ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:東洋史学者

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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、東洋史学者山本達郎が生まれた日です。
 山本達郎(やまもと たつろう)は、東京において、貴族院議員・参議院議員となった父・松村真一郎はの子として生まれましたが、日本銀行総裁などを歴任した祖父の山本達雄の養子となり改姓しました。1933年(昭和8)に東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業し、翌年には、東方文化学院助手となり、「鄭和の西征」で中国艦隊のインド洋遠征の実態を解明し国際的評価を受けます。
 1942年(昭和17)に、東京帝国大学文学部助教授となり、1949年(昭和24)には、文学部東洋史学科教授(南方史講座)に昇任し、毎日学術奨励金を受けました。1951年(昭和26)に東京大学より文学博士の学位を取得、翌年には、「安南史研究」で、日本学士院賞を受賞します。
 1953年(昭和28)から東洋文庫の評議員・理事を歴任し、近代中国研究委員会(現在の東洋文庫 近代中国研究班)を発足させました。1966年(昭和41)に東京大学文学部長となり、翌年には、学士院会員となっています。
 1971年(昭和46)に東京大学を定年退官し、翌年には、国際基督教大学教授となり、イェール大学客員教授、コーネル大学客員教授も務めました。1975年(昭和50)に国際哲学人文科学協議会会長となり、1986年(昭和61)に文化功労者、1998年(平成10)には、文化勲章を受章しています。
 東南アジア史研究の先駆者として知られ、国際学術交流にも努めましたが、2001年(平成13)1月24日に、東京において、心不全により90歳で亡くなりました。

〇山本達郎の主要な著作

・『印度支那諸民族に関する民族学的研究の現状』帝国学士院(1942年)
・『世界史概観』東京大学文学部内史学会編:村川堅太郎・林健太郎共著、山川出版社(1949年)
・『安南史研究』山川出版社(1950年) 
・『世界史』 村川堅太郎・江上波夫・林健太郎共著、山川出版社(1952年)
・『歴史の見方』三省堂〈社会科歴史文庫〉(1957年)

☆山本達郎関係略年表

・1910年(明治43)6月16日 東京において、貴族院議員・参議院議員となった父・松村真一郎はの子として生まれる
・1933年(昭和8) 東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業する
・1934年(昭和9) 東方文化学院助手となり、「鄭和の西征」で中国艦隊のインド洋遠征の実態を解明し国際的評価を受ける
・1942年(昭和17) 東京帝国大学文学部助教授となる
・1949年(昭和24) 東京大学文学部東洋史学科教授(南方史講座)に昇任し、毎日学術奨励金を受ける
・1951年(昭和26) 東京大学より文学博士の学位を取得する
・1952年(昭和27) 「安南史研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1953年(昭和28) 東洋文庫の評議員となる
・1966年(昭和41) 東京大学文学部長となる
・1967年(昭和42) 学士院会員となる
・1971年(昭和46) 東京大学を定年退官する
・1972年(昭和47) 国際基督教大学教授となる
・1975年(昭和50) 国際哲学人文科学協議会会長となる
・1986年(昭和61) 文化功労者となる
・1998年(平成10) 文化勲章を受章する
・2001年(平成13)1月24日 東京において、心不全により90歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1699年(元禄12)商人・海運と治水の功労者河村瑞賢の命日(新暦7月12日)詳細
1884年(明治17)俳人荻原井泉水の誕生日詳細
1939年(昭和14)国民精神総動員委員会がネオン抑制、パーマネント廃止等の生活刷新案を発表詳細
1943年(昭和18)「工場法戦時特例」公布・施行、「工場就業時間制限令」廃止で、労働時間制限撤廃等を許可する詳細
1961年(昭和36)「スポーツ振興法」が公布(施行は同年9月15日)される詳細
1964年(昭和39)新潟地震(M7.5)が起こり、死者26人、負傷者447人を出す詳細
1972年(昭和47)国連人間環境会議で「人間環境宣言」が採択される詳細
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naitoukonan01

 今日は、幕末明治維新期の1866年(慶応2)に、東洋史学者・評論家内藤湖南の生まれた日ですが、新暦では8月27日となります。
 内藤湖南(ないとう こなん)は、秋田県鹿角郡毛馬内町(現在の鹿角市)の南部藩士・儒者内藤調一と容子の次男として生まれましたが、名は虎次郎と言いました。7歳で『二十四孝』と四書を習得し、13歳の時に『日本外史』を通読、さらに詩作を始めたとされます。
 1885年(明治18)に秋田師範高等科を卒業後、綴子(つづれこ)小学校の主席訓導となりましたが、約1年で辞めて、1887年(明治20)には上京して、仏教雑誌「明教新誌」の編集に従事しました。その後、「大同新報」の記者、機関紙「日本人」の編集、「三河新聞」の編集と渡り歩き、1894年(明治27)には、大阪朝日新聞に入ります。
 さらに、「台湾日報」主筆や「万朝報」などの編集で名を馳せ、中国問題の論壇第一人者となりました。1907年(明治40)に狩野亨吉によって京都帝国大学に招かれ、文科大学史学科東洋史学講座講師となります。
 2年後の1909年(明治42)に教授に昇任し、翌年には、狩野亨吉総長の推薦により文学博士となりました。1926年(大正15)に京都帝国大学を定年退官し、帝国学士院会員となり、翌年には、京都帝国大学名誉教授となります。
 この間、数次にわたり、中国、朝鮮、満州、欧州を訪問、敦煌文書などを調査し、狩野直喜と共に、東洋史・支那学における京都学派を育てました。また、邪馬台国の所在地をめぐる論争では、畿内説を主張し、九州説を唱えた東京帝国大学の白鳥庫吉と激しい論争が展開されます。
 定年退官後は、京都府瓶原村(現在の木津川市)の恭仁(くに)山荘に隠棲し、読書著述の日々を過ごしました。その中で、1929年(昭和4)に東方文化学院京都研究所(現在の京大人文科学研究所)評議員となったり、国宝保存会委員などの要職を続けたものの、1934年(昭和9)6月26日に、数え年69歳で亡くなっています。

〇内藤湖南の主要な著作

・『支那史学史』
・『日本文化史研究』
・『中国近世史』
・『清朝史通論』
・『支那論』
・『中国絵画史』
・『燕山楚水(えんざんそすい)』

☆内藤湖南関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1866年(慶応2年7月18日) 秋田県鹿角郡毛馬内(けまない)町(現在の鹿角市)の南部藩士・儒者内藤調一と容子の次男として生まれる
・1872年(明治5年) 7歳で『二十四孝』と四書を習得する
・1878年(明治11年) 13歳の時、『日本外史』を通読し、さらに詩作を始める
・1885年(明治18年) 秋田師範高等科を卒業後、小学校教育に従事する
・1887年(明治20年) 上京して、仏教雑誌「明教新誌」の編集に従事する
・1894年(明治27年) 大阪朝日新聞に入る 
・1907年(明治40年) 京都帝国大学文科大学史学科東洋史学講座講師となる
・1909年(明治42年) 京都帝国大学教授に就任する
・1910年(明治43年) 狩野亨吉総長の推薦により文学博士となる
・1924年(大正13年)2月15日 従四位となる
・1924年(大正13年)2月23日  勲三等瑞宝章を受章する
・1926年(大正15年) 京都帝国大学を定年退官し、帝国学士院会員となる
・1927年(昭和2年) 京都帝国大学名誉教授となる
・1929年(昭和4年) 東方文化学院京都研究所(現・京大人文科学研究所)評議員となる
・1934年(昭和9年)6月26日 数え年69歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1204年(元久元)鎌倉幕府第2代将軍源頼家の命日(新暦8月14日)詳細
1315年(正和4)鎌倉幕府第12代執権北條煕時の命日(新暦8月18日)詳細
1871年(明治4)女優川上貞奴の誕生日(新暦9月2日)詳細
1970年(昭和45)東京都杉並区で日本初の光化学スモッグが発生する(光化学スモッグの日)詳細
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