ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:松平定信

nihongaishi01
 今日は、江戸時代後期の1827年(文政10)に、頼山陽著『日本外史』22巻が、元老中・松平定信に献呈された日ですが、新暦では6月15日となります。
 『日本外史』(にほんがいし)は、江戸時代後期に頼山陽が、著した国史の史書でした。1800年(寛政12)の脱藩後の幽閉中に執筆を始め、200部余の書を参考にし、その後推敲を重ね、論賛を加え、20年以上もの歳月を費やして、1827年(文政10)に完成し、5月21日に、元老中・松平定信に献呈されています。
 1836年(天保7)~1637(天保8)頃に刊行されましたが、全22巻12冊からなり、漢の司馬遷の『史記』の体裁にならい、政権が武門に帰した由来を史論をはさみつつ、源平両氏から徳川氏まで武家13氏の盛衰興亡について、漢文体で綴ったものでした。天皇から征夷大将軍に任じられた家 (源氏、新田氏、足利氏、徳川氏) の歴史を正記とし、他氏を前記、後記としています。
 史書としては必ずしも正確ではないとされますが、読者を魅了する雄勁で流麗な文章のため、幕末~明治期に広く読まれ、尊王思想で一貫していて、尊王攘夷運動に大きな影響を与えました。

〇『日本外史』の構成

・巻一   源氏前記 平氏
・巻二   源氏正記 源氏上
・巻三   源氏正記 源氏下
・巻四   源氏後記 北条氏
・巻五   新田氏前記 楠氏
・巻六   新田氏正記 新田氏
・巻七   足利氏正記 足利氏上  
・巻八   足利氏正記 足利氏中  
・巻九   足利氏正記 足利氏下  
・巻十   足利氏後記 北条氏  
・巻十一  足利氏後記 武田氏上杉氏  
・巻十二  足利氏後記 毛利氏
・巻十三  徳川氏前記 織田氏上
・巻十四  徳川氏前記 織田氏下
・巻十五  徳川氏前記 豊臣氏上
・巻十六  徳川氏前記 豊臣氏中
・巻十七  徳川氏前記 豊臣氏下
・巻十八  徳川氏正記 徳川氏一
・巻十九  徳川氏正記 徳川氏二
・巻二十  徳川氏正記 徳川氏三
・巻二十一 徳川氏正記 徳川氏四
・巻二十二 徳川氏正記 徳川氏五

☆頼 山陽(らい さんよう)とは?

 江戸時代後期の儒学者・詩人です。1781年(安永9年12月27日)に大坂・江戸堀において、儒学者の父・頼春水、母・静子の長男として生まれましたが、幼名は久太郎(ひさたろう)と言いました。
 1781年(天明元)春水の広島藩儒登用後、しばらくして広島に移り、9歳で学問所に入学し、早くより詩文に秀でていたとされています。1797年(寛政9)には、江戸に遊学し、父の学友・尾藤二洲に学びましたが、翌年帰郷しました。
 1800年(寛政12)脱藩しますが連れ戻されて24歳まで幽閉され、この間史書執筆を志して、『日本外史』を起稿し、幕末の尊王攘夷派につよい影響をあたえます。1803年(享和3)に廃嫡のうえ、幽閉を許され、郷里を出て菅茶山の廉塾の塾頭となりましたが、1811年(文化8) に京都洛中に私塾を開き、詩を教えました。
 1818年(文政元)に西日本の旅に出て、広く文人や儒者と交流し、詩才を発揮、帰京後は詩文の両面で活躍します。その中で、20年以上もの歳月を費やして、1827年(文政10)に『日本外史』を完成させ、5月21日に元老中・松平定信に献呈しました。
 しかし、1832年(天保3年9月23日)に、京都において、肺結核により数え年53歳で亡くなっています。その後、1836年(天保7)~1637年(天保8)頃に『日本外史』が刊行されました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

二十四節季二十四節季の8番目小満の日です詳細
720年(養老4)舎人親王らが『日本書紀』30巻と系図1巻を完成し撰上する(新暦7月1日)詳細
1281年(弘安4)蒙古軍が対馬に上陸し、第2回元寇(弘安の役)が始まる詳細
1575年(天正3)長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼軍を破る(新暦6月29日)詳細
1949年(昭和24)「新宿御苑」が国民公園となり一般に利用が開放される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

kanseiigakunokin01

 今日は、江戸時代後期の1790年(寛政2)に、老中主座・松平定信が朱子学以外の学問を異学として昌平坂学問所での教授を禁止(寛政異学の禁)した日ですが、新暦では7月6日となります。
 寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)は、寛政の改革の一環として、江戸幕府が昌平坂学問所(昌平黌)に対し、朱子学以外を異学とし、その教授を禁止したものでした。老中松平定信が林大学頭(信敬)に下命し、昌平坂学問所(昌平黌)においては正学たる朱子学のみを講究し、異学すなわち朱子学以外の学問は禁ずる旨を達したもので、寛政三博士(柴野栗山・尾藤二洲・岡田寒泉)や西山拙斎の主張を入れて、朱子学の振興を図るために発せられたものです。
 当時は、伊藤仁斎、荻生徂徠などの古学派、井上金峨、片山兼山などの折衷学派、その他諸学派が次第に隆盛し、官学である朱子学は不振のため、それを擁護し、幕吏養成機関としての自覚を促すために行われましたが、諸藩の学校でも幕府の禁令ならうところが出ました。また、朱子学をもって学問吟味(=官吏登用試験)とし、1798年(寛政10)頃まで続けられます。
 これに対し、冢田大峯、豊島豊洲、亀田鵬斎、山本北山、市川鶴鳴らは異学の禁に強く反対し、「異学の五鬼」とさえ称されました。
 以下に、『徳川禁令考』の「寛政異学の禁」の部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『徳川禁令考』の「寛政異学の禁」の部分

 寛政二庚戌年五月廿四日
   学派維持ノ儀に付申達  林大学頭[1]え
 朱学[2]の儀は、慶長以来[3]御代々御信用の御事にて、已に其方家[4]、代々右学風維持の事仰せ付置れ候儀に候得者、油断無く正学[5]相励み、門人共取立て申すべき筈に候。然処近来世上種々新規の説[6]をなし、異学[7]流行、風俗を破り候類これ有り、全く正学[5]衰微のゆえに候哉、甚だ相済まざる事にて候。其方門人共の内にも、右体[8]、学術純正ならざるもの、折節はこれ有る様にも相聞え、如何に候。此度聖堂[9]御取締厳重に仰せ付られ、柴野彦助[10]・岡田清助[11]儀も、右御用仰せ付られ候事[12]に候得者、能々此旨申し談じ、急度門人共異学[7]を禁じ、猶又、自門[13]に限らず他門[14]に申合せ、正学[5]講窮[15]致し、人才[16]取立て候様相心掛申すべく候事。

     『徳川禁令考』より

【注釈】

[1]林大学頭:はやしだいがくのかみ=大学頭だった林信敬(錦峯)のこと。
[2]朱学:しゅがく=朱子学のこと。
[3]慶長以来:けいちょういらい=徳川家康が林羅山を登用した慶長10年(1605年)以来という意味。
[4]其方家:そのほういえ=林家のこと。
[5]正学:せいがく=朱子学を正学とした。
[6]世上種々新規の説:せじょうしゅしゅしんきのせつ=古学、陽明学など儒学の諸派が存在している状態を指す。
[7]異学:いがく=朱子学以外の儒学である古学派、折衷派、陽明学派などのこと。
[8]右体:みぎてい=右に述べたような。
[9]聖堂:せいどう=孔子廟のことだが、この場合はそれに付属する学問所を指す。
[10]柴野彦助:しばのひこすけ=朱子学者で寛政三博士の一人、寛政異学の禁を建議した。
[11]岡田清助:おかだせいすけ=朱子学者で寛政三博士の一人。
[12]右御用仰せ付られ候事:みぎごようおおせつけられそうろうこと=聖堂学問所の儒官として登用されたこと。
[13]自門:じもん=林家。
[14]他門:たもん=林家以外の朱子学者。
[15]講窮:こうきゅう=講義、研究。
[16]人才:じんざい=有能な人材。

<現代語訳>

 寛政2年(1790年)5月24日
   学派の維持の事について申し渡す 林大学頭へ
 朱子学の事は、慶長年間以来、将軍家代々が信用してきた学問で、すでにその方林家でも、代々右の学風を維持するよう命じられてきたのだから、怠り無く朱子学を研鑽し、門人達を養成すべきはずである。ところが近来、世間では種々の新規学説を成し、朱子学以外の儒学の学派が流行し、風俗を乱す者たちが有るのは、全く朱子学が衰微したためであろうか。はなはだよろしくないことである。その方林家門人共の中にも、右に述べたような、正統でない学問を学ぶ者が、時折有る様にも聞いているが、どのようなものであろうか。今度、聖堂学問所の取締りを厳重にするよう命令され、柴野彦助(栗山)・岡田清助(寒泉)にも、右の御用を命令されることとなったので、よくよくこの趣旨を検討し、必ず門人どもに朱子学以外を学ぶことを禁じ、なおまた林家に限らず、他の朱子学者とも相談し、朱子学を講義、研究し、有能な人材を養成するように心がけねばならないこと。

〇(参考)『蜑の焼藻の記(あまのたくものき)』の「寛政異学の禁」についての記述

 試学の評決は儒家へ仰渡されて、大学頭より以下柴野彦助・岡田清助・尾藤良佐等、聖堂に於て諸士の素読講釈を試みたり。されど儒家にては人物人がらはいかにもあれ、其日に当りて講釈弁書の聖教に的当したるならでは上科とせず。されば血気放蕩のやからは、不敵なる根情にまかせて、きのふまで浄瑠璃三味線に心耳をこらしたる者が、四五十日が内に、そこら講釈を聞覚えて、試学に出るやから多し。殊に去心より能き師の云事を聞覚えて、一字一句も違へず聞とりに云ふへに、儒家の評にはいつも上科にあたれり。又実学にて多年志有りて書籍にもしたしく、人がらを慎みて、然るべき勤士にも進むべき者は、おのづから己が見識も交わり、或ひは多聞に迷ふ所有りて、云所いつも儒家の評には当たらず、下等に成たり。

 『蜑の焼藻の記』(森山孝盛著)より 
 注:森山孝盛(1738-1815年)は、のちに目付や先手鉄炮頭などを務めた旗本。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1636年(寛永13)武将・仙台藩の藩祖伊達政宗の命日(新暦6月27日)詳細
1925年(大正14)日本労働組合評議会が結成される詳細
1971年(昭和46)評論家・婦人解放運動家平塚らいてう(平塚雷鳥)の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ