ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:松平信綱

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 今日は、江戸時代前期の承応2年に、玉川上水の羽村~四谷大木戸間の掘鑿が完工した日ですが、新暦では1654年1月4日となります。
 玉川上水(たまがわじょうすい)は、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた用水路で、神田上水、千川上水と共に江戸三上水の一つでした。江戸幕府第4代将軍徳川家綱の時代の1653年 (承応2) に、町人・清右衛門の建議を受けて、同年4月4日に庄右衛門・清右衛門兄弟が、多摩川中流羽村と四谷大木戸間の水路を着工します。
 2度の失敗を経て、同年11月16日に、羽村~四谷大木戸間の掘鑿が完工します。総奉行松平信綱のもとに1654年(承応3年6月20日)に、この区間が竣工し、江戸市中への通水が開始され、翌年に四谷大木戸~江戸城虎ノ門前までが完成しました。
 これ以後は、配水路が次々に延長されていって、江戸の南部方面に配水されます。多摩川の水を羽村(現在の東京都羽村市)で取水し、拝島-立川-武蔵境-下高井戸-四谷大木戸 (現在の東京都新宿区)間の約43kmは、自然流下により導水する開渠で、ここからは、石樋や木管で江戸城・武家屋敷・庶民の居住地等に給水されました。
 その後、野火止(のびどめ)、青山、三田、千川の各分水が設けられ、飲料水あるいは灌漑用水として利用されます。庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられ、その経営を請け負って、玉川両家で世襲されました。
 しかし、1739年(元文4)両家とも役を罷免され、以後同上水は幕府の直営となります。明治時代になっても使用され、1898年(明治31)に東京に改良水道が完成した後も、1965年(昭和40)まで淀橋浄水場への導水路として利用され、現在は立川市砂川から東村山市浄水場へ送水されるようになりました。
 これに伴い、小平地点より下流部分は流水がとだえましたが、東京都の施策により1986年(昭和61)に清流が復活し、開渠部分の約30.4kmが、2003年(平成15)に国の史跡に指定されています。
 以下に、1895年(明治28)4月建立の「水道碑記」(所在地:東京都新宿区内藤町87)の原文を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「水道碑記」1895年(明治28)建立(所在地:東京都新宿区内藤町87)

<原文>

(表面)
                従三位侯爵徳川家達篆額
詩曰瞻彼洛矣維水泱泱聖人之設都也以水為急蓋以人須水不可一日欠也徳川氏之開府
于江戸也諸侯会同工商簇聚者殆一百万地窄不能尽容乃塡海為陸而地無清泉民龥渇将
軍秀忠深患之乃親騎旁索四郊多摩郡有一沼水觱沸嘗之味甘大悦乃命工人浚汚泥鑿田
畝東導四里有半至関口村置閘築堰導至小石川埋石地下作闇溝踰神田川至小川街分為
両岐一過東神田瀉柳原溝一至神田橋分注城内百邸本流踰竜閑橋過常盤橋外到京橋此
間分二派一注銀街馬喰街入浅草溝一注本街折至堀留過小舟小網街至箱崎入大河人民
各捐私金自引地下闇溝如布網千区百街無処不注是為神田水道将軍自命曰井頭謂市井
之源也而水猶未足将軍家綱更開玉川水道玉川発源甲斐山梨郡東流三十八里入海家綱
擢市尹神尾備前幹事備前挙川傍富民荘左門清右門二人不別設官吏二人精工事測道遠
近度地高低預算経費六千五百両備器具傭役夫承応三年四月既肇羽村鑿渠八尺広十二
尺設閘若干以備暴溢之虞東導十余里至四谷費用不足二人以私金継之不復稟求埋木桶
作闇溝一如井頭水道至麴街分四流一下赤阪至虎門外分之三方東者入桜田門注西城外
諸区瀉呉服橋南者泝京橋滙八町堀木挽街入大河西者注芝百街入金杉海第二流注平河
永田霞関数街第三第四流入半蔵門一注西城一入大城為官園瀑布風光添趣余流環為城
溝十一月工事告竣闇溝長若干埋木桶若干無一所欠家綱嘉賞賜二人姓玉川給禄二百石
列之士伍云嗚呼水道之益于都下実莫大旱不枯雨不溢源源混混灕然不止三百年于今民
不病一日之渇且此水流遠性和百万人民不病癩疾疥癬為恵也大如玉川二氏尽力于此不
少為労亦捐金無吝色其事為後法其利及百世可謂偉也若神田水道雖有粗記之者不悉費
金多寡及役夫之数不可得而審為可惜焉余閲旧志略知其顚末恐歳月之久功績湮没後人
無可考因不顧不文乃記其大概与同志者合力刻石以垂不朽云
明治十八年四月              薩摩   肝付兼武撰
              内閣大書記官従五位勲五等金井之恭書
                             井亀泉刻字


(裏面)
 水道記念碑之裏銘
此碑成矣碑之告成原是所
出於良人西座真治之発起
也真治徇業而不惜斡旋多
年支出不貲有志之醵金不
充真治資力尽不董業而逝
焉真治臨死無他事遺妾以
此一事妾感奮鏤肺醵私財
以建設之時在明治廿八年
臘之某日嗚呼妾之微衷慰
霊於九泉之下併記発起之
誰何云爾
  未亡西座ふく識之

☆玉川上水関係略年表(日付は旧暦です)

・1653年 (承応2年1月13日) 江戸幕府が、町人・清右衛門が建議した多摩川からの江戸への導水路(玉川上水)の着工を許可する
・1653年 (承応2年4月4日) 庄右衛門・清右衛門兄弟が多摩川中流羽村と四谷大木戸間の水路を着工する
・1954年(承応2年11月16日) 羽村~四谷大木戸間の掘鑿が完工する
・1654年(承応3年6月20日) 総奉行松平信綱のもとにに、羽村~四谷大木戸間が竣工し、江戸市中への通水が開始される
・1655年(明暦元年) 四谷大木戸~江戸城虎ノ門前までが完成する
・1655年(明暦元年) 分水の一つ、野火止用水が開削される
・1659年(万治2年) 維持管理費用として水上修復料銀の徴収が始まる
・1660年(万治3年) 分水の一つ、青山上水が開設される
・1664年(寛文4年) 分水の一つ、三田上水が開削される
・1696年(元禄9年) 分水の一つ、千川上水が完工する
・1739年(元文4年) 玉川両家が共に玉川上水役を罷免され、以後同上水は幕府の直営となる
・1898年(明治31年) 東京に改良水道が完成する
・1901年(明治34年) 東京の上水用としては廃止される
・1965年(昭和40年) 淀橋浄水場廃止まで、導水路として利用される
・1986年(昭和61年) 東京都の施策により、小平地点より下流部分の清流が復活する
・2003年(平成15年) 開渠部分の約30.4kmが国の史跡に指定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1638年(寛永14)第111代の天皇とされる後西天皇の誕生日(新暦1638年1月1日)詳細
1868年(明治元)詩人・評論家北村透谷の誕生日(新暦12月29日)詳細
1937年(昭和12)「愛国国債」が発行され、郵便局窓口で売り出される詳細
1945年(昭和20)「ユネスコ憲章」が採択(翌年11月4日発効)され、際連合教育科学文化機関(ユネスコ)設置が決まる詳細
1946年(昭和21)「当用漢字表」が内閣告示される詳細
「現代かなづかい」が内閣告示される詳細
1962年(昭和37)日本を代表する刑法学者・京都大学総長瀧川幸辰の命日詳細
1972年(昭和47)第17回ユネスコ総会(於:パリ)において「世界遺産条約」が採択される詳細
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 今日は、江戸時代前期の1638年(寛永15)に、島原・原城が落城し、島原の乱(島原・天草一揆)が終結、蘢城していた一揆勢が皆殺しになった日ですが、新暦では4月12日となります。
 島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代前期の1637年(寛永14年10月25日)~翌年2月28日まで、九州の島原・天草地方で起きた、日本の歴史上最大規模の一揆で、島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれてきました。
 以前この地方は,キリシタン大名有馬晴信や小西行長の領地で、住民にもキリスト教徒が多かったのですが、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い後、天草の領主は寺沢氏に代り、1615年(元和元)に、島原の領主が松倉氏に代わります。寺沢氏・松倉氏は、キリシタン信者に対する過酷な弾圧と農民への過重な年貢の負担を強制し、滞納する者には重罰を課しました。
 その中で、1637年(寛永14年10月25日)に、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害し、これをきっかけに島原半島一帯の農民が蜂起します。豪農益田甚兵衛の子四郎時貞(16歳)が首領に推され、商人、手工業者、船頭なども参加、さらに天草の農民も加わって、大規模な一揆となりました。
 一揆勢は、最初は島原藩兵を追い返したり、11月14日の本渡の戦いでは、富岡城代の三宅重利を自刃させるなど優勢でしたが、九州諸藩の討伐軍が來ると原城跡に約3万7千人が立て籠もります。江戸幕府は12月に鎮圧のため板倉重昌を派遣し、近隣諸藩の兵を指揮させましたが、翌年元旦の総攻撃で重昌は戦死してしまいました。
 その後、老中松平信綱が着陣して指揮を取り、十数万の包囲軍による兵糧攻めや艦砲射撃なども行います。そして、一揆勢の食糧や弾薬が尽きた頃、幕府軍の総攻撃によって陥落し、1638年(寛永15年2月28日)に終結しましたが、一揆勢はほぼ全員が殺されました。
 しかし、幕府側も40万両余の戦費と数千の武士を失うという痛手で、原因を作った松倉重次を処刑し、寺沢氏の所領を没収するなどの処置を取ります。これ以後、キリスト教への弾圧は一層きびしくなり、鎖国を促すことにもなりました。

〇「原城跡」とは?
 長崎県南島原市にあり、島原の乱(1637~38年)で、幕府軍とキリスト教徒中心の一揆勢が戦ったところで、本丸跡には首領天草四郎時貞の像が立っています。城跡には、大手門跡、板倉重昌碑、本丸跡、ホネカミ地蔵、天草四郎像、天草四郎墓などが残されてきました。
 今はほとんどが農耕地となっていて、しかも海の眺望が良く、のどかな田園地帯で、ここで島原の乱があり、約3万7千人が死んだとは思えない場所となっています。尚、1938年(昭和13)に国の史跡となり、2017年(平成29)に「続日本100名城」(188番)に選定され、2018年(平成30)には、世界遺産(文化遺産)の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成要素の一つとして、登録されました。

〇「天草四郎メモリアルホール」とは?
 熊本県上天草市の大久野島は、島原の乱(1637~38年)の首謀者である天草四郎の出身地で、「天草四郎メモリアルホール」がありますが、丘の上の協会風の建物です。江戸時代前期の一大事件はこの地方の農民たちによって引き起こされました。
 幕府、大名による過酷な弾圧は、キリシタンたちを団結させ、一揆に立ち上がらせます。その時代に、神を最高のものとして、崇めることは異端でした。
 幕府側の徹底した反撃に、最後は島原半島の原城跡に約3万7千人が立て籠もっての長期の抵抗の末、全員虐殺されます。しかし、それによってキリシタン信仰を根絶やしにすることは出来ず、陰に隠れ、連綿として受け継がれていくことになりました。
 あの江戸時代の長きにわたって、信仰を守り通したことは、驚異といっても良いと思います。館内の最後に、なんとも不思議な部屋「瞑想のホール」があって、音と光の中で、静かに回想できました。
 床には、奇妙なクッションが置いてあって、座りながらしばらくくつろいでみましたが、何とも言えない異空間が体験できます。外には、天草四郎之像とキリシタン墓がありました。

〇「キリスト教の伝来と禁教令」とは?
 1549年(天文18)に、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが、鹿児島に来航して、キリスト教は伝来します。その後、大内義隆や大内義鎮などの保護もあって、機内や九州北部を中心に広がりました。
 各地に南蛮寺(教会堂)やコレジオ(宣教師学校)、セミナリオ(神学校)なども建てられ、高山右近などのキリシタン大名(洗礼を受けた大名)も登場して、天正遣欧使節も送られたりします。しかし、豊臣秀吉により、1587年(天正15)にバテレン追放令が出されるなどして、次第にキリシタン弾圧が始まりました。
 江戸時代になると、1612年(慶長17)に幕府直轄領に禁教令が出され、翌年には全国に及ぶようになります。この後は、宣教師や信者の処刑や海外追放などの激しい迫害が始まりました。

☆島原の乱関係略年表(日付は旧暦です)

<1637年(寛永14)>
・9月30日 天草四郎(16才?)は一人で宇土町から大矢野の渡辺左太郎(姉婿)の家へ向かう。後日、父の甚平が大矢野に向かう
・10月7日 天草郡大矢野村宮津で、天草四郎は天草の盟主(総大将)『天草四郎時貞』の名をもらう
・10月9日 天草四郎が上津浦で多くの信徒を前に説教をする
・10月19日 天草四郎が南有馬村の角蔵と北有馬村の三吉に、キリシタンの教えを説く
・10月24日 湯島(談合島)島原と天草の代表が集まって、天草四郎は天草と島原の両方の盟主になる
・10月25日 天草四郎は親類の渡辺伝兵衛の家に移り、島原の代官林兵左衛門が百姓たちに殺される(島原の乱の始まり)
・10月26日 天草四郎は渡辺小左衛門たち50人といっしょに栖本の郡代の家に行き、キリシタンにもどるように説く、島原で一揆勢が立ち上がり、深江合戦後大手門の激戦になるが島原城は落とせず
・10月28日 天草で一揆が開始され、領内の神社仏閣を襲う
・10月30日 渡辺小左衛門たち組の幹部が、宇土郡の郡浦にて細川藩に捕らえられ、人質になる
・11月1日 天草四郎の母、姉、妹たちが、細川藩に捕らえられて人質になる
・11月4日 天草四郎は50人もの有力者をひきつれて、島原の有馬にわたる
・11月8日 有馬の百姓たちが、天草四郎に誓詞を差し出す
・11月13日 島原の一揆勢の一部が、天草に加勢に来る、湯島にもどって原城立て籠もりの話をし、上津浦に上陸して、天草一揆の本陣を上津浦に移す
・11月14日 午前に島子村で富岡の領主勢と戦い、島子合戦で勝利、午後に本渡合戦で唐津藩城代(富岡城の領主)三宅籐兵衛を討ち取られる
・11月19日 一揆勢が富岡城を包囲する
・11月22日 一揆勢は富岡城を攻略できずに島原に撤退する
・11月24日 一揆勢は有馬の古城、原城を修理して、立て籠もる
・12月1日 一揆勢は島原の原城跡で籠城作戦の準備をする
・12月3日 一揆勢は天草・島原の各地から海を渡って原城に入り、総数約37,000人が集結する
・12月10日 原城が幕府軍に包囲されて、両軍はじめて戦火を交える
・12月19日 幕府軍が夜中に総攻撃をしかけたが、一揆勢に追いかえされる

<1638年(寛永15)>
・1月1日 夜明けに2回目の幕府軍総攻撃が行われ、上司板倉重昌が討ち死にする
・1月4日 幕府軍の老中松平信綱と10万の大軍が島原に到着し、幕府側から和漢交渉を求め、干殺し作戦に入る 
・1月11日 オランダ船が原城を大砲で攻撃する
・1月13日 一揆勢より矢文合戦を開始する
・1月22日 囲碁をしていた時、陸から打たれた砲弾が四郎の袖に当り負傷、側近の数名が即死する
・2月1日 老中松平信綱の指図によって、人質となった四郎の母の手紙がとどいたが、無視される
・2月3日 両軍の代表が大江口で会見する
・2月10日 天草四郎は原城の一揆勢を励ましてまわる
・2月27日 幕府軍の原城総攻撃が開始される
・2月28日 原城が落城、約37,000人が虐殺され、午後に天草四郎の首実験が行われる
・3月 天草四郎らしき首が原城で獄門にされた後、長崎の出島に送られて再度獄門にされ、西坂の墓地(首塚)に埋められ、人質になっていた四郎の親類縁者や落人のすべてが処刑される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1591年(天正19)商人・茶人千利休の命日(新暦4月21日)詳細
1633年(寛永10)江戸幕府により「寛永十年二月令」(第一次鎖国令)が出される詳細
1864年(元治元)小説家二葉亭四迷の誕生日(新暦4月4日)詳細
1952年(昭和27)「日米安全保障条約(旧)」に関わり、日米両国の政府間で、「日米行政協定」が調印される詳細
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 今日は、江戸時代前期の1637年(寛永14)に、島原の乱(島原・天草一揆)が起きた日ですが、新暦では12月11日となります。
 これは、日本の歴史上最大規模の一揆で、島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれました。以前この地方は,キリシタン大名有馬晴信や小西行長の領地で、住民にもキリスト教徒が多かったのですが、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い後、天草の領主は寺沢氏に代り、1615年(元和元)に、島原の領主が松倉氏に代ったのです。
 寺沢氏・松倉氏は、キリシタン信者に対する過酷な弾圧と農民への過重な年貢の負担を強制し、滞納する者には重罰を課しました。
 その中で、1637年(寛永14年10月25日)に、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害し、これをきっかけに島原半島一帯の農民が蜂起します。
 豪農益田甚兵衛の子四郎時貞(16歳)が首領に推され、商人、手工業者、船頭なども参加、さらに天草の農民も加わって、大規模な一揆となりました。
 一揆勢は、最初は島原藩兵を追い返したり、11月14日の本渡の戦いでは、富岡城代の三宅重利を自刃させるなど優勢でしたが、九州諸藩の討伐軍が來ると原城跡に約3万7千人が立て籠もったのです。
 江戸幕府は12月に鎮圧のため板倉重昌を派遣し、近隣諸藩の兵を指揮させましたが、翌年元旦の総攻撃で重昌は戦死してしまいました。
 その後、老中松平信綱が着陣して指揮を取り、十数万の包囲軍による兵糧攻めや艦砲射撃なども行います。そして、一揆勢の食糧や弾薬が尽きた頃、幕府軍の総攻撃によって陥落し、1638年(寛永15年2月28日)に終結しましたが、一揆勢はほぼ全員が殺されました。
 しかし、幕府側も40万両余の戦費と数千の武士を失うという痛手で、原因を作った松倉重次を処刑し、寺沢氏の所領を没収するなどの処置を取ったのです。
 これ以後、キリスト教への弾圧は一層きびしくなり、鎖国を促すことにもなりました。

〇「原城跡」とは?
 長崎県南島原市にあり、島原の乱(1637-1638年)で、幕府軍とキリスト教徒中心の一揆勢が戦ったところで、本丸跡には首領天草四郎時貞の像が立っています。
 城跡には、大手門跡、板倉重昌碑、本丸跡、ホネカミ地蔵、天草四郎像、天草四郎墓などが残され、現在は、国指定史跡となっています。
 今はほとんどが農耕地となっていて、しかも海の眺望が良く、のどかな田園地帯なのですが、ここで島原の乱があり、約3万7千人が死んだとは思えないくらいでした。

〇「天草四郎メモリアルホール」とは?
 熊本県上天草市の大久野島は、島原の乱(1637-1638年)の首謀者である天草四郎の出身地で、「天草四郎メモリアルホール」がありますが、丘の上の協会風の建物です。江戸時代前期の一大事件はこの地方の農民たちによって引き起こされたのです。
 幕府、大名による過酷な弾圧は、キリシタンたちを団結させ、一揆に立ち上がらせました。その時代に、神を最高のものとして、崇めることは異端でした。幕府側の徹底した反撃に、最後は島原半島の原城跡に約3万7千人が立て籠もっての長期の抵抗の末、全員虐殺されたのです。しかし、それによってキリシタン信仰を根絶やしにすることは出来ず。陰に隠れ、連綿として受け継がれていくことになります。あの江戸時代の長きにわたって、信仰を守り通したことは、驚異といっても良いと思います。
 館内の最後に、なんとも不思議な部屋「瞑想のホール」があって、音と光の中で、静かに回想できるのです。床には、奇妙なクッションが置いてあって、座りながらしばらくくつろいでみましたが、何とも言えない異空間を体験しました。外には、天草四郎之像とキリシタン墓があります。

〇「キリスト教の伝来と禁教令」とは?
 1549年(天文18)に、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが、鹿児島に来航して、キリスト教は伝来しました。その後、大内義隆や大内義鎮などの保護もあって、機内や九州北部を中心に広がります。
 各地に南蛮寺(教会堂)やコレジオ(宣教師学校)、セミナリオ(神学校)なども建てられ、高山右近などのキリシタン大名(洗礼を受けた大名)も登場して、天正遣欧使節も送られたりしました。
 しかし、豊臣秀吉により、1587年(天正15)にバテレン追放令が出されるなどして、次第にキリシタン弾圧が始まります。
 江戸時代になると、1612年(慶長17)に幕府直轄領に禁教令が出され、翌年には全国に及ぶようになります。この後は、宣教師や信者の処刑や海外追放などの激しい迫害が始まりました。
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