ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:植物細胞学者

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 今日は、昭和時代後期の1980年(昭和55)に、遺伝学者・植物細胞学者・生理学者・教育者坂村徹の亡くなった日です。
 坂村徹(さかむら てつ)は、明治時代前期の1888年(明治21)10月13日に、広島県広島市幟町(現在の広島市中区)において、生まれました。1907年(明治40)に、旧制・広島第一中学(現在の広島国泰寺高校)を卒業し、東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)へ入学、恵迪寮に入ります。
 1913年(大正2)に卒業後、「植物ニ於ケル遺伝及ヒ之ニ関スル細胞学攻究」を研究テーマとして大学院へ進みました。1918年(大正7)に、小麦の染色体数を明らかにする画期的な業績を上げ、大学院を修了し北海道帝国大学農科大学助教授になり、ハーバード大学、ベルリン大学に留学します。
 帰国後、1920年(大正9)に理学博士を取得、翌年には教授に昇任しました。1930年(昭和5)に北海道帝国大学理学部植物学講座教授に転じ、1941年(昭和16)には、植物生理学の集大成『植物生理学』上下二巻を刊行します。
 1952年(昭和27)に北海道大学を退官し、名誉教授となり、1964年(昭和39)には、日本学士院会員となりました。1976年(昭和51)には、文化功労者となり、北海道大学創基百年にあたり、坂村徹と木原均に研究材料を提供したキャンパス内の小麦田圃跡に「小麦研究記念碑」が建立されましたが、1980年(昭和55)10月18日に、広島県広島市において、92歳で亡くなっています。

〇坂村徹の主要な著作

・『植物生理学』上下二巻(1941年)
・『植物細胞滲透生理学』(1952年)

☆坂村徹関係略年表

・1888年(明治21)10月13日 広島県広島市幟町(現在の広島市中区)において、生まれる
・1907年(明治40) 旧制・広島第一中学(現在の広島国泰寺高校)を卒業し、東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)へ入学する
・1913年(大正2) 東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)を卒業、「植物ニ於ケル遺伝及ヒ之ニ関スル細胞学攻究」を研究テーマとして大学院へ進む
・1918年(大正7) 小麦の染色体数を明らかにする画期的な業績を上げ、大学院を修了し北海道帝国大学農科大学助教授になり、ハーバード大、ベルリン大に留学する
・1920年(大正9) 理学博士を取得する
・1921年(大正10) 北海道帝国大学農科大学教授に昇任する
・1930年(昭和5) 北海道帝国大学理学部植物学講座教授に転ずる
・1941年(昭和16) 植物生理学の集大成「植物生理学」上下二巻を刊行する
・1952年(昭和27) 北海道大学を退官し、名誉教授となる
・1964年(昭和39) 日本学士院会員となる
・1976年(昭和51) 文化功労者となり、北海道大学創基百年にあたり、坂村徹と木原均に研究材料を提供したキャンパス内の小麦田圃跡に「小麦研究記念碑」が建立される
・1980年(昭和55)10月18日 広島県広島市において、92歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)日本初の全国政党「自由党」の結成大会が行われる詳細
1898年(明治31)安部磯雄・片山潜・幸徳秋水らが社会主義研究会(後の社会主義協会)を結成する詳細
1939年(昭和14)「価格等統制令」が公布され、物価などの価格が統制される詳細
1945年(昭和20)小説家葉山嘉樹の命日詳細
1955年(昭和30)長崎県大村湾口に当時日本一長さ(支間長:216m)の西海橋が開通する詳細
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kuwatayoshinari01
 今日は、昭和時代後期の1981年(昭和56)に、植物細胞学者桑田義備の亡くなった日です。
 桑田義備(くわだ よしなり)は、1882年(明治15)10月5日に、大阪府吹田で生まれ、旧制茨木中学校(現在の府立茨木高校)、旧制第六高等学校を経て、東京帝国大学理科大学へ入学しました。1908年(明治41)に、東京帝国大学理科大学植物学科を卒業後、欧米に留学し、アメリカのコロンビア大で細胞学者E.B.ウィルソンに師事、染色体や細胞核の分裂を研究します。
 1917年(大正6)に理学博士となり、1918年(大正7)には、徳川義親により東京府荏原郡平塚村小山に設立された私立の徳川生物学研究所の所長を務めました。1922年(大正11)に京都帝国大学教授となり、イネ、トウモロコシの研究を行い、染色体の構造と核分裂の分析や核分裂の進化について独自の学説を樹立、1937年(昭和12)には、『染色体の構造』を刊行します。
 1942年(昭和17)に京都帝国大学教授を辞め、翌年名誉教授となり、1950年(昭和25)には、国立遺伝学研究所客員教授となりました。1953年(昭和28)に、「染色体構造の研究」で、日本学士院賞を受賞、1954年(昭和29)に『核分裂の進化』、1956年(昭和31)に『細胞論』を刊行します。
 細胞学の発展に貢献したことにより、1952年(昭和37)に文化功労者となり、文化勲章も受章しましたが、1981年(昭和56)8月13日に、京都において、98歳で亡くなりました。

〇桑田義備の主要な著作

・『染色体の構造』(1937年)
・『細胞核の分裂』(1943年)
・『核分裂の進化』(1954年)
・『細胞論』(1956年)

☆桑田義備関係略年表

・1882年(明治15)10月5日 大阪府吹田において、生まれる 
・1908年(明治41) 東京帝国大学理科大学植物学科を卒業する
・1917年(大正6) 理学博士となる
・1918年(大正7) 徳川義親により東京府荏原郡平塚村小山に設立された私立の徳川生物学研究所の所長を務める
・1922年(大正11) 京都帝国大学教授となる
・1937年(昭和12) 『染色体の構造』を刊行する
・1942年(昭和17) 京都帝国大学教授を辞める
・1943年(昭和18) 京都帝国大学名誉教授となる
・1950年(昭和25) 国立遺伝学研究所客員教授となる
・1953年(昭和28) 「染色体構造の研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1954年(昭和29) 『核分裂の進化』を刊行する
・1956年(昭和31) 『細胞論』を刊行する
・1952年(昭和37) 文化功労者となり、文化勲章も受章する
・1981年(昭和56)8月13日 京都において、98歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

842年(承和9)貴族・官僚・書家橘逸勢の命日(新暦9月24日)詳細
1809年(文化6)幕末明治維新期の熊本藩士・思想家・政治家横井小楠の誕生日(新暦9月22日)詳細
1870年(明治3)日本5番目の洋式灯台である城ヶ島灯台が初点灯する(新暦9月8日)詳細
1952年(昭和27)日本が国際通貨基金(IMF)に加盟する詳細
日本が国際復興開発銀行(世界銀行)に加盟する詳細
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