ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:柴田勝家

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 今日は、安土桃山時代の1557年(天正5)に、手取川の戦いで、上杉謙信軍が織田信長軍に大勝した日ですが、新暦では11月3日となります。
 手取川の戦い(てどりがわのたたかい)は、上杉謙信軍と織田信長軍による加賀国・手取川周辺(現在の石川県白山市湊町)で起きた戦いのことでした。この当時、越前国北ノ庄(現在の福井県福井市)を統治していたのは、織田信長の重臣・柴田勝家でしたが、1576年(天正4)に、勝家は加賀国(現在の石川県)へ「加賀一向一揆衆」の鎮圧のため侵攻を開始します。
 この動きに呼応して、上杉謙信は、織田軍を迎撃するため、越中国から進軍しました。能登国と越中国を結ぶ要所にある七尾城主・畠山氏の重臣だった長続連は、1557年(天正5)閏7月に、使者として三男長連龍をを安土城に派遣して織田信長に援軍を要請、信長は柴田勝家を総大将とする4万の軍勢の派遣を決定し、8月8日に織田軍は北国に向けて出陣します。
 しかし、9月15日には、七尾城において長続連が実権を握る事に不満を抱いていた遊佐続光、温井景隆ら親上杉派が内応して謀反、長続連をはじめとする長一族は皆殺しとなり、七尾城は落城してしまいました。9月17日に上杉方は加賀と能登間に立地する末森城を攻略し、山浦国清と斎藤朝信を配します。
 柴田勝家率いる織田軍は七尾城落城を知らないまま進軍を続け、9月23日には、織田軍が手取川を渡河したところで、上杉謙信軍と激突し、織田軍は1,000人余りの戦死傷者と増水した手取川で多数の溺死者を出して大敗を喫しました。その後、上杉謙信は越前丸岡城下坂井郡に進出し、9月26日には七尾城に帰陣し普請に着したとされます。
 10月3日に、柴田勝家らは、御幸塚の城塞に佐久間盛政、大聖寺城に柴田勝家の手勢を残し、加賀から帰還しました。

〇上杉謙信(うえすぎ けんしん)とは?

 戦国時代から安土桃山時代に活躍した武将・戦国大名です。1530年(享禄3)1月21日に、越後守護代の父・長尾為景の四男(母・長尾顕吉の娘)として生まれましたが、幼名は虎千代と言いました。1536年(天文5)に、父・為景が隠居し、兄・晴景が家督を継ぎましたが、1542年(天文11)には、父・為景が亡くなっています。
 1543年(天文12)8月15日 元服して長尾景虎と名乗り、9月には兄・晴景の命を受け、古志郡司として春日山城を出立して三条城、次いで栃尾城に入りました。1548年(天文17)に、守護上杉定実の仲介で、兄・晴景の養子となる形で春日山城主となり、1551年(天文20)には、義兄の長尾政景をも陰謀で倒して、上・中越地方の統一を実現します。
 1552年(天文21)、関東管領上杉憲政は北条氏康に攻められ、景虎を頼って、越後国へ逃亡してきたので、それを助けて関東に出兵しました。1553年(天文22)に、武田信玄との第一次川中島の戦いが起こりますが、その後11年にわたり好敵手として、第五次まで断続して戦います。
 一方、1553年(天文22)に、初めて上洛して後奈良天皇や室町幕府第13代将軍足利義輝に拝謁し、翌年には、北条氏康・今川義元と甲相駿三国同盟が結ばれました。1559年(永禄2)に再度上洛し、将軍足利義輝に謁見、正親町天皇から従五位下弾正少弼に任ぜられ、翌年には、北陸にも進出し、一向一揆との戦いが始まります。
 1561年(永禄4)に、北条氏を小田原の本城まで追い詰めますが破れず撤退するものの、翌年には上杉憲政から譲られて関東管領となり、上杉氏を名乗りました。1569年(永禄12)に、北条氏康に請われて上野一国の割譲と氏康の子三郎氏秀の入嗣を条件に講和、翌年には入道して謙信と名乗ります。
 1572年(元亀3)に、織田信長との同盟を機に越中を平定、1577年(天正5)には、七尾城を陥落させ、能登を手中とし、手取川の戦いでも織田軍を破りました。しかし、1578年(天正6)3月13日に、越後春日山城内で、数え年49歳で亡くなっています。

☆手取川の戦い関係略年表(日付は旧暦です)

<1577年(天正5)>

・5月 畠山軍によって上杉軍が前年に奪っていた冨木・熊木の両城が落とされる
・7月18日 畠山氏の重臣だった長綱連が穴水城を攻め、乙ヶ崎合戦で大勝する
・閏7月 謙信は再び能登に侵攻したため、長綱連は七尾城に撤退する
・閏7月23日 織田信長は長続連の使者が安土城に派遣されて、援軍の派遣を決定、柴田勝家を総大将とする4万の軍勢とする
・8月8日 織田軍は北国に向けて出陣する
・9月15日 長続連が実権を握る事に不満を抱いていた遊佐続光、温井景隆ら親上杉派が内応して謀反、長続連をはじめとする長一族は皆殺しとなり、七尾城は落城する
・9月17日 上杉方は加賀と能登間に立地する末森城を攻略し、山浦国清と斎藤朝信を配する
・9月23日 手取川の戦いにおいて上杉謙信軍と織田信長軍が激突し、織田軍は1,000人余りの戦死傷者と増水した手取川で多数の溺死者を出して大敗を喫する
・9月26日 上杉謙信は七尾城に帰陣し普請に着く
・9月25日 能登珠洲郡の松波城将の松波義親、上杉謙信と戦って死ぬ
・10月3日 柴田勝家らは、御幸塚の城塞に佐久間盛政、大聖寺城に柴田勝家の手勢を残し、加賀から帰還する
・10月25日 謙信は、能登各城に鰺坂長実・遊佐盛光連署による、十三箇条の制札を掲げる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

785年(延暦4)長岡京造営中に、藤原種継暗殺事件が起きる(新暦10月30日)詳細
1790年(寛政2)前句付点者柄井川柳の命日(新暦10月30日)詳細
1832年(天保3)儒学者・詩人頼山陽の命日詳細
1871年(明治4)思想家・社会運動家幸徳秋水の誕生日(新暦11月5日)詳細
1884年(明治17)自由民権運動激化事件の一つ、加波山事件が起きる詳細
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 今日は、安土桃山時代の1582年(天正10)に、織田信長の後継を決めるための清洲会議が開催された日ですが、新暦では7月16日となります。
 これは、本能寺の変後、山崎の合戦を経て、織田氏諸将が尾張の清洲城(愛知県清須市)に集まって、織田家の跡目や遺領の配分を決めることを目的に行った会議でした。
 集まった織田家家臣は、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席したとされています。織田信長の次男信雄と三男信孝が後継争いをしましたが、羽柴秀吉の強い主張で長男信忠の遺児三法師が後継者と決まりました。
 この会議の結果、柴田勝家の影響力が落ちて、羽柴秀吉の影響力が増し、織田家内部の勢力地図が替わることになります。その後、両者の対立が深まり、翌年の賤ヶ岳の戦いにつながりました。

<清洲会議での主な領地再分配>
・嫡孫(新領主)・三法師は近江国坂田郡と安土城
・次男・信雄は尾張国
・三男・信孝は美濃国
・四男・柴秀勝(秀吉の養子)は丹波国
・柴田勝家は越前国を安堵の上で、長浜城(柴田勝豊に)と北近江3郡の割譲
・丹羽長秀は若狭国を安堵の上で、近江国の2郡加増
・池田恒興は摂津国から3郡加増
・羽柴秀吉は河内国と山城国が増領

〇本能寺の変とは?

 安土桃山時代の1582年(天正10年6月2日)に、京都の本能寺において、織田信長が明智光秀に攻められ、自刃した事件です。これは、羽柴(豊臣)秀吉の毛利攻め救援に出陣するため、京都・本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃されたものでした。
 光秀は、中国征伐を支援するため出陣を命ぜられたので丹波亀山城において軍容を整え、6月1日夜出発しましたが、京都へ進路を変え、翌日黎明に本能寺の織田信長と妙覚寺の長男信忠を襲います。
 それによって、信長は本能寺で火を放って自刃、信忠は二条御新造に退いて戦ったものの、やはり館に火を放って自刃しました。
 その後、備中高松城(現在の岡山県岡山市北区)で毛利氏と対陣していた羽柴秀吉は、信長の訃報を知ると急遽和議を結んで、予想以上に早く機内に戻り(中国大返し)、6月13日の山崎の戦いで明智光秀との合戦に及びます。
 その結果光秀が敗れ、近江坂本城への逃走の途中、小栗栖(おぐるす)において、光秀は落ち武者狩りの農民に殺害されました。

〇賤ヶ岳の戦いとは?

 安土桃山時代の1583年(天正11)に、北近江の賤ヶ岳(現在の滋賀県長浜市)を中心に行われた羽柴秀吉と柴田勝家との戦いでした。
 本能寺の変後、織田氏の後継者を決める清須会議で羽柴秀吉と柴田勝家が対立します。その両者が、織田勢力を二分する激しい戦いを繰り広げることとなりました。
 1583年(天正11)3月12日、柴田勝家は佐久間盛政、前田利家らと約3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了します。
 一方、羽柴秀吉は、3月19日に約5万の兵力を率いて木ノ本に布陣しましたが、しばらく膠着状態が続きました。4月16日に、一度は羽柴秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出したので、翌日に羽柴秀吉は美濃に進軍し大垣城に入ります。
 これを好機ととらえた、佐久間盛政軍が4月19日に秀吉方の大岩山砦を攻撃し、守将の中川清秀は討死し、賤ヶ岳砦の守将桑山重晴も撤退を開始しました。
 しかし、岐阜城から羽柴秀吉が急遽駆けつけ(美濃の大返し)、4月21日早朝に佐久間盛政軍を追って賤ヶ岳で撃破、昼頃柴田勝家軍を攻め、越前に敗走させます。
 この時に、秀吉方で功名をあげた兵のうち7人(脇坂安治、桐且元、平野長泰、福島正則、加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明)が後世に賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるようになりました。
 その後、羽柴秀吉軍は長途、柴田勝家の後を追い、居城である越前北ノ庄城を攻め、とうとう、4月24日に柴田勝家を自害させます。
 この賤ヶ岳の戦いで、羽柴秀吉が勝利することによって、その立場を確固たるものにし、天下統一へと向かっていくことになりました。

〇清州会議関係略年表(本能寺の変から滝川一益降伏まで) 日付は旧暦です

<1582年(天正10)>
・6月2日 京都の本能寺において、織田信長と嫡子信忠が明智光秀に攻められ、自刃する(本能寺の変)
・6月13日 山崎の戦いで羽柴秀吉と明智光秀が戦い、光秀が敗れ、近江坂本城へ敗走中に農民に殺される
・6月27日 尾張の清州城で織田家の跡目や遺領の配分を決める会議が行われる(清州会議)
・10月11日~15日 大徳寺で織田信長の葬儀(喪主:羽柴秀勝)が挙行される
・10月16日 柴田勝家は堀秀政に覚書を送り、秀吉の清洲会議の誓約違反、不当な領地再分配等を非難する
・12月2日 羽柴秀吉は、和睦を反故にして近江に出兵、長浜城を攻撃する
・12月18日 約3万の兵力の羽柴秀吉軍が美濃国へ入る
・12月20日 羽柴秀吉軍に包囲された岐阜城の織田信孝が降伏する
・12月 柴田勝家の甥の勝豊が守る近江の長浜城が、羽柴秀吉に降伏する

<1583年(天正11)>
・1月1日 伊勢の滝川一益が柴田勝家への旗幟を鮮明にして挙兵する
・2月20日 羽柴秀吉軍が一益方の伊勢の国府城を落城させる
・3月3日 羽柴秀吉軍が一益方の伊勢の亀山城を落城させる
・3月12日 柴田勝家は佐久間盛政、前田利家らと約3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し布陣を完了する
・3月19日 羽柴秀吉は約5万の兵力を率いて木ノ本に布陣する
・3月27日 羽柴秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還し、伊勢と近江の2方面に備える
・4月12日 羽柴秀吉軍が一益方の伊勢の峯城を落城させる
・4月16日 一度は羽柴秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出する
・4月17日 羽柴秀吉は美濃に進軍し大垣城に入る
・4月19日 佐久間盛政軍が秀吉方の大岩山砦を攻撃し、守将の中川清秀は討死する
・4月20日 劣勢と判断した賤ヶ岳砦の守将桑山重晴も撤退を開始するが、岐阜城から羽柴秀吉が木之本に駆けつける
・4月21日 羽柴秀吉軍が、早朝に佐久間盛政軍を追って賤ヶ岳で撃破、昼頃柴田勝家を攻め、越前に敗走させる(賤ヶ岳の戦い)
・4月23日 羽柴秀吉軍は長途、柴田勝家の後を追い、居城である越前北ノ庄城を攻める
・4月24日 越前北ノ庄城で柴田勝家が自害する
・5月2日(4月29日説あり) 尾張国知多郡内海で織田信孝が自害する
・7月 滝川一益が北伊勢5郡を秀吉に差し出して降伏する
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 今日は、安土桃山時代の1583年(天正11)に、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に敗北した日ですが、新暦では6月11日となります。
 この戦いは、北近江の賤ヶ岳(現在の滋賀県長浜市)を中心に行われた豊臣秀吉と柴田勝家との戦いでした。
 本能寺の変後、織田氏の後継者を決める清須会議で豊臣秀吉と柴田勝家が対立します。その両者が、織田勢力を二分する激しい戦いを繰り広げることとなりました。
 1583年(天正11)3月12日、柴田勝家は佐久間盛政、前田利家らと約3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了します。一方、羽柴秀吉は、3月19日に約5万の兵力を率いて木ノ本に布陣しましたが、しばらく膠着状態が続きました。
 4月16日に、一度は羽柴秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出したので、翌日に羽柴秀吉は美濃に進軍し大垣城に入ります。
 これを好機ととらえた、佐久間盛政軍が4月19日に秀吉方の大岩山砦を攻撃し、守将の中川清秀は討死し、賤ヶ岳砦の守将桑山重晴も撤退を開始しました。
 しかし、岐阜城から羽柴秀吉が急遽駆けつけ(美濃の大返し)、4月21日早朝に佐久間盛政軍を追って賤ヶ岳で撃破、昼頃柴田勝家軍を攻め、越前に敗走させます。この時に、秀吉方で功名をあげた兵のうち7人(脇坂安治、桐且元、平野長泰、福島正則、加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明)が後世に賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるようになりました。
 その後、羽柴秀吉軍は長途、柴田勝家の後を追い、居城である越前北ノ庄城を攻め、とうとう、4月24日に柴田勝家を自害させます。
 この賤ヶ岳の戦いで、秀吉が勝利することによって、その立場を確固たるものにし、天下統一へと向かっていくことになりました。

〇清須会議とは?

 本能寺の変後、山崎の合戦を経て、安土桃山時代の1582年(天正10)6月27日に、織田氏諸将が清洲城(愛知県清須市)に集まって、織田家の跡目や遺領の配分を決めることを目的に行った会議です。
 集まった織田家家臣は、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席したとされています。
 織田信長の次男信雄と三男信孝が後継争いをしましたが、羽柴秀吉の強い主張で長男信忠の遺児三法師が後継者と決まりました。この会議の結果、柴田勝家の影響力が落ちて、羽柴秀吉の影響力が増し、織田家内部の勢力地図が替わることになります。
 その後、両者の対立が深まり、翌年の賤ヶ岳の戦いにつながったと言われています。

〇賤ヶ岳の戦い関係年表

<1582年(天正10)> 
・6月2日 織田信長と嫡男織田信忠が明智光秀の謀反によって横死(本能寺の変)
・6月13日 山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀を討つ
・6月27日 織田氏の後継者を決める会議(清須会議)が開かれ、柴田勝家と羽柴秀吉との間で激しい対立が生じる
・12月18日 約3万の兵力の羽柴秀吉軍が美濃国へ入る
・12月20日 羽柴秀吉軍に包囲された岐阜城の織田信孝が降伏する
・12月 柴田勝家の甥の勝豊が守る近江の長浜城が、羽柴秀吉に攻められて降伏する

<1583年(天正11)>
・1月1日 伊勢の滝川一益が柴田勝家への旗幟を鮮明にして挙兵する
・2月20日 羽柴秀吉軍が一益方の伊勢の国府城を落城させる
・3月3日 羽柴秀吉軍が一益方の伊勢の亀山城を落城させる
・3月12日 柴田勝家は佐久間盛政、前田利家らと約3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了する
・3月19日 羽柴秀吉は約5万の兵力を率いて木ノ本に布陣する
・3月27日 羽柴秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還し、伊勢と近江の2方面に備える
・4月12日 羽柴秀吉軍が一益方の伊勢の峯城を落城させる
・4月16日 一度は羽柴秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出する
・4月17日 羽柴秀吉は美濃に進軍し大垣城に入る
・4月19日 佐久間盛政軍が秀吉方の大岩山砦を攻撃し、守将の中川清秀は討死する
・4月20日 劣勢と判断した賤ヶ岳砦の守将桑山重晴も撤退を開始するが、岐阜城から羽柴秀吉が木之本に駆けつける
・4月21日 羽柴秀吉軍が、早朝に佐久間盛政軍を追って賤ヶ岳で撃破、昼頃柴田勝家を攻め、越前に敗走させる(賤ヶ岳の戦い)
・4月23日 羽柴秀吉軍は長途、柴田勝家の後を追い、居城である越前北ノ庄城を攻める
・4月24日 越前北ノ庄城で柴田勝家が自害する
・5月2日(4月29日説あり) 尾張国知多郡内海で織田信孝が自害する
・7月 滝川一益が北伊勢5郡を秀吉に差し出して降伏する
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