
今日は、江戸時代後期の1857年(安政4)に、吉田松陰が長州藩の許可を得て萩に松下村塾を開講した日ですが、新暦では12月9日となります。
松下村塾(しょうかそんじゅく)は、山口県萩市にあり、江戸時代末期に長州藩士の吉田松陰が講義した私塾です。1842年(天保13)に松陰の叔父、玉木文之進が八畳一間の私塾を開き松下村塾と名付け、松陰が1854年(安政元)に海外密航に失敗し、翌年に自宅幽閉となって講義をするようになりました。1857年(安政4)には、長州藩の許可を得て松陰が同塾を引き継ぎ、翌年には増築するほど塾生が増えましたが、12月には幕府政治を批判したとして松陰が再び投獄されて、塾は閉鎖されています。
名簿は現存しませんが、塾生は約50名ほどいたとされ、久坂玄瑞、吉田稔麿、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎など尊王攘夷を掲げて京都で活動した人や、明治維新で新政府に関わる人間を多く輩出しましました。松陰神社の境内には、修復された当時の建物が残り、1922年(大正11)に国の史跡に指定されていて、境内には「吉田松陰歴史館」もあって、吉田松陰の足跡を知ることができます。
また、2015年(平成27)には、松下村塾を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界遺産(文化遺産)に登録されました。
〇吉田松陰とは?
幕末に活躍した長州藩士、思想家・教育者として知られ、幼名は寅之助、通称は寅次郎、諱は矩方で、松陰は号です。1830年(文政13年8月4日)に、長門国萩松本村(現在の山口県萩市)で長州藩士杉百合之助の次男として生まれました。
1834年(天保5)に、養子となって山鹿流兵学師範の吉田家を継ぎ、兵学と経学を学ぶことになります。9歳のときから藩校明倫館で山鹿流兵学を教授するようになり、1848年(嘉永元)には明倫館の師範となりました。その後、1850年(嘉永3)に九州を遊学し、翌年江戸に出て安積艮斎、山鹿素水、佐久間象山らに経学、兵学などを広く学ぶことになります。
1854年(安政元)25歳のとき浦賀に再度来航したアメリカ軍艦に乗り込み、密航をはかりますが失敗し、幕府に自首しました。その結果、江戸伝馬町の獄に囚われ、次いで萩の野山獄に移され、その後は自宅に幽閉されることになります。ここで、1857年(安政4)から長州藩の許可を得て松下村塾を引き継ぎ、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎ら多くの門人を育てました。
しかし、討幕論を唱え、老中間部詮勝暗殺を画策して投獄され、安政の大獄により、1859年(安政6年10月27日)に、30歳で刑死しました。
☆松下村塾の主要な塾生一覧
・久坂玄瑞―門四天王の一人、蛤御門の変において25歳で自害する
・吉田稔麿―松門四天王の一人、池田屋事件において23歳で討ち死にする
・入江九一―松門四天王の一人、蛤御門の変において29歳で戦死する
・高杉晋作―松門四天王の一人、奇兵隊を結成して活躍したが、29歳で病死する
・寺島忠三郎―蛤御門の変において21歳で自害する
・伊藤博文―後の内閣総理大臣(初・第5・7・10代)
・山縣有朋―後の内閣総理大臣(第3・9代)
・品川弥二郎―後の内務大臣
・山田顕義―後の司法大臣、陸軍中将
・野村靖―後の内務大臣
・松本鼎―後の衆議院議員、貴族院議員
・岡部富太郎
・正木退蔵―後の東京職工学校初代校長、在ハワイ王国総領事
・前原一誠―萩の乱の首謀者として43歳で処刑される
・飯田俊徳―後の鉄道庁部長
・渡辺蒿蔵(天野清三郎―後の官営長崎造船局初代所長、日本郵船社長
・松浦松洞―長州藩士・長井雅楽暗殺計画に関わり、京都粟田山で切腹する
・増野徳民―後に軍医となる
・有吉熊次郎―蛤御門の変において23歳で自害する
・時山直八―戊辰北越戦争の朝日山攻防戦において31歳で戦死する
・駒井政五郎―戊辰箱館戦争の二股口の戦いにおいて29歳で戦死する
・中村精男―後の東京物理講習所校長、日本エスペラント学会初代理事長
・玉木彦助
・飯田正伯
・杉山松助―池田屋事件において27歳で死亡する
・久保清太郎―後の度会県(現:三重県)権令
・生田良佐―25歳で病死する
・境二郎―後の島根県令
・宍戸璣(山県半蔵)―後の元老院議官、貴族院議員
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1888年(明治21) | 日本画家・近代日本画の父狩野芳崖の命日 | 詳細 |
| 1930年(昭和5) | 大原孫三郎が集めた西欧名画を展示する大原美術館(岡山県倉敷市)が開館する | 詳細 |
| 1937年(昭和12) | 社会運動家・小説家・評論家木下尚江の命日 | 詳細 |


