ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:松下村塾

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 今日は、江戸時代後期の1857年(安政4)に、吉田松陰が長州藩の許可を得て萩に松下村塾を開講した日ですが、新暦では12月9日となります。
 松下村塾(しょうかそんじゅく)は、山口県萩市にあり、江戸時代末期に長州藩士の吉田松陰が講義した私塾です。1842年(天保13)に松陰の叔父、玉木文之進が八畳一間の私塾を開き松下村塾と名付け、松陰が1854年(安政元)に海外密航に失敗し、翌年に自宅幽閉となって講義をするようになりました。1857年(安政4)には、長州藩の許可を得て松陰が同塾を引き継ぎ、翌年には増築するほど塾生が増えましたが、12月には幕府政治を批判したとして松陰が再び投獄されて、塾は閉鎖されています。
 名簿は現存しませんが、塾生は約50名ほどいたとされ、久坂玄瑞、吉田稔麿、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎など尊王攘夷を掲げて京都で活動した人や、明治維新で新政府に関わる人間を多く輩出しましました。松陰神社の境内には、修復された当時の建物が残り、1922年(大正11)に国の史跡に指定されていて、境内には「吉田松陰歴史館」もあって、吉田松陰の足跡を知ることができます。
 また、2015年(平成27)には、松下村塾を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界遺産(文化遺産)に登録されました。

〇吉田松陰とは?

 幕末に活躍した長州藩士、思想家・教育者として知られ、幼名は寅之助、通称は寅次郎、諱は矩方で、松陰は号です。1830年(文政13年8月4日)に、長門国萩松本村(現在の山口県萩市)で長州藩士杉百合之助の次男として生まれました。
 1834年(天保5)に、養子となって山鹿流兵学師範の吉田家を継ぎ、兵学と経学を学ぶことになります。9歳のときから藩校明倫館で山鹿流兵学を教授するようになり、1848年(嘉永元)には明倫館の師範となりました。その後、1850年(嘉永3)に九州を遊学し、翌年江戸に出て安積艮斎、山鹿素水、佐久間象山らに経学、兵学などを広く学ぶことになります。
 1854年(安政元)25歳のとき浦賀に再度来航したアメリカ軍艦に乗り込み、密航をはかりますが失敗し、幕府に自首しました。その結果、江戸伝馬町の獄に囚われ、次いで萩の野山獄に移され、その後は自宅に幽閉されることになります。ここで、1857年(安政4)から長州藩の許可を得て松下村塾を引き継ぎ、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎ら多くの門人を育てました。
 しかし、討幕論を唱え、老中間部詮勝暗殺を画策して投獄され、安政の大獄により、1859年(安政6年10月27日)に、30歳で刑死しました。

☆松下村塾の主要な塾生一覧

・久坂玄瑞―門四天王の一人、蛤御門の変において25歳で自害する
・吉田稔麿―松門四天王の一人、池田屋事件において23歳で討ち死にする
・入江九一―松門四天王の一人、蛤御門の変において29歳で戦死する
・高杉晋作―松門四天王の一人、奇兵隊を結成して活躍したが、29歳で病死する
・寺島忠三郎―蛤御門の変において21歳で自害する
・伊藤博文―後の内閣総理大臣(初・第5・7・10代)
・山縣有朋―後の内閣総理大臣(第3・9代)
・品川弥二郎―後の内務大臣
・山田顕義―後の司法大臣、陸軍中将
・野村靖―後の内務大臣
・松本鼎―後の衆議院議員、貴族院議員
・岡部富太郎
・正木退蔵―後の東京職工学校初代校長、在ハワイ王国総領事
・前原一誠―萩の乱の首謀者として43歳で処刑される
・飯田俊徳―後の鉄道庁部長
・渡辺蒿蔵(天野清三郎―後の官営長崎造船局初代所長、日本郵船社長
・松浦松洞―長州藩士・長井雅楽暗殺計画に関わり、京都粟田山で切腹する
・増野徳民―後に軍医となる
・有吉熊次郎―蛤御門の変において23歳で自害する
・時山直八―戊辰北越戦争の朝日山攻防戦において31歳で戦死する
・駒井政五郎―戊辰箱館戦争の二股口の戦いにおいて29歳で戦死する
・中村精男―後の東京物理講習所校長、日本エスペラント学会初代理事長
・玉木彦助
・飯田正伯
・杉山松助―池田屋事件において27歳で死亡する
・久保清太郎―後の度会県(現:三重県)権令
・生田良佐―25歳で病死する
・境二郎―後の島根県令
・宍戸璣(山県半蔵)―後の元老院議官、貴族院議員

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1888年(明治21)日本画家・近代日本画の父狩野芳崖の命日詳細
1930年(昭和5)大原孫三郎が集めた西欧名画を展示する大原美術館(岡山県倉敷市)が開館する詳細
1937年(昭和12)社会運動家・小説家・評論家木下尚江の命日詳細
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 今日は、幕末の1867年(慶応3)に、倒幕派の志士・長州藩士高杉晋作が亡くなった日ですが、新暦では5月17日となります。
 高杉晋作(たかすぎ しんさく)は、江戸時代後期の1839年(天保10年8月20日)に、長門国萩城下菊屋横丁(現在の山口県萩市)で長州藩士の父・高杉小忠太、母・みちの長男として生まれましたが、名は春風(はるかぜ)と言いました。1846年(弘化3)の8歳の時、寺子屋・吉松塾に入り、久坂玄瑞と出会い、1852年(嘉永5)に藩校の明倫館に入学、1857年(安政4)には久坂玄瑞の誘いで吉田松陰が主宰していた「松下村塾」に入り、頭角を現します。
 1858年(安政5)に藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学びますが、翌年に安政の大獄により、師の松陰が江戸に捕らわれると獄中支援を行いました。同年10月27日に松陰が処刑されると、藩命により萩に帰郷を命じられ、翌年帰郷後は明倫館に勤務し、山口町奉行井上平右衛門の次女・まさと結婚します。
 1861年(文久元)に海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船し江戸へ渡り、東北遊学も行い、加藤桜老や佐久間象山、横井小楠とも交友しました。1862年(文久2)に藩命で、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、太平天国の乱などを見聞してに2ヶ月後に帰国します。
 同年12月に同志とともに品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ちを実行、翌年5月には関門海峡において外国船を砲撃しました。同年6月に廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない画期的な軍隊・奇兵隊を結成し、奇兵隊開闢(初代)総督となりましたが、9月には教法寺事件の責任を問われ総監を罷免され、翌年1月には脱藩して京都へ潜伏します。
 同年2月に桂小五郎の説得で、剃髪し東行と号して帰郷しましたが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となりました。1864年(文久4年7月)に長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自害、同年8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台占拠を行い、晋作が和議交渉全権を担うことになります。
 10月に福岡へ逃れましたが、同年12月に幕府による第一次長州征伐が迫る中、力士隊、遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)、翌年3月には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握りました。1865年(元治2年9月)に藩命により谷潜蔵と改名、翌年1月に桂小五郎(後の木戸孝允)らと共に、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との軍事同盟である薩長盟約を締結します。
 同年5月に伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、その途次長崎で蒸気船「丙寅丸」を購入、同年6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として、幕府艦隊を退け周防大島を奪還に成功しました。1867年(慶応3年3月)には、新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となったものの、同年4月14日に下関において、肺結核のため数え年29歳で亡くなっています。

〇高杉晋作関係略年表(日付は旧暦です)

・1839年(天保10年8月20日) 長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)で長州藩士の父・高杉小忠太、母・みちの長男として生まれる
・1846年(弘化3年) 8歳の時、寺子屋・吉松塾に入り、久坂玄瑞と出会う
・1852年(嘉永5年) 藩校の明倫館に入学する
・1857年(安政4年) 久坂玄瑞の誘いで吉田松陰が主宰していた「松下村塾」に入り、生涯の師・松陰と出会う
・1858年(安政5年7月) 藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学ぶ
・1859年(安政6年10月) 安政の大獄により、吉田松陰が処刑される
・1859年(安政6年) 藩命により、萩に帰郷を命じられる
・1860年(万延元年11月) 帰郷後、明倫館に勤務するが、山口町奉行井上平右衛門の次女・まさと結婚する
・1861年(文久元年3月) 海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船し江戸へ渡る
・1861年(文久元年8月) 東北遊学を行い、加藤桜老や佐久間象山、横井小楠とも交友する
・1862年(文久2年5月) 藩命で、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航する
・1862年(文久2年7月) 太平天国の乱を見聞してに帰国する
・1862年(文久2年12月12日) 同志とともに品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ちを実行する
・1863年(文久3年5月10日) 関門海峡において外国船を砲撃する
・1863年(文久3年6月) 廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない画期的な軍隊・奇兵隊を結成し、奇兵隊開闢(初代)総督となる
・1863年(文久3年9月) 教法寺事件の責任を問われ総監を罷免される
・1864年(文久4年1月) 脱藩して京都へ潜伏する
・1864年(文久4年2月) 桂小五郎の説得で、剃髪し東行と号して帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄される
・1864年(文久4年6月) 出所して謹慎処分となる
・1864年(文久4年7月) 長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自害する
・1864年(文久4年8月) イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台占拠を行い、晋作が和議交渉全権を担う
・1864年(文久4年10月) 福岡へ逃れる
・1864年(文久4年12月) 幕府による第一次長州征伐が迫る中、力士隊、遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)する
・1865年(元治2年3月) 俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る
・1865年(元治2年9月29日) 藩命により谷潜蔵と改名する
・1866年(慶応2年1月) 桂小五郎(後の木戸孝允)らと共に、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との軍事同盟である薩長盟約を締結する
・1866年(慶応2年5月) 伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、その途次長崎で蒸気船「丙寅丸」を購入する
・1866年(慶応2年6月) 第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として、幕府艦隊を退け周防大島を奪還に成功する
・1867年(慶応3年3月29日) 新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる
・1867年(慶応3年4月14日) 下関において、肺結核のため数え年29歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1526年(大永6)駿河国守護今川氏親が「今川仮名目録」を制定する(新暦5月25日)詳細
1602年(慶長7)連歌師里村紹巴の命日(新暦6月2日)詳細
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 今日は、大正時代の1922年(大正11)に、軍人・政治家で元老の筆頭格山県有朋が亡くなった日です。
 山県有朋(やまがた ありとも)は、江戸時代後期の1838年(天保9年6月14日)に長門国萩城下で、長州藩下級士族山県有稔の長男(母は同藩士岡治助の娘松子)として生まれましたが、幼名辰之助(のち小輔、さらに狂介)と言いました。吉田松陰の松下村塾に学び、尊王攘夷運動に参加、1863年(文久3)に奇兵隊軍監に抜擢されましたが、翌年の英米仏蘭4国連合艦隊との交戦(4国艦隊下関砲撃事件)で負傷します。
 1866年(慶応2)の第二次長州征伐に従軍、1868年(慶応4)の戊辰戦争では北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀として越後、奥羽に転戦しました。1869年(明治2年)に渡欧して各国軍制を視察、翌年帰国後、兵部少輔となって兵制改革を担当、1871年(明治4)の廃藩置県の実施後、兵部大輔となります。
 翌年に陸軍大輔、陸軍中将となり、1873年(明治6年)に徴兵制を主張してこれを実現、陸軍卿となりました。1874年(明治7)の佐賀の乱、1877年(明治10)の西南戦争に出征して鎮圧、翌年には参謀本部を設置して軍政・軍令機関の二元化を行い、初代参謀本部長となり、1882年(明治15)には「軍人勅諭」を起案、頒布します。
 1882年(明治15)に参事院議長となり、翌年に内務卿に就任して自由民権運動を弾圧、1884年(明治17)に伯爵となり、1887年(明治20)には内相として「保安条例」を公布し、三大事件建白運動を抑え込みました。1889年(明治22)に第一次山県内閣を組織し、翌年の第一回帝国議会に臨み軍備拡張を主張し、「民力休養」を掲げた民党と対立します。
 同年の「教育勅語」の発布を進めましたが、翌年には内閣総辞職しました。1894年(明治27年)の日清戦争には第1軍を率いて出征したものの、病気で帰国、1895年(明治28)に元勲優遇となり、侯爵ともなりました。1896年(明治29)に全権大使としてモスクワで山県=ロバノフ協定を締結、1898年(明治31)に元帥となり、第一次大隈内閣瓦解の後を受けて、第二次山県内閣を組織し、1900年(明治33)には「治安警察法」を公布します。
 1901年(明治34)に日英同盟を締結させ、対露戦準備を強行、1904年(明治37)の日露開戦に際しては参謀総長として作戦指導に当たりました。1907年(明治40)に公爵となり、同年の「帝国国防方針」の策定を進め、軍備拡張、軍部の政治的地位の強化に努め、1909年(明治42)に伊藤博文が暗殺されると元老としての地位を強め、山県閥、軍部勢力を背景に内政、外交に絶大な力を発揮します。
 しかし、1921年(大正10)の皇太子妃選定問題(宮中某重大事件)に失敗し、政治生命を失ない、神奈川県小田原の別邸・古稀庵に閉じこもったまま、翌年2月1日に数え年85歳で亡くなり、2日後に国葬が執り行われました。

〇山県有朋関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1838年(天保9年6月14日) 長州藩下級士族山県有稔の長男として長門国萩城下に生まれる
・1842年(天保13年) 5歳の時に母が病死する
・1858年(安政5年) 21歳の時に藩命で伊藤博文ら5名と京都に派遣されて以来尊王攘夷運動に参加する
・1863年(文久3年) 奇兵隊軍監に抜擢され壇ノ浦支営司令となる
・1864年(元治元年8月) 英米仏蘭4国連合艦隊と交戦(4国艦隊下関砲撃事件)して負傷する
・1866年(慶応2年) 第二次長州征伐に従軍する
・1868年(慶応4年) 戊辰戦争では北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀として越後、奥羽に転戦する
・1869年(明治2年) 渡欧して各国軍制を視察する
・1870年(明治3年) 帰国し、兵部少輔となる
・1871年(明治4年7月14日) 廃藩置県の実施、兵部大輔となる
・1870年(明治3年8月28日) 従五位となる
・1872年(明治5年) 陸軍大輔、陸軍中将となる
・1872年(明治5年12月12日) 従四位となる
・1873年(明治6年)1月 徴兵制を主張し、これを実現する
・1873年(明治6年) 陸軍卿となる
・1873年(明治6年)11月15日 正四位となる
・1874年(明治7年)2月 佐賀の乱を鎮圧し、参議となる
・1877年(明治10年) 西南戦争に征討参軍として出征する
・1877年(明治10年)11月2日 勲一等旭日大綬章を受章する
・1878年(明治11年) ドイツに倣って参謀本部を設置して軍政・軍令機関の二元化を行い、初代参謀本部長となる
・1878年(明治11年)8月 「軍人訓誡」を頒布する
・1880年(明治13年)6月15日 フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシエを受章する
・1881年(明治14年) 明治14年の政変では、伊藤博文、岩倉具視らと謀って大隈重信一派の政府外追放を行い、プロシア流憲法制定の方向を確定する
・1882年(明治15年)1月 「軍人勅諭」を起案、頒布する
・1882年(明治15年) 参事院議長となる
・1883年(明治16年) 内務卿に就任して自由民権運動を弾圧する
・1884年(明治17年)7月7日 「華族令」の制定により伯爵となる
・1884年(明治17年)12月27日 従三位となる
・1886年(明治19年)10月19日 従二位となる
・1886年(明治19年)12月22日 一等王冠勲章を受章する
・1887年(明治20年)7月 官僚制度の出発点となる文官試験制度を施行する
・1887年(明治20年)8月25日 キリスト勲章グランクロアを受章する
・1887年(明治20年)12月 内相として保安条例を公布し三大事件建白運動を抑える
・1888年(明治21年)4月 市制・町村制の制定に尽力する
・1889年(明治22年)10月30日 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章グラン・コルドーネを受章する
・1889年(明治22年)10月30日 白鷲勲章を受章する
・1889年(明治22年)10月30日 ドイツ帝国赤鷲第一等勲章を受章する
・1889年(明治22年)12月 第一次山県内閣を組織する
・1890年(明治23年)5月 府県制・郡制の制定に尽力する
・1890年(明治23年) 陸軍大将に昇進する
・1890年(明治23年)11月 第一議会に臨み軍備拡張を主張し、「民力休養」を掲げた民党と対立する
・1890年(明治23年)11月22日 一等鉄冠勲章を受章する
・1891年(明治24年)4月8日 銀製黄綬褒章を受章する
・1891年(明治24年)5月 内閣総辞職する
・1894年(明治27年) 日清戦争には第1軍を率いて出征しましたが、病気で帰国する
・1895年(明治28年)5月26日 元勲優遇となる
・1895年(明治28年)8月5日 旭日桐花大綬章・功二級金鵄勲章を受章する
・1895年(明治28年)8月5日 侯爵となる
・1895年(明治28年)11月18日 明治二十七八年従軍記章を受章する
・1895年(明治28年)12月20日 正二位となる
・1896年(明治29年)6月 全権大使としてモスクワで山県=ロバノフ協定を締結する
・1896年(明治29年)10月28日 ロシア帝国神聖アレクサンドルネフスキー大綬章を受章する
・1897年(明治30年)5月7日 レジオンドヌール勲章グランクロワを受章する
・1898年(明治31年)1月20日 元帥となり、元帥徽章を受章する
・1898年(明治31年)11月 第一次大隈内閣瓦解の後を受けて、第二次山県内閣を組織する
・1899年(明治32年)6月14日 ドイツ帝国赤鷲大綬章を受章する
・1900年(明治33年)3月 「治安警察法」を公布する
・1900年(明治33年)6月 義和団事件に際し、最大の軍隊を中国に派遣し、列強に協力して、帝国主義国としての地歩を固める
・1900年(明治33年)9月 伊藤博文が立憲政友会を組織すると、伊藤を後継首班に推薦して総辞職する
・1901年(明治34年)6月 第一次桂太郎内閣が成立すると黒幕として背後から援助し、日英同盟を締結させ、対露戦準備を強行させる
・1902年(明治35年)6月3日 大勲位菊花大綬章を受章する
・1902年(明治35年)5月10日 明治三十三年従軍記章を受章する
・1904年(明治37年) 日露戦争に際しては参謀総長として作戦指導に当たる
・1906年(明治39年)4月1日 菊花章頸飾・功一級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章を受章する
・1906年(明治39年)4月5日 メリット勲章を受章する
・1907年(明治40年)2月2日 御紋付御杯を受ける
・1907年(明治40年)9月21日 公爵となる
・1907年(明治40年)4月 「帝国国防方針」の策定を進め、軍備拡張、軍部の政治的地位の強化に努める
・1908年(明治41年)3月12日 金尺大勲章を受章する
・1909年(明治42年)10月 伊藤博文が暗殺されると元老としての地位を強め、山県閥、軍部勢力を背景に内政、外交に絶大な力を発揮する
・1912年(大正元年)8月1日 韓国併合記念章を受章する
・1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章(大正)を受章する
・1916年(大正5年)1月14日 金剛石装飾神聖アレクサンドル・ネフスキー勲章を受章する
・1916年(大正5年)4月1日 金杯一組・大正三四年従軍記章を受章する
・1917年(大正6年)1月20日 御紋付銀杯を受ける
・1918年(大正7年)7月3日 聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロスを受章する
・1918年(大正7年)7月 米騒動では大きな衝撃を受ける
・1918年(大正7年)9月 政友会総裁原敬を首相候補に推薦し、政党内閣を認めるに至る
・1920年(大正9年)9月7日 金盃一組を受ける
・1921年(大正10年) 皇太子妃選定問題(宮中某重大事件)に失敗し、政治生命を失なう
・1922年(大正11年)2月1日 神奈川県小田原の別邸・古稀庵において、数え年85歳で亡くなり、従一位となる
・1922年(大正11年)2月3日 国葬が執り行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)江藤新平・島義勇らが佐賀の乱を起こす詳細
1895年(明治28)京都市(塩小路東洞院通~伏見町下油掛間)で日本初の路面電車が営業開始する詳細
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 今日は、1830年(文政13)に、幕末の思想家・教育者吉田松陰の生まれた日ですが、新暦では9月20日となります。
 吉田松陰は、幕末に活躍した長州藩士、思想家・教育者として知られ、幼名は寅之助、通称は寅次郎、諱は矩方で、松陰は号です。1830年(文政13年8月4日)に、長門国萩松本村(現在の山口県萩市)で長州藩士杉百合之助の次男として生まれました。
 1834年(天保5)に、養子となって山鹿流兵学師範の吉田家を継ぎ、兵学と経学を学ぶことになります。9歳のときから藩校明倫館で山鹿流兵学を教授するようになり、1848年(嘉永元)には明倫館の師範となりました。
 その後、1850年(嘉永3)に九州を遊学し、翌年江戸に出て安積艮斎、山鹿素水、佐久間象山らに経学、兵学などを広く学ぶことになります。
 1854年(安政元)25歳のとき浦賀に再度来航したアメリカ軍艦に乗り込み、密航をはかりますが失敗し、幕府に自首しました。その結果、江戸伝馬町の獄に囚われ、次いで萩の野山獄に移され、その後は自宅に幽閉されることになります。
 ここで、1857年(安政4)から松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎ら多くの門人を育てました。
 しかし、討幕論を唱え、老中間部詮勝暗殺を画策して投獄され、安政の大獄により、1859年(安政6年10月27日)に、30歳で刑死しました。

〇「松下村塾」とは?
 山口県萩市にあり、江戸時代末期に長州藩士の吉田松陰が講義した私塾です。松陰神社の境内には、修復された当時の建物が残り、1922年(大正11)に国の史跡に指定されています。
 短期間しか存続しませんでしたが、久坂玄瑞、吉田稔麿、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎など尊王攘夷を掲げて京都で活動した人や、明治維新で新政府に関わる人間を多く輩出しましました。
 境内には、「吉田松陰歴史館」もあって、吉田松陰の足跡を知ることができます。また、2015年(平成27)には、松下村塾を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界遺産(文化遺産)に登録されています。

〇「安政の大獄」とは?
 幕末の1858年(安政5)から翌年にかけて、大老井伊直弼が行った尊王攘夷運動派に対して行なった弾圧です。
 安政の五か国条約の調印および将軍継嗣問題(家茂を14代将軍に定めたこと)に対して、反対する一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名を死刑としました。
 この事件は、井伊直弼が1860年(安政7)に江戸城外で暗殺された桜田門外の変のきっかけとなったのです。
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