
1836年(天保7)~1637(天保8)頃に刊行されましたが、全22巻12冊からなり、漢の司馬遷の『史記』の体裁にならい、政権が武門に帰した由来を史論をはさみつつ、源平両氏から徳川氏まで武家13氏の盛衰興亡について、漢文体で綴ったものでした。天皇から征夷大将軍に任じられた家 (源氏、新田氏、足利氏、徳川氏) の歴史を正記とし、他氏を前記、後記としています。
史書としては必ずしも正確ではないとされますが、読者を魅了する雄勁で流麗な文章のため、幕末~明治期に広く読まれ、尊王思想で一貫していて、尊王攘夷運動に大きな影響を与えました。
1781年(天明元)春水の広島藩儒登用後、しばらくして広島に移り、9歳で学問所に入学し、早くより詩文に秀でていたとされています。1797年(寛政9)には、江戸に遊学し、父の学友・尾藤二洲に学びましたが、翌年帰郷しました。
1800年(寛政12)脱藩しますが連れ戻されて24歳まで幽閉され、この間史書執筆を志して、『日本外史』を起稿し、幕末の尊王攘夷派につよい影響をあたえます。1803年(享和3)に廃嫡のうえ、幽閉を許され、郷里を出て菅茶山の廉塾の塾頭となりましたが、1811年(文化8) に京都洛中に私塾を開き、詩を教えました。
1818年(文政元)に西日本の旅に出て、広く文人や儒者と交流し、詩才を発揮、帰京後は詩文の両面で活躍します。その中で、20年以上もの歳月を費やして、1827年(文政10)に『日本外史』を完成させ、5月21日に元老中・松平定信に献呈しました。
しかし、1832年(天保3年9月23日)に、京都において、肺結核により数え年53歳で亡くなっています。その後、1836年(天保7)~1637年(天保8)頃に『日本外史』が刊行されました。
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