれざる人』(1921年)
・画文集『中川一政画集』(1926年)
・随筆『美術の眺め』(1930年)
・歌集『向ふ山』(1943年)
・随筆『うちには猛犬がいる』(1963年)
・『腹の虫』(1975年)

☆中川一政関係略年表

・1893年(明治26)2月14日 東京市本郷区駒込西片町(現在の東京都文京区西片)において、刀剣鍛冶松戸家を営む父・中川政朝、母・スワの子として生まれる
・1902年(明治35) 母・スワ(享年33歳)が亡くなる
・1903年(明治36) 東京市北豊島郡巣鴨村向原(現在の豊島区東池袋)に転居する
・1907年(明治40) 本郷区誠之尋常高等小学校を卒業し、神田錦町の錦城中学校に入学する
・1908年(明治41) 『少年世界』の表紙図案に入選、与謝野晶子撰歌集『白光』に歌3首が収録される
・1910年(明治43) 『スバル』や『創作』に短歌が紹介される
・1911年(明治44) 『萬朝報』の懸賞小説に自伝的短編小説「椎の樹」が当選し掲載される
・1912年(明治45) 錦城中学校を卒業、『萬朝報』の懸賞小説に「螻蛄の歌」が当選し掲載される
・1913年(大正2) 中村星湖の推薦で『早稲田文学』に短歌「逝春」を発表する
・1914年(大正3) 処女作油彩「酒倉」が画会第14回展に出品され、岸田劉生の推薦で入選、画家を志す
・1915年(大正4) 巽画会第15回展に「霜のとける道」ほかを出品し、最高位二等賞銀牌を受賞、草土社を結成する
・1916年(大正5) 同人誌『貧しき者』を創刊し、詩や随想を発表する
・1917年(大正6) 二科会第4回展に「風景〔杉と茶畑〕」を出品し、入選、同人雑誌『観照』特別号として「中川一政詩集」が刊行される
・1918年(大正7) 二科会第5回展に「冬〔初冬〕」《夏》を出品し、入選する
・1919年(大正8) 二科会第6回展に「下板橋の川辺(冬)〔板橋風景〕」ほかを出品し入選する
・1920年(大正9) 初の個展(油彩)を開き、二科会第7回展に「自画像」ほかを出品し入選、千家元麿、宮崎丈二らと雑誌『詩』を創刊する
・1921年(大正10) 詩集『見なれざる人』を出版、二科会第8回展に「静物」などを出品し、二科賞を受賞する
・1922年(大正11) 小杉放庵、萬鉄五郎、石井鶴三、木村荘八、岸田劉生らと春陽会設立に参加する
・1923年(大正12) 伊藤暢子(伊藤為吉の娘)と結婚する
・1924年(大正13) 短歌雑誌『日光』の同人となる
・1925年(大正14) 訳著『ゴオホ』を出版、東京府和田堀之内村永福寺隣(現在の杉並区永福)に転居する
・1926年(大正15) 初の画集『中川一政畫集』を出版する
・1928年(昭和3) 東京朝日新聞に連載の片岡鉄兵「生ける人形」の挿画を担当する
・1930年(昭和5) 随筆『美術の眺め』を出版する
・1931年(昭和6) 個展「中川一政水墨展」を開催、佐藤春夫、日夏耿之介と同人文芸誌『古東多万』を創刊する
・1933年(昭和8) 都新聞に連載の尾﨑士郎「人生劇場 青春篇」の挿画を担当する
・1937年(昭和12) 小川芋銭、小杉放菴、菅楯彦、矢野橋村、津田青楓らと「墨人倶楽部」を結成する
・1938年(昭和13) 第2回文部省美術展覧会(新文展)第二部審査員を委嘱される
・1939年(昭和14) 初の中国旅行で鹿島龍蔵と北京、ハルピン、熱河、大同を巡る
・1940年(昭和15) 父・政朝が死去(享年79歳)、藤田嗣治、石井柏亭、鍋井克之、津田青楓、牧野虎雄、小杉放菴、石井鶴三、木村荘八らと邦画一如会を結成する
・1945年(昭和20) 疎開先の富山県高岡に約1か月滞在し、山形県酒田を経て宮城県黒川郡宮床村(現在の大和町宮床)で終戦を迎える
・1948年(昭和23) 武者小路実篤を中心に結成された生成会に同人として参加、文芸雑誌『心』が創刊される
・1949年(昭和24) 神奈川県足柄下郡真鶴町にアトリエを構える
・1953年(昭和28) 初の洋行で、約5か月にわたりブラジル、フランス、イタリア、イギリスを歴訪、東京新聞夕刊文化欄に旅行記を41回にわたり連載する
・1957年(昭和32) 『鉄斎』を武者小路実篤、梅原龍三郎、小林秀雄とともに監修、出版する
・1958年(昭和33) 「光琳生誕三〇〇年記念展」が北京で開催され、訪中団団長として訪問、東京新聞夕刊文化欄に「中国遊記」を7回にわたり連載する
・1960年(昭和35) 全国知事会の依頼で「漁村凱風」を制作、東宮御所に献納される
・1961年(昭和36) 宮中歌会始の召人となる
・1962年(昭和37) ミュンヘンのバイエルン独日協会の招きで渡欧、ミュンヘン市立美術館で「東洋美術の考え」を講演する
・1963年(昭和38) 「現代日本油絵展」が北京、上海で開催され、訪中洋画家団団長として訪問、随筆『うちには猛犬がゐる』を出版する
・1964年(昭和39) 日中文化交流協会代表団として訪中し、中国建国15周年を祝う国慶節式典に参列する
・1965年(昭和40) ソ連文化省の招きでソ連を訪問し、同国の美術演劇事情を視察、東京新聞夕刊文化欄に「私のソ連・欧州旅行」を8回にわたり連載する
・1967年(昭和42) 『中川一政画集』、随筆『遠くの顔』、『近くの顔』画文集、『中川一政書蹟』を出版、書展「中川一政書展」を開催する
・1975年(昭和50) 『中川一政全集』(全5巻)、『腹の虫』を出版、文化勲章を受章し、文化功労者となる
・1982年(昭和57) 日中文化交流協会代表団の顧問として訪中する
・1984年(昭和59) 東京都名誉都民となる
・1986年(昭和61) 母の故郷である石川県松任市(現在の白山市)に「松任市立中川一政記念美術館」が開館、松任市名誉市民となる
・1989年(平成元) 神奈川県真鶴町に「真鶴町立中川一政美術館」が開館する
・1991年(平成3)2月5日 東京において、97歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

741年(天平13)聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出す(新暦3月5日)詳細
940年(天慶3)平将門が下野の豪族藤原秀郷と平貞盛らの軍勢により、猿島の北山で討たれる(新暦3月25日)詳細
1896年(明治29)日本画家徳岡神泉の誕生日詳細
1945年(昭和20)近衛文麿が昭和天皇に対して、上奏文(近衛上奏文)を出す詳細
1951年(昭和26)奄美大島日本復帰協議会(議長:泉芳朗)が結成される詳細
1967年(昭和42)小説家山本周五郎の命日詳細
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nakagawayoichi01
 今日は、平成時代の1994年(平成6)に、小説家・歌人中河与一が亡くなった日です。
 中河与一 (なかがわ よいち)は、明治時代後期の1897年(明治30)2月28日に、香川県阿野郡坂出町(現在の坂出市)において、代々の医家の父・与吉郎、母・多美の長男として生まれました。香川県立丸亀中学校(現在の県立丸亀高等学校)を経て、1919年(大正8)に早稲田大学高等予科文科に入学し、翌年には、同郷の歌人・林幹子と結婚します。
 1921年(大正10)に早稲田大学高等予科文科を卒業し、同大学英文科に進学し、「新公論」6月号に『悩ましき妄想』を発表しました。1922年(大正11)に歌集『光る波』を上田屋書店より刊行しましたが、早稲田大学を中途退学し、翌年には、金星堂編集部に勤務、菊池寛に認められて「文藝春秋」編集同人となります。
 1924年(大正13)に川端康成、横光利一、片岡鉄平、今東光、十一谷義三郎らとともに「文芸時代」を創刊、『刺繍(ししゅう)せられた野菜』(1924年)、『氷る舞踏場』(1925年)を発表し、新感覚派の旗手としてモダニズム時代を築きました。1928年(昭和3)に形式主義文学論争が始まり、1930年(昭和5)には、『形式主義芸術論』、『フォルマリズム芸術論』を刊行、雑誌「新科学的文芸」(「新科学的」と改題)を創刊(~1933年)します。
 1935年(昭和10)に『偶然と文学』、1936年(昭和11)に『愛恋無限』を刊行し、翌年には、この作品で、第1回北村透谷賞を受賞しました。1938年(昭和13)に代表作『天の夕顔』を刊行し、永井荷風の激賞を受けたものの、1939年(昭和14)には、『全体主義の構想』を刊行、「文芸世紀」を創刊(~1945年)し、厚生省諮問機関の労務管理調査委員に選ばれるなどして、民族主義に傾向き、軍国主義への協力を強めます。
 太平洋戦争後は、戦時中の活動が批判を浴び、ようやく1950年(昭和25)に、『失楽の庭』を刊行して、文壇に復帰しました。1957年(昭和32)には、谷崎潤一郎をモデルとした『探美の夜』、翌年に)、『続・探美の夜』を刊行して注目されます。
 1966年(昭和41)から『中河与一全集』全12巻の刊行を開始し、1967年(昭和42)に完結します。1976年(昭和51)には、勲三等瑞宝章を受章しましたが、1994年(平成6)12月12日に、神奈川県箱根町において、97歳で亡くなりました。

〇中河与一の主要な著作

・『刺繍(ししゅう)せられた野菜』(1924年)
・『氷る舞踏場』(1925年)
・『﨟(ろう)たき花』(1933年)
・『愛恋無限』(1935~36年)第1回北村透谷賞受賞
・『天(てん)の夕顔』(1938年)
・『失楽の庭』(1950年)
・『悲劇の季節』(1952年)
・『探美の夜』(1956~59年)

☆中河与一関係略年表

・1897年(明治30)2月28日 香川県坂出町において、代々の医家の父・与吉郎、母・多美の長男として生まれる
・1903年(明治36) 母の郷里である岡山県赤磐郡に行き、大内小学校に入学する
・1910年(明治43) 坂出に帰り、香川県立丸亀中学校(現在の県立丸亀高等学校)に入学する
・1915年(大正4) 丸亀中学校を卒業する
・1916年(大正5) 京都市七条大宮に弟・四郎とともに暮らす。短歌の制作に熱中し、北原白秋主宰の「ザムボア」に数多く投稿。近所の夜学校「漢数学館」で数学を教える。年末、坂出に帰る
・1918年(大正7) 上京し、本郷美術研究所に通う
・1919年(大正8) 早稲田大学高等予科文科に入学する
・1920年(大正9) 同郷の歌人・林幹子と結婚する
・1921年(大正10) 早稲田大学高等予科文科を卒業し、同大学英文科に進学、「新公論」6月号に「悩ましき妄想」を発表する
・1922年(大正11) 歌集『光る波』を上田屋書店より刊行、早稲田大学を中途退学する
・1923年(大正12) 金星堂編集部に勤務、菊池寛に認められて「文藝春秋」編集同人となる
・1924年(大正13) 川端康成、横光利一、片岡鉄平、今東光、十一谷義三郎らとともに「文芸時代」を創刊する
・1925年(大正14) 『午前の殺人』(新潮社)を刊行する
・1926年(大正15) 『氷る舞踏場』(金星堂)を刊行、中国旅行で上海、蘇州、杭州、南京を巡る
・1927年(昭和2) 『恐ろしき花』(改造社)を刊行する
・1928年(昭和3) 形式主義文学論争が始まる
・1930年(昭和5) 『形式主義芸術論』(新潮社)、『フォルマリズム芸術論』(天人社)を刊行、雑誌「新科学的文芸」(「新科学的」と改題)を創刊(~1933年)、南洋方面の旅行に出発する
・1931年(昭和6) 『ホテルQ』(赤炉閣書房)、『海路歴程』(第一書房)を刊行する
・1933年(昭和8) 雑誌「翰林」を創刊(~1936)、『臘たき花』(第一書房)を刊行する
・1934年(昭和9) 『レドモア島誌』(改造社)、『ゴルフ』(昭和書房)、『熱帯紀行』(竹村書房)を刊行する
・1935年(昭和10) 『偶然と文学』(第一書房)を刊行する
・1936年(昭和11) 『愛恋無限』(第一書房)を刊行する
・1937年(昭和12) 『万葉の精神』(千倉書房)を刊行、『愛恋無限』により第1回北村透谷賞を受賞する
・1938年(昭和13) 『日本の理想』(白水社)、『天の夕顔』(三和書房)を刊行する
・1939年(昭和14) 『全体主義の構想』(作品社)を刊行、「文芸世紀」を創刊(~1945年)、厚生省諮問機関の労務管理調査委員に選ばれる
・1940年(昭和15) 『愛の約束』(人文書院)、『熱帯圏』(第一書房)を刊行する
・1943年(昭和18) 『旅人椰子』(講談社)を刊行する
・1944年(昭和19) 『日本文芸論』(講談社)を刊行する
・1948年(昭和23) 『天の夕顔』が新東宝で映画化される
・1950年(昭和25) 『失楽の庭』(中央公論社)を刊行する
・1952年(昭和27) 『悲劇の季節』(河出書房)を刊行する
・1957年(昭和32) 『美貌』(講談社)、『探美の夜』(講談社)を刊行する
・1958年(昭和33) 『誘惑の谷』(第二書房)、『続・探美の夜』(講談社)を刊行する
・1959年(昭和34) 『愛の漂泊者』(角川書店)、『探美の夜・完』(講談社)を刊行する
・1963年(昭和38) 『三人姉妹』(集英社)を刊行、エジプト、ヨーロッパ、インドを巡遊、『天の夕顔』(雪華社)を刊行する
・1966年(昭和41) 『中河与一全集』全12巻(角川書店)を刊行開始(~1967年)する
・1969年(昭和44) インド、ネパールを巡遊する
・1972年(昭和47) 『中河与一代表短編集』(読売新聞社)を刊行する
・1974年(昭和49) 『鏡に這入る女』(旺文社)を刊行する
・1975年(昭和50) 『雪にとぶ鳥』(読売新聞社)を刊行する
・1976年(昭和51) 勲三等瑞宝章を受章する
・1979年(昭和54) 『古都幻想』(村松書館)を刊行する
・1982年(昭和57) 『足と煙草』(宝文館出版)を刊行、蒲生久仁子と再婚する
・1994年(平成6)12月12日 神奈川県箱根町において、97歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1568年(永禄11)武田信玄軍と今川氏真・北条氏政軍との間で薩埵峠の戦いが始まる(新暦12月30日)詳細
1898年(明治31)小説家黒島伝治の誕生日詳細
1947年(昭和22)「児童福祉法」が公布される詳細
1963年(昭和38)映画監督・脚本家小津安二郎の命日詳細
1989年(平成元)漫画家田河水泡の命日詳細
2015年(平成27)「気候変動に関する国際連合枠組み条約第21回締約国会議」(COP21)で「パリ協定」を採択する詳細
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