
柳原白蓮(やなぎわら びゃくれん)は、東京において、伯爵だった父・柳原前光(さきみつ)と妾の母・りょうの子として生まれ、品川に里子に出されましたが、本名は愛子と言いました。1892年(明治25)に柳原家に戻り、麻布南山小学校入学、1894年(明治27)には、子爵・北小路隨光(よりみつ)の養女となり、竹早の師範附属小学校に転校します。
1898年(明治31)に華族女学校に入学したものの、1900年(明治33)に中退して、北小路資武と結婚、佐佐木信綱に師事し『心の花』に作品を発表しました。1901年(明治34)に男児(功光)を出産しましたが、1905年(明治38)には、北小路資武と離婚、子を残して実家に戻っています。
1908年(明治41)に東洋英和女学校に編入学し竹柏会に入門し、1910年(明治43)に卒業後、翌年には九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚し“筑紫の女王”と呼ばれるようになりました。1915年(大正4)に白蓮の雅号で第一歌集『踏絵』上梓、1917年(大正6)に筑豊疑獄事件で証人として出廷、1919年(大正8)には、詩集『几帳のかけ』・歌集『幻の華』を刊行します。
1920年(大正9)に編集者として別府を訪れた社会主義者の宮崎龍介と出会い、翌年には、白蓮事件(宮崎龍介と駆け落ち)を起こし、伊藤伝右衛門と離婚しました。1922年(大正11)に男児(香織)を出産しましたが、翌年9月1日に関東大震災に遭遇、香織と共に宮崎家に入り、華族を除籍され、以降、柳原白蓮、柳原燁子の筆名で活動することとなります。
その中で、小説『則天武后』(1924年)、歌集『紫の梅』(1925年)、自伝小説『荊棘の実』、小説『恋愛懺悔』(1928年)などを刊行しました。1931年(昭和6)に宮崎滔天遺族の国賓として龍介と中国訪問し、1934年(昭和9)には、歌誌『ことたま』を創刊し主宰するようになります。
1945年(昭和20)に、子の香織が鹿児島県串木野市で戦災死し、太平洋戦争後の1946年(昭和21)には、悲母の会を結成し平和運動に参加しました。1947年(昭和22)に歌集『踏絵・幻の華』(日本文学選)、1950年(昭和25)には『短歌教室』を刊行します。
1956年(昭和31)に歌集『地平線』を刊行したものの、1961年(昭和36)には、緑内障で徐々に両眼の視力を失い、1967年(昭和42)2月22日に、東京・西池袋の自宅において、81歳で亡くなりました。
1898年(明治31)に華族女学校に入学したものの、1900年(明治33)に中退して、北小路資武と結婚、佐佐木信綱に師事し『心の花』に作品を発表しました。1901年(明治34)に男児(功光)を出産しましたが、1905年(明治38)には、北小路資武と離婚、子を残して実家に戻っています。
1908年(明治41)に東洋英和女学校に編入学し竹柏会に入門し、1910年(明治43)に卒業後、翌年には九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚し“筑紫の女王”と呼ばれるようになりました。1915年(大正4)に白蓮の雅号で第一歌集『踏絵』上梓、1917年(大正6)に筑豊疑獄事件で証人として出廷、1919年(大正8)には、詩集『几帳のかけ』・歌集『幻の華』を刊行します。
1920年(大正9)に編集者として別府を訪れた社会主義者の宮崎龍介と出会い、翌年には、白蓮事件(宮崎龍介と駆け落ち)を起こし、伊藤伝右衛門と離婚しました。1922年(大正11)に男児(香織)を出産しましたが、翌年9月1日に関東大震災に遭遇、香織と共に宮崎家に入り、華族を除籍され、以降、柳原白蓮、柳原燁子の筆名で活動することとなります。
その中で、小説『則天武后』(1924年)、歌集『紫の梅』(1925年)、自伝小説『荊棘の実』、小説『恋愛懺悔』(1928年)などを刊行しました。1931年(昭和6)に宮崎滔天遺族の国賓として龍介と中国訪問し、1934年(昭和9)には、歌誌『ことたま』を創刊し主宰するようになります。
1945年(昭和20)に、子の香織が鹿児島県串木野市で戦災死し、太平洋戦争後の1946年(昭和21)には、悲母の会を結成し平和運動に参加しました。1947年(昭和22)に歌集『踏絵・幻の華』(日本文学選)、1950年(昭和25)には『短歌教室』を刊行します。
1956年(昭和31)に歌集『地平線』を刊行したものの、1961年(昭和36)には、緑内障で徐々に両眼の視力を失い、1967年(昭和42)2月22日に、東京・西池袋の自宅において、81歳で亡くなりました。
<代表的な歌>
・「踏絵もて ためさるる日の 来しごとも 歌反故(ほご)いだき 立てる火の前」(踏絵)
・「わが命 惜まるるほどの 幸を 初めて知らむ 相許すとき」
・「われなくば わが世もあらじ 人もあらじ まして身をやく 思ひもあらじ」
・「思ひきや 月も流転の かげぞかし わがこし方に 何をなげかむ」
〇柳原白蓮の主要な著作
・歌集『踏絵』(1915年)
・歌集『幻の華』(1919年)
・詩集『几帳のかげ』(1919年)
・小説『則天武后』(1924年)
・歌集『紫の梅』(1925年)
・自伝小説『荊棘の実』(1928年)
・小説『恋愛懺悔』(1928年)
・『短歌教室』(1950年)
・歌集『地平線』(1956年)
☆柳原白蓮関係略年表
・1885年(明治18)10月15日 東京において、伯爵だった父・柳原前光(さきみつ)と妾の母・りょうの子として生まれ、品川に里子に出される
・1892年(明治25) 柳原家に戻り、麻布南山小学校入学する
・1894年(明治27) 子爵・北小路隨光(よりみつ)の養女となり、竹早の師範附属小学校に転校する
・1898年(明治31) 華族女学校に入学する
・1900年(明治33) 華族女学校を中退、北小路資武と結婚、佐佐木信綱に師事し『心の花』に作品を発表する
・1901年(明治34) 男児(功光)を出産する
・1905年(明治38) 北小路資武と離婚、実家に戻る
・1908年(明治41) 東洋英和女学校に編入学、竹柏会に入門する
・1910年(明治43)3月 東洋英和女学校卒業する
・1911年(明治44)2月 九州の炭鉱王伊藤伝右衛門と再婚する
・1915年(大正4) 白蓮の雅号で第一歌集『踏絵』上梓する
・1917年(大正6)4月 筑豊疑獄事件で証人として出廷する
・1919年(大正8) 詩集『几帳のかけ』・歌集『幻の華』を刊行する
・1920年(大正9)1月 編集者として別府を訪れた社会主義者の宮崎龍介と出会う、戯曲『指鬘外道』を刊行する
・1921年(大正10)10月 白蓮事件(宮崎龍介と駆け落ち)、伊藤伝右衛門と離婚、『白蓮自選歌集』を刊行する
・1922年(大正11)5月 男児(香織)を出産する
・1923年(大正12)9月 関東大震災に会い、香織と共に宮崎家に入る
・1923年(大正12)11月16日 華族を除籍され、以降、柳原白蓮、柳原燁子の筆名で活動する
・1924年(大正13) 小説『則天武后』を刊行する
・1925年(大正14)9月 長女・蕗苳誕生、歌集『紫の梅』を刊行する
・1928年(昭和3) 歌集『流転』、『筑紫集』、自伝小説『荊棘の実』、小説『恋愛懺悔』を刊行する
・1930年(昭和5) 小説『青春譜』を刊行する
・1931年(昭和6) 宮崎滔天遺族の国賓として龍介と中国訪問する
・1934年(昭和9) 歌誌『ことたま』を創刊し主宰する
・1937年(昭和12)7月 盧溝橋事件がある
・1939年(昭和14) 『歴代女流歌人の鑑賞』を刊行する
・1943年(昭和18) 小説『民族のともしび』を刊行する
・1945年(昭和20)8月 子の香織が鹿児島県串木野市で戦災死する
・1946年(昭和21)1月 長女・蕗苳結婚、悲母の会を結成し平和運動に参加する
・1947年(昭和22) 歌集『踏絵・幻の華』(日本文学選)を刊行する
・1950年(昭和25) 『短歌教室』を刊行する
・1954年(昭和29) 『ことたま選集』
・1956年(昭和31)5月 龍介と中国訪問し毛沢東主席、周恩来総理と対面、歌集『地平線』を刊行する
・1961年(昭和36) 緑内障で徐々に両眼の視力を失う
・1967年(昭和42)2月22日 東京・西池袋の自宅において、81歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
622年(推古天皇30) | 政治家・宗教的思想家聖徳太子が亡くなったとされる日(新暦4月8日) | 詳細 |
1239年(延応元) | 第82代の天皇後鳥羽天皇の命日(新暦3月28日) | 詳細 |
1875年(明治8) | 板垣退助が大阪で自由民権運動の政治団体「愛国社」を創設する | 詳細 |
1989年(平成元) | 佐賀県吉野ヶ里遺跡で弥生時代後期の国内最大規模の環濠集落発見と報道される | 詳細 |