
宇野浩二(うの こうじ)は、明治時代中頃の1891年(明治24)7月26日に、福岡県福岡市南湊町(現在の福岡市中央区)において、福岡県師範学校の教員であった父・宇野六三郎、母・京の次男として生まれましたが、本名は格次郎と言いました。1894年(明治27)に父の急死で一家は神戸市転居、1895年(明治28)には、大阪市に転居しています。
1904年(明治37)に天王寺中学校に入学、文学を志し、交友会誌にもたびたび投稿、1909年(明治42)に卒業して、代用教員として中河内郡の小学校に赴任したものの、脚気のため辞し奈良県高市郡へ行きました。1910年(明治43)に上京し、早稲田大学英文科予科入学、1913年(大正2)には、在学中に処女著作集『清二郎 夢見る子』を刊行しています。
1915年(大正4)に早稲田大学を中退し、初めての童話『揺籃の唄の思ひ出』を発表、1916年(大正5)には、『苦の世界』のモデルとなる伊沢きみ子と同棲したものの、翌年別れました。1919年(大正8)には、終世の友広津和郎の紹介で、『蔵の中』、『苦の世界』を発表して文壇デビュー、伊沢きみ子が自殺しています。
『山恋ひ』(1922年)、『子を貸し屋』(1923年)などにより大正文学の中心作家となりました。しかし、1927年(昭和2)の『軍港行進曲』発表後、神経衰弱が昂じて入院しています。
1933年(昭和8)に、『枯木のある風景』、『枯野の夢』、『子の来歴』で復活し、『夢の通ひ路』 (1937年) ,『器用貧乏』 (1938年) などの代表作を発表、1938年(昭和13)には、芥川賞選考委員ともなりました。1940年(昭和15)に第2回菊池寛賞を受賞しましたが、1945年(昭和20)に空襲の激化により、長野県へ疎開しています。
戦後の1946年(昭和21)に上京して下宿、1948年(昭和23)には、東京の文京区に家を買って移転しました。1949年(昭和24)に芸術院会員となり、1951年(昭和26)には、『思ひ川』で第2回読売文学賞を受賞しています。
1953年(昭和28)頃から肺結核に冒されるが、広津和郎とともに松川事件控訴審を聴き、『世にも不思議な物語』を発表します。1956年(昭和31)の孫文の九十周年生誕祭に日本代表として参加するため中国旅行しましたが、1961年(昭和36)9月21日に、東京都文京区の自宅において、肺結核のため70歳で亡くなりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1874年(明治7) | 日本画家菱田春草の誕生日 | 詳細 |
1919年(大正8) | 法学者・憲法学者・最高裁判所判事伊藤正己の誕生日 | 詳細 |
1934年(昭和9) | 室戸台風が京阪神地方を直撃し、死者・行方不明者3,036人が出る | 詳細 |
1943年(昭和18) | 東条英機内閣において、「現情勢下ニ於ケル国政運営要綱」が閣議決定される | 詳細 |
1950年(昭和25) | シャウプ使節団(第二次)の正式報告書全文(第二次シャウプ勧告)が出される | 詳細 |
1954年(昭和29) | 実業家・養殖真珠の創始者御木本幸吉の命日 | 詳細 |
1968年(昭和43) | 小説家・評論家広津和郎の命日 | 詳細 |