今日は、昭和時代前期の太平洋戦争中、1944年(昭和19)に、横浜事件を契機として、「改造」を発行していた改造社、「中央公論」を発行していた中央公論社に解散が命じられた日です。
横浜事件(よこはまじけん)は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1942年(昭和17)~1945年(昭和20)にかけ、神奈川県特高警察により「治安維持法」違反の容疑で、約90名の出版編集者、研究者が逮捕された一連の事件の総称です。1942年(昭和17)7月5日から1泊2日で、細川嘉六(かろく)の『現代日本文明史』の第10巻『植民史』の出版記念として、『中央公論』、『東洋経済新報』などの編集者や満鉄(南満州鉄道)調査部の人々等の日ごろから親しい若い研究者や編集者たち7名を富山県泊町(現在の朝日町)への旅行に招待したことが、後に共産党再建の謀議があったと決めつけたフレームアップに発展しました。
総合雑誌『改造』8・9月号に細川の論文「世界史の動向と日本(前・後編)」が掲載されたことに対し、9月11日に川田寿と夫人・定子が神奈川県特高にスパイ容疑で検挙された事件と関連付けられます。そして、9月14日に「日本読書新聞」に陸軍報道部長の谷萩那華雄が掲載した書評「戦争と読書」の中で「共産主義宣伝」であると指弾され、細川が「出版法」違反で神奈川県特高に検挙され、『改造』は発禁処分を受けました。
さらに、細川の知人や関係者が次々と検挙されていきましたが、その中で、翌年5月11日に満鉄調査室の西沢富夫と平館利雄が検挙され、西沢の家宅捜索で警察は、泊旅行の時の1枚の写真を発見します。5月26日にこの写真(泊旅行)に細川とともに写っていた『改造』編集部相川博ら7名が、神奈川県特高に検挙され、山手署に留置の上、柄沢六治警部補、佐藤兵衛巡査部長らによって、共産党再建の謀議(泊共産党再建事件)があったのではないかと拷問・虐待を受けました。
これが、戦争に批判的であったジャーナリズムへの弾圧に拡大され、9月9日には、政治経済研究会関係の8名が一斉検挙(政治経済研究会グループ事件)されます。さらに、1944年(昭和19)1月29日から4月にかけて、『中央公論』、『改造』の編集者が検挙(中央公論・改造事件)され、30名余が逮捕、投獄されました。
同年6月に、『改造』、『中央公論』は廃刊のやむなきに至り、7月10日には、改造社、中央公論社が解散を命じられ、続いて、日本評論社や岩波書店の編集者も検挙されるという一大マスコミ弾圧へと至ります。これらの一連の取り調べの過程で、激しい拷問が行われ、数名が獄死、多数が負傷するという痛ましい犠牲を出しました。
事件関係者は「治安維持法違反」で起訴され、太平洋戦争後の9月に、やっと公判が開かれ、細川を除く全員が懲役2年、執行猶予3年の判決となり、細川も10月の「治安維持法」廃止により釈放され、翌月には審理打ち切り・免訴となります。1947年(昭和22)に、元被告33名が当時手を下した元特高警察官28名を告訴、1952年(昭和27)には、最高裁判所で内、3名に対し、有罪判決が出され、実刑が確定したものの、4月の「サンフランシスコ平和条約」発効時の大赦令により元特高警察官3名は釈放され、実刑には服しませんでした。
その後、元被告たちは1986年(昭和61)以来、再審請求をしてきたものの、2度棄却されて1998年(平成10)の第3次請求に対して、ようやく2005年(平成17)3月の東京高裁決定で再審開始が認められ、2010年(平成22)の再審公判判決で、5名の無罪とその刑事補償が認定されましたが、その他の被害者については未決のままとなってきました。
総合雑誌『改造』8・9月号に細川の論文「世界史の動向と日本(前・後編)」が掲載されたことに対し、9月11日に川田寿と夫人・定子が神奈川県特高にスパイ容疑で検挙された事件と関連付けられます。そして、9月14日に「日本読書新聞」に陸軍報道部長の谷萩那華雄が掲載した書評「戦争と読書」の中で「共産主義宣伝」であると指弾され、細川が「出版法」違反で神奈川県特高に検挙され、『改造』は発禁処分を受けました。
さらに、細川の知人や関係者が次々と検挙されていきましたが、その中で、翌年5月11日に満鉄調査室の西沢富夫と平館利雄が検挙され、西沢の家宅捜索で警察は、泊旅行の時の1枚の写真を発見します。5月26日にこの写真(泊旅行)に細川とともに写っていた『改造』編集部相川博ら7名が、神奈川県特高に検挙され、山手署に留置の上、柄沢六治警部補、佐藤兵衛巡査部長らによって、共産党再建の謀議(泊共産党再建事件)があったのではないかと拷問・虐待を受けました。
これが、戦争に批判的であったジャーナリズムへの弾圧に拡大され、9月9日には、政治経済研究会関係の8名が一斉検挙(政治経済研究会グループ事件)されます。さらに、1944年(昭和19)1月29日から4月にかけて、『中央公論』、『改造』の編集者が検挙(中央公論・改造事件)され、30名余が逮捕、投獄されました。
同年6月に、『改造』、『中央公論』は廃刊のやむなきに至り、7月10日には、改造社、中央公論社が解散を命じられ、続いて、日本評論社や岩波書店の編集者も検挙されるという一大マスコミ弾圧へと至ります。これらの一連の取り調べの過程で、激しい拷問が行われ、数名が獄死、多数が負傷するという痛ましい犠牲を出しました。
事件関係者は「治安維持法違反」で起訴され、太平洋戦争後の9月に、やっと公判が開かれ、細川を除く全員が懲役2年、執行猶予3年の判決となり、細川も10月の「治安維持法」廃止により釈放され、翌月には審理打ち切り・免訴となります。1947年(昭和22)に、元被告33名が当時手を下した元特高警察官28名を告訴、1952年(昭和27)には、最高裁判所で内、3名に対し、有罪判決が出され、実刑が確定したものの、4月の「サンフランシスコ平和条約」発効時の大赦令により元特高警察官3名は釈放され、実刑には服しませんでした。
その後、元被告たちは1986年(昭和61)以来、再審請求をしてきたものの、2度棄却されて1998年(平成10)の第3次請求に対して、ようやく2005年(平成17)3月の東京高裁決定で再審開始が認められ、2010年(平成22)の再審公判判決で、5名の無罪とその刑事補償が認定されましたが、その他の被害者については未決のままとなってきました。
〇「改造(総合雑誌)」(かいぞう)とは?
大正時代の1919年(大正8)4月3日に創刊された総合雑誌です。山本実彦創立の改造社が、3ヶ月後に発刊したもので、大正デモクラシーの思潮を背景として、進歩的な編集方針をとり、文芸欄も充実していました。
「中央公論」と並ぶ二大総合誌としての声価を得ましたが、民衆解放の主張を掲げ、自由主義・社会主義的論文を多く掲載、海外新思想、新知識の導入に貢献したとされます。河上肇、櫛田民蔵、山川均、大森義太郎ら社会主義思想家の寄稿を多く求め、B.ラッセル,サンガー夫人,アインシュタインなどの外国知識人を招いて、海外の新思想の紹介に努めました。
一方で、文芸欄にも力を注ぎ、志賀直哉『暗夜行路』、芥川龍之介『河童』、堀辰雄『風立ちぬ』、幸田露伴『運命』、谷崎潤一郎『卍』など、近代の日本文学史に残る名作を掲載、また、新進作家の登龍門としても知られています。しかし、戦時下においては、泊事件、横浜事件などの思想・言論弾圧を受け、1944年(昭和19)の6月号で休刊となりました。
太平洋戦争後の1946年(昭和21)に復刊しましたが、経営は思うに任せず、1952年(昭和27)の山本実彦の死去により急速に衰退し、1954年(使用を29)末以来の解雇を発端とする争議の結果、改造社の倒産と運命を共にして、1955年(使用を30)2月号で廃刊となります。
「中央公論」と並ぶ二大総合誌としての声価を得ましたが、民衆解放の主張を掲げ、自由主義・社会主義的論文を多く掲載、海外新思想、新知識の導入に貢献したとされます。河上肇、櫛田民蔵、山川均、大森義太郎ら社会主義思想家の寄稿を多く求め、B.ラッセル,サンガー夫人,アインシュタインなどの外国知識人を招いて、海外の新思想の紹介に努めました。
一方で、文芸欄にも力を注ぎ、志賀直哉『暗夜行路』、芥川龍之介『河童』、堀辰雄『風立ちぬ』、幸田露伴『運命』、谷崎潤一郎『卍』など、近代の日本文学史に残る名作を掲載、また、新進作家の登龍門としても知られています。しかし、戦時下においては、泊事件、横浜事件などの思想・言論弾圧を受け、1944年(昭和19)の6月号で休刊となりました。
太平洋戦争後の1946年(昭和21)に復刊しましたが、経営は思うに任せず、1952年(昭和27)の山本実彦の死去により急速に衰退し、1954年(使用を29)末以来の解雇を発端とする争議の結果、改造社の倒産と運命を共にして、1955年(使用を30)2月号で廃刊となります。
〇「中央公論(総合雑誌)」(ちゅうおうこうろん)とは?
明治時代からの歴史を持つ、中央公論新社(旧中央公論社)発行の総合雑誌です。明治時代前期の1886年(明治19)4月6日に、反省会が京都西本願寺普通教校内に結成されて創業し、1887年(明治20)8月に機関誌「反省会雑誌」(後に「反省雑誌」と改題)を創刊、1899年(明治32)1月15日に、「中央公論」と改題されて発足し、その後宗門から独立しました。
1904年(明治37)に、滝田樗陰(ちょいん)が編集者となり、自由主義的な代表的総合誌として発展、明治時代末には、雑誌「太陽」と並び称せられるようになります。また、1905年(明治38)に、200号記念号を発刊し、夏目漱石の『薤露行』、幸田露伴の『付焼刃』、泉鏡花の『女客』等を掲載するなどして、文壇の登竜門ともされるようになりました。
1912年(大正元)に、滝田樗陰が中央公論主幹となり、1914年(大正3)には、社名を中央公論社と改め、1916年(大正5)には、「婦人公論」も創刊されます。時事評論では、吉野作造や大山郁夫らを重用して、大正デモクラシー運動の指導誌となりました。
昭和時代になると、1928年(昭和3)に嶋中雄作が社長に就任、「改造」と並ぶ総合雑誌の双璧として、自由主義的、反軍国主義的方針を貫こうとしたものの、昭和10年代にはしばしば言論弾圧を受けるようになります。太平洋戦争下の1944年(昭和19)の横浜事件を契機に解散させられ、雑誌の発行も絶たれました。
戦後ただちに会社として再建され、1946年(昭和21)に復刊、1949年(昭和24)に社長嶋中雄作が亡くなると次男鵬二(ほうじ)が社業を継ぎます。1955年(昭和30)に「改造」の廃刊後は、「世界」と共に総合雑誌界を2分するようになりました。
広津和郎「松川裁判」の長期連載など、数々の話題作を掲載しましたが、1960年(昭和35)12月号の深沢七郎「風流夢譚」がきっかけにして、右翼の攻撃を受け、社長宅が襲われ嶋中夫人が負傷、家政婦が死亡するテロ事件(風流夢譚事件)に発展、社会に大きな衝撃を与えます。その後、雑誌のほか各種の図書、全集類(『日本の文学』『日本の歴史』等)、「中公新書」「中公文庫」などを刊行し、業績を拡大したものの、1997年(平成9)に鵬二社長が死去、経営危機が表面化しました。
その後、1999年(平成11)に読売新聞社に譲渡され、読売の100%子会社である中央公論新社に出版活動が引き継がれています。
1904年(明治37)に、滝田樗陰(ちょいん)が編集者となり、自由主義的な代表的総合誌として発展、明治時代末には、雑誌「太陽」と並び称せられるようになります。また、1905年(明治38)に、200号記念号を発刊し、夏目漱石の『薤露行』、幸田露伴の『付焼刃』、泉鏡花の『女客』等を掲載するなどして、文壇の登竜門ともされるようになりました。
1912年(大正元)に、滝田樗陰が中央公論主幹となり、1914年(大正3)には、社名を中央公論社と改め、1916年(大正5)には、「婦人公論」も創刊されます。時事評論では、吉野作造や大山郁夫らを重用して、大正デモクラシー運動の指導誌となりました。
昭和時代になると、1928年(昭和3)に嶋中雄作が社長に就任、「改造」と並ぶ総合雑誌の双璧として、自由主義的、反軍国主義的方針を貫こうとしたものの、昭和10年代にはしばしば言論弾圧を受けるようになります。太平洋戦争下の1944年(昭和19)の横浜事件を契機に解散させられ、雑誌の発行も絶たれました。
戦後ただちに会社として再建され、1946年(昭和21)に復刊、1949年(昭和24)に社長嶋中雄作が亡くなると次男鵬二(ほうじ)が社業を継ぎます。1955年(昭和30)に「改造」の廃刊後は、「世界」と共に総合雑誌界を2分するようになりました。
広津和郎「松川裁判」の長期連載など、数々の話題作を掲載しましたが、1960年(昭和35)12月号の深沢七郎「風流夢譚」がきっかけにして、右翼の攻撃を受け、社長宅が襲われ嶋中夫人が負傷、家政婦が死亡するテロ事件(風流夢譚事件)に発展、社会に大きな衝撃を与えます。その後、雑誌のほか各種の図書、全集類(『日本の文学』『日本の歴史』等)、「中公新書」「中公文庫」などを刊行し、業績を拡大したものの、1997年(平成9)に鵬二社長が死去、経営危機が表面化しました。
その後、1999年(平成11)に読売新聞社に譲渡され、読売の100%子会社である中央公論新社に出版活動が引き継がれています。
☆横浜事件関係略年表
<1942年(昭和17)>
・7月5日 細川嘉六の『現代日本文明史』の第10巻『植民史』の出版記念として日ごろから親しい若い研究者や編集者たちを1泊2日の泊旅行に招待する
・8月25日 総合雑誌『改造』9月号に細川嘉六(かろく)の論文「世界史の動向と日本(後編)」が掲載される
・9月11日 世界経済調査会の川田寿と夫人・定子が神奈川県特高にスパイ容疑で検挙される
・9月14日 「日本読書新聞」に陸軍報道部長の谷萩那華雄が掲載した書評「戦争と読書」の中で「共産主義宣伝」であると指弾され、細川嘉六が「出版法」違反で検挙され、『改造』は発禁処分を受ける
<1943年(昭和18)>
・5月11日 満鉄調査室の西沢富夫と平館利雄が検挙され、西沢の家宅捜索で警察は1枚の写真(泊旅行)を発見する
・5月26日 この写真(泊旅行)に細川とともに写っていた『改造』編集部相川博ら7名が、神奈川県特高に検挙され、山手署に留置の上、柄沢六治警部補、佐藤兵衛巡査部長らによって拷問・虐待を受ける(泊共産党再建事件)
・9月9日 政治経済研究会関係の8名が一斉検挙される(政治経済研究会グループ事件)
<1944年(昭和19)>
・1月29日~4月 『中央公論』、『改造』の編集者が検挙(中央公論・改造事件)される
・6月 『改造』、『中央公論』は廃刊となる
・7月10日 改造社、中央公論社が解散を命じられ、事件関係者は「治安維持法」違反で起訴される
<1945年(昭和20)>
・9月 やっと公判が開かれ、細川を除く全員が懲役2年、執行猶予3年の判決となる
・10月 「治安維持法」廃止により細川も釈放される
・11月 細川も審理打ち切り・免訴となる
<1947年(昭和22)>
・元被告33名が、当時手を下した元特高警察官28名を告訴する
<1952年(昭和27)>
・最高裁判所で内、元特高警察官3名に対し、有罪判決が出され、実刑が確定する
・4月 「サンフランシスコ平和条約」発効時の大赦令により元特高警察官3名は釈放され、実刑に服すことはなかった
<1986年(昭和61)>
・第1次再審請求が行われるが、棄却される
<1994年(平成6)>
・第2次再審請求が行われるが、棄却される
<1998年(平成10)>
・第3次再審請求が行われる
<2003年(平成15)>
・4月15日 横浜地裁で再審開始が認められる
<2005年(平成17)>
・3月 東京高裁決定で再審開始が認められる
<2006年(平成18)>
・2月9日 横浜地裁は免訴(有罪・無罪の判断をしない)という判決を下し、弁護側が控訴する
<2010年(平成22)>