岐阜事件(ぎふじけん)は、岐阜県冨茂登村において、自由党総理板垣退助が遊説先で、暴漢(相原尚褧)に襲われ負傷した事件で、板垣退助遭難事件とも呼ばれてきました。この日、板垣退助は、岐阜・金華山麓の中教院での懇親会に出席し、2時間にわたる演説を行なった後、午後6時頃、会場から宿舎に向かおうとしたところ、入口を出た瞬間に短刀を持った暴漢(相原尚褧)に襲われて格闘となり、胸や手などを負傷しています。
この時に、板垣退助が「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を発したと言われ、自由民権運動を象徴するものとして有名となりました。
この時に、板垣退助が「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を発したと言われ、自由民権運動を象徴するものとして有名となりました。
〇板垣退助(いたがき たいすけ)とは?
江戸時代後期の1837年(天保8)4月17日、高知城下中島町に生まれました。若い頃は、土佐藩における倒幕派の急先鋒となり、1865年(慶応元)3月京都において薩摩藩士小松帯刀、西郷隆盛らと薩土秘密倒幕同盟を結ぶ立て役者となります。
戊辰戦争では土佐藩の大隊指令となり、東山道先鋒総督府参謀を命ぜられて、各地を転戦、会津城攻略においては指揮官として活躍しました。明治維新後は新政府の参議に任じられましたが、征韓論で破れ下野、1874年(明治7)に愛国公党を結成し、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣などと左院に民撰議院設立建白書を提出したものの、却下されます。
また、高知へもどり、立志社を創設、自由民権運動を展開し、リーダー的存在となりました。1881年(明治14)自由党総裁となり、全国的に活動し、憲法発布、国会開設へと向かわせたことは有名です。
1882年(明治15)4月6日、岐阜での遊説途上、刺客に襲われ、「板垣死すとも自由は死せじ」の名言を残しました。1884年(明治17)決断して自由党をいったん解党しましたが、1890年(明治23)の帝国議会開設後には、自由党を再結成して、党総理に就任することになります。
1896年(明治29)第2次伊藤内閣の内務大臣となり、1898年(明治31)には、大隈重信と隈板内閣をつくり、内務大臣に就任しました。1900年(明治33)、立憲政友会の創立とともに政界を引退し、その後は社会改良運動につくしましたが、1919年(大正8)7月16日、83才で死去しています。
尚、故郷の高知県に「高知市立自由民権記念館」が開設され、詳しい展示コーナーが設けられました。
戊辰戦争では土佐藩の大隊指令となり、東山道先鋒総督府参謀を命ぜられて、各地を転戦、会津城攻略においては指揮官として活躍しました。明治維新後は新政府の参議に任じられましたが、征韓論で破れ下野、1874年(明治7)に愛国公党を結成し、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣などと左院に民撰議院設立建白書を提出したものの、却下されます。
また、高知へもどり、立志社を創設、自由民権運動を展開し、リーダー的存在となりました。1881年(明治14)自由党総裁となり、全国的に活動し、憲法発布、国会開設へと向かわせたことは有名です。
1882年(明治15)4月6日、岐阜での遊説途上、刺客に襲われ、「板垣死すとも自由は死せじ」の名言を残しました。1884年(明治17)決断して自由党をいったん解党しましたが、1890年(明治23)の帝国議会開設後には、自由党を再結成して、党総理に就任することになります。
1896年(明治29)第2次伊藤内閣の内務大臣となり、1898年(明治31)には、大隈重信と隈板内閣をつくり、内務大臣に就任しました。1900年(明治33)、立憲政友会の創立とともに政界を引退し、その後は社会改良運動につくしましたが、1919年(大正8)7月16日、83才で死去しています。
尚、故郷の高知県に「高知市立自由民権記念館」が開設され、詳しい展示コーナーが設けられました。
〇自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)とは?
明治時代前期に、藩閥政治に反対して、人民の自由と権利の伸長を要求した政治運動です。1874年(明治7)の板垣退助等による「民撰議院設立の建白書」の提出を契機に始まりました。
それ以降、薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げて運動が行われます。しかし、政府の「集会条例」や「保安条例」による徹底弾圧と自由党への懐柔策によって、運動は沈滞していきました。
その中で、農民等が主役となった、福島事件や秩父事件などの自由民権運動の激化事件が起きることになりましたが、政府の激しい弾圧の下で、沈滞して終息します。
それ以降、薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げて運動が行われます。しかし、政府の「集会条例」や「保安条例」による徹底弾圧と自由党への懐柔策によって、運動は沈滞していきました。
その中で、農民等が主役となった、福島事件や秩父事件などの自由民権運動の激化事件が起きることになりましたが、政府の激しい弾圧の下で、沈滞して終息します。
☆自由民権運動関係略年表
<1874年(明治7)>
・1月12日 板垣退助らが愛国公党を結成する
・1月17日 板垣退助らが「民撰議院設立の建白書」を提出する
・2月1日 江藤新平・島義勇らが佐賀の乱を起こす
・4月16日 板垣退助らが立志社を設立する
<1875年(明治8)>
・2月22日 板垣退助らが大阪で自由民権運動の政治団体愛国社を結成する
・5月7日 「樺太・千島交換条約」が結ばれる
・6月28日 「讒謗律」・「新聞紙条例」が制定される
<1876年(明治9)>
・2月26日 「日朝修好条規」が締結される
・10月 神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が起こる
<1877年(明治10)>
・2月15日 西南戦争が起きる
・6月9日 「立志社建白」を京都の行在所に提出する
・8月18日 立志社の片岡健吉らが逮捕される(高知の獄)
<1878年(明治11)>
・5月14日 大久保利通が暗殺される
・9月14日 大阪で愛国社再興大会が始まる
・9月20日 「愛国社再興合議書」を採択する
<1879年(明治12)>
・3月27日 琉球処分が行われ、琉球藩を沖縄県とする
<1880年(明治13)>
・3月17日 国会期成同盟が発足する
・4月5日 「集会条例」を定めて、言論や集会を取りしまる
・このころから、自由民権運動が高揚しはじめる
<1881年(明治14)>
・7月 「北海道開拓使官有物払下げ事件」が起こる
・9月 立志社が「日本憲法見込案」を出す
・10月11日 明治十四年の政変で、大隈重信らが罷免される
・10月12日 「国会開設の勅諭」が出される
・10月18日 板垣退助らが自由党を結成する
・このころ、憲法制定論議が活発化し、各種の私擬憲法がつくられる
<1882年(明治15)>
・3月 伊藤博文ら、憲法調査のためヨーロッパへ行く
・4月6日 板垣退助が遊説先の岐阜県冨茂登村で斬りつけられ負傷する事件(岐阜事件)が起きる
・4月16日 大隈重信らが立憲改進党を結成する
・11月28日 福島事件(福島県)が起こる
<1883年(明治16)>
・3月20日 高田事件(新潟県)が起こる
・3月20日 立志社が解散する
<1884年(明治17)>
・5月 群馬事件(群馬県)が起こる
・9月23日 加波山事件(栃木・茨城県)が起こる
・10月29日 自由党が解党する
・10月31日 秩父事件(埼玉県)が起こる
・12月 名古屋事件(愛知県)が起こる
・12月 飯田事件(長野県)が起こる
<1885年(明治18)>
・11月 大阪事件(大阪府)が起こる
<1886年(明治19)>
・6月 静岡事件(静岡県)が起こる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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