ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:桜田貞国

kumegawakosenjyouato01
 今日は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3)に、久米川の戦いで、新田義貞軍が鎌倉幕府の軍勢を破った日ですが、新暦では6月24日となります。
 久米川の戦い(くめがわのたたかい)は、鎌倉幕府と倒幕勢力による内乱「元弘の乱(げんこうのらん)」における合戦の一つで、倒幕勢力の新田義貞軍が武蔵国久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)で、鎌倉幕府軍を破った戦いでした。1333年(元弘3年5月8日)に、新田義貞は上野国生品明神(現在の群馬県太田市)において、鎌倉幕府倒幕のための兵を挙げます。
 その後、南下するに従い、鎌倉幕府に不満を持った武士たちが次々と集まり、まず5月11日に入間川を渡って、小手指原(現在の埼玉県所沢市)に入ったところで、迎撃に来た桜田貞国率いる鎌倉幕府軍に対し、小手指原の戦いが行われました。幕府軍は新田軍が入間川を渡りきる前に迎撃するつもりでしたが、新田軍の動きが迅速であったため、布陣の余裕はなく、小手指原において、両者の遭遇戦の形で合戦に至ります。
 新田軍と幕府軍との激戦は、30余回もの打ち合いとなりました。兵数は幕府軍の方が勝っていたものの、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となっていきます。
 日没までに新田軍は300、幕府軍は500ほどの戦死者を出し、両軍共に疲弊し、やむなく新田軍は入間川(現在の埼玉県狭山市)、幕府軍は久米川(現在の東京都東村山市)にそれぞれ引き上げて軍勢を立て直しました。そして、幕府軍は久米川(現在の柳瀬川)で新田軍の南下を食い止めるべく、久米川の南岸(現在の東京都東村山市諏訪町)で迎え出ます。
 小手指原で勝利した新田軍はそのままの勢いで八国山に陣を張り、ここから指揮をとり麓の幕府軍と対峙しました。新田軍の奇襲から久米川の戦いは始まり、幕府軍の大将桜田貞国は新田軍を挟撃しようとしましたが、幕府軍の本陣が手薄になると、新田軍は一気に本陣を突いて勝負を決めます。
 そこで、幕府軍は分倍河原(現在の東京都府中市)まで退却、執権北条高時の弟の北条泰家を大将とする10万の援軍と合流し、迎え撃とうとしました。これを5月15日に反幕府方の新田義貞軍が攻撃したものの、今度は援軍を得ていた幕府方が優勢になり、反幕府方の新田軍は堀金(現在の埼玉県狭山市)までの退却を余儀なくされます。
 しかし、相模国の軍勢を率いた三浦義勝が新田軍の援軍に入ると、翌16日早朝には義勝を先鋒として義貞は2万の軍勢で一気に分倍河原に押し寄せ、緊張が緩んでいた幕府方に奇襲をかけて大勝し、鎌倉幕府方は敗走することになりました。ここで幕府方を圧倒したことで、反幕府方には次々と援軍が合流し、ついには60万もの大軍勢となります。その後、反幕府方は勢いに乗り、5月21日には、義貞率いる軍勢が稲村ヶ崎を突破して鎌倉へ攻め入り、翌22日には鎌倉幕府を滅亡させることとなりました。
 現在でも、久米川周辺には、戦にちなんだ史跡も数多く残されていて、新田義貞が桜田貞国を破った地には「久米川古戦場跡」と刻まれた石碑が残り、久米川古戦場跡に隣接する小高い丘は、久米川の戦いで新田義貞が本陣を置いた地で、頂上付近には「将軍塚」の石碑や「元弘青石塔婆所在跡」などの史跡が点在しています。
 以下に、『太平記』巻第十の久米川の戦いに関する部分を抜粋しておきますので、ご参照下さい。

〇『太平記』巻第十 (69)新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事より

新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事

(前略)
路次に両日逗留有て、同十一日の辰刻に、武蔵国小手差原に打臨給ふ。爰にて遥に源氏の陣を見渡せば、其勢雲霞の如くにて、幾千万騎共可云数を不知。桜田・長崎是を見て、案に相違やしたりけん、馬を扣て不進得。義貞忽に入間河を打渡て、先時の声を揚、陣を勧め、早矢合の鏑をぞ射させける。平家も鯨波を合せて、旗を進めて懸りけり。初は射手を汰て散々に矢軍をしけるが、前は究竟の馬の足立也。何れも東国そだちの武士共なれば、争でか少しもたまるべき、太刀・長刀の鋒をそろへ馬の轡を並て切て入。二百騎・三百騎・千騎・二千騎兵を添て、相戦事三十余度に成しかば、義貞の兵三百余騎被討、鎌倉勢五百余騎討死して、日已に暮ければ、人馬共に疲たり。軍は明日と約諾して、義貞三里引退て、入間河に陣をとる。鎌倉勢も三里引退て、久米河に陣をぞ取たりける。両陣相去る其間を見渡せば三十余町に足ざりけり。何れも今日の合戦の物語して、人馬の息を継せ、両陣互に篝を焼て、明るを遅と待居たり。夜既に明ぬれば、源氏は平家に先をせられじと、馬の足を進て久米河の陣へ押寄る。平家も夜明けば、源氏定て寄んずらん、待て戦はゞ利あるべしとて、馬の腹帯を固め甲の緒を縮め、相待とぞみへし。両陣互に寄合せて、六万余騎の兵を一手に合て、陽に開て中にとり篭んと勇けり。義貞の兵是を見て、陰に閉て中を破れじとす。是ぞ此黄石公が虎を縛する手、張子房が鬼を拉ぐ術、何れも皆存知の道なれば、両陣共に入乱て、不被破不被囲して、只百戦の命を限りにし、一挙に死をぞ争ひける。されば千騎が一騎に成までも、互に引じと戦けれ共、時の運にやよりけん、源氏は纔に討れて平家は多く亡にければ、加治・長崎二度の合戦に打負たる心地して、分陪を差して引退く。
(後略)

    「ウィキソース」より

☆新田義貞の挙兵から鎌倉幕府滅亡までの略年表(日付は旧暦です)

<1333年(元弘3)>
・5月8日 新田義貞は上野国生品明神(現在の群馬県太田市)において、鎌倉幕府倒幕のための兵を挙げる
・5月9日 義貞挙兵の報を受けた幕府の評定が鎌倉で行われる
・5月10日 桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門を副将とする武蔵・上野の幕府方が迎撃に向かう
・5月11日 小手指原の戦い(現在の埼玉県所沢市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月12日 久米川の戦い(現在の東京都東村山市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月15・16日 分倍河原の戦い(現在の東京都府中市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月16日 関戸の戦い(現在の東京都多摩市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月18日 反鎌倉幕府方は大軍で鎌倉に対し攻撃を開始する
・5月21日 新田義貞率いる軍勢が干潮を利用して稲村ヶ崎を突破して鎌倉へ攻め入る
・5月22日 東勝寺で北条高時・金沢貞顕、長崎円喜・長崎高資・安達時顕ら一族・家臣が自害し、鎌倉幕府が滅亡する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1534年(天文3)戦国大名織田信長の誕生日(新暦6月23日)詳細
1698年(元禄11)儒学者・蘭学者青木昆陽の誕生日(新暦6月19日)詳細
1718年(享保3)俳人で蕉門の十哲の一人とされる立花北枝の命日(新暦6月10日)詳細
1925年(大正14)「治安維持法」が施行される詳細
1962年(昭和37)劇作家・詩人・児童文学者・小説家秋田雨雀の命日詳細
1979年(昭和54)本州四国連絡橋計画の最初として、アーチ橋の大三島橋が完成(翌日から供用開始)する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

kotesashigaharakosenjyounoh
 今日は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3)に、小手指原の戦いで、新田義貞軍が鎌倉幕府軍を破った日ですが、新暦では6月23日となります。
 小手指原の戦い(こてさしがはらのたたかい)は、鎌倉幕府と倒幕勢力による内乱「元弘の乱(げんこうのらん)」における合戦の一つで、倒幕勢力の新田義貞軍が武蔵国入間郡小手指原で鎌倉幕府軍を破った戦いでした。
 1333年(元弘3年5月8日)に、新田義貞は上野国生品明神(現在の群馬県太田市)において、鎌倉幕府倒幕のための兵を挙げます。その後、南下するに従い、鎌倉幕府に不満を持った武士たちが次々と集まり、まず5月11日に入間川を渡って、小手指原(現在の埼玉県所沢市)に入ったところで、迎撃に来た桜田貞国率いる鎌倉幕府軍に対し、この戦いが行われました。
 幕府軍は新田軍が入間川を渡りきる前に迎撃するつもりでしたが、新田軍の動きが迅速であったため、布陣の余裕はなく、小手指原において、両者の遭遇戦の形で合戦に至ります。新田軍と幕府軍との激戦は、30余回もの打ち合いとなりました。
 兵数は幕府軍の方が勝っていたものの、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となっていきます。日没までに新田軍は300、幕府軍は500ほどの戦死者を出し、両軍共に疲弊し、やむなく新田軍は入間川(現在の埼玉県狭山市)、幕府軍は久米川(現在の東京都東村山市)にそれぞれ引き上げて軍勢を立て直しました。
 翌日の久米川の戦いでも、新田軍が優勢となります。そこで、幕府軍は分倍河原(現在の東京都府中市)まで退却、執権北条高時の弟の北条泰家を大将とする10万の援軍と合流し、迎え撃とうとしました。
 これを5月15日に反幕府方の新田義貞軍が攻撃したものの、今度は援軍を得ていた幕府方が優勢になり、反幕府方の新田軍は堀金(現在の埼玉県狭山市)までの退却を余儀なくされます。しかし、相模国の軍勢を率いた三浦義勝が新田軍の援軍に入ると、翌16日早朝には義勝を先鋒として義貞は2万の軍勢で一気に分倍河原に押し寄せ、緊張が緩んでいた幕府方に奇襲をかけて大勝し、鎌倉幕府方は敗走することになりました。
 ここで幕府方を圧倒したことで、反幕府方には次々と援軍が合流し、ついには60万もの大軍勢となります。その後、反幕府方は勢いに乗り、5月21日には、義貞率いる軍勢が稲村ヶ崎を突破して鎌倉へ攻め入り、翌22日には鎌倉幕府を滅亡させることとなりました。
 現在でも、小手指原周辺には、戦にちなんだ史跡も数多く残されていて、「白旗塚(しらはたづか)」は義貞が源氏の白旗を立てた場所とされ、その北の「誓詞橋(せいしがはし)」は倒幕を誓った場所と言われています。また、長久寺(久米)の南の柳瀬川にかかる「勢揃橋(せいぞろいばし)」は新田軍が勢揃いした場所と伝えられてきました。また、八国山の「将軍塚(しょうぐんづか)」は、義貞が戦の際に陣を敷き、軍勢を指揮した場所とされています。
 以下に、『太平記』巻第十の小手指原の戦いに関する部分を抜粋しておきますので、ご参照下さい。

〇『太平記』巻第十 (69)新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事より

新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事

(前略)
路次に両日逗留有て、同十一日の辰刻に、武蔵国小手差原に打臨給ふ。爰にて遥に源氏の陣を見渡せば、其勢雲霞の如くにて、幾千万騎共可云数を不知。桜田・長崎是を見て、案に相違やしたりけん、馬を扣て不進得。義貞忽に入間河を打渡て、先時の声を揚、陣を勧め、早矢合の鏑をぞ射させける。平家も鯨波を合せて、旗を進めて懸りけり。初は射手を汰て散々に矢軍をしけるが、前は究竟の馬の足立也。何れも東国そだちの武士共なれば、争でか少しもたまるべき、太刀・長刀の鋒をそろへ馬の轡を並て切て入。二百騎・三百騎・千騎・二千騎兵を添て、相戦事三十余度に成しかば、義貞の兵三百余騎被討、鎌倉勢五百余騎討死して、日已に暮ければ、人馬共に疲たり。軍は明日と約諾して、義貞三里引退て、入間河に陣をとる。鎌倉勢も三里引退て、久米河に陣をぞ取たりける。両陣相去る其間を見渡せば三十余町に足ざりけり。何れも今日の合戦の物語して、人馬の息を継せ、両陣互に篝を焼て、明るを遅と待居たり。夜既に明ぬれば、源氏は平家に先をせられじと、馬の足を進て久米河の陣へ押寄る。平家も夜明けば、源氏定て寄んずらん、待て戦はゞ利あるべしとて、馬の腹帯を固め甲の緒を縮め、相待とぞみへし。両陣互に寄合せて、六万余騎の兵を一手に合て、陽に開て中にとり篭んと勇けり。義貞の兵是を見て、陰に閉て中を破れじとす。是ぞ此黄石公が虎を縛する手、張子房が鬼を拉ぐ術、何れも皆存知の道なれば、両陣共に入乱て、不被破不被囲して、只百戦の命を限りにし、一挙に死をぞ争ひける。されば千騎が一騎に成までも、互に引じと戦けれ共、時の運にやよりけん、源氏は纔に討れて平家は多く亡にければ、加治・長崎二度の合戦に打負たる心地して、分陪を差して引退く。
(後略)

    「ウィキソース」より

☆新田義貞の挙兵から鎌倉幕府滅亡までの略年表(日付は旧暦です)

<1333年(元弘3)>

・5月8日 新田義貞は上野国生品明神(現在の群馬県太田市)において、鎌倉幕府倒幕のための兵を挙げる
・5月9日 義貞挙兵の報を受けた幕府の評定が鎌倉で行われる
・5月10日 桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門を副将とする武蔵・上野の幕府方が迎撃に向かう
・5月11日 小手指原の戦い(現在の埼玉県所沢市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月12日 久米川の戦い(現在の東京都東村山市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月15・16日 分倍河原の戦い(現在の東京都府中市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月16日 関戸の戦い(現在の東京都多摩市)で反鎌倉幕府方が勝利する
・5月18日 反鎌倉幕府方は大軍で鎌倉に対し攻撃を開始する
・5月21日 新田義貞率いる軍勢が干潮を利用して稲村ヶ崎を突破して鎌倉へ攻め入る
・5月22日 東勝寺で北条高時・金沢貞顕、長崎円喜・長崎高資・安達時顕ら一族・家臣が自害し、鎌倉幕府が滅亡する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1183年(寿永2)倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る(新暦6月2日)詳細
1473年(文明5)武将・守護大名・室町幕府管領細川勝元の命日(新暦6月6日)詳細
1942年(昭和17)詩人萩原朔太郎の命日(朔太郎忌)詳細
1955年(昭和30)宇高連絡船の紫雲丸と第3宇高丸が衝突し紫雲丸が沈没して死者167名を出す(紫雲丸事故)詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ