
享保の改革を理想として行われ、商業重視の政策を改め、農業を主とする政策を実施、士風を刷新し、思想統制・文武奨励による幕府威信の回復を特徴としていました。主な内容は、倹約、備荒貯蓄の奨励の「七分金積立法」、「旧里帰農奨励令」、「札差棄捐令」、「風俗匡正令」、「物価引下令」、「人足寄場設置令」、「寛政異学の禁」、文武両道を奨励などです。
一時的に幕政は引き締まりましたが、当初期待された改革もうまく機能せず、家斉と対立するなど多くの反対にあい、1793年 (寛政5) に定信は老中を辞すことになり、頓挫しました。その後もこの改革方針は、松平信明などの遺老たちにより、幕政に引き継がれることにはなります。
庶民は、「白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」などと揶揄しました。
1774年(安永3)白河藩主松平定邦の養子となり、翌年世継、1783年(天明3)には家督を継いで白河11万石の藩主となって、従四位下、越中守に叙任されます。天明の大飢饉に際し、上方から食糧を緊急輸送してこれを救済し、倹約令を出して藩の財政支出を抑制、家臣の学問・武芸を奨励するとともに、農民には間引きを禁じて農村人口の増加を図って殖産政策を推進しました。
これらによって、藩財政を建て直し、名君と称されるようになります。田沼意次失脚後の1787年(天明7)に、徳川御三家の推挙を受けて、第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座、侍従兼任となり、翌年には将軍輔佐ともなりました。
幕政の建て直しをはかり、いわゆる「寛政の改革」を断行し、「旧里帰農奨励令」、「札差棄捐(きえん)令」、「風俗匡正(きょうせい)令」、「物価引下令」、「人足寄場(よせば)設置令」、「寛政異学の禁」などを実施します。しかし、はじめは期待された改革もうまく機能せず、家斉と対立するなど多くの反対にあい、1793年 (寛政5) に老中を辞しました。
庶民にも「白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」などと揶揄されています。その後は、白河藩の藩政に専念し、藩校立教館の拡充や江戸湾防備のため、房総沿岸に台場を築造したりしたものの、1812年(文化9)に嫡子定永(さだなが)に封地を譲って隠居し、楽翁と号しました。
晩年は江戸築地の下屋敷浴恩園に住んで風雅な生活を送りますが、朱子学ほかの学問に通じ、『花月草紙』、『楽亭筆記』、歌集『三草集』、『集古十種』、『古画図考』、自叙伝『宇下人言(うげのひとこと)』などを著します。その中で、1829年(文政12年5月13日)に、江戸において、数え年72歳で亡くなりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1587年(天正15) | 豊臣秀吉によって、「バテレン追放令」が出される(新暦7月24日) | 詳細 |
| 1666年(寛文6) | 伊万里焼の陶工初代酒井田柿右衛門の命日(新暦7月20日) | 詳細 |
| 1858年(安政5) | 下田奉行・井上清直らとハリス総領事が、「日米修好通商条約」に調印する(新暦7月29日) | 詳細 |
| 1877年(明治10) | 動物学者モースが列車の中から大森貝塚を発見 | 詳細 |
| 1909年(明治42) | 小説家太宰治の誕生日ならびに遺体の発見された日(桜桃忌) | 詳細 |
| 1945年(昭和20) | 翌日未明にかけて静岡大空襲が行われ、死者1,952人、負傷者5,000余人、焼失戸数26,891戸を出す | 詳細 |
| 福岡大空襲が行われ、死者・行方不明者1,146人、負傷者1,078人、罹災戸数12,693戸を出す | 詳細 | |
| 1948年(昭和23) | 国会決議で「教育勅語」、「軍人勅諭」、その他教育に関する諸詔勅の効力失効を確認する | 詳細 |
| 1954年(昭和29) | 名古屋テレビ塔が竣工する | 詳細 |


