欽明天皇(きんめいてんのう)は、509年(継体天皇3)頃?に、父・継体天皇の皇子(母は皇后手白香皇女)として生まれたとされますが、名は、天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)と言いました。
『日本書紀』によれば、宣化天皇が亡くなった後、539年に即位し、都を大和磯城嶋金刺宮(やまとしきしまのかなさしのみや)に遷したとされますが、531年即位したとも言われています。治世の初めは、大伴金村と物部尾輿が大連、蘇我稲目が大臣でしたが、まもなく金村が朝鮮政策の失敗を攻撃されて失脚しました。
その後、百済の聖明王が仏像経論を献じ、公式にはこれが仏教の最初の渡来とされていますが、この年を『日本書紀』が壬申年(552年)とするのに対し、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』は戊午年(538年)としていて食い違いがあり、安閑・宣化2天皇の治世の有無をめぐり論争となってきました。また、国内では崇仏の是非をめぐって蘇我・物部両氏の対立が起こりますが、崇仏をすすめる大臣の蘇我稲目が力を強めます。
対外的には、朝鮮との関係が新羅の進出に伴ってふるわず、562年(欽明天皇23)には任那の日本府が滅亡する事態となりました。欽明天皇はこのことを遺憾とし、その回復を遺詔して、571年(欽明天皇32年4月15日)に、病死したとされます。
以下に、このことを記した『日本書紀』巻第19 欽明天皇32年(571年)の条を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇『日本書紀』巻第19 欽明天皇32年(571年)の条
<原文>
卅二年春三月戊申朔壬子、遣坂田耳子郎君、使於新羅、問任那滅由。是月、高麗、獻物幷表、未得呈奏、經歷數旬、占待良日。夏四月戊寅朔壬辰、天皇寢疾不豫。皇太子向外不在、驛馬召到、引入臥內、執其手詔曰「朕疾甚、以後事屬汝。汝須打新羅封建任那、更造夫婦惟如舊曰、死無恨之。」是月、天皇遂崩于內寢、時年若干。
五月、殯于河內古市。秋八月丙子朔、新羅遣弔使未叱子失消等、奉哀於殯。是月、未叱子失消等罷。九月、葬于檜隈坂合陵。
<読み下し文>
卅二年春三月戊申朔壬子、坂田耳子郎君を遣して、新羅に使して、任那の滅びし由を問はしむ。是の月、高麗獻物幷に表、未だ呈奏すことを得ず、數の旬を經歷て、良き日を占へ待つ。夏四月戊寅朔壬辰、天皇寢疾不豫、皇太子外に向きて在りまさず。驛馬はせて召し到り、臥內に引入れ、其の手を執り詔して曰く「朕れ疾甚し、後事を以て汝に屬く。汝、須らく新羅を打ち、任那を封し建て、更に夫婦を造し、惟れ舊曰の如くならしむべし、死るとも恨むこと無し。」是の月、天皇遂に內寢に崩りましぬ、時に年若干。
五月、河內の古市に殯す。秋八月丙子朔、新羅、弔使未叱子、失消等を遣して、殯に奉哀る。是の月、未叱子、失消等罷る。九月、檜隈坂合陵に葬めまつる。