ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:榎本武揚

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 今日は、幕末明治維新期の1862年(文久2)に、榎本武揚・西周らが江戸幕府が派遣するオランダへの留学(幕末オランダ留学)のため長崎を出航した日ですが、新暦では11月2日となります。
 幕末オランダ留学(ばくまつおらんだりゅうがく)は、1862年(文久2)~1868年(明治元)にかけて、行われた江戸幕府による、オランダ留学生の派遣です。先進国の軍事技術・学問修得のため、優秀な幕臣と職人をえりすぐってオランダに派遣しました。
 命を受けたメンバーは、軍艦操練所から榎本武揚(釜次郎)、沢太郎左衛門、赤松則良(大三郎)、内田正雄(恒次郎)、田口俊平、蕃書調所から津田真道(真一郎)、西周(周助)、そこに、長崎で医学修行中の伊東玄伯、林研海が加わり、さらに鋳物師や船大工等の技術者である職方7名が一行に加わり、留学先で海軍関連の技術や社会科学、医学等を学びます。1862年(文久2)6月18日に、留学生一行14名(残り2名は長崎から参加)は、品川沖に碇泊中の「咸臨丸」に乗船し、長崎に向けて出港しましたが、機関が故障や船内での「はしか」の流行があって遅れ、ようやく8月23日に長崎に到着しました。
 長崎でオランダ船カリプス号に乗り換え、9月11日に出港しましたが、この船がインドネシアのバンカ島とビリトン島間の海峡で暗礁に乗り上げ座礁、別の船に乗り換えるという苦難を経て、翌年4月18日にオランダ・ロッテルダムに到着できます。その後、ロッテルダムを経てライデンに到着し、一部はハーグへ向かい、翌月には学習を開始しました。
 各人は同地で長期にわたって勉強し、1865年(慶応元)~1868年(明治元)にかけて、順次帰国し、日本の諸科学の基礎を築いたとされます。

〇榎本武揚(えのもと たけあき)とは?

 江戸時代後期から明治時代に活躍した幕臣・外交官・政治家です。1836年〈天保7年8月25日〉に、江戸下谷(現在の東京都台東区)において、幕臣で西ノ丸御徒目付・榎本円兵衛武規の次男として生まれましたが、通称は釜次郎と言いました。
 12歳で昌平坂学問所に入り、のち中浜万次郎塾に学び、1854年(安政元)には箱館奉行堀利煕の小姓となり、樺太探検に従っています。1856年(安政3)に長崎海軍伝習所第2期生となり、勝海舟の指導下に軍艦操練、航海術を学びました。
 1858年(安政5)に江戸の築地軍艦操練所教授となり、1862年(文久2)からオランダに留学して、フレデリックスについて万国海律を学び、語学をはじめ、軍事、国際法、化学など広い知識を習得します。1866年(慶応2)に、幕府注文の開陽丸を回送して帰国し、同艦船将、軍艦頭並などを歴任、1868年(慶応4)には海軍副総裁となりました。
 同年の戊辰戦争では討幕軍による江戸開城後も、軍艦引渡しを拒否して、幕府艦隊を率いて北海道に上陸します。箱館五稜郭にたてこもり官軍に抵抗(箱館戦争)し、「蝦夷共和国」樹立を宣言しますが、翌年5月に降伏し、投獄されました。
 1872年(明治5)特赦を受けて出獄し、まもなく黒田清隆の下で、開拓使において北海道の資源調査に従事します。1874年(明治7)に海軍中将兼特命全権公使としてロシアに駐在、翌年には「樺太・千島交換条約」を締結しました。
 1880年(明治13)に海軍卿、1882年(明治15)には駐清特命全権公使となり、李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力します。1885年(明治18)の帰国以後、同年に逓信大臣に就任、子爵ともなりました。
 その後、1888年(明治21)に農商務大臣、1889年(明治22)に文部大臣、1891年(明治24)に外務大臣、1894年(明治27)に農商務大臣を歴任します。一方、東京地学協会や電気学会を設立、殖民協会を創立しメキシコに殖民団を送ったり、徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)などを創設しました。
 旧幕臣の中では、明治政府で異例の高い地位を占め、多方面で活躍しましたが、1908年(明治41)10月26日に、東京において、数え年73歳で亡くなっています。

〇西周(にし あまね)とは?

 幕末から明治時代に活躍した哲学者・啓蒙思想家・教育者です。江戸時代後期の1829年(文政12年2月3日)に、石見国津和野藩(現在の島根県津和野町)の御典医の家柄だった父・西時義の子として生まれましたが、幼名は経太郎(のち周助)と言いました。
 幼少より学問を好み、1841年(天保12) から藩校・養老館で蘭学を学び、藩主の許しを得て医家より儒者に転じ、大坂・岡山遊学を経て藩校養老館の教官となります。1853年(嘉永6年)に江戸詰となりましたが、ペリー来航の情勢のなかで洋学へ転じ、翌年には洋学に専念するために脱藩し、手塚律蔵の塾に学び、中浜万次郎に英語を学びました。
 1857年(安政4)に蕃書調所の教授並手伝となり、1862年(文久2)には幕命で津田真道・榎本武揚らと共にオランダに留学、ライデン大学でシモン・フィッセリングに師事し、法学、経済学、統計学などを学びましたが、J.S.ミル,A.コントの哲学に共鳴し、1865年(慶応元年)に帰国します。1866年(慶応2)に開成所教授に昇進、1867年(慶応3)の大政奉還の前後に、三権分立・議会制度などを採用した幕政革改案を提出、翌年に徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任、同年に『万国公法』の訳刊もしました。
 1870年(明治3)には、明治新政府の命により東京に移って兵部省に出仕し、近代軍制の整備にあたり、1880年(明治13)には『軍人勅諭草案』を著します。一方で、1873年(明治6)に森有礼、福澤諭吉らと共に明六社を結成、翌年には機関紙「明六雑誌」を発行、功利主義に基づく倫理思想を展開した『人世三宝説』等の論文を寄稿、「哲学」、「真理」、「芸術」、「理性」など多くの哲学用語を訳出し、西洋哲学の紹介と啓蒙思想の普及に努めました。
 1881年(明治14)に獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)の創立に参画、東京師範学校の校務嘱託ともなり、1883年(明治16)には獨逸学協会学校の初代校長に就任しています。また、東京学士会院会長、元老院議官、貴族院議員などを歴任したものの、体調を損ね、1892年(明治25)には神奈川県大磯の別邸に移りました。
 1897年(明治30)に勲一等瑞宝章を受章、男爵ともなりましたが、同年1月31日に大磯の別邸において、数え年69歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

764年(天平宝字8)孝謙太上天皇の寵臣・道鏡を除こうとする謀叛(藤原仲麻呂の)が発覚する(新暦10月10日)詳細
810年(大同5)藤原藥子・仲成らが平城天皇の復位を企てて失敗した、薬子の変が起きる(新暦10月12日)詳細
972年(天禄3)僧侶・民間浄土教の先駆者空也の命日(新暦10月20日)詳細
1008年(寛弘5)第68代の天皇とされる後一条天皇の誕生日(新暦10月12日)詳細
1900年(明治33)東京の上野・新橋両駅に日本初の公衆電話が設置される(公衆電話の日)詳細
1924年(大正13)東京天文台(国立天文台の前身)が三鷹に移転する詳細
1940年(昭和15)内務省が「部落会町内会等整備要領」を通達し、隣組(隣保班)が制度化される詳細
1949年(昭和24)明治大学考古学研究室が、相沢忠洋が発見した群馬県岩宿遺蹟の発掘調査を開始する詳細
1961年(昭和36)「世界野生生物基金(WWF)」(世界自然保護基金の前身)が設立される詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4)に、戊辰戦争の中で、江戸幕府海軍副総裁・榎本武揚が幕府全艦隊8隻を率いて江戸から箱館に向けて出航した日ですが、新暦では10月4日となります。
 戊辰戦争(ぼしんせんそう)は、幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦でした。1868年(慶応4年1月3日)開戦の鳥羽伏見の戦いから始まり、各地で戦乱が起きましたが、越後と東北、北海道で激戦となります。
 そして、1869年(明治2年5月18日)に箱館の五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して終結しました。名称は、慶応4年/明治元年の干支が“戊辰”であることに由来しています。
 これにより、明治政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになりました。

〇榎本武揚(えのもと たけあき)とは?

 江戸時代後期から明治時代に活躍した幕臣・外交官・政治家です。1836年〈天保7年8月25日〉に、江戸下谷(現在の東京都台東区)において、幕臣で西ノ丸御徒目付・榎本円兵衛武規の次男として生まれましたが、通称は釜次郎と言いました。
 12歳で昌平坂学問所に入り、のち中浜万次郎塾に学び、1854年(安政元)には箱館奉行堀利煕の小姓となり、樺太探検に従っています。1856年(安政3)に長崎海軍伝習所第2期生となり、勝海舟の指導下に軍艦操練、航海術を学びました。
 1858年(安政5)に江戸の築地軍艦操練所教授となり、1862年(文久2)からオランダに留学して、フレデリックスについて万国海律を学び、語学をはじめ、軍事、国際法、化学など広い知識を習得します。1866年(慶応2)に、幕府注文の開陽丸を回送して帰国し、同艦船将、軍艦頭並などを歴任、1868年(慶応4)には海軍副総裁となりました。
 同年の戊辰戦争では討幕軍による江戸開城後も、軍艦引渡しを拒否して、幕府艦隊を率いて北海道に上陸します。箱館五稜郭にたてこもり官軍に抵抗(箱館戦争)し、「蝦夷共和国」樹立を宣言しますが、翌年5月に降伏し、投獄されました。
 1872年(明治5)特赦を受けて出獄し、まもなく黒田清隆の下で、開拓使において北海道の資源調査に従事します。1874年(明治7)に海軍中将兼特命全権公使としてロシアに駐在、翌年には「樺太・千島交換条約」を締結しました。
 1880年(明治13)に海軍卿、1882年(明治15)には駐清特命全権公使となり、李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力します。1885年(明治18)の帰国以後、同年に逓信大臣に就任、子爵ともなりました。
その後、1888年(明治21)に農商務大臣、1889年(明治22)に文部大臣、1891年(明治24)に外務大臣、1894年(明治27)に農商務大臣を歴任します。一方、東京地学協会や電気学会を設立、殖民協会を創立しメキシコに殖民団を送ったり、徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)などを創設しました。旧幕臣の中では、明治政府で異例の高い地位を占め、多方面で活躍しましたが、1908年(明治41)10月26日に、東京において、数え年73歳で亡くなっています。

☆戊辰戦争関係略年表(日付は旧暦です)

<1868年(慶応4/明治元)> 
・1月3日  「鳥羽伏見の戦い」で「戊辰戦争」が始まる  
・1月6日 徳川慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ逃れる  
・2月12日 徳川慶喜は、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す 
・3月14日 西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸での戦闘が回避される 
・4月11日 江戸城が無血開城される  
・5月3日  奥羽25藩が「奥羽列藩同盟」を結成する 
・5月6日  長岡藩など北越6藩が新たに加わり「奥羽越列藩同盟」となる  
・5月15日 上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日で破る(上野戦争) 
・7月14日 白河口の戦いで、新政府軍が勝利する 
・7月29日 奥州の二本松城、越後の長岡城が陥落する 
・8月19日 榎本艦隊(開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形)が、遊撃隊など陸軍兵を乗せた運送船4隻(咸臨丸、長鯨丸、神速丸、美賀保丸)を加えて、品川沖を出港する
・8月23日 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻し、会津側は若松城で籠城戦を開始する 
・9月8日 明治に改元される 
・9月9日 米沢藩が新政府軍に寝返える 
・9月10日 仙台藩が降伏する 
・9月22日 会津藩が降伏し、「会津戦争」が終わる 
・10月26日 榎本武揚軍が箱館を占領する 
・11月15日 暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没する
 
<1869年(明治2)> 
・3月9日 箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発する 
・5月11日 箱館総攻撃が始まる 
・5月18日 五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して「箱館戦争」が終結し、「戊辰戦争」が終わる 
 
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1680年(延宝8)第108代の天皇とされる後水尾天皇の命日(新暦9月11日)詳細
1863年(文久3)八月十八日の政変による七卿落ちで、三條実美ら公家7人が長州へ向かう(新暦10月1日)詳細
1881年(明治14)文部省によって「師範学校教則大綱」が制定される詳細
1944年(昭和19)第12回御前会議で「世界情勢判断及戦争指導大綱」を決定する詳細
1946年(昭和21)全日本産業別労働組合会議(産別会議)が結成される詳細
1948年(昭和23)東宝争議(第3次)で、砧撮影所に米軍の戦車7台・飛行機3機等が投入され、組合員が撤退する詳細
1962年(昭和37)有機化学者で大阪帝国大学総長だった真島利行の命日詳細
1969年(昭和44)小説家中山義秀(なかやま ぎしゅう)の命日詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1867年(慶応3) に、江戸幕府がオランダに発注していた蒸気軍艦「開陽丸」が横浜港に到着した日ですが、新暦では4月30日となります。
 開陽丸(かいようまる)は、幕末明治維新期の1866年(慶応2)オランダで建造、翌年3月に榎本武揚らの手で横浜に回航された江戸幕府の最新鋭軍艦(排水量2,590トン、長さ約72.8m、幅約13m、高さ約45m)でした。江戸幕府の崩壊に際し、戊辰戦争に参加し、鳥羽・伏見の戦い後、前将軍徳川慶喜を乗せて大坂から江戸に帰港したことで知られています。
 その後、榎本武揚指揮の旧幕府艦隊の旗艦として北海道へ脱出しました。しかし、箱館戦争に参戦中の1868年(明治元)11月15日に暴風雨のため江差沖で沈没しています。
 1975年(昭和50)から、江差町教育委員会によって、水中からの発掘・調査が始まり、3万点以上の遺留品の引揚げが行われました。そして、1990年(平成2)に、北海道檜山郡江差町に「開陽丸記念館」として、開陽丸が現物大で復元され、引き上げられた遺品が所蔵、展示されています。

〇開陽丸関係略年表(日付は旧暦です)

・1862年(文久2年) 江戸幕府の久世広周は「オランダ海軍の持つ最新の設計・設備を施した、蒸気機関推進で大砲を20門以上装備した3000トン未満の軍艦一隻」という条件で注文書を出す
・1863年(文久3年) ロッテルダムの蒸気船会社で設計が完成、ドルトレヒトのヒップス・エン・ゾーネン造船所(Cornelis Gips & Zonen)に建造が指示される
・1864年(元治元年) 船体の竜骨が組みあがる
・1864年(元治元年10月20日) 「夜明け前(蘭語:Voorlichter)」を想起する開陽に名称が決定され、関係者らを集めた命名式が執り行われる
・1865年(慶応元年9月14日) 進水式が執り行われる
・1866年(慶応2年10月25日) 開陽は日本への引渡しのため、フリシンゲンを出港する
・1867年(慶応3年2月20日) オランダ領東インド(現・インドネシア)のアンボイナへ到着する
・1867年(慶応3年3月26日) 横浜港へ入港する
・1868年(慶応4年1月2日) 兵庫港を出港し、薩摩藩の平運丸に対して空砲で停船を命じたが、平運丸が応じなかったため実弾で砲撃する
・1868年(慶応4年1月8日) 徳川慶喜を乗せて大坂を出航する
・1868年(慶応4年1月11日) 徳川慶喜を乗せて江戸へ帰還する
・1868年(慶応4年4月11日) 江戸城無血開城に至って、榎本武揚は、開陽丸を新政府軍に譲渡する事を断固として拒否する
・1868年(慶応4年8月19日) 開陽丸を旗艦とした榎本艦隊(回天丸、蟠竜丸、千代田形丸)は、遊撃隊など陸軍兵を乗せた運送船4隻(咸臨丸、長鯨丸、神速丸、美賀保丸)を加えて品川沖を脱走する
・1868年(明治元年10月12日) 仙台折浜より蝦夷地へ向かう
・1868年(明治元年10月20日) 蝦夷地鷲ノ木沖に到着する
・1868年(明治元年10月25日) 旧幕府軍が箱館および五稜郭を占領すると、箱館港に入港して祝砲を撃つ
・1868年(明治元年11月11日) 箱館を出港して江差沖へ向かう
・1868年(明治元年11月14日) 江差沖に到着、陸地に艦砲射撃を加え、江差を無血占領する
・1868年(明治元年11月15日) 暴風雨のため江差沖で沈没する
・1974年(昭和49年) 文献から沈没位置を推定し、潜水調査を行い、開陽の遺留品を発見する
・1975年(昭和50年) 開陽丸の船体および遺物は日本初の海底遺跡として登録される
・1990年(平成2年)4月 北海道檜山郡江差町に「開陽丸記念館」として、開陽丸が現物大で復元され、引き上げられた遺品が所蔵、展示される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1205年(元久2)『新古今和歌集』が一応成立し、竟宴が開かれる(新暦4月16日)詳細
1489年(長享3)室町幕府第9代将軍足利義尚の命日(新暦4月26日)詳細
1925年(大正14)「衆議院議員選挙法」の全面改正(通称:普通選挙法)が貴族院を通過成立する詳細
1935年(昭和10)小説家与謝野寛(鉄幹)の命日詳細
1962年(昭和37)小説家・詩人室生犀星の命日詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)に、戊辰戦争の箱館の戦い(箱館戦争)において、榎本武揚軍が五稜郭を占領した日ですが、新暦では12月9日となります。
 五稜郭(ごりょうかく)は、幕末の1857年(安政4)に、北方防備のための洋式城郭として築城が開始され、1866年(慶応2)に完成しました。その後、1868年(慶応4)から翌年にかけて、戊辰戦争の最後の闘いである箱館の戦い(箱館戦争)が行われたことで有名です。
 これで、旧幕府勢力による抵抗は終焉しました。現在、五稜郭跡は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、「五稜郭公園」として保存されていて、巡ることができます。
 尚、2006年(平成18)には、日本100名城にも選定されました。また、公園内に、2010年(平成22)に「箱館奉行所」が木造で復元されて、一般公開されています。

〇戊辰戦争とは?

 幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦です。鳥羽伏見の戦いから始まり、各地で戦乱が起きましたが、越後と東北、北海道で激戦となりました。
 最後の箱館の戦い(箱館戦争)は、10月26日の榎本武揚軍による箱館五稜郭の占領に始まり、11月15日に暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没、翌年3月9日に箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発します。5月11日から箱館総攻撃が始まり、5月18日に五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して終結し、戊辰戦争が終わりました。
 名称は、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来します。これにより、明治臣政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになりました。

☆戊辰戦争関係略年表(日付は旧暦です)

<1868年(慶応4/明治元)>
・1月3日  「鳥羽伏見の戦い」で「戊辰戦争」が始まる 
・1月6日 徳川慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ逃れる 
・2月12日 徳川慶喜は、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
・3月14日 西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸での戦闘が回避される
・4月11日 江戸開城が無血で行われる
・閏4月11日 奥羽諸藩による白石列藩会議が始まる
・5月3日  奥羽25藩が「奥羽列藩同盟」を結成する
・5月6日  長岡藩など北越6藩が新たに加わり「奥羽越列藩同盟」となる 
・5月15日 上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日で破る(上野戦争)
・7月14日 白河口の戦いで、新政府軍が勝利する
・7月29日 奥州の二本松城、越後の長岡城が陥落する
・8月23日 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻し、会津側は若松城で籠城戦を開始する
・9月8日 明治に改元される
・9月9日 米沢藩が新政府軍に寝返える
・9月10日 仙台藩が降伏する
・9月22日 会津藩が降伏し、「会津戦争」が終わる
・10月26日 榎本武揚軍が箱館の五稜郭を占領する
・11月15日 暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没する

<1869年(明治2)>
・3月9日 箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発する
・5月11日 箱館総攻撃が始まる
・5月18日 五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して「箱館戦争」が終結し、「戊辰戦争」が終わる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

968年(安和元)第65代の天皇とされる花山天皇の誕生日(新暦11月29日)詳細
1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1908年(明治41)幕臣・外交官・政治家榎本武揚の命日詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細


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 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、幕臣・外交官・政治家榎本武揚の亡くなった日です。
 榎本武揚(えのもと たけあき)は、1836年〈天保7年8月25日〉に、江戸下谷(現在の東京都台東区)において、幕臣で西ノ丸御徒目付・榎本円兵衛武規の次男として生まれましたが、通称は釜次郎と言いました。12歳で昌平坂学問所に入り、のち中浜万次郎塾に学び、1854年(安政元)には箱館奉行堀利煕の小姓となり、樺太探検に従っています。
 1856年(安政3)に長崎海軍伝習所第2期生となり、勝海舟の指導下に軍艦操練、航海術を学びました。1858年(安政5)に江戸の築地軍艦操練所教授となり、1862年(文久2)からオランダに留学して、フレデリックスについて万国海律を学び、語学をはじめ、軍事、国際法、化学など広い知識を習得します。
 1866年(慶応2)に、幕府注文の開陽丸を回送して帰国し、同艦船将、軍艦頭並などを歴任、1868年(慶応4)には海軍副総裁となりました。同年の戊辰戦争では討幕軍による江戸開城後も、軍艦引渡しを拒否して、幕府艦隊を率いて北海道に上陸します。
 箱館五稜郭にたてこもり官軍に抵抗(箱館戦争)し、「蝦夷共和国」樹立を宣言しますが、翌年5月に降伏し、投獄されました。1872年(明治5)特赦を受けて出獄し、まもなく黒田清隆の下で、開拓使において北海道の資源調査に従事します。
 1874年(明治7)に海軍中将兼特命全権公使としてロシアに駐在、翌年には「樺太・千島交換条約」を締結しました。1880年(明治13)に海軍卿、1882年(明治15)には駐清特命全権公使となり、李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力します。
 1885年(明治18)の帰国以後、同年に逓信大臣に就任、子爵ともなりました。その後、1888年(明治21)に農商務大臣、1889年(明治22)に文部大臣、1891年(明治24)に外務大臣、1894年(明治27)に農商務大臣を歴任します。
 一方、東京地学協会や電気学会を設立、殖民協会を創立しメキシコに殖民団を送ったり、徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)などを創設しました。旧幕臣の中では、明治政府で異例の高い地位を占め、多方面で活躍しましたが、1908年(明治41)10月26日に、東京において、数え年73歳で亡くなっています。

〇榎本武揚関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1836年〈天保7年8月25日〉 江戸下谷(現在の東京都台東区)で、幕臣で西ノ丸御徒目付・榎本円兵衛武規の次男として生まれる
・1847年(弘化4年) 12歳で昌平坂学問所に入る
・1854年(安政元年) 箱館奉行堀利煕の小姓となり、樺太探検に従う
・1856年(安政3年) 長崎海軍伝習所第2期生となり、勝海舟の指導下に軍艦操練、航海術を学ぶ
・1858年(安政5年) 江戸の築地軍艦操練所教授となる
・1862年(文久2年) オランダに留学して、フレデリックスについて万国海律を学ぶ
・1866年(慶応2年) 幕府注文の開陽丸を回送して帰国、同艦の船将となる
・1868年(慶応4年1月) 海軍副総裁となる
・1868年(慶応4年) 戊辰戦争では討幕軍による江戸開城後も、軍艦引渡しを拒否する
・1868年(慶応4年10月20日) 幕府艦隊を率いて北海道に上陸する
・1868年(慶応4年11月1日) 箱館五稜郭へ入城する
・1868年(慶応4年12月10日) 蝦夷地平定を宣言し、士官以上の選挙によって総裁に選ばれる
・1869年(明治2年5月18日) 官軍に降伏する
・1869年(明治2年6月30日) 東京の監獄に投獄される
・1872年(明治5年1月6日) 特赦を受けて出獄する、
・1872年(明治5年6月) 黒田清隆の下で、開拓使に登用されて北海道の資源調査に従事する
・1874年(明治7年) 海軍中将兼特命全権公使としてロシアに駐在する
・1875年(明治8年)5月7日 ロシアのペテルブルグで「樺太・千島交換条約」を締結する
・1879年(明治12年) 地学協会の創立を唱えて副会長となる
・1880年(明治13年)2月28日 海軍卿となる
・1882年(明治15年)8月12日 駐清特命全権公使となる
・1884年(明治17年) 李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力する
・1885年(明治18年) 伊庭想太郎らと旧幕臣の子弟に対する奨学金支給のため徳川育英会を設立する
・1885年(明治18年)10月 清国から帰国する、
・1885年(明治18年)12月22日 逓信大臣に就任する
・1887年(明治20年)5月24日 子爵となる
・1888年(明治21年)4月30日 農商務大臣となる
・1888年(明治21年) 電気学会を設立、初代会長となる
・1889年(明治22年)2月11日 大日本帝国憲法発布式で儀典掛長を務める
・1889年(明治22年)3月22日 文部大臣となる
・1890年(明治23年)5月22日 枢密顧問官となる
・1891年(明治24年)3月6日 東京・飯田橋に「育英黌」を設立し管理長に就任する
・1891年(明治24年)5月29日 外務大臣となる
・1893年(明治26年) 殖民協会を設立し会長となる
・1893年(明治26年) 育英黌分黌農業科を私立東京農学校と改称し、校主となる
・1894年(明治27年)1月22日 農商務大臣となる
・1897年(明治30年)3月29日 足尾鉱毒事件で農商務大臣を引責辞任する
・1898年(明治31年) 工業化学会の初代会長となる
・1905年(明治38年)10月19日 海軍中将を退役となる
・1908年(明治41年)10月26日 東京において、数え年73歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細
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