
第2次世界大戦でのフランスの対ドイツ降伏を受けて、日本は援蒋ルート閉鎖の監視と基地確保を狙って交渉を開始し、1940年(昭和15)8月30日に、東京において、日本側の松岡洋右(ようすけ)外相とフランス側のシャルル・アルセーヌ=アンリ大使の間で協定が成立しました。その内容は、フランスが極東の政治経済における日本の優越的利益を認め、日本に軍事上の便宜供与をはかるのに対し、日本は仏印におけるフランスの主権と、仏印の領土保全を尊重するというものです。
本協定に基づき、仏印監視団長西原一策少将はマルタン(Maurice-Pierre Auguste Martin)仏印軍最高司令官との間に細目協定を結び、北部仏印への平和的進駐が通達されました。しかしその後、南支那方面軍は国境を武力突破し、ハイフォン方面でも上陸した日本軍による爆弾投下事件が起こるなど、仏印側に為す術がないまま、日本の北部仏印進駐が完了しています。
その後、同年7月28日には、南部仏印進駐が実施され、太平洋戦争へと突き進んでいきました。
以下に、「北部仏印進駐に関する協定(松岡・アンリ協定)」の日本語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。