ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:桓武天皇

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 今日は、奈良時代の784年(延暦3)に、桓武天皇が人心一新のため、平城京から長岡京に遷都した日ですが、新暦では12月27日となります。
 長岡京(ながおかきょう)は、山城国乙訓郡(現在の京都府向日市・長岡京市・京都市西京区)にあった桓武天皇が造営させた都でした。奈良時代の784年(延暦3年11月11日)に、平城京より遷都されましたが、785年(延暦4)に、造長岡宮使藤原種継の暗殺、廃太子早良親王の非業の死などがあり、造営工事はついに中止され、約10年間存在しただけで、794年(延暦13年10月22日)には、新京(平安京)に遷されています。
 南北は十条、東西は左右各四坊計八坊あったと考えられ、碁盤の目のような街並みが造営され、長岡宮へとつながる朱雀大路が都の中心を通り、南北方向の大路が右京・左京にそれぞれ4本ずつひかれ、東西方向の大路は、九条まで造られており、それぞれの大路に囲まれたなかは小路などで区画され、役所や市、貴族の邸宅などが身分に応じて割りあてられました。1964年(昭和39)に、宮跡の一部は国史跡に指定され、周辺の発掘調査によって、1,000枚を超える木簡が出土、墨書土器とともに重要な資料を提供しています。

〇長岡京関係略年表

<延暦3年(784年)>
・5月7日 がま2万匹ばかり、難波の市の南道より四天王寺の内に入る(長岡遷都の前ぶれ)
・5月16日 中納言藤原小黒麻呂、同藤原種継、左大弁佐伯今毛人らを派遣、遷都のため山背国乙訓郡長岡村を視る
・6月10日 造長岡宮使に藤原種継、佐伯今毛人らを任命し、長岡宮・京を造り始める

<延暦3年(784年)>
・6月13日 遷都を山背国の賀茂大神社に告げ、今年の調・庸税と宮を造る人夫の必要物資を諸国に命じて新京の長岡宮へ運ばせる
・6月23日 新京に邸宅を造るため、 正税68万束を右大臣以下の政府要人に与える
・6月28日 長岡村の百姓宅で宮内に入るもの57町に立のき料として正税約4万3千束を与える
・7月4日 阿波・讃岐・伊豫の3国に命じて、山崎橋を造る料材を出させる
・11月11日 長岡京に遷都する
・11月20日 遷都のため賀茂上・下社、松尾・乙訓神に叙位。
・11月28日 賀茂上・下社、松尾・乙訓神の4社を修理する
・12月2日、18日、29日 宮城を築いた山背国葛野郡の秦足長ら、宮を造る功労者にそれぞれ叙位と賜爵を与える

<延暦3年(784年)>
・12月13日 王臣家・諸司・寺司による山野の独占を禁止する

<延暦4年(785年)>
・1月1日 長岡新京の大極殿で初めて朝賀式。五位以上の貴族、内裏で祝宴をする
・1月14日 摂津国神下・梓江・鯵生野に堀を作り、三国川に結ぼうとする(京へ資材運搬のため)
・3月3日 嶋院で天皇と貴族、曲水の宴をする
・5月19日 4月末に皇后宮に瑞兆の赤雀が現われたのを祝い、賜爵・叙位・免租等を行う
・5月24日 諸国貢進の調・庸税の粗悪について、国司・郡司の責任を明確にする
・7月20日 宮を造る人夫に諸国の百姓31万4千人を雇う
・7月24日 国司の正税流用を禁止する
・8月23日 太政官院の垣を築いた大秦宅守に叙位する
・9月23日 藤原種継暗殺される。
・9月24日 藤原種継暗殺の犯人大伴氏ら数十人逮捕される
・9月28日 早良皇太子廃し、乙訓寺へ幽閉される
・10月4日 班田収授のため、五畿内に使を派遣し、検田する
・11月25日 安殿親王(のちの平城天皇)立太子する

<延暦5年(786年)>
・1月21日 近江国滋賀郡にはじめて梵釈寺を造る
・4月11日 諸国の調・庸等の税の未納について、国司・郡司の怠慢を責める
・5月3日 左・右京および東・西の市人に物を賜う
・6月1日 諸国の正倉の火災について、国司の責任を明確にする
・7月19日 太政官院が完成する。百官はじめて朝座につく
・8月8日 蝦夷を攻めるため、この時より約2年間、東国にて兵士・武器・物資の準備を進める
・9月18日 渤海国の使、船一隻に乗って出羽国に漂着する
・9月29日 五畿内の班田長官を任命する

<延暦6年(787年)>
・閏5月11日 左右京職の税の濫用を禁止し、交替時に解由状を与えることとする
・10月8日 「水陸の便なるをもって都をこの邑に遷す」の詔あり。また賑給・減税・賜爵を行う
・11月5日 天神を河内国の交野に祀る

<延暦7年(788年)>
・9月26日 「水陸の便あって都市を長岡に建つ。しかも宮室未だ就らず、興作いよいよ多くして徴発の苦すこぶる百姓にあり」を詔して、減税を行う
・12月7日 征東大将軍紀古佐美、節刀を賜わり蝦夷へ出征する

<延暦8年(789年)>
・1月6日 五位以上、南院で節会。これより後、南院(南園)でしばしば宴が催される
・1月17日 この頃「造東大宮所」が東大宮(第2次内裏)を造る(長岡京跡左京第51次調査出土木簡No216)
・2月27日 天皇、西宮(第1次内裏)より、はじめて東宮(第2次内裏)に移る
・3月1日 造宮使、お酒食等を献上して祝う
・3月9日 軍を多賀城に集結し蝦夷を攻める
・3月16日 造東大寺司を廃止する
・7月14日 伊勢・美濃・越前の三関を廃止する
・11月9日 造宮大工物部建麻呂に叙位する
・12月28日 桓武天皇の母高野新笠没する

<延暦9年(790年)>
・1月15日 桓武天皇の母高野新笠を大枝山陵に葬る
・閏3月4日 蝦夷を攻めるため、これより約2年間、諸国に命じて武器・軍糧を準備させる
・閏3月10日 皇后藤原乙牟漏没する
・10月2日 再び鋳銭司を設置する
・11月3日 税の欠負未納を補塡する公廨稲の割合を設定する

<延暦10年(791年)>
・3月6日 吉備真備・大和長岡らによる刪定律令24条を施行する
・4月18日 山背国内の諸寺の塔を修理する
・5月29日 翌年の班田に備え、国司・王臣家・殷富百姓が下田を上田に換える等の不法を改める
・6月25日 再び山野独占の禁令を出し、山背国の百姓の山野利用の便をはかる
・8月5日 畿内の班田使を任じる。
・9月16日 平城宮の諸門を壊し運んで長岡宮に移し造らせる

<延暦11年(792年)>
・1月9日 天皇、諸院を巡行し、猪隈院にて五位以上に弓を射さす
・6月7日 諸国の兵士制を廃止する
・6月14日 健児の制を設ける
・6月10日 皇太子の病を占い、「早良親王の崇り」とでる
・6月22日 式部省の南門、激しい雷雨で倒れる
・8月9日 大雨・洪水で桂川等あふれる
・8月11日 天皇、紀伊郡赤目崎にて洪水を視る
・10月28日 京畿に限って班田を実施し、細則を一部修正する
・閏11月1日 新弾例83条を施行する

<延暦12年(793年)>
・1月15日 大納言藤原小黒痳呂、左大弁紀古佐美らを遣し、遷都のため山背国葛野郡宇太村を視る
・1月21日 宮を壊体するため天皇東院に移る
・2月2日 遷都を賀茂大神に告げる
・3月1日 葛野の行幸し、はじめて新京を巡行する
・3月12日 新京の宮城を築かせる
・6月23日 新宮の諸門を造らせる
・7月7日 馬埒殿で節会の相撲あり
・9月2日 新京の宅地を班給する

<延暦13年(794年)>
・6月13日 副将軍坂上田村麻呂ら、蝦夷を坆めて勝利を得る
・7月1日 東・西の市を新京に移。
・8月13日 右大臣藤原継縄ら「続日本紀」を撰修する
・10月22日 新京(平安京)に遷る

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1348年(貞和4)第95代の天皇とされる花園天皇(持明院統)の命日(新暦12月2日)詳細
1477年(文明9)大内軍が京から撤収し、応仁の乱が終結する(新暦12月16日)詳細
1890年(明治23)浅草に12階建ての凌雲閣が完成し、日本初の電動式エレベーターが一般公開される詳細
1911年(明治44)新派俳優・興行師川上音二郎の命日詳細
1944年(昭和19)太平洋戦争末期の本土決戦に備えて、松代大本営が着工される 詳細
1955年(昭和30)下中弥三郎・茅誠司・平塚らいてう・湯川秀樹らによって、世界平和アピール七人委員会が結成される詳細
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 今日は、平安時代前期の794年(延暦13)に、桓武天皇が山背国を山城国と改め、新京を「平安京」と称する詔を発布した日ですが、新暦では12月4日となります。
 平安京(へいあんきょう)は、桓武天皇の794年(延暦13)の平安遷都から1869年(明治2)の東京遷都まで、1075年ほど(内福原遷都の期間あり)都の置かれたところでした。山背国(山城国)葛野郡宇太村(現在の京都府京都市)に造営され、唐の長安をモデルとして、規模は南北38町 (約5.31km) 、東西32町 (約4.57km) で、北部中央に宮城(大内裏)が設けられています。
 朱雀(すざく)大路を中心に左京と右京に分かれ、各京は9条4坊に分けられ、さらにこれを小路によって碁盤の目のように整然と区画していました。しかし、右京南部は低湿地のため発展せず、開発が遅れ、左京に都の中心が移ります。
 その後、1180年代の鎌倉幕府の成立とともに政治都市としての生命を失い、1467年からの応仁・文明の乱で大部分を焼失しました。しかし、1580年代からの豊臣秀吉による新都市建設によって、今日の京都へと発展しています。

〇平安遷都(へいあんせんと)とは?

 奈良時代末期の混乱した政治状況の下で、桓武天皇は遷都を計画し、最初は、784年(延暦3)に平城京から長岡京を造営して遷都しましたが、793年(延暦12年1月)の和気清麻呂の建議もあり、翌年10月22日に再遷都し、長岡京から山背国葛野郡宇太村の新京に移ったものです。同年11月8日に、桓武天皇は詔を発して「平安京」と命名し、山背国は山城国と改められました。
 造営にあたり、まず藤原小黒麻呂らに新京の地相調査を命じ、その報告をまって早速造都に着手、唐の都長安を模し、規模は平城京より大きく、南北38町(5.31km)、東西32町(4.57km)に及びます。遷都の理由は、寺院勢力が集まる大和国から脱しての政治と仏教の分断、人心の刷新などとされてきました。遷都の時点では、宮殿が出来た程度と考えられ、造都工事は大規模な蝦夷征討と並行して継続したため民力は疲弊、事業が行き詰まり、805年(延暦24)に藤原緒嗣(おつぐ)の建議で、造都・征夷の二大事業は中止されています。
 尚、平安遷都1100年を記念して、1895年(明治28)に創建された平安神宮の例祭・時代祭は、10月22日に開催されてきました。

〇『日本紀略』の平安遷都にかかわる部分の抜粋

<原文>

(延暦十二年の条)
正月甲午。遣大納言藤原小黒麻呂・左大辨紀古佐美等、相山背国葛野郡宇太村之地。為遷都也。

(延暦十三年の条)
冬十月辛酉。車駕遷于新京。
壬戌。天皇自南京、遷北京。
丁卯。遷都詔曰。云云、葛野乃大宮地者、山川毛麗久、四方国乃百姓毛参出来事毛便之弖、云云。
十一月丁丑。詔。云々。山勢実合前聞。云々。此国山河襟帯、自然作城。因斯形勝、可制新号。宜改山背国、為山城国。又子来之民、謳歌之輩、異口同辞、号曰平安京。又近江国滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下。可追昔号改称大津。云々。

 ※縦書きの原文を横書きにし、旧字を新字にして句読点を付してあります。

<読み下し文>

(延暦十二年の条)
正月甲午、大納言藤原小黒麿、左大弁紀古佐美等を遣わし、山背国葛野郡宇太村[1]の地を相せしむ[2]。都を遷さむが為なり。

(延暦十三年の条)
冬十月辛酉。車駕[3]にて新京に遷る。
壬戌。天皇は南の京[4]より、北の京へ遷る。
丁卯。……都を遷す。詔して曰く、「云云。葛野の大宮地は、山川も麗しく、四方の国の百姓も參出で來る事も便り[5]にして、云云。」
十一月丁丑。詔したまわく、云々。「山勢[6]実に前聞[7]に合ふ」、云々。「此の国は山河襟帯[8]し、自然に城をなす[9]。此の形勝[10]に因りて、新号[11]を制むべし。よろしく山背国を改めて、山城国と為すべし」と、また子来の民[12]、謳歌の輩[13]、異口同辞[14]に、号して平安京と曰ふ。また、「近江国滋賀郡古津は、先帝[15]の旧都[16]にして、今輦下[17]に接す、昔の号を追いて、改めて大津と称すべし、云々。」

【注釈】

[1]山背国葛野郡宇太村:やましろこくかどのぐんうたむら=現在の京都府京都市上京区辺り。
[2]相せしむ:そうせしむ=物事の姿・ありさまなどを見て、そのよしあし・吉凶などを判断させること。
[3]車駕:しゃが=天子が行幸の際に乗るくるま。
[4]南の京:みなみのきょう=奈良の平城京のこと。
[5]便り:たより=都合のよいこと。便利なこと。
[6]山勢:さんせい=山の姿。山のようす。山容。
[7]前聞:ぜんぶん=以前に聞いた事柄。昔からのいいつたえ、知識。
[8]山河襟帯:さんがきんたい=周囲に山が聳え立ち、河が帯のように巡ること。
[9]自然に城をなす:しぜんにしろをなす=自然の要害(城)を形成すること。
[10]形勝:けいしょう=敵を防ぐのに都合のよい地勢・地形。要害。
[11]新号:しんごう=新しい名称。
[12]子来の民:しらいのたみ=天使の徳を慕って集まってくる民。
[13]謳歌の輩:おうかのともがら=天使の徳を褒めたたえる人々。
[14]異口同辞:いくどうじ=口をそろえて。
[15]先帝:せんてい=先の天皇。ここでは桓武天皇の曽祖父である天智天皇のこと。
[16]旧都:きゅうと=昔の都。ここでは大津京のこと。
[17]輦下:れんか=天皇のおひざもと。都の意味。

<現代語訳>

(延暦12年の条)
1月15日、大納言藤原小黒麿、左大弁紀古佐美等を派遣して、山背国葛野郡宇太村の地を調査させた。都を遷そうとする為である。

(延暦13年の条)
冬の10月22日。行幸の際に乗る車で新しい京に遷る。
10月23日。天皇は南の京(平城京)より、北の京へ遷都された。
10月28日。……都を遷す。(桓武天皇が)詔して言うことには、「次のごとく、葛野郡大宮の地は、山川の自然も美しく、諸国の人々がやって来るにも便利な所であると、しかじか。」
11月8日の(桓武天皇の)詔には、次のごとく、「山背国の山容は以前に聞いていたとおりである。」また次のごとく、「此の国は山河が周りを取り囲み、自然の要害を形成している。この地勢に因んで、新しい名前を制定する。すなわち、“山背国”を改めて“山城国”と書き表すことにしよう。」と、また、天皇の徳を慕って集まった人々やそれを褒めたたえる人々が、口をそろえて、“平安京”と呼んでいる。また、「近江国滋賀郡古津は、先帝(天智天皇)の旧都(大津京)であり、今新都に隣接している、昔の名称を使って、改めて大津と称することと、しかじか。」

〇『日本後紀』の平安京造営の停止の部分の抜粋

<原文>

(延暦二十四年の条)
十二月壬寅。……是日。中納言近衞大將從三位藤原朝臣内麻呂侍殿上。有勅。令參議右衞士督從四位下藤原朝臣緒嗣。與參議左大辨正四位下菅野朝臣眞道相論天下徳政。于時緒嗣議云。方今天下所苦。軍事與造作也。停此兩事。百姓安之。眞道□執異議。不肯聽焉。帝善緒嗣議。即從停廢。有識聞之。莫不感歎。

<読み下し文>

(延暦二十四年の条)
十二月壬寅。……是の日、中納言近衛大将従三位藤原朝臣内麻呂、殿上[18]に侍す。勅有りて、参議右衛士督従四位下藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下菅野朝臣真道とをして、天下の徳政[19]を相論[20]せしむ。時に緒嗣、議して云はく、「方今、天下の苦しむ所は軍事[21]と造作[22]と也。此の両事を停めば百姓安んぜむ」と。真道、異議を確執[23]して肯へて聴かず。帝[24]、緒嗣の議を善しとし、即ち停廃[25]に従ふ。

【注釈】

[18]殿上:でんじょう=内裏の殿舎。
[19]徳政:とくせい=徳のある政治。免税・大赦などの目立った恩恵を施す政治。仁政。
[20]相論:そうろん=自己の言い分を主張しあうこと。言い争うこと。議論すること。
[21]軍事:ぐんじ=蝦夷征討を指す。 
[22]造作:ぞうさく=平安京造営事業のこと。 
[23]確執:かくしつ=自分の意見を強く主張し、譲らないこと。
[24]帝:みかど=天皇。この場合は桓武天皇のこと。
[25]停廃:ちょうはい=予定していた事柄をとりやめること。中止。

<現代語訳>

(延暦24年の条)
12月7日。……この日、中納言近衛大将従三位の藤原朝臣内麻呂が、内裏の殿舎に待していた。桓武天皇の命令を受けて、参議右衛士督従四位下の藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下の菅野朝臣真道が、徳のある政治について議論することになった。この時に、緒嗣は、「現在、天下の民衆が苦しんでいる原因は、蝦夷征討と平安京造営事業である。この二つの事業を停止すれば民衆は安んじるでしょう。」と建議した。真道は、異議を強く主張し、同意しなかったが、桓武天皇は、緒嗣の建議を善しとして、二事業は中止されることとなった。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1629年(寛永6)幕府の「勅許の紫衣」の無視・反対(紫衣事件)等で、後水尾天皇が退位する(新暦12月22日)詳細
1892年(明治25)文芸評論家・推理小説家・翻訳家平林初之輔の誕生日詳細
1894年(明治27)戯作者・新聞記者仮名垣魯文の命日詳細
1895年(明治28)ロシア・フランス・ドイツの勧告(三国干渉)により、清国との間で「奉天半島還付条約」に調印する詳細
1896年(明治29)神宮司庁蔵版『古事類苑』の刊行が開始される詳細
1933年(昭和8)東京の府中町に東京競馬場(東京競馬倶楽部運営)が開場する詳細
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 今日は、奈良時代の延暦元年に、桓武天皇が国司交替に際しての不正を正し、解由状の徹底を命じた日ですが、新暦では783年1月11日となります。
 解由状(げゆじょう)は、官人の任期満了に際して作成された文書で、前任者の任期中、過怠のなかったことを新任者が証して前任者に渡し、これを中央(太政官)に提出するものでした。特に、国司の場合は、120日以内に解由状が新任国司から前任者に渡され、これが太政官に上申されて承認を受けることで交替が完了するとされています。
 解由状がいつ頃より行われたかは不明ですが、遅くとも731年(天平3)まではさかのぼるとされ、当初は財政監察の意図から国司交代時のみに発給されてきましたが、解由状がないままに、交替する例が目立つようになり、783年(延暦元年12月4日)に桓武天皇が、「これ以後交替する国司は120日以内に解由を得ることが出来なければ、位禄と食封を剥奪せよ。」と厳命しました。さらに、797年(延暦16)頃に、国司の監察強化のために解由状を監察する目的で、勘解由使が太政官の内局として設置されています。809年(延暦28)以降は官吏全般に解由制度が適用されるようになりました。
 以下に、『続日本紀』巻第三十七(桓武紀二)延暦元年12月4日の条の解由状の徹底を命じた部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇勘解由使(かげゆし)とは?

 律令制下の令外官の一つで、国司などの官吏が交代するとき、新任者が無事に事務を引き継いだことを証明する解由状(げゆじょう)の審査にあたった職です。国司交替の際に、前任者が新任者に出す事務引継ぎの文書に不正が多く,新任者が前任者の不正のなかったことを証明する解由状の発給に関して紛争がふえたため、その対策として設置されました。
 その役所は太政官の北西隅、中務省の南にあり、職員は長官(かみ)1人、次官(すけ)2人、判官(じょう)3人、主典(さかん)3人の四等官制をとっていて、その下に史生(ししょう)、使部(しぶ)などが所属しています。平安時代初期の797年(延暦16)頃、桓武天皇がこれをを設置してその処理にあたらせ、翌798年(延暦19)には使職員の待遇を定めましたたが、806年(大同元)に至って、平城天皇が一時廃止しました。
 その後、824年(天長元)に淳和天皇によって復活され、長官一人、次官二人以下の職員が定められ、これ以降は常置の官となります。857年(天安元)に長官は従四位下相当官となって存続したものの、鎌倉時代以後、律令国家機構が衰えると共に有名無実化しました。

〇『続日本紀』巻第三十七(桓武紀二)延暦元年12月4日の条

<原文>

壬子。詔曰。公廨之設。先補欠負。次割国儲。然後作差処分。如聞。諸国曾不遵行。所有公廨。且以費用。至進税帳。詐注未納。因茲。前人滞於解由。後人煩於受領。於事商量。甚乖道理。又其四位已上者。冠蓋既貴。栄禄亦重。授以兼国。佇聞善政。今乃苟貪公廨。徴求以甚。至于遷替。多無解由。如此不責。豈曰皇憲。自今以後。遷替国司。満百廿日。未得解由者。宜奪位禄食封以懲将来。
 <読み下し文>

壬子[1]。詔して日く、「公廨[2]の設けは、先ず欠負[3]を補い、次に国儲[4]を割き、然して後差を作して処分す。聞くならく、諸国曽て遵行[5]せず、あらゆる公廨[2]且く以て費用し、税帳[6]を進むるに至りて詐りて未納を注すと。これに因りて、前人解由状[7]に滞りて後人受領[8]に煩えり[9]。事において商量[10]するに、甚だ道理に乖けり[11]。又その四位以上の者は、冠蓋[12]すでに貴く、栄禄[13]また重く、授くるに兼国[14]を以てし、聞を善政に佇つ。今すなわち、苟くも公廨[2]を貪りて懲し求むること甚だし。遷替[15]に至りては多くは解由[16]なし。かくの如くにして責めずんば、あに皇憲[17]といわんや。今より以後、遷替[15]の国司[18]、百廿日に満ちていまだ解由[16]を得ざる者は、よろしく位禄[19]・食封[20]を奪い、もって将来を懲らすべし。」と。

【注釈】

[1]壬子:じんし=十干と十二支を組み合わせたものの第四九番目。みずのえね。ここでは12月4日のこと。
[2]公廨:くがい=公廨稲のこと。令制で、諸国で公田賃租の地子稲や、正税の一部をさいて出挙(すいこ)して得た利を官司の入用や官人の俸給にあてた稲。
[3]欠負:かんぷ=所定の数、量に満たないこと。租税未納などにいう。
[4]国儲:こくちょ=令制で、臨時の用に備えて諸国に貯えておいた官稲。
[5]遵行:じゅんこう=命令・きまりなどに従って行うこと。
[6]税帳:ぜいちょう=令制で、諸国の一年間の正税の出納を記入した帳簿。
[7]解由状:げゆじょう=官人の任期満了に際して作成された文書で、前任者の任期中、過怠のなかったことを新任者が証して前任者に渡し、これを中央(太政官)に提出するもの。
[8]受領:ずりょう=新任の国司が前任者から事務を継承すること。
[9]煩えり:わずらえり=悩ます。
[10]商量:しょうりょう=考えはかること。
[11]乖けり:そむけり=離れている。背いている。もとっている。
[12]冠蓋:かんがい=冠と馬車などのおおい。転じて、権勢のある人。貴人。
[13]栄禄:えいろく=栄誉ある官職と俸祿。光栄をもたらす高い地位と、それに伴う秩祿。
[14]兼国:けんこく=本来の官職のほかに、国司の官を兼任すること。
[15]遷替:せんたい=任期が満ちて、他の、一般には上級の官職に転じること。
[16]解由:げゆ=令制で、任期満了の際、交代の事務引き継ぎをすること。また、引継完了を証する文書。
[17]皇憲:こうけん=天皇・朝廷の支配下にあるものが従うべきであるとされる法。
[18]国司:こくし=令制で、中央から派遣され、諸国の政務をつかさどった地方官。
[19]位禄:いろく=令制において、位階に応じて四位・五位の官人に与えられた給与。
[20]食封:じきふ=令制で、皇族・高位高官者・社寺などに禄として封戸(ふこ)を与えた制度。

<現代語訳>

4日。詔して言うことには、「公廨稲の制度は、まず租税未納などを補い、次に国に貯えておく官稲に割り当て、そして後に残った差分について処分するものである。聞くところによると、諸国ではあえて命令に従って行なわず、すべての公廨稲はひとまず消費して、正税の出納を記入した帳簿を提出する際に至って、虚偽報告して未納と記していると。これによって、前任国司の過怠のなかったことを示す引継完了を証する文書を得るのに手間取り、後任国司の事務継承を悩ましている。この事態をよく考えてみるに、とても道理に背いている。また、その四位以上の者は、権勢は貴く、俸禄も多く、授ける時に本来の官職の他に、国司を兼任させてきたが、善政を行ってきたと聞いてきた。ところが、今ではいやしくも公廨稲を貪って、利益を得ようとしていることが甚だしい。国司の交替に至っては、多くは引継完了を証する文書がない。このような状態を放置して責め正さなければ、どうして従うべきであるとされる国法が存在すると言えるだろうか。これより後は、交替する国司で、120日を経過してもまだ引継完了を証する文書を得られない者は、よろしく位禄・食封を剥奪し、もって将来の懲らしめとせよ。」と。

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 今日は、奈良時代の785年(延暦4)に、長岡京造営中に藤原種継暗殺事件が起きた日ですが、新暦では10月30日となります。
 藤原種継(ふじわら の たねつぐ)は、奈良時代の737年(天平9)に、奈良平城京で、式家藤原清成の長男(母は秦朝元の娘)として生まれたとされてきました。称徳天皇の時代の766年(天平神護2)に、従六位上から五階特進して従五位下へ叙爵し、768年(神護景雲2)には、美作守となります。
 叔父百川らの尽力によって光仁天皇が即位すると、774年(宝亀5)に従五位上、翌年に近衛少将となり、777年(宝亀8)には、正五位下に昇叙しました。その後も順調に昇進し、780年(宝亀11)に正五位上、781年(天応元)に従四位下、781年(天応元年)には従四位上となります。
 782年(延暦元年)に桓武天皇が即位すると、氷上川継の乱や三方王による天皇呪詛事件が起きましたが、その解決の功により、桓武天皇の信任を得て、参議に昇進しました。782年(延暦元)に正四位下となり、翌年には、右大臣・藤原田麻呂が没して種継が式家の代表になります。
 それからも、783年(延暦2)に従三位、式部卿兼近江按察使となり、翌年には中納言にまで昇りました。784年(延暦3)に種継が中心となって、山背国乙訓郡長岡の地への遷都を建議、桓武天皇の勅命で長岡の地を視察後、造長岡宮使となります。
 造営工事を進捗させ、11月には桓武天皇が平城宮から長岡宮へ移り、その功で正三位にまでなりました。しかし、皇太子早良親王と不和になり、遷都反対派の大伴継人(つぐひと)らに妬まれるようになります。
 そして、785年(延暦4)の天皇の奈良行幸の留守、9月23日に造営工事監督中に、春宮坊の役人や大伴氏の陰謀により、矢を射かけられ(藤原種継暗殺事件)、翌日数え年49歳で亡くなりました。その結果、大伴・佐伯氏ら数十人が処罰され、早良親王が皇太子を廃され、平安京への再遷都の一因になったとされています。
 尚、没後正一位・左大臣が追贈され、809年(大同4)には、太政大臣も追贈されました。
 以下に、藤原種継暗殺事件のことを記した『続日本紀』巻第三十八(桓武紀三)延暦4年の条の該当部分を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』巻第三十八(桓武紀三)延暦4年(785年)の条

<原文>

乙夘。中納言正三位兼式部卿藤原朝臣種繼被賊射薨。
丙辰。車駕至自平城。捕獲大伴繼人。同竹良并黨与數十人。推鞫之。並皆承伏。依法推斷。或斬或流。其種繼參議式部卿兼大宰帥正三位宇合之孫也。神護二年。授從五位下。除美作守。稍迁。寳龜末。補左京大夫兼下総守。俄加從四位下。遷佐衛士督兼近江按察使。延暦初。授從三位。拜中納言。兼式部卿。三年授正三位。天皇甚委任之。中外之事皆取决焉。初首建議。遷都長岡。宮室草創。百官未就。匠手役夫。日夜兼作。至於行幸平城。太子及右大臣藤原朝臣是公。中納言種繼等。並爲留守。照炬催検。燭下被傷。明日薨於第。時年卌九。天皇甚悼惜之。詔贈正一位左大臣。

<読み下し文>

乙夘[1]。中納言正三位兼式部卿藤原朝臣種継[2]、賊に射られて薨しぬ[3]。
丙辰[4]。車駕[5]、平城[6]より至りたまふ。大伴継人[7]、同じく竹良[8]并せて党与数十人を捕獲して推鞫[9]するに、並に皆承伏[10]す。法に依りて推断[11]して、或いは斬し或いは流す[12]。その種継は参議式部卿兼大宰帥正三位宇合の孫なり。神護二年、従五位下を授けられ、美作守に除せらる。稍遷りて[13]、宝亀の末[14]に左京大夫兼下総守に補せられ、俄に[15]従四位下を加えられ、佐衛士督兼近江按察使に遷さる。延暦の初[16]、従三位を授けられ、中納言を拝し、式部卿を兼ぬ。三年、正三位を授けらる。天皇、甚だこれを委任して[17]、中外[18]の事皆決を取る。初め、首として議を建てて都を長岡に遷さむ[19]とす。宮室[20]草創[21]して、百官[22]未だ就らず、匠手[23]・役夫[24]、日夜に兼作す[25]。平城[6]に行幸[26]したまふに至りて、太子[27]と右大臣藤原朝臣是公[28]、中納言種継らと並に留守と為り。灯りを照らして催し検るに、燭下[29]に傷を被ひて、明日第[30]に薨しぬ[3]。時に年四十九。天皇、甚だ悼み[31]惜しみたまひて、詔して[32]正一位左大臣を贈りたまふ。

【注釈】

[1]乙夘:きのとう=干支の組み合わせの52番目で、この場合は9月23日のこと。
[2]藤原朝臣種繼:ふじわらのあそんたねつぐ=中納言正三位造長岡宮使の藤原種継のこと。
[3]薨しぬ:こうしぬ=死んでしまった。亡くなってしまった。
[4]丙辰:ひのえたつ=干支の組み合わせの53番目で、この場合は9月24日のこと。
[5]車駕:しゃが=天皇が行幸するときに乗る車。また、その行幸。
[6]平城:へいじょう=奈良の平城京のこと、この時桓武天皇が行幸していた。
[7]大伴継人:おおとものつぐひと=奈良時代の官人。左大弁古麻呂の子。
[8]竹良:たけら=大伴竹良のこと、大伴継人の兄弟。
[9]推鞫:すいきく=罪人などを取り調べること。吟味。推問。訊問。
[10]承伏:しょうふく=承知して従うこと。納得して従うこと。また、犯した罪を認め判決に従うこと。
[11]推断:すいだん=推定。
[12]流す:ながす=流罪に処する。
[13]稍遷りて:ややうつりて=少しの間移り変わって。しばらく変遷して。しばらくたって。
[14]宝亀の末:ほうきのすえ=宝亀年間(770~782年)の終わり頃。
[15]俄に:にわかに=突然に。急に。すぐに。
[16]延暦の初:えにりゃくのはじめ=延暦年間(782~806年)の初め頃。
[17]委任して:いにんして=仕事などを、他人にまかせて。委託して。
[18]中外:ちゅうがい=国内と国外。内政と外交。
[19]都を長岡に遷さむ:みやこをながおかにうつさむ=平城京から長岡京へ遷都すること。
[20]宮室:きゅうしつ=天皇の住む宮殿。
[21]草創:そうそう=創始。創業。
[22]百官:ひゃっかん=数多くの官。もろもろの役人。中央、地方の多くの役人。またぱ役所。
[23]匠手:しょうしゅ=中務省の内匠寮に属し、殿舎の修繕・調度の製作などにたずさわった下級の技術官人。
[24]役夫:えきふ=古代、徭役 (ようえき) に従事した人。
[25]日夜に兼作す:にちやにけんさくす=昼夜を問わず工事する。日夜ぶっ通しで工事する。
[26]行幸:ぎょうこう=天皇が皇居を出て、よそへ行くこと。
[27]太子:たいし=皇太子の早良親王のこと。
[28]藤原朝臣是公:ふじわらのあそんこれきみ=奈良時代の貴族。藤原武智麻呂の第4子乙麻呂の長男。
[29]燭下:しょくか=灯火の下。
[30]第:だい=りっぱな家。やしき。邸宅。
[31]悼み:いたみ=人の死を悲しみ嘆くこと。
[32]詔して:しょうして=天皇の命令を直接伝える文書によって。

<現代語訳>

(延暦4年)9月23日。中納言・正三位で式部卿を兼ねる藤原朝臣種継は、賊に射られて亡くなった。
9月24日。天皇が行幸するときに乗る車は、平城京より到着した。大伴継人、大伴竹良ならびに徒党数10人を捕獲して取り調べたところ、そろって皆が犯した罪を認め判決に従った。法によって裁定して、あるいは斬首刑あるいは流刑とした。その種継は参議・式部卿で大宰帥を兼ねた正三位の藤原朝臣宇合の孫である。天平神護2年(766年)に従五位下を授けられ、美作守に除せられた。しばらくたって、宝亀年間(770~782年)の終わり頃に左京大夫兼下総守に任じられ、すぐに従四位下を加えられ、佐衛士督兼近江按察使に転任した。延暦年間(782~806年)の初め頃、従三位を授けられ、中納言を拝命し、式部卿を兼ねた。延暦3年(784年)に、正三位を授けられた。天皇は、とてもこれを信頼して任せ、内政と外交の事をみな決定した。初め、種継がリーダーとして建議をし、平城京から長岡京へ遷都しようとした。天皇の住む宮殿を創建したものの、諸々の役所はまだ出来上がらず、技術官人・徭役従事者は、昼夜を問わず工事をした。天皇が平城京に行幸することになり、皇太子の早良親王と右大臣藤原朝臣是公、中納言種継らがともに留守官となった。夜も灯りを照らして造営工事を検分していたところ、灯火の下で傷を負い、翌日邸宅において亡くなった。その時49歳で、天皇は、とても死を悲しみ嘆き惜しんで、勅命によって正一位・左大臣を追贈した。

☆藤原種継関係略年表(日付は旧暦です)

・737年(天平9) 奈良平城京で、式家藤原清成の子(母は秦朝元の娘)として生まれる
・766年(天平神護2年11月5日) 従五位下となる
・768年(神護景雲2年2月18日) 美作守となる
・771年(宝亀2年閏3月1日) 兼紀伊守となる
・771年(宝亀2年9月16日) 兼山背守となる
・774年(宝亀5年1月7日) 従五位上となる
・775年(宝亀6年9月27日) 近衛少将となる
・777年(宝亀8年1月10日) 正五位下となる
・778年(宝亀9年2月23日) 左京大夫となる
・780年(宝亀11年3月17日) 兼下総守となる
・780年(宝亀11年12月11日) 正五位上となる
・781年(天応元年1月16日) 従四位下となる
・781年(天応元年4月15日) 従四位上となる
・781年(天応元年5月25日) 兼近江守となる
・781年(天応元年7月10日) 左衛士督となる
・782年(延暦元年閏1月) 氷上川継の乱が起きる
・782年(延暦元年3月) 三方王による天皇呪詛事件が起きる
・782年(延暦元年3月26日) 参議となる
・782年(延暦元年4月) 桓武天皇の詔により造宮省が廃止される
・782年(延暦元年6月21日) 正四位下となる
・783年(延暦2年3月) 右大臣・藤原田麻呂が没して種継が式家の代表になる
・783年(延暦2年4月18日) 従三位となる
・783年(延暦2年7月25日) 式部卿兼近江按察使となる
・784年(延暦3年1月16日) 中納言となる
・784年(延暦3年) 種継が中心となって、山背国乙訓郡長岡の地への遷都を建議する
・784年(延暦3年5月16日) 桓武天皇の勅命で長岡の地を視察する 
・784年(延暦3年6月10日) 造長岡宮使となる
・784年(延暦3年11月11日) 桓武天皇が平城宮から長岡宮へ移る 
・784年(延暦3年12月2日) 正三位となる
・785年(延暦4年9月23日) 長岡京造宮現場で矢を射かけられる(藤原種継暗殺事件)
・785年(延暦4年9月24日) 矢傷がもとで数え年49歳で亡くなり、正一位・左大臣が追贈される
・809年(大同4年4月12日) 太政大臣が追贈される

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 今日は、794年(延暦13)に平安遷都され、桓武天皇が長岡京から山背国の新京に入京した日(平安遷都の日)ですが、新暦では11月22日となります。
 平安遷都(へいあんせんと)は、奈良時代末期の混乱した政治状況の下で、桓武天皇は遷都を計画し、最初は、784年(延暦3)に平城京から長岡京を造営して遷都しましたが、793年(延暦12年1月)の和気清麻呂の建議もあり、翌年10月22日に再遷都し、長岡京から山背国葛野郡宇太村の新京に移ったものでした。同年11月8日に、桓武天皇は詔を発して「平安京」と命名し、山背国は山城国と改められます。
 造営にあたり、まず藤原小黒麻呂らに新京の地相調査を命じ、その報告をまって早速造都に着手、唐の都長安を模し、規模は平城京より大きく、南北38町(5.31km),東西32町(4.57km)に及びました。遷都の理由は、寺院勢力が集まる大和国から脱しての政治と仏教の分断、人心の刷新などとされています。
 遷都の時点では、宮殿が出来た程度と考えられ、造都工事は大規模な蝦夷征討と並行して継続したため民力は疲弊、事業が行き詰まり、805年(延暦24)に藤原緒嗣(おつぐ)の建議で、造都・征夷の二大事業は中止されました。
 尚、平安遷都1100年を記念して、1895年(明治28)に創建された平安神宮の例祭・時代祭は、10月22日に開催されています。
 以下に、『日本紀略』の平安遷都にかかわる部分と『日本後紀』の平安京造営の停止の部分を抜粋しておきましたので、ご参照下さい。

〇平安京とは?

 桓武天皇の794年(延暦13)の平安遷都から1869年(明治2)の東京遷都まで、1075年ほど(内福原遷都の期間あり)都の置かれたところです。山背国(山城国)葛野郡宇太村(現在の京都府京都市)に造営され、唐の長安をモデルとして、規模は南北38町 (約5.31km) 、東西32町 (約4.57km) で、北部中央に宮城(大内裏)が設けられました。
 朱雀(すざく)大路を中心に左京と右京に分かれ、各京は9条4坊に分けられ、さらにこれを小路によって碁盤の目のように整然と区画しています。しかし、右京南部は低湿地のため発展せず、開発が遅れ、左京に都の中心が移りました。
 その後、1180年代の鎌倉幕府の成立とともに政治都市としての生命を失い、1467年からの応仁・文明の乱で大部分を焼失します。しかし、1580年代からの豊臣秀吉による新都市建設によって、今日の京都へと発展しました。

〇『日本紀略』の平安遷都にかかわる部分の抜粋

<原文>

(延暦十二年の条)
正月甲午。遣大納言藤原小黒麻呂・左大辨紀古佐美等、相山背国葛野郡宇太村之地。為遷都也。

(延暦十三年の条)
冬十月辛酉。車駕遷于新京。
壬戌。天皇自南京、遷北京。
丁卯。遷都詔曰。云云、葛野乃大宮地者、山川毛麗久、四方国乃百姓毛参出来事毛便之弖、云云。
十一月丁丑。詔。云々。山勢実合前聞。云々。此国山河襟帯、自然作城。因斯形勝、可制新号。宜改山背国、為山城国。又子来之民、謳歌之輩、異口同辞、号曰平安京。又近江国滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下。可追昔号改称大津。云々。

 ※縦書きの原文を横書きにし、旧字を新字にして句読点を付してあります。

<読み下し文>

(延暦十二年の条)
正月甲午、大納言藤原小黒麿、左大弁紀古佐美等を遣わし、山背国葛野郡宇太村[1]の地を相せしむ[2]。都を遷さむが為なり。

(延暦十三年の条)
冬十月辛酉。車駕[3]にて新京に遷る。
壬戌。天皇は南の京[4]より、北の京へ遷る。
丁卯。……都を遷す。詔して曰く、「云云。葛野の大宮地は、山川も麗しく、四方の国の百姓も參出で來る事も便り[5]にして、云云。」
十一月丁丑。詔したまわく、云々。「山勢[6]実に前聞[7]に合ふ」、云々。「此の国は山河襟帯[8]し、自然に城をなす[9]。此の形勝[10]に因りて、新号[11]を制むべし。よろしく山背国を改めて、山城国と為すべし」と、また子来の民[12]、謳歌の輩[13]、異口同辞[14]に、号して平安京と曰ふ。また、「近江国滋賀郡古津は、先帝[15]の旧都[16]にして、今輦下[17]に接す、昔の号を追いて、改めて大津と称すべし、云々。」

【注釈】

[1]山背国葛野郡宇太村:やましろこくかどのぐんうたむら=現在の京都府京都市上京区辺り。
[2]相せしむ:そうせしむ=物事の姿・ありさまなどを見て、そのよしあし・吉凶などを判断させること。
[3]車駕:しゃが=天子が行幸の際に乗るくるま。
[4]南の京:みなみのきょう=奈良の平城京のこと。
[5]便り:たより=都合のよいこと。便利なこと。
[6]山勢:さんせい=山の姿。山のようす。山容。
[7]前聞:ぜんぶん=以前に聞いた事柄。昔からのいいつたえ、知識。
[8]山河襟帯:さんがきんたい=周囲に山が聳え立ち、河が帯のように巡ること。
[9]自然に城をなす:しぜんにしろをなす=自然の要害(城)を形成すること。
[10]形勝:けいしょう=敵を防ぐのに都合のよい地勢・地形。要害。
[11]新号:しんごう=新しい名称。
[12]子来の民:しらいのたみ=天使の徳を慕って集まってくる民。
[13]謳歌の輩:おうかのともがら=天使の徳を褒めたたえる人々。
[14]異口同辞:いくどうじ=口をそろえて。
[15]先帝:せんてい=先の天皇。ここでは桓武天皇の曽祖父である天智天皇のこと。
[16]旧都:きゅうと=昔の都。ここでは大津京のこと。
[17]輦下:れんか=天皇のおひざもと。都の意味。

<現代語訳>

(延暦12年の条)
1月15日、大納言藤原小黒麿、左大弁紀古佐美等を派遣して、山背国葛野郡宇太村の地を調査させた。都を遷そうとする為である。

(延暦13年の条)
冬の10月22日。行幸の際に乗る車で新しい京に遷る。
10月23日。天皇は南の京(平城京)より、北の京へ遷都された。
10月28日。……都を遷す。(桓武天皇が)詔して言うことには、「次のごとく、葛野郡大宮の地は、山川の自然も美しく、諸国の人々がやって来るにも便利な所であると、しかじか。」
11月8日の(桓武天皇の)詔には、次のごとく、「山背国の山容は以前に聞いていたとおりである。」また次のごとく、「此の国は山河が周りを取り囲み、自然の要害を形成している。この地勢に因んで、新しい名前を制定する。すなわち、“山背国”を改めて“山城国”と書き表すことにしよう。」と、また、天皇の徳を慕って集まった人々やそれを褒めたたえる人々が、口をそろえて、“平安京”と呼んでいる。また、「近江国滋賀郡古津は、先帝(天智天皇)の旧都(大津京)であり、今新都に隣接している、昔の名称を使って、改めて大津と称することと、しかじか。」


〇『日本後紀』の平安京造営の停止の部分の抜粋

<原文>

(延暦二十四年の条)
十二月壬寅。……是日。中納言近衞大將從三位藤原朝臣内麻呂侍殿上。有勅。令參議右衞士督從四位下藤原朝臣緒嗣。與參議左大辨正四位下菅野朝臣眞道相論天下徳政。于時緒嗣議云。方今天下所苦。軍事與造作也。停此兩事。百姓安之。眞道□執異議。不肯聽焉。帝善緒嗣議。即從停廢。有識聞之。莫不感歎。

<読み下し文>

(延暦二十四年の条)
十二月壬寅。……是の日、中納言近衛大将従三位藤原朝臣内麻呂、殿上[18]に侍す。勅有りて、参議右衛士督従四位下藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下菅野朝臣真道とをして、天下の徳政[19]を相論[20]せしむ。時に緒嗣、議して云はく、「方今、天下の苦しむ所は軍事[21]と造作[22]と也。此の両事を停めば百姓安んぜむ」と。真道、異議を確執[23]して肯へて聴かず。帝[24]、緒嗣の議を善しとし、即ち停廃[25]に従ふ。

【注釈】

[18]殿上:でんじょう=内裏の殿舎。
[19]徳政:とくせい=徳のある政治。免税・大赦などの目立った恩恵を施す政治。仁政。
[20]相論:そうろん=自己の言い分を主張しあうこと。言い争うこと。議論すること。
[21]軍事:ぐんじ=蝦夷征討を指す。 
[22]造作:ぞうさく=平安京造営事業のこと。 
[23]確執:かくしつ=自分の意見を強く主張し、譲らないこと。
[24]帝:みかど=天皇。この場合は桓武天皇のこと。
[25]停廃:ちょうはい=予定していた事柄をとりやめること。中止。

<現代語訳>

(延暦24年の条)
12月7日。……この日、中納言近衛大将従三位の藤原朝臣内麻呂が、内裏の殿舎に待していた。桓武天皇の命令を受けて、参議右衛士督従四位下の藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下の菅野朝臣真道が、徳のある政治について議論することになった。この時に、緒嗣は、「現在、天下の民衆が苦しんでいる原因は、蝦夷征討と平安京造営事業である。この二つの事業を停止すれば民衆は安んじるでしょう。」と建議した。真道は、異議を強く主張し、同意しなかったが、桓武天皇は、緒嗣の建議を善しとして、二事業は中止されることとなった。

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