桓武天皇(かんむてんのう)は、奈良時代の737年(天平9)に、京都において白壁王(後の光仁天皇)の長男(母・高野新笠)として生まれましたが、名は日本根子皇統弥照尊(やまとねこすめろぎいやてりのみこと)と言いました。
770年(宝亀元年10月1日)に、父の白壁王が第49代の光仁天皇として即位すると、四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、母が渡来人の出身だったため第一皇子でしたが、皇太子となれないでいます。しかし、772年(宝亀3)に、皇后井上内親王が厭魅の罪で廃后とされ、翌年にその子他戸親王も廃太子されると、773年(宝亀4年1月2日)に皇太子となりました。
781年(天応元年4月3日)に父・光仁天皇から譲位されて、数え年48歳で第50代の天皇となるとすぐに、同母弟の早良親王を皇太子と定めます。
782年(延暦元)に、勘解由使を設置し、翌年には藤原百川の兄・藤原良継の娘・藤原乙牟漏を皇后としました。784年(延暦3)には、奈良寺院勢力の抑制も意図し、それまでの平城京から、山背国(現在の京都府)の長岡京への遷都を断行しましたが、翌年藤原種継暗殺の廉により、早良親王を廃太子の上で流罪に処し、死に至らしめる事件が起きます。
その後、皇后乙牟漏、夫人旅子など近親の死亡が相次ぎ、早良親王の怨霊の所為とされたため、側近の和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、長岡京造営を中止し、794年(延暦13)に、山背の葛野(かどの)に遷都し、平安京と命名するとともに、山背国を山城国と改めました。
一方、律令国家としての強化・拡大をはかって、789年(延暦8)に、紀古佐美を征東大使とする最初の東北への遠征軍を送りますが惨敗しました。792年(延暦11)には、陸奥国・出羽国・佐渡国・西海道諸国を除く諸国の軍団・兵士を廃止し、代わって健児の制を布き、794年(延暦13年)の東北への2度目の遠征で征夷大将軍・大伴弟麻呂の補佐役として坂上田村麻呂が活躍します。
795年(延暦14年)に、公出挙を5割から3割に減税したり、雑徭の日限を30日に半減するなど農民の負担軽減を図り、797年(延暦16年8月13日)には、2番目の官撰国史『続日本紀』が完成し、奏上されました。また、801年(延暦20年)には、東北への3度目の遠征で坂上田村麻呂を征夷大将軍とする軍を送り、翌年に胆沢(いさわ)城(現在の岩手県)を築かせるなどして、東北地方へ朝廷権力を拡大します。
尚、804年(延暦23年)に、遣唐使により、最澄と空海を唐に渡らせ、奈良時代の仏教政治の弊害を除くために、新宗派(天台宗・真言宗)の設立を助けました。
しかし、晩年に政策は行き詰まり、805年(延暦24)に藤原緒嗣の建議によって造都・征夷の事業を中止、翌年3月17日に、京都において数え年70歳で亡くなっています。
〇桓武天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・737年(天平9年) 京都において白壁王(後の光仁天皇)の長男(母・高野新笠)として生まれる
・770年(宝亀元年10月1日) 父の白壁王が第49第の光仁天皇として即位すると、四品が授けられる
・772年(宝亀3年3月2日) 皇后井上内親王が厭魅の罪で廃后とされる
・772年(宝亀3年5月27日) 井上内親王の子他戸親王も廃太子される
・773年(宝亀4年1月2日) 皇太子となる
・781年(天応元年4月3日) 父・光仁天皇から譲位されて第50代の天皇となる
・781年(天応元年4月4日) 同母弟の早良親王を皇太子と定める
・782年(延暦元年12月4日) 勘解由使が設置される
・783年(延暦2年4月18日) 藤原百川の兄・藤原良継の娘・藤原乙牟漏を皇后とする
・784年(延暦3年) 長岡京を造営する
・785年(延暦4年9月頃) 早良親王を藤原種継暗殺の廉により廃太子の上で流罪に処し、死に至らしめる
・785年(延暦4年11月25日) 安殿親王を皇太子とする
・789年(延暦8年) 最初の東北遠征で紀古佐美を征東大使とする軍を送るが惨敗する
・792年(延暦11年6月) 陸奥国・出羽国・佐渡国・西海道諸国を除く諸国の軍団・兵士を廃止し、代わって健児の制を布く
・794年(延暦13年) 2度目の東北遠征で征夷大将軍・大伴弟麻呂の補佐役として坂上田村麻呂が活躍する
・794年(延暦13年10月22日) 山背の葛野(かどの)に遷都する
・794年(延暦13年11月) 詔を出し、新京を平安京と命名するとともに、山背国を山城国と改める
・795年(延暦14年) 公出挙を5割から3割に減税する
・795年(延暦14年) 雑徭の日限を30日に半減する
・797年(延暦16年8月13日) 2番目の官撰国史『続日本紀』が完成し、奏上される
・801年(延暦20年) 3度目の東北遠征で坂上田村麻呂を征夷大将軍とする軍を送る
・802年(延暦21年) 坂上田村麻呂に胆沢(いさわ)城(現在の岩手県)を築かせる
・802年(延暦21年) 坂上田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送する
・803年(延暦22年) 征夷大将軍の坂上田村麻呂が紫波城を造営する
・804年(延暦23年) 遣唐使により、最澄と空海が唐に渡る
・805年(延暦24年) 最澄(伝教大師)が唐より帰り、天台宗を伝える
・805年(延暦24年) 藤原緒嗣の建議によって、平安京の造作と東北への軍事遠征を中止する
・806年(延暦25年3月17日) 京都において、数え年70歳で亡くなる