ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:松平定信

03da6678.jpg
 今日は、江戸時代後期の1787年(天明7)に、松平定信が老中首座となり、幕府財政の建て直しなどの「寛政の改革」に着手した日ですが、新暦では8月2日となります。
 寛政の改革(かんせいのかいかく)は、1787年(天明7)から1793年(寛政5)にかけて、江戸幕府11代将軍徳川家斉のもとで、老中松平定信が主導して行った幕政改革で、享保の改革、天保の改革と共に江戸時代の三大改革の一つとされてきました。天明の大飢饉による農村の疲弊により、一揆や打ちこわしが続発し、田沼時代の腐敗・失政による幕藩体制の危機的状況の回復を図ったものです。
 享保の改革を理想として行われ、商業重視の政策を改め、農業を主とする政策を実施、士風を刷新し、思想統制・文武奨励による幕府威信の回復を特徴としていました。主な内容は、倹約、備荒貯蓄の奨励の「七分金積立法」、「旧里帰農奨励令」、「札差棄捐令」、「風俗匡正令」、「物価引下令」、「人足寄場設置令」、「寛政異学の禁」、文武両道を奨励などです。
 一時的に幕政は引き締まりましたが、当初期待された改革もうまく機能せず、家斉と対立するなど多くの反対にあい、1793年 (寛政5) に定信は老中を辞すことになり、頓挫しました。その後もこの改革方針は、松平信明などの遺老たちにより、幕政に引き継がれることにはなります。
 庶民は、「白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」などと揶揄しました。 

〇寛政の改革の主要なもの一覧

<経済政策>

・「囲米の制」
 諸藩の大名に飢饉に備える為、各地に社倉・義倉を築かせ、1万石につき50石の穀物の備蓄を命じる
・「旧里帰農奨励令」
 江戸へ流入していた地方出身の農民達に旅費を支給し帰農を奨励する
・「札差棄捐令」
 旗本・御家人などの救済のため、札差に対して6年以上前の債権破棄、および5年以内になされた借金の利子引き下げを命じる
・猿屋町会所
 「棄捐令」によって損害を受けた札差などを救済するために、資金の貸付を行ってその経営を救済する
・「人足寄場設置令」
 無宿人、浮浪人を江戸石川島に設置した寄場で職業指導する
・勘定所御用達の登用
 江戸の豪商10名を登用する
・「七分金積立法」
 町々が積み立てた救荒基金で、町入用の経費を節約した4万両の7割に、幕府からの1万両を加えて基金とする
・「倹約令」
 贅沢品を取り締まる倹約の徹底を強いた

<学問・思想>

・「寛政異学の禁」
 朱子学を幕府公認の学問と定め、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改め、学問所においての陽明学・古学の講義を禁止する
・「処士横議の禁」
 在野の論者による幕府に対する政治批判を禁止し、海防学者の林子平などが処罰される
・「出版統制令」
 洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、版元の蔦屋重三郎などが処罰される

<その他>

・大奥改革に着手
 8人の上臈御年寄の老女のなかで5人が交代となる
・外交政策
 ロシアの使節アダム・ラクスマンに対し、即時の通商開始を拒絶し、江戸湾、蝦夷地の海防強化を命令する

〇松平定信とは?

 江戸時代の大名・老中で、「寛政の改革」の主導者です。江戸時代中期の1759年1月15日(宝暦8年12月27日)に、江戸において、御三卿の田安徳川家の初代当主だった父・田安宗武(むねたけ)の7男(母は香詮院殿)として生まれましたが、幼名は賢丸といいました。
 1774年(安永3)白河藩主松平定邦の養子となり、翌年世継、1783年(天明3)には家督を継いで白河11万石の藩主となって、従四位下、越中守に叙任されます。天明の大飢饉に際し、上方から食糧を緊急輸送してこれを救済し、倹約令を出して藩の財政支出を抑制、家臣の学問・武芸を奨励するとともに、農民には間引きを禁じて農村人口の増加を図って殖産政策を推進しました。
 これらによって、藩財政を建て直し、名君と称されるようになります。田沼意次失脚後の1787年(天明7)に、徳川御三家の推挙を受けて、第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座、侍従兼任となり、翌年には将軍輔佐ともなりました。
 幕政の建て直しをはかり、いわゆる「寛政の改革」を断行し、「旧里帰農奨励令」、「札差棄捐(きえん)令」、「風俗匡正(きょうせい)令」、「物価引下令」、「人足寄場(よせば)設置令」、「寛政異学の禁」などを実施します。しかし、はじめは期待された改革もうまく機能せず、家斉と対立するなど多くの反対にあい、1793年 (寛政5) に老中を辞しました。
 庶民にも「白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」などと揶揄されています。その後は、白河藩の藩政に専念し、藩校立教館の拡充や江戸湾防備のため、房総沿岸に台場を築造したりしたものの、1812年(文化9)に嫡子定永(さだなが)に封地を譲って隠居し、楽翁と号しました。
 晩年は江戸築地の下屋敷浴恩園に住んで風雅な生活を送りますが、朱子学ほかの学問に通じ、『花月草紙』、『楽亭筆記』、歌集『三草集』、『集古十種』、『古画図考』、自叙伝『宇下人言(うげのひとこと)』などを著します。その中で、1829年(文政12年5月13日)に、江戸において、数え年72歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1587年(天正15)豊臣秀吉によって、「バテレン追放令」が出される(新暦7月24日)詳細
1666年(寛文6)伊万里焼の陶工初代酒井田柿右衛門の命日(新暦7月20日)詳細
1858年(安政5)下田奉行・井上清直らとハリス総領事が、「日米修好通商条約」に調印する(新暦7月29日)詳細
1877年(明治10)動物学者モースが列車の中から大森貝塚を発見詳細
1909年(明治42)小説家太宰治の誕生日ならびに遺体の発見された日(桜桃忌)詳細
1945年(昭和20) 翌日未明にかけて静岡大空襲が行われ、死者1,952人、負傷者5,000余人、焼失戸数26,891戸を出す詳細
福岡大空襲が行われ、死者・行方不明者1,146人、負傷者1,078人、罹災戸数12,693戸を出す詳細
1948年(昭和23)国会決議で「教育勅語」、「軍人勅諭」、その他教育に関する諸詔勅の効力失効を確認する詳細
1954年(昭和29)名古屋テレビ塔が竣工する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

3c49bf3d.gif
 今日は、江戸時代後期の1788年(天明8)に、江戸幕府11代将軍徳川家斉が老中松平定信を将軍補佐として、寛政の改革が推進されることとなった日ですが、新暦では4月9日となります。
 寛政の改革(かんせいのかいかく)は、1787年(天明7)から1793年(寛政5)にかけて、江戸幕府11代将軍徳川家斉のもとで、老中松平定信が主導して行った幕政改革で、享保の改革、天保の改革と共に江戸時代の三大改革の一つとされてきました。天明の大飢饉による農村の疲弊により、一揆や打ちこわしが続発し、田沼時代の腐敗・失政による幕藩体制の危機的状況の回復を図ったものです。
 享保の改革を理想として行われ、商業重視の政策を改め、農業を主とする政策を実施、士風を刷新し、思想統制・文武奨励による幕府威信の回復を特徴としていました。主な内容は、倹約、備荒貯蓄の奨励の「七分金積立法」、「旧里帰農奨励令」、「札差棄捐令」、「風俗匡正令」、「物価引下令」、「人足寄場設置令」、「寛政異学の禁」、文武両道を奨励などです。
 一時的に幕政は引き締まりましたが、当初期待された改革もうまく機能せず、家斉と対立するなど多くの反対にあい、1793年 (寛政5) に定信は老中を辞すことになり、頓挫しました。その後もこの改革方針は、松平信明などの遺老たちにより、幕政に引き継がれることにはなります。
 庶民は、「白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」などと揶揄しました。 

〇寛政の改革の主要なもの一覧

<経済政策>

・「囲米の制」
 諸藩の大名に飢饉に備える為、各地に社倉・義倉を築かせ、1万石につき50石の穀物の備蓄を命じる
・「旧里帰農奨励令」
 江戸へ流入していた地方出身の農民達に旅費を支給し帰農を奨励する
・「札差棄捐令」
 旗本・御家人などの救済のため、札差に対して6年以上前の債権破棄、および5年以内になされた借金の利子引き下げを命じる
・猿屋町会所
 「棄捐令」によって損害を受けた札差などを救済するために、資金の貸付を行ってその経営を救済する
・「人足寄場設置令」
 無宿人、浮浪人を江戸石川島に設置した寄場で職業指導する
・勘定所御用達の登用
 江戸の豪商10名を登用する
・「七分金積立法」
 町々が積み立てた救荒基金で、町入用の経費を節約した4万両の7割に、幕府からの1万両を加えて基金とする
・「倹約令」
 贅沢品を取り締まる倹約の徹底を強いた

<学問・思想>

・「寛政異学の禁」
 朱子学を幕府公認の学問と定め、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改め、学問所においての陽明学・古学の講義を禁止する
・「処士横議の禁」
 在野の論者による幕府に対する政治批判を禁止し、海防学者の林子平などが処罰される
・「出版統制令」
 洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、版元の蔦屋重三郎などが処罰される

<その他>

・大奥改革に着手
 8人の上臈御年寄の老女のなかで5人が交代となる
・外交政策
 ロシアの使節アダム・ラクスマンに対し、即時の通商開始を拒絶し、江戸湾、蝦夷地の海防強化を命令する

☆松平定信とは?

 江戸時代の大名・老中で、「寛政の改革」の主導者です。江戸時代中期の1759年1月15日(宝暦8年12月27日)に、江戸において、御三卿の田安徳川家の初代当主だった父・田安宗武(むねたけ)の7男(母は香詮院殿)として生まれましたが、幼名は賢丸といいました。
 1774年(安永3)白河藩主松平定邦の養子となり、翌年世継、1783年(天明3)には家督を継いで白河11万石の藩主となって、従四位下、越中守に叙任されます。天明の大飢饉に際し、上方から食糧を緊急輸送してこれを救済し、倹約令を出して藩の財政支出を抑制、家臣の学問・武芸を奨励するとともに、農民には間引きを禁じて農村人口の増加を図って殖産政策を推進しました。
 これらによって、藩財政を建て直し、名君と称されるようになります。田沼意次失脚後の1787年(天明7)に、徳川御三家の推挙を受けて、第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座、侍従兼任となり、翌年には将軍輔佐ともなりました。
 幕政の建て直しをはかり、いわゆる「寛政の改革」を断行し、「旧里帰農奨励令」、「札差棄捐(きえん)令」、「風俗匡正(きょうせい)令」、「物価引下令」、「人足寄場(よせば)設置令」、「寛政異学の禁」などを実施します。しかし、はじめは期待された改革もうまく機能せず、家斉と対立するなど多くの反対にあい、1793年 (寛政5) に老中を辞しました。
 庶民にも「白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」などと揶揄されています。その後は、白河藩の藩政に専念し、藩校立教館の拡充や江戸湾防備のため、房総沿岸に台場を築造したりしたものの、1812年(文化9)に嫡子定永(さだなが)に封地を譲って隠居し、楽翁と号しました。
 晩年は江戸築地の下屋敷浴恩園に住んで風雅な生活を送りますが、朱子学ほかの学問に通じ、『花月草紙』、『楽亭筆記』、歌集『三草集』、『集古十種』、『古画図考』、自叙伝『宇下人言(うげのひとこと)』などを著します。その中で、1829年(文政12年5月13日)に、江戸において、数え年72歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1053年(永承9)藤原頼通により宇治平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)が完成する(新暦3月26日)詳細
1697年(元禄10)国学者・歌人賀茂真淵の誕生日(新暦4月24日)詳細
1774年(安永3)前野良沢・杉田玄白らによって、『解体新書』が刊行される(新暦4月18日)詳細
1806年(文化3)江戸三大大火の一つ、文化の大火が起きる(新暦4月22日)詳細
1869年(明治2)明治政府が貨幣を円形として鋳造する円貨の制度を定める(新暦4月15日)詳細
1952年(昭和27)1952年十勝沖地震(M8.2)が起こり、津波によって死者行方不明者33名を出す詳細
1968年(昭和43)広島県尾道市の尾道水道を渡り、本州本土と向島を結ぶ尾道大橋(国道317号)が開通する詳細
1972年(昭和47)「日米渡り鳥条約」が締結(1979年9月19日発効)される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

nihongaishi01
 今日は、江戸時代後期の1827年(文政10)に、頼山陽著『日本外史』22巻が、元老中・松平定信に献呈された日ですが、新暦では6月15日となります。
 『日本外史』(にほんがいし)は、江戸時代後期に頼山陽が、著した国史の史書でした。1800年(寛政12)の脱藩後の幽閉中に執筆を始め、200部余の書を参考にし、その後推敲を重ね、論賛を加え、20年以上もの歳月を費やして、1827年(文政10)に完成し、5月21日に、元老中・松平定信に献呈されています。
 1836年(天保7)~1637(天保8)頃に刊行されましたが、全22巻12冊からなり、漢の司馬遷の『史記』の体裁にならい、政権が武門に帰した由来を史論をはさみつつ、源平両氏から徳川氏まで武家13氏の盛衰興亡について、漢文体で綴ったものでした。天皇から征夷大将軍に任じられた家 (源氏、新田氏、足利氏、徳川氏) の歴史を正記とし、他氏を前記、後記としています。
 史書としては必ずしも正確ではないとされますが、読者を魅了する雄勁で流麗な文章のため、幕末~明治期に広く読まれ、尊王思想で一貫していて、尊王攘夷運動に大きな影響を与えました。

〇『日本外史』の構成

・巻一   源氏前記 平氏
・巻二   源氏正記 源氏上
・巻三   源氏正記 源氏下
・巻四   源氏後記 北条氏
・巻五   新田氏前記 楠氏
・巻六   新田氏正記 新田氏
・巻七   足利氏正記 足利氏上  
・巻八   足利氏正記 足利氏中  
・巻九   足利氏正記 足利氏下  
・巻十   足利氏後記 北条氏  
・巻十一  足利氏後記 武田氏上杉氏  
・巻十二  足利氏後記 毛利氏
・巻十三  徳川氏前記 織田氏上
・巻十四  徳川氏前記 織田氏下
・巻十五  徳川氏前記 豊臣氏上
・巻十六  徳川氏前記 豊臣氏中
・巻十七  徳川氏前記 豊臣氏下
・巻十八  徳川氏正記 徳川氏一
・巻十九  徳川氏正記 徳川氏二
・巻二十  徳川氏正記 徳川氏三
・巻二十一 徳川氏正記 徳川氏四
・巻二十二 徳川氏正記 徳川氏五

☆頼 山陽(らい さんよう)とは?

 江戸時代後期の儒学者・詩人です。1781年(安永9年12月27日)に大坂・江戸堀において、儒学者の父・頼春水、母・静子の長男として生まれましたが、幼名は久太郎(ひさたろう)と言いました。
 1781年(天明元)春水の広島藩儒登用後、しばらくして広島に移り、9歳で学問所に入学し、早くより詩文に秀でていたとされています。1797年(寛政9)には、江戸に遊学し、父の学友・尾藤二洲に学びましたが、翌年帰郷しました。
 1800年(寛政12)脱藩しますが連れ戻されて24歳まで幽閉され、この間史書執筆を志して、『日本外史』を起稿し、幕末の尊王攘夷派につよい影響をあたえます。1803年(享和3)に廃嫡のうえ、幽閉を許され、郷里を出て菅茶山の廉塾の塾頭となりましたが、1811年(文化8) に京都洛中に私塾を開き、詩を教えました。
 1818年(文政元)に西日本の旅に出て、広く文人や儒者と交流し、詩才を発揮、帰京後は詩文の両面で活躍します。その中で、20年以上もの歳月を費やして、1827年(文政10)に『日本外史』を完成させ、5月21日に元老中・松平定信に献呈しました。
 しかし、1832年(天保3年9月23日)に、京都において、肺結核により数え年53歳で亡くなっています。その後、1836年(天保7)~1637年(天保8)頃に『日本外史』が刊行されました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

二十四節季二十四節季の8番目小満の日です詳細
720年(養老4)舎人親王らが『日本書紀』30巻と系図1巻を完成し撰上する(新暦7月1日)詳細
1281年(弘安4)蒙古軍が対馬に上陸し、第2回元寇(弘安の役)が始まる詳細
1575年(天正3)長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼軍を破る(新暦6月29日)詳細
1949年(昭和24)「新宿御苑」が国民公園となり一般に利用が開放される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

kanseiigakunokin01

 今日は、江戸時代後期の1790年(寛政2)に、老中主座・松平定信が朱子学以外の学問を異学として昌平坂学問所での教授を禁止(寛政異学の禁)した日ですが、新暦では7月6日となります。
 寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)は、寛政の改革の一環として、江戸幕府が昌平坂学問所(昌平黌)に対し、朱子学以外を異学とし、その教授を禁止したものでした。老中松平定信が林大学頭(信敬)に下命し、昌平坂学問所(昌平黌)においては正学たる朱子学のみを講究し、異学すなわち朱子学以外の学問は禁ずる旨を達したもので、寛政三博士(柴野栗山・尾藤二洲・岡田寒泉)や西山拙斎の主張を入れて、朱子学の振興を図るために発せられたものです。
 当時は、伊藤仁斎、荻生徂徠などの古学派、井上金峨、片山兼山などの折衷学派、その他諸学派が次第に隆盛し、官学である朱子学は不振のため、それを擁護し、幕吏養成機関としての自覚を促すために行われましたが、諸藩の学校でも幕府の禁令ならうところが出ました。また、朱子学をもって学問吟味(=官吏登用試験)とし、1798年(寛政10)頃まで続けられます。
 これに対し、冢田大峯、豊島豊洲、亀田鵬斎、山本北山、市川鶴鳴らは異学の禁に強く反対し、「異学の五鬼」とさえ称されました。
 以下に、『徳川禁令考』の「寛政異学の禁」の部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『徳川禁令考』の「寛政異学の禁」の部分

 寛政二庚戌年五月廿四日
   学派維持ノ儀に付申達  林大学頭[1]え
 朱学[2]の儀は、慶長以来[3]御代々御信用の御事にて、已に其方家[4]、代々右学風維持の事仰せ付置れ候儀に候得者、油断無く正学[5]相励み、門人共取立て申すべき筈に候。然処近来世上種々新規の説[6]をなし、異学[7]流行、風俗を破り候類これ有り、全く正学[5]衰微のゆえに候哉、甚だ相済まざる事にて候。其方門人共の内にも、右体[8]、学術純正ならざるもの、折節はこれ有る様にも相聞え、如何に候。此度聖堂[9]御取締厳重に仰せ付られ、柴野彦助[10]・岡田清助[11]儀も、右御用仰せ付られ候事[12]に候得者、能々此旨申し談じ、急度門人共異学[7]を禁じ、猶又、自門[13]に限らず他門[14]に申合せ、正学[5]講窮[15]致し、人才[16]取立て候様相心掛申すべく候事。

     『徳川禁令考』より

【注釈】

[1]林大学頭:はやしだいがくのかみ=大学頭だった林信敬(錦峯)のこと。
[2]朱学:しゅがく=朱子学のこと。
[3]慶長以来:けいちょういらい=徳川家康が林羅山を登用した慶長10年(1605年)以来という意味。
[4]其方家:そのほういえ=林家のこと。
[5]正学:せいがく=朱子学を正学とした。
[6]世上種々新規の説:せじょうしゅしゅしんきのせつ=古学、陽明学など儒学の諸派が存在している状態を指す。
[7]異学:いがく=朱子学以外の儒学である古学派、折衷派、陽明学派などのこと。
[8]右体:みぎてい=右に述べたような。
[9]聖堂:せいどう=孔子廟のことだが、この場合はそれに付属する学問所を指す。
[10]柴野彦助:しばのひこすけ=朱子学者で寛政三博士の一人、寛政異学の禁を建議した。
[11]岡田清助:おかだせいすけ=朱子学者で寛政三博士の一人。
[12]右御用仰せ付られ候事:みぎごようおおせつけられそうろうこと=聖堂学問所の儒官として登用されたこと。
[13]自門:じもん=林家。
[14]他門:たもん=林家以外の朱子学者。
[15]講窮:こうきゅう=講義、研究。
[16]人才:じんざい=有能な人材。

<現代語訳>

 寛政2年(1790年)5月24日
   学派の維持の事について申し渡す 林大学頭へ
 朱子学の事は、慶長年間以来、将軍家代々が信用してきた学問で、すでにその方林家でも、代々右の学風を維持するよう命じられてきたのだから、怠り無く朱子学を研鑽し、門人達を養成すべきはずである。ところが近来、世間では種々の新規学説を成し、朱子学以外の儒学の学派が流行し、風俗を乱す者たちが有るのは、全く朱子学が衰微したためであろうか。はなはだよろしくないことである。その方林家門人共の中にも、右に述べたような、正統でない学問を学ぶ者が、時折有る様にも聞いているが、どのようなものであろうか。今度、聖堂学問所の取締りを厳重にするよう命令され、柴野彦助(栗山)・岡田清助(寒泉)にも、右の御用を命令されることとなったので、よくよくこの趣旨を検討し、必ず門人どもに朱子学以外を学ぶことを禁じ、なおまた林家に限らず、他の朱子学者とも相談し、朱子学を講義、研究し、有能な人材を養成するように心がけねばならないこと。

〇(参考)『蜑の焼藻の記(あまのたくものき)』の「寛政異学の禁」についての記述

 試学の評決は儒家へ仰渡されて、大学頭より以下柴野彦助・岡田清助・尾藤良佐等、聖堂に於て諸士の素読講釈を試みたり。されど儒家にては人物人がらはいかにもあれ、其日に当りて講釈弁書の聖教に的当したるならでは上科とせず。されば血気放蕩のやからは、不敵なる根情にまかせて、きのふまで浄瑠璃三味線に心耳をこらしたる者が、四五十日が内に、そこら講釈を聞覚えて、試学に出るやから多し。殊に去心より能き師の云事を聞覚えて、一字一句も違へず聞とりに云ふへに、儒家の評にはいつも上科にあたれり。又実学にて多年志有りて書籍にもしたしく、人がらを慎みて、然るべき勤士にも進むべき者は、おのづから己が見識も交わり、或ひは多聞に迷ふ所有りて、云所いつも儒家の評には当たらず、下等に成たり。

 『蜑の焼藻の記』(森山孝盛著)より 
 注:森山孝盛(1738-1815年)は、のちに目付や先手鉄炮頭などを務めた旗本。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1636年(寛永13)武将・仙台藩の藩祖伊達政宗の命日(新暦6月27日)詳細
1925年(大正14)日本労働組合評議会が結成される詳細
1971年(昭和46)評論家・婦人解放運動家平塚らいてう(平塚雷鳥)の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ