ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:板垣退助

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 今日は、明治時代前期の1882年(明治15)に、自由党総理板垣退助が遊説先の岐阜県冨茂登村で斬りつけられ負傷する事件(岐阜事件)が起きた日です。
 岐阜事件(ぎふじけん)は、岐阜県冨茂登村において、自由党総理板垣退助が遊説先で、暴漢(相原尚褧)に襲われ負傷した事件で、板垣退助遭難事件とも呼ばれてきました。この日、板垣退助は、岐阜・金華山麓の中教院での懇親会に出席し、2時間にわたる演説を行なった後、午後6時頃、会場から宿舎に向かおうとしたところ、入口を出た瞬間に短刀を持った暴漢(相原尚褧)に襲われて格闘となり、胸や手などを負傷しています。
 この時に、板垣退助が「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を発したと言われ、自由民権運動を象徴するものとして有名となりました。

〇板垣退助(いたがき たいすけ)とは?

 江戸時代後期の1837年(天保8)4月17日、高知城下中島町に生まれました。若い頃は、土佐藩における倒幕派の急先鋒となり、1865年(慶応元)3月京都において薩摩藩士小松帯刀、西郷隆盛らと薩土秘密倒幕同盟を結ぶ立て役者となります。
 戊辰戦争では土佐藩の大隊指令となり、東山道先鋒総督府参謀を命ぜられて、各地を転戦、会津城攻略においては指揮官として活躍しました。明治維新後は新政府の参議に任じられましたが、征韓論で破れ下野、1874年(明治7)に愛国公党を結成し、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣などと左院に民撰議院設立建白書を提出したものの、却下されます。
 また、高知へもどり、立志社を創設、自由民権運動を展開し、リーダー的存在となりました。1881年(明治14)自由党総裁となり、全国的に活動し、憲法発布、国会開設へと向かわせたことは有名です。
 1882年(明治15)4月6日、岐阜での遊説途上、刺客に襲われ、「板垣死すとも自由は死せじ」の名言を残しました。1884年(明治17)決断して自由党をいったん解党しましたが、1890年(明治23)の帝国議会開設後には、自由党を再結成して、党総理に就任することになります。
 1896年(明治29)第2次伊藤内閣の内務大臣となり、1898年(明治31)には、大隈重信と隈板内閣をつくり、内務大臣に就任しました。1900年(明治33)、立憲政友会の創立とともに政界を引退し、その後は社会改良運動につくしましたが、1919年(大正8)7月16日、83才で死去しています。
 尚、故郷の高知県に「高知市立自由民権記念館」が開設され、詳しい展示コーナーが設けられました。

〇自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)とは?

 明治時代前期に、藩閥政治に反対して、人民の自由と権利の伸長を要求した政治運動です。1874年(明治7)の板垣退助等による「民撰議院設立の建白書」の提出を契機に始まりました。
 それ以降、薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げて運動が行われます。しかし、政府の「集会条例」や「保安条例」による徹底弾圧と自由党への懐柔策によって、運動は沈滞していきました。
 その中で、農民等が主役となった、福島事件や秩父事件などの自由民権運動の激化事件が起きることになりましたが、政府の激しい弾圧の下で、沈滞して終息します。

☆自由民権運動関係略年表

<1874年(明治7)>
・1月12日 板垣退助らが愛国公党を結成する  
・1月17日 板垣退助らが「民撰議院設立の建白書」を提出する
・2月1日 江藤新平・島義勇らが佐賀の乱を起こす
・4月16日 板垣退助らが立志社を設立する

<1875年(明治8)>
・2月22日 板垣退助らが大阪で自由民権運動の政治団体愛国社を結成する
・5月7日 「樺太・千島交換条約」が結ばれる 
・6月28日 「讒謗律」・「新聞紙条例」が制定される

<1876年(明治9)>
・2月26日 「日朝修好条規」が締結される
・10月 神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が起こる

<1877年(明治10)>
・2月15日 西南戦争が起きる
・6月9日 「立志社建白」を京都の行在所に提出する
・8月18日 立志社の片岡健吉らが逮捕される(高知の獄)

<1878年(明治11)>
・5月14日 大久保利通が暗殺される
・9月14日 大阪で愛国社再興大会が始まる
・9月20日 「愛国社再興合議書」を採択する

<1879年(明治12)>
・3月27日 琉球処分が行われ、琉球藩を沖縄県とする

<1880年(明治13)>
・3月17日 国会期成同盟が発足する   
・4月5日 「集会条例」を定めて、言論や集会を取りしまる
・このころから、自由民権運動が高揚しはじめる

<1881年(明治14)>
・7月 「北海道開拓使官有物払下げ事件」が起こる  
・9月 立志社が「日本憲法見込案」を出す
・10月11日 明治十四年の政変で、大隈重信らが罷免される
・10月12日 「国会開設の勅諭」が出される
・10月18日 板垣退助らが自由党を結成する
・このころ、憲法制定論議が活発化し、各種の私擬憲法がつくられる

<1882年(明治15)>
・3月 伊藤博文ら、憲法調査のためヨーロッパへ行く
・4月6日 板垣退助が遊説先の岐阜県冨茂登村で斬りつけられ負傷する事件(岐阜事件)が起きる
・4月16日 大隈重信らが立憲改進党を結成する
・11月28日 福島事件(福島県)が起こる

<1883年(明治16)>
・3月20日 高田事件(新潟県)が起こる
・3月20日 立志社が解散する

<1884年(明治17)>
・5月 群馬事件(群馬県)が起こる
・9月23日 加波山事件(栃木・茨城県)が起こる
・10月29日 自由党が解党する
・10月31日 秩父事件(埼玉県)が起こる
・12月 名古屋事件(愛知県)が起こる
・12月 飯田事件(長野県)が起こる

<1885年(明治18)>
・11月 大阪事件(大阪府)が起こる

<1886年(明治19)>
・6月 静岡事件(静岡県)が起こる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1336年(建武3/延元元)第93代の天皇とされる後伏見天皇(持明院統)の命日(新暦5月17日)詳細
1722年(享保7)江戸幕府が「流地禁止令」を出す(新暦5月20日)詳細
1742年(寛保2)江戸幕府の成文法「公事方御定書」上下2巻が一応完成する(新暦5月10日)詳細
1823年(文政6)狂歌三大家の一人とされる狂歌師・戯作者・御家人大田南畝の命日(新暦5月16日)詳細
1921年(大正10)東京の大正浅草大火で、負傷者544名、全焼1,227戸、半焼73戸を出す詳細
2017年(平成29)「城の日」を記念して、日本城郭協会より「続日本100名城」が発表される詳細
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 今日は、明治時代前期の1875年(明治7)に、大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪で会談(大阪会議)し政治改革について協定した日です。
 大阪会議(おおさかかいぎ)は、大阪において、政府の要職にあった参議大久保利通と参議伊藤博文らと、先に「征韓論」、「台湾事件」をめぐる政府内の対立が原因で下野していた板垣退助、木戸孝允らが相会して政見を交換した会議で、1月から続けられていた個別会談までを含む場合もあります。明治6年の政変後、政府中枢を担ったのは、岩倉具視と大久保利通でしたが、在野の板垣退助、木戸孝允との間には緊張関係が続いていたものの、これを憂慮する井上馨、伊藤博文の仲介により行われました。
 この会議では、①太政大臣・左右両大臣・参議で構成される政府の下に、立法府たる「元老院」、司法府たる「大審院」を設け、行政府たる各省とともに三権分立の体裁をとり漸次立憲政体を樹立すること、②元老院を上院に擬し、下院に当たるものとして「地方官會議」を設け、将来に議会を開設する準備を整えることが合意され、木戸孝允と板垣退助の参議への復帰が決定しています。この会談の過程で、「政府改革図案」および「大阪会議申合草案」、「大阪会議申合草案追加」が作成されました。
 この合意に基づき、同年4月14日に、漸進主義による三権分立の確立を図る旨を明らかにした「立憲政體樹立の詔」(明治8年4月14日太政官第58号布告)が発布されます。これにより、太政官の左右両院が廃止され、新たに「元老院」及び「大審院」が設置され、既に設置されていた「地方官會議」が実施されることとなりました。
 以下に、「立憲政體樹立の詔」(明治8年4月14日太政官第58号布告)を現代語訳付で掲載しておきますから、ご参照下さい。

〇「立憲政体の詔書」(明治8年4月14日太政官第58号布告)1875年(明治8年)4月14日発布

(原文)

朕󠄂卽位ノ初首トシテ群臣ヲ會シ五事ヲ以テ神󠄀明ニ誓ヒ國是ヲ定メ萬民保全󠄁ノ道󠄁ヲ求ム幸ニ祖󠄁宗ノ靈ト群臣ノ力トニ賴リ以テ今日ノ小康ヲ得タリ顧󠄁ニ中興日淺ク內治ノ事當ニ振作更󠄁張スヘキ者󠄁少シトセス朕󠄂今誓文󠄁ノ意󠄁ヲ擴充シ茲ニ元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ廣メ大審院ヲ置キ以テ審判󠄁ノ權ヲ鞏クシ又地方官ヲ召集シ以テ民情󠄁ヲ通󠄁シ公󠄁益󠄁ヲ圖リ漸次󠄁ニ國家立憲󠄁ノ政體ヲ立テ汝衆庶ト俱ニ其慶ニ賴ント欲ス汝衆庶或ハ舊ニ泥ミ故ニ慣ルヽヿ莫ク又或ハ進󠄁ムニ輕ク爲スニ急󠄁ナルヿ莫ク其レ能ク朕󠄂カ旨ヲ體シテ翼󠄂贊スル所󠄁アレ
明治八年四月十四日

(現代仮名遣い・常用漢字・ひらがな)

朕、即位の初首として群臣を会し、五事を以て神明に誓ひ、国是を定め、万民保全の道を求む。幸に祖宗の霊と群臣の力とに頼り、以て今日の小康を得たり。顧に中興日浅く、内治の事当に振作更張すべき者少しとせず。朕、今誓文の意を拡充し、茲に元老院を設け以て立法の源を広め、大審院を置き以て審判の権を鞏くし、又地方官を召集し以て民情を通し公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、汝衆庶と倶に其慶に頼んと欲す。汝衆庶或は旧に泥み故に慣るること莫く、又或は進むに軽く為すに急なること莫く、其れ能朕が旨を体して翼賛する所あれ。
明治八年四月十四日

(現代語訳)

私は即位の初めに群臣を集めて五箇条の誓文を神々に誓い、国是を定め万民保全の道を求めた。幸いに先祖の霊と群臣の力とによって今日の落ち着きを得た。かえりみるに、再建の日は浅く、内政の事業には振興したり引締めたりすべき点が少なくない。私は今、五箇条の誓文の主意を拡充し、ここに元老院を設けて立法の源泉を広め、大審院を置いて審判権を確立し、また地方官を召集して民情を通じ公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、皆とともに喜びを分かちたい。皆も、守旧することもなく、また急進することもなく、よくよく私の主旨に従って補佐しなさい。
1875年(明治8年)4月14日

   「ウィキペディア」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1856年(安政3) 江戸幕府が洋学所を「蕃書調所」と改称する(新暦3月17日) 詳細
1883年(明治16) 日本画家小林古径の誕生日 詳細
1889年(明治22) 陸羯南を社長兼主筆として東京で日刊新聞「日本」が創刊される 詳細
1937年(昭和12) 「文化勲章令」が公布・施行され、文化の発展に業績のあった人に文化勲章を授与することが決まる 詳細
1942年(昭和17) 東条英機首相臨席のもと、日本少国民文化協会の発会式が、東京の情報局講堂で行われる 詳細
1945年(昭和20) ヤルタ会談で協議の上、米・英・ソ3ヶ国政府首脳によってヤルタ協定が結ばれる 詳細
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 今日は、明治時代前期の1873年(明治6)に、明治六年政変が起き、西郷隆盛が参議などを含む官職からの辞表を提出し、帰郷の途に就いた日です。
 明治六年政変(めいじろくねんせいへん)は、征韓論争により、明治新政府内が分裂した政変でした。明治維新以来、明治新政府は朝鮮に度々国交を求めたものの、朝鮮は排外鎖国政策をとっていて、拒否されたので、西郷隆盛や板垣退助らが征韓論(朝鮮侵略)を主張するようになります。
 これと、欧米視察から帰国した岩倉具視や大久保利通、木戸孝允らが主張する内治優先論(国内政治の優先)とが激しく対立することとなりました。その結果、征韓派は敗れて一斉に政府を去ることとなり、近衛の将士の辞職も相次ぎます。
 これ以後、大久保が政権を指導し、大久保政権と呼ばれることとなり、のちに征韓派は、自由民権派と士族反乱派に分化しました。翌年の佐賀の乱、台湾出兵、1877年(明治10)の西南戦争をはじめ、自由民権運動の隆盛など、その後の政局に大きな影響を与えることとなります。

〇明治六年政変関係略年表

<1872年(明治5)>
・9月12日 木戸派の大蔵大輔井上馨が大久保の洋行を提案し、大久保のみならず大納言岩倉具視・木戸といった実力者を加えた大使節団の派遣へと展開していった。
・11月7日 木戸らと留守政府の代表は洋行中に「大規模な内政改革は行わないこと」などを取り決めた12ヶ条の約定をとりかわした
・11月9日 会議で板垣が朝鮮に使節を送って開国を促し、応じなければ戦争に訴えるべきと主張したが、朝鮮問題には手を付けないことなどが合意された
・11月8日 宮古島島民遭難事件が発生し、台湾征討を主張する声が高まる
・11月11日 岩倉を代表とし、木戸・大久保・伊藤博文らも加わった使節団が出国する

<1873年(明治6)>
・1月19日 木戸・大久保に対して早期帰国の命令が下る
・4月 井上は正院を改革して大蔵省の権力を強めようともくろむ
・4月19日 新たな参議となったのは司法卿江藤新平・文部卿大木喬任・左院議長後藤象二郎という反大蔵省の人物ばかりであり、井上は参議となれず
・5月29日 大久保が帰国する
・5月31日 釜山に設置されていた大日本公館代表広津弘信より、朝鮮政府が日本人の密貿易を取り締まる布告の中で、日本に対する無礼な字があったと報告する
・7月23日 木戸が帰国したが留守政府の現状に激怒し、大久保同様政府への復帰をボイコットし、政府打倒を目指して裏面で活動を行なう
・7月末 西郷は三条に遣使を強く要求する
・7月29日 西郷は板垣宛書簡で、軍隊より先に使節を出せば朝鮮から「暴挙」「暴殺」に出るから「討つべきの名」が立つ、だから自分が使節になると主張する
・8月14日 西郷の板垣宛書簡でも先に使節を出すやり方で「はめ込」めば「必ず戦うべき機会」になる、だから西郷を死なせては可哀そうなどと思わないでほしいと述べる
・8月16日 西郷は三条の元を訪れ、岩倉の帰国前に遣使だけは承認するべきと強く要請する
・8月17日 西郷の要望により三条太政大臣の私邸で催された閣議の席上、西郷の遣韓大使任命が内決される
・8月18日 上奏裁可を得て三条は、岩倉大使の帰国を待って熟議することを西郷に伝え、問題は一時延期のかたちとなる
・9月13日 岩倉が帰国し、三条とともに木戸・大久保の復帰に向けて運動を開始する
・9月16日 木戸が病気となり、参議復帰を拒む
・10月12日 大久保が参議に復帰したが、木戸は閣議への復帰に応じなかった
・10月14日 岩倉は閣議の席で遣使の延期を主張、板垣・江藤・後藤・副島らは遣使の延期については同意していたものの、西郷は即時派遣を主張する
・10月15日 閣議で板垣・江藤・後藤・副島らは西郷を支持し、即時遣使を要求、三条は西郷の派遣自体は認める決定を行なう
・10月16日 岩倉は三条の元を訪れ、決断の変更を求めたが、三条は受け入れなかった
・10月17日 もう一度閣議を行うことなっていたが、岩倉・大久保・木戸が辞表を提出したことで行われなかった
・10月18日 三条は病に倒れたが、狭心症、心筋梗塞、脚気衝心のいずれかではないかと見られている
・10月19日 副島・江藤・後藤・大木の四人で行われた閣議は岩倉を太政大臣摂行(代理)とすることを徳大寺実則に要望し、明治天皇に奏上された
・10月20日 明治天皇の行幸は実行され、岩倉は太政大臣摂行に就任すると、樺太問題が急務であるという趣旨を上奏する
・10月22日 西郷・板垣・副島・江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、明日にも遣使を発令するべきであると主張する
・10月23日 岩倉は参内し、決定の経緯と閣議による決定と自分の意見を述べた上で、明治天皇の聖断で遣使を決めると奏上、西郷は参議などを含む官職からの辞表を提出し、帰郷の途につく
・10月24日 岩倉による派遣延期の意見が通り、西郷の辞表は受理され、参議と近衛都督を辞職、板垣・江藤・後藤・副島らが辞表を提出する
・10月25日 板垣・江藤・後藤・副島らの辞表が受理され、西郷・板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

711年(和銅4)「蓄銭叙位令」が出される (新暦12月7日)詳細
765年(天平神護元)第47代天皇とされる淳仁天皇が、配流先の淡路島で亡くなる(新暦11月10日)詳細
1669年(寛文9)日高アイヌの総酋長シャクシャインの命日 (新暦11月16日)詳細
1871年(明治4)詩人・英文学者土井晩翠の誕生日(新暦12月5日)詳細
2004年(平成16)新潟県中越地震(マグニチュード6.8)が起こり、死者68人、重軽傷者4,805人が出る詳細
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 今日は、明治時代前期の1874年(明治7)に、板垣退助らによって、日本最初の政党である愛国公党が結成された日です。
 愛国公党(あいこくこうとう)は、1873年(明治76)に征韓論に敗れ、明治六年政変によって下野した、下前参議の板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平らがヨーロッパより帰国した由利公正、小室信夫、岡本健三郎、古沢滋らと共に結成した、自由民権を主張する日本最初の政党でした。幸福安全社を基礎に、東京京橋区銀座の副島種臣邸に同志を集めて結成され、「愛国公党本誓」には、天賦人権、愛君愛国、君民融和、国威発揚などがうたわれて、基本的人権を保護することを誓います。
 そして、同月17日に板垣、副島らは政府に対して『民撰議院設立建白書』を左院に提出、士族および豪農商の代表者からなる議会を設立せよと主張して、自由民権運動の口火を切りました。この建白書に対して加えられた加藤弘之らの批判に駁論するなど活発な行動を展開したものの、旧土佐藩士族による右大臣岩倉具視要撃事件、江藤による佐賀の乱、板垣らの帰郷などによってまもなく自然消滅しています。
 その後、大同団結運動分裂後の1890年(明治23)5月に、板垣退助らが同名の政党を組織し、同年9月には立憲自由党へ発展しました。
 以下に、「愛国公党本誓」の本文(現代語訳・注釈付)と草案を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「愛国公党本誓」

一 天ノ斯ノ人民ヲ生スルヤ、興ノ始貴賤尊卑[1]ノ別ナク皆之ヲ平等ノ人トス。而シテ之ニ付スルニ、一定不可動ザルノヲ以テス。故ニ斯ノ通義権理[2]ナル者ハ、天ノ均シク以テ人民ニ賜フ所ノ者ニシテ人力ノ以テ之ヲ移奪[3]スルヲ得ザル者ナリ。然ルニ、世運[4]ノ未タ全ク開ケサルヤ、人民動モスレバ、斯ノ本然[5]ノ通義権理[2]ヲ、保ツ能ハザル者アリ。況ヤ、我国数百年来封建[6]武断[7]ノ制、其ノ民ヲ奴隷[8]ニセシノ余弊[9]、未ダ全ク剗除[10]セズ、苟モ是ニ由リテ改メズ。我カ人民ノ支那印度ノ人民ト相去ル能ク幾クアル如、是ニシテ我国威[11]ノ揚リ、我カ国民ノ富ムヲ欲ス。豈ニ可得ンヤ。我輩一片至誠愛[12]国ノ心大イニ茲ニ発憤[13]スルアリ。乃チ同志ノ士ト相誓ヒ、以テ我人民ノ通義権理[2]ヲ主張シ、以テ其ノ天ノ賜ヲ保全セントス。亦タ、即チ其ノ君ヲ愛、愛国スルノ心深ク、且ツ大ナレバ也。

一 我輩既ニ已ニ愛国至誠[14]ノ上ヨリ発憤[13]シ、斯ノ人民ノ通義権理[2]ヲ保護主張セントス。然ルニ之ヲ為スノ道、即チ我天皇陛下御誓文[15]ヲ旨意[16]ニ体シ、造次顛沛[17]、徹頭徹下[18]、唯斯ノ公論[19]公議[20]ヲ以テシ、常ニ公党ノ旨意[16]ヲ遵守明了[21]シ、以テ光リヲ日月ニ争フ[22]可シ。

一 我輩ノ斯政府ヲ視ル、斯ノ人民ノ(為メ設ル所ノ)政府ト看做ス[23]ヨリ他ナカル可シ。而シテ吾党ノ目的ハ、唯斯人民ノ通義権理[2]ヲ保護主張シ、以テ斯人民オシテ自主自由、独立不羈[24]ノ人民タルヲ得セシムルニ在ル而已。是レ即チ其ノ君臣上下オシテ融然一体[25]ナラシメ、以テ其ノ禍福緩急[26]ヲ分チ、以テ相共ニ我日本帝国ヲ維持昌盛[27]ナラシムルノ道ナレバ也。

一 夫我輩斯通義権理[2]ヲ主張セントスル者、亜細亜洲中ノ首唱[28]ニシテ、而カモ天下ノ大業[29]ナリ。固ヨリ之ヲ期スルニ尋常歳月ノ功ヲ以テス可ラス、故ニ我社ノ士ハ常に宜シク其ノ忍耐力ヲ培養シ、譬ヒ艱難憂戚[30]百挫千折[31]スルモ、敢テ少シクモ屈撓[32]スルコト莫ク、至誠[14]ノ心、不抜ノ志[33]、我輩全党終生ノ力勉焉トシテ、唯斯ノ通義権理[2]ヲ保護主張スル者ニ竭尽[34]シ、死ニ之クモ他ナキヲ要ス可シ。

 於是イテ遂イニ調印相誓フ者如左。

   「立志社―その活動と憲法草案―」高知市立自由民権記念館発行より

 ※縦書き原文を横書きとし、句読点を付してあります。

【注釈】

[1]貴賤尊卑:きせんそんぴ=身分の高い人と低い人、尊い人と卑しい人。
[2]通義権理:つうぎけんり=基本的人権。普遍的人権。
[3]移奪:いだつ=横に引っぱって奪いとる。
[4]世運:せうん=世の中の動向。世の中の成り行き。
[5]本然:ほんぜん=人手を加えないで、自然のままであること。もとからそのままであること。また、もともと具有しているもの。
[6]封建:ほうけん=天子・皇帝・国王などが、直轄領以外の土地を諸侯に分け与え、領有・統治させること。また、そのような制度。
[7]武断:ぶだん=武力をもって民を処断すること。兵力を背景として政務を断行すること。
[8]奴隷:どれい=人間としての権利・自由を認められず、他人の私有財産として労働を強制され、また、売買・譲渡の対象ともされた人。
[9]余弊:よへい=後に残っている弊害。
[10]剗除:さんじょ=削って除く。
[11]国威:こくい=国の威力。その国が対外的に持つ威力。
[12]誠愛:せいあい=誠実な愛。
[13]発憤:はっぷん=これから大いに励もうと精神をふるいおこすこと。
[14]至誠:しせい=きわめて誠実なこと。また、その心。まごころ。
[15]天皇陛下御誓文:てんのうへいかごせいもん=1868年(明治元)の「五箇条の御誓文」のこと。
[16]旨意:しい=主旨。意図。考え。
[17]造次顛沛:ぞうじてんぱい=とっさの場合やつまずき倒れるとき。転じて、わずかの時間のたとえ。つかのま。
[18]徹頭徹下:てっとうてっか=始めから終わりまで同じ方針・考えを貫くさまを表わす語。始終。どこまでも。あくまで。
[19]公論:こうろん=公平な議論。
[20]公議:こうぎ=おおやけに論議すること。また、多くの人が認めて支持する議論。
[21]明了:めいりょう=はっきりしていること。また、そのさま。
[22]光リヲ日月ニ争フ:ひかりをじつげつにあらそう=道徳や功績の高いことにたとえる。
[23]看做ス:みなす=仮にそうと見る。そうでないものをそうとする。仮定する。
[24]独立不羈:どくりつふき=他から制御されないで自己の所信で事に処すること。また、そのさま。
[25]融然一体:ゆうぜんいったい=様々なものが溶け合って、一丸となることなどを意味する語。
[26]禍福緩急:かふくかんきゅう=災いと幸せ、おそいのと早いのと。
[27]昌盛:しょうせい=さかんなこと。栄えること。繁盛。
[28]首唱:しゅしょう=いちばん先に言い出すこと。
[29]大業:たいぎょう=大きな事業。重大な事業。
[30]艱難憂戚:かんなんゆうせき=困難にあって苦しみ悩み、憂い悲しむこと。
[31]百挫千折:ひゃくざせんせつ=何度もくじけること。いくどもいくども挫折すること。
[32]屈撓:くっとう=かがみたわむこと。また、屈服すること。
[33]不抜ノ志:ふばつのこころざし=どうやっても抜くことができないという意味から、とても堅いことのたとえ。何があっても諦めないこと。
[34]竭尽:けつじん=尽きること。なくなること。また、力を尽くすこと。

<現代語訳>

一 天はその人民を生じさせた時に、誕生させた最初から身分の高い低いの区別なく、みなこれを平等の人とした。そしてこれに与えたものは、はっきりと動かしたりすることが出来ない普遍的人権なのである。従って、その普遍的人権というものは、天が平等に人民に与えたものであって、人の力でこれを奪ったりすることができないものである。ところが、未開の野蛮なところでは、人民はともすれば、そのもともと具有している普遍的人権を、保つことができない者がある。まして、我国のように数百年来封建的で武力をもって人民を処断する制度下にあり、その人民を奴隷のようにしてきた弊害が残り、いまだに全く除去されず、かりにもここに至って改めていない。わが人民の中国やインドの人民と異なっている点であり、ここにしてわが国威の発揚とか、わが国民の富だとかを欲しているが、どうして得ることが出来ようか、いやできない。我らはいくばくかの誠実で国を愛する心は大いにここに奮い起こされるのである。まさしく志を同じくする者と誓い合い、もってわが人民の普遍的人権を主張し、もってその天より賜ったものを保全するものである。また、まさしくその天皇を愛し、国を愛する心は深く、かつ大きいためである。

一 我らはすでに本当に国を愛する真心により奮い起こされて、その人民の普遍的人権を保護主張しようとしている。ところが、これを達成する道程は、まさしくわが天皇陛下の「五箇条の御誓文」の主旨に基づき、わずかな時間でも、どこまでも、ただその「公論公議」の考えに従って、常に公党の主旨を遵守して明瞭にし、よって道徳や功績の高いことである。

一 我らがその政府を注視するに、その人民のために設けられた政府とみなす他はない。そして、わが党の目的は、ただその人民の普遍的人権を保護主張し、そして、人民によって自主自由で、他からの束縛を全く受けない人民であるようにすることに尽きる。これはすなわち、その天皇と人民が一心同体となり、不幸と幸せ、平和と争いを分かち合い、そしてお互いにこの日本帝国を維持繁盛させていく道なのである。

一 それ我らがその普遍的人権を主張しようというのは、アジア州の中の最初の主張であって、しかも天下の大きな使命である。もとよりこれを成功させるには普通の日々の努力だけではできないであろう。従って、我らの結社の有志は常にほどよくその忍耐力を養い、たとえ大変な苦労にさいなまれ続け、いくどもいくども挫折しようとも、積極的に少しも屈服することなく、誠実な心と揺るがない志を保ち、我ら全党の一生涯を懸けた天命の仕事として、ただその普遍的人権を保護主張することに力を尽くし、そして死に就く他ないことを必至とするべきである。

 ここに於いて、ついに調印し、左のように誓い合うものである。

〇(参考)「愛国公党本誓草案」

本誓

一 天の欺人民を生するや、必らず之に付与するに一定動かすへからさるの通義権理を以てす。斯の通義権理なる者は、天の均く以て人民に賜ふ所の者にして、人力の以て移奪するを得さる者なり。然るに世運の未た全く開けさるや、人民動もすれは斯本然の通義権理を保つ能はさる者あり。而して〔抹消:況や我国数百年来封建〕武断の制、其の民を奴視〔抹消:隷に〕せしの餘弊、未た全く刻除せす。苟も是に由て改めす。我人民の支那、印度の人民と相厺る、能く幾くある如是にして、我国威の揚り、我国民の富を欲す。豈に可得〔抹消:や〕。我輩一片至誠愛国の心、大に此に発憤するあり。乃ち同志の士と相誓ひ、以て我人民の通義権理を主張し、以て其天の賜を保全せんとす。即其君を愛し国を愛するの心深く且大なれはなり〔併記:なる事は論する勿れ。遂に亜〕。

〔抹消:一 我輩既に已に愛国至誠の上より発憤し、斯人民の通義権理を保護主張せんとす。然るに之を為すの道、即我天皇陛下の御誓文の旨意に体し、造次顛沛、徹頭徹下、唯斯公論公議を以し、常に盟約の〔抹消:公党の〕旨意を遵守す可し〔抹消:明言し以て先つ明に争ふ可し〕。

一 我輩の斯政府を視る、斯人民の為め設る所の政府と看做すより他なかる可し。而して吾党の目的は、唯斯人民の通義権理を保護主張し、以て斯人民をして自主自由、独立不羈の人民たるを得せしむるに在る而已。是即其君主人民の間〔抹消:主上下をして〕融然一体〔抹消:ならしめ〕、以て其禍福緩急を分ち、〔末梢:以て〕相共に我日本帝国を維持昌盛ならしむるの道なれはなり。

一 夫我輩斯通義権理を主張せんと〔抹消:する者は、亜細亜洲中の首唱にして〕而かも天下の大業なり。〔抹消:固より之を期する、尋常歳月の功を以てすへからす、故に我党の士は常に〕宜く常に其忍耐力を培養し、譬ひ艱難憂戚百挫千折するも、敢て少しても屈撓する事莫く、至誠の心、不抜の志、我輩〔抹消:全党〕終生の力勉焉として、唯た斯通義権理を保護主張する者に竭尽し、死に之くも他なきを要すへし。於之遂に調印相誓ふ者如左。

   「国立国会図書館デジタルコレクション」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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kounohironaka01
 今日は、大正時代の1923年(大正12)に、自由民権運動家・政治家河野広中の亡くなった日です。
 河野広中(こうの ひろなか)は、江戸時代後期の1849年(嘉永2年7月7日)に、磐城国田村郡三春(現在の福島県田村郡三春町)において、三春藩郷士の父・河野広可と妻・リヨ子の三男として生まれました。川前紫渓に儒学を学び、その影響で尊皇攘夷論を唱えるようになり、1868年(慶応4)の戊辰戦争では討幕軍に従軍し、討幕軍参謀板垣退助の知遇を得ます。
 明治新政権成立後は、若松県や三春藩庁へ出仕し、のち常葉の戸長、石川の区長を務め、その頃にジョン・スチュアート・ミルの『自由乃理』(中村正直の訳)を読み感化されました。1875年(明治8)に石川に政治結社・石陽社を組織し、東北地方の自由民権運動の先駆けとなり、1877年(明治10)に西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議します。
 1878年(明治11)に、三春に三師社を組織して東北の自由民権運動を指導、翌年には、三春町戸長ともなりました。1879年(明治12)に大阪で開かれた第3回愛国社大会に参加、翌年には片岡健吉と共に、政府に国会開設意見書を提出したものの、受理されずに終わります。
 1881年(明治14)に福島県会議長に就任、自由党結成に参加し、自由党幹部となり、翌年に福島県令に着任した三島通庸と対立を深めました。同年12月の福島事件により国事犯として拘引され、翌年に高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告されます。
 1889年(明治22)の大日本帝国憲法発布の大赦により出獄、翌年の第1回衆院議員選挙に出馬し、初当選(以来14回連続当選)しました。1897年(明治30)に自由党を脱党しましたが、翌年には、自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力、憲政党の結成を見ています。
 1902年(明治35)に第11代衆議院議長に就任、1902年(明治35)の第19議会開院式で、対露強硬派の立場から勅語奉答文で、桂内閣弾劾を朗読し、政府はこれに反発し衆議院解散(奉答文事件)に至ります。1905年(明治38)に日露講和反対運動を起こし、日比谷焼打ち事件で投獄されたものの、翌年に無罪判決が出されて釈放されました。
 1909年(明治42)にアジア主義団体「亜細亜義会」に犬養毅、頭山満らと共に設立発起人として参加、1913年(大正2)に桂太郎の立憲同志会に入り、1915年(大正4)には、第2次大隈内閣の農商務大臣となります。1916年(大正5)に農商務大臣退任後、憲政会設立に参加、顧問に就任し、普通選挙運動に尽力したものの、議員在職中の1923年(大正12)12月29日に、東京において、肝臓癌のため数え年75歳で亡くなりました。

〇河野広中関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1849年(嘉永2年7月7日) 磐城国田村郡三春(現在の福島県田村郡三春町)において、三春藩郷士の父・河野広可と妻・リヨ子の三男として生まれる
・1868年(慶応4年) 戊辰戦争には討幕軍に従軍し、討幕軍参謀板垣退助を助ける
・1869年(明治2年11月) 若松藩(若松県)へ出仕する
・1870年(明治3年12月) 三春藩(三春県)庁捕亡取締となる
・1873年(明治6年)2月 磐前県第14区(のちの福島県常葉町・現田村市)の副戸長に任命される
・1873年(明治6年)10月 磐前県第14区の戸長となる
・1874年(明治7年)1月 第5大区区長となる 
・1875年(明治8年)8月 石川に政治結社・石陽社を組織し、東北地方の自由民権運動の先駆けとなる
・1877年(明治10年) 西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議する
・1878年(明治11年)1月 福島県属・庶務課民会掛となる
・1878年(明治11年)11月 三春に三師社を組織して東北の自由民権運動を指導する
・1879年(明治12年)2月 三春町戸長となる
・1879年(明治12年)7月 共愛同謀会を結成する
・1879年(明治12年) 大阪で開かれた第3回愛国社大会に参加する
・1880年(明治13年) 国会開設の請願書を政府に提出する
・1881年(明治14年)4月 福島県会議長となる
・1881年(明治14年)10月 自由党結成に参加し、自由党幹部となる
・1882年(明治15年) 福島県令に着任した三島通庸と対立、
・1882年(明治15年)12月 福島事件により国事犯として拘引される
・1883年(明治16年)9月 高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告される
・1889年(明治22年)2月 大日本帝国憲法発布の大赦により出獄する
・1890年(明治23年) 第1回衆院議員選挙に出馬し、初当選(以来14回連続当選)する
・1897年(明治30年) 自由党を脱党する
・1898年(明治31年)6月 自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力、憲政党の結成を見る
・1902年(明治35年) 第11代衆議院議長となる
・1902年(明治35年)12月 第19議会開院式で、対露強硬派の立場から勅語奉答文で、桂内閣弾劾を朗読し、政府はこれに反発し衆議院解散に至る(奉答文事件)
・1905年(明治38年)11月 日露講和反対運動を起こし日比谷焼打ち事件で投獄される
・1906年(明治39年)4月 無罪判決が出されて釈放される
・1909年(明治42年) アジア主義団体「亜細亜義会」に犬養毅、頭山満らと共に設立発起人として参加する
・1913年(大正2年) 桂太郎の立憲同志会に入る
・1915年(大正4年) 第2次大隈内閣の農商務大臣となる
・1916年(大正5年) 農商務大臣退任後、憲政会設立に参加、顧問に就任し、普通選挙運動に尽力する
・1923年(大正12年)12月29日 東京において、肝臓癌のため数え年75歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1941年(昭和16)民俗学者・植物学者南方熊楠の命日詳細
1964年(昭和39)詩人・童謡作家・歌人・随筆家三木露風の命日詳細
1965年(昭和40)作曲家・指揮者山田耕筰の命日(山田耕筰忌)詳細
1993年(平成5)「生物の多様性に関する条約」が発効する詳細
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