ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:東海道四谷怪談

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 今日は、江戸時代後期の1825年(文政8)に、江戸中村座で鶴屋南北(四代目)作の『東海道四谷怪談』が初演された日ですが、新暦では9月8日となります。
 『東海道四谷怪談』(とうかいどうよつやかいだん)は、鶴屋南北(四代目)作の歌舞伎脚本で、通称「四谷怪談」とも呼ばれてきました。世話物で、5幕11場からなり、1825年(文政8年7月26日)に、江戸中村座で、3世尾上菊五郎(お岩・小平・与茂七役)、7世市川団十郎(伊右衛門役)、5世松本幸四郎(直助権兵衛役)らにより、初演されています。
寛文年間(1661~73年)に四谷左門町に住んでいた田宮又左衛門の娘お岩が嫉妬によってたたりをなしたという巷説などを素材としたもので、塩冶えんや家の浪人民谷伊右衛門は、仲間とともに立身のために妻お岩の毒殺をはかり、憤死させるが、その怨霊にたたられて破滅するというストーリーでした。怪談物の代表作とされ、お岩の髪梳きの場、戸板返しの場など、舞台効果にも富んでいます。

〇鶴屋 南北(四代目)(つるや なんぼく)とは?

 江戸時代の歌舞伎作者です。江戸時代中期の1755年(宝暦5)に江戸・日本橋の紺屋海老屋伊三郎の子として生まれたとされますが、本名は伊之助または勝次郎と言いました。
 生来の芝居好きで、20代初めに狂言作者を志し、1776年(安永5)に初代桜田治助の門に入り、翌年には、初世桜田治助の苗字をもらい桜田兵蔵の名で番付に載ります。1782年(天明2)に、道化方の俳優三世南北の娘をめとり、勝俵蔵を名のり、1786年(天明6)から狂言作者に専心、道外方大谷徳次を使った「おかしみの狂言」を書き、認められました。
 1797年(寛政9)に三世坂東彦三郎付きの作者となり、1799年(寛政10)の5歳の時、立作者となります。1803年(享和3)の49歳の時、三代目坂東彦三郎のために『世響音羽桜』を書き、翌年の江戸河原崎座で初代尾上松助のために書き下ろした『天竺徳兵衛韓噺』(天竺徳兵衛)が大当たりとなりました。
 1805年(享和5)に河原崎座で『四天王楓江戸粧』を成功させ、1806年(享和6)には五世松本幸四郎一座の立作者となります。1808年(文化5)に市村座『彩入御伽草』で怪談物の狂言を完成させ、1811年(文化8)には、四代目鶴屋南北を襲名しました。
 以後、25年間に五世松本幸四郎、五世岩井半四郎、三世尾上菊五郎のため、120編の作品を書き、中でも1825年(文政8)の『東海道四谷怪談』は代表作とされます。生世話(きぜわ)に巧みで、趣向に富むとされたものの、1829年(文政12)に『金幣猿島郡』を一世一代として引退、同年11月27日に江戸において、75歳で亡くなりました。
 尚、一般的に鶴屋南北といえば、四代目を指し、大南北と呼ばれ、孫の五代目は小南北とも呼ばれています。 

〇中村座(なかむらざ)とは?

 江戸にあった歌舞伎劇場で、市村座、森田座(のち守田座)と共に、江戸三座と呼ばれています。江戸時代前期の1624年(寛永元)に、猿若勘三郎(初世中村勘三郎)が猿若座と称して中橋広小路に創設し、後に中村座と改称されました。
 禰宜町、堺町を経て、1842年(天保13)に浅草猿若町へ移転し、1876年(明治9)に休座、のち都座、猿若座、中村座、鳥越座と名称をかえて、何度か再興したものの、長続きせず、1893年(明治26)に焼失して廃座となっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1651年(慶安4)軍学者・慶安の変の首謀者由比正雪が自害する(新暦9月10日)詳細
1881年(明治14)劇作家・演出家小山内薫の誕生日詳細
1940年(昭和15)第2次近衛内閣によって国家の政策の基本方針である「基本国策要綱」が閣議決定される詳細
1945年(昭和20)ポツダム会談(ドイツのポツダムで開催)で協議の上、ポツダム宣言が出される詳細
1981年(昭和56)全国8番目の地下鉄として、福岡市地下鉄初の天神駅~室見駅間(1号線)が開業する詳細
1992年(平成4)将棋棋士・15世永世名人大山康晴の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1829年(文政12)に、歌舞伎作者四代目鶴屋南北の亡くなった日ですが、新暦では12月22日となります。
 四代目鶴屋南北(よだいめ つるや なんぼく)は、1755年(宝暦5年)に江戸・日本橋の紺屋海老屋伊三郎の子として生まれたとされますが、本名は伊之助または勝次郎と言いました。生来の芝居好きで、20代初めに狂言作者を志し、1776年(安永5)に初代桜田治助の門に入り、翌年には、初世桜田治助の苗字をもらい桜田兵蔵の名で番付に載ります。
 1782年(天明2)に、道化方の俳優3世南北の娘をめとり、勝俵蔵を名のり、1786年(天明6)から狂言作者に専心、道外方大谷徳次を使った「おかしみの狂言」を書き、認められました。1797年(寛政9)に三世坂東彦三郎付きの作者となり、1799年(寛政10)の5歳の時、立作者となります。
 1803年(享和3)の49歳の時、三代目坂東彦三郎のために『世響音羽桜』を書き、翌年の江戸河原崎座で初代尾上松助のために書き下ろした『天竺徳兵衛韓噺』(天竺徳兵衛)が大当たりとなりました。1805年(享和5)に河原崎座で『四天王楓江戸粧』を成功させ、1806年(享和6)には五世松本幸四郎一座の立作者となります。
 1808年(文化5)に市村座『彩入御伽草』で怪談物の狂言を完成させ、1811年(文化8)には、四代目鶴屋南北を襲名しました。以後、25年間に五世松本幸四郎、五世岩井半四郎、三世尾上菊五郎のため、120編の作品を書き、中でも1825年(文政8)の『東海道四谷怪談』は代表作とされます。
 生世話(きぜわ)に巧みで、趣向に富むとされたものの、1829年(文政12)に『金幣猿島郡』を一世一代として引退、同年11月27日に江戸において、75歳で亡くなりました。尚、一般的に鶴屋南北といえば、四代目を指し、大南北と呼ばれ、孫の五代目は小南北とも呼ばれています。

〇鶴屋南北(4代目)の主要な著作

・『世響音羽桜』(1803年)
・『天竺徳兵衛韓噺』(1804年)
・『四天王楓江戸粧』(1805年)
・『彩入御伽草』(1808年)
・『絵本合法衢 (がっぽうがつじ) 』(1810年)
・『於染久松色読販 (おそめひさまつうきなのよみうり) 』(1813年)
・『隅田川花御所染』(1814年)
・『桜姫東文章』(1817年)
・『盟三五大切』(1825年)
・『東海道四谷怪談』(1825年)
・『金幣猿島郡(きんのざいさるしまだいり)』(1829年)

☆鶴屋南北(4代目)関係略年表(日付は旧暦です)

・1755年(宝暦5年) 江戸・日本橋の紺屋海老屋伊三郎の子として生まれる
・1776年(安永5年) 初代桜田治助の門に入る
・1777年(安永6年) 初世桜田治助(じすけ)の苗字(みょうじ)をもらい桜田兵蔵の名で番付に載る
・1782年(天明2年) 道化方の俳優3世南北の娘をめとり、勝俵蔵を名のる
・1786年(天明6年) 狂言作者に専心、道外方大谷徳次を使った「おかしみの狂言」を書き、認められる
・1797年(寛政9年) 3世坂東(ばんどう)彦三郎付きの作者となる
・1799年(寛政10年) 45歳の時、立(たて)作者となる
・1803年(享和3年閏1月) 49歳の時、三代目坂東彦三郎のために『世響音羽桜』を書く
・1804年(享和4年7月) 江戸河原崎座で初代尾上松助のために書き下ろした『天竺徳兵衛韓噺』(天竺徳兵衛)が大当たりとなる
・1805年(享和5年1月) 河原崎座で『四天王楓江戸粧』を成功させる
・1806年(享和6年) 5世松本幸四郎一座の立作者となる
・1808年(文化5年閏6月) 市村座『彩入御伽草』で怪談物の狂言を完成する
・1811年(文化8年) 四代目鶴屋南北を襲名する
・1825年(文政8年) 代表作『東海道四谷怪談』を書く
・1829年(文政12年) 『金幣猿島郡(きんのざいさるしまだいり)』を一世一代として引退する
・1829年(文政12年11月27日) 江戸において、75歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1886年(明治19)洋画家藤田嗣治の誕生日詳細
1890年(明治23)小説家・翻訳家・仏文学者・児童文学者豊島与志雄の誕生日詳細
1942年(昭和17)戦時標語である「国民決意の標語」懸賞募集の入選と佳作が紙面上に発表される詳細


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