ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:東条英機

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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1943年(昭和18)に、太平洋戦争開戦2周年にあたって、東條首相が戦争の成果と意義について講演(東条英機の大東亜戦争二週年記念講演)し、ラジオ放送された日です。
 東条英機の大東亜戦争二週年記念講演(とうじょうひできのだいとうあせんそうにしゅうねんきねんこうえん)は、真珠湾攻撃による太平洋戦争開戦から2年経ったこの日に、内閣総理大臣・東条英機が全国民にこの戦争の成果と意義について行った演説で、全国にラジオ放送されました。1943年(昭和18)11月22日からエジプトのカイロで開催されたフランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蔣介石中華民国国民政府主席による首脳会談を受けて、12月1日に発表された「カイロ宣言」に反撃したものです。
 太平洋戦争の成果を述べ、大東亜の結束強化の意義を強調した上で、国民に対し、決意を新たにし、いよいよ必勝の信念を堅持して、戦争を勝ち抜くように訴えたものでした。
 以下に、「東条英機の大東亜戦争二週年記念講演」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「カイロ宣言」(かいろせんげん)とは?

 第二次世界大戦中の1943年(昭和18)11月22日~26日まで、エジプトのカイロで開催されたカイロ会談最終日に、アメリカの F.ルーズベルト、イギリスの W.チャーチル、中華民国の蒋介石の3首脳が署名(同年12月1日に発表)した宣言です。その主要な内容は、① 「日本国に対する将来の軍事行動を協定した」こと、② 「野蛮な敵国には仮借のない圧力を加える決意を表明した」こと、③ 日本の侵略は防止するが自国は侵略目的をもたないこと、④ 第一次世界大戦後日本が奪取または占領した太平洋における一切の島嶼の剥奪、ならびに満州、台湾、澎湖列島などの中華民国への返還、日本が暴力と貪欲によって略取したすべての地域からの日本の駆逐、⑤ 朝鮮を解放して独立させる決意を持つこと、⑥ 以上の目的において、米・英・中の3国は日本の無条件降伏まで、日本と交戦中の他の諸国と協力して長期間の行動を続行することを明らかにしました。その後、対日政策の基本となり、テヘラン会談(1943年11月28日~12月1日)、ヤルタ会談(1945年2月4日~2月11日)を経て、「ポツダム宣言」に引き継がれ、1945年(昭和20)8月に、日本によって受諾されて、終戦へと至ります。

☆「東条英機の大東亜戦争二週年記念講演」 1943年(昭和18)12月8日のNHKラジオ放送

 昭和16年12月8日。畏くも宣戦の大詔を拝し奉り、我等1億同胞、等しく醜の御盾とならんことを誓い奉ってより、まさに2カ年を経過いたしたのであります。顧みれば皇軍は、開戦以来御稜威の下、善謀勇戦、特に最近に至っては、敵の大規模反攻の好機をとらえ、相次いで比類なき大戦果を挙げ、究極の勝利に向かって力強き歩みを進めておるのであります。私は、ここに諸君とともに、皇軍将兵の健闘に対し、満腔の謝意を表するとともに、忠烈なる戦没勇士に対しまして、慎んで敬弔の誠を捧げ、かつその間、戦い抜く国民諸君の並々ならぬご労苦に対しまして、深甚なる敬意を表するものであります。まさに2年前の今日、帝国は米英の経済的、軍事的圧迫による帝国存亡の危局を打開し、自存自衛を全うするため、決然、干戈を取って立ち上がるのやむなきに至ったのであります。正義の師、ひとたび進むや、米英の侵略勢力はたちまちにして東亜の全地域より駆逐掃討せられ、大東亜諸民族の自覚と熱情とは、澎湃として大東亜の天地にみなぎるに至ったのであります。
 今や、大東亜諸国家諸民族は、真に兄弟の関係に立ち、いよいよ提携を密に、豊富なる資源を日に増し、戦力化しつつ、道義に基づく大東亜を建設、万邦共栄の楽しみをともにすべき共同の目的達成に向かって、一路邁進いたしておるのであります。しかして、大東亜10億民族の牢固たる共同の決意は、過般の大東亜会議によっていやが上にも強固にせられたのであります。これを開戦前の状況にすれば、大東亜の様相は全く一変し、今や我等(ら)の前途は豁然として開け、自信と希望とに満ちておるのであります。一方、欧州における盟邦は、戦意ますます旺盛に、あらゆる困難に打ち克ち、勇戦、敢闘を続けておるのであります。しかして、帝国とこれら盟邦との提携は、日に日に緊密の度を加え、東西相呼応して、米英の野望を粉砕し、世界新秩序を建設すべく、共同目標に向かって勇躍前進を続けておるのであります。ひるがえって、敵米英の指導者は、口に正義人道、博愛仁義を叫びつつ、その為すところは表裏全く相反するものがあるのであります。重なる我が病院船に対する暴戻極まりなき行為のごときは、まさに言語道断であります。彼らは自己本位の繁栄追及のためには、他国家、他民族の犠牲のごときは恬(てん)としてこれを顧みないのであります。
 特に東亜に対しては、門戸開放、機会均等を唱えながら、自国の領土内においては東亜の諸民族に対し、常に門戸を閉鎖し、不平等の待遇を与え、結局彼らの東亜民族に求むるものは、その永久の隷属化であったのであります。最近、カイロ会談において、彼ら米英の指導者は、ほしいままに東亜の処置を論じ、帝国を三流国たらしめんと高言いたしておるのであります。これ、まさに戦いに疲れ、前途の不安に襲われ、焦躁する彼ら指導者が当面の失敗を糊塗せんとする、謀略的夢物語であります。誠に笑止の至りであります。しかも多年、彼らが掠奪し来たれる全世界に渡る領域と、現に彼らの羈絆(きはん)の下に、塗炭の苦しみを重ねつつある被圧迫民族の解放に関しては、この夢物語においてすら、一言も触れておらないのであります。彼らの求むるところは正義にあらず、はたまた人道にあらず、手段選ばざる自己繁栄であり、旧態依然たるあくなき他民族の搾取であります。今や彼らは没落の一途をたどれる重慶政権に対し、小作を労し、甘言を用い、これをして無益の抗戦を継続せしめんことを、ひたすらこれ、図っておるのであります。その真意はまさに大東亜諸国家諸民族間の離反を永続化し、これによって再び東亜を米英の植民地に転落せしめ、米英本位の東亜制覇の野望を達成せんとするにあるのであります。
 カイロ会談こそは、まさにかかる非望を中外に曝露し、彼ら究極の戦争目的が那辺に存するかを自ら世界に向かって公言するの愚を演じたものにほかならないのであります。万邦との厚誼を厚うし、人種的差別を撤廃、遍く文化を交流、進んで資源を開発、もって世界の進運に貢献せんとする大東亜各国共同の崇高なる精神とは、全く相容れざる米英本位の非望を端的に世界に声明したものであります。かくのごとき横暴非道なる指導者に翻弄せられ、戦争の苦悩を日増しに加うる米英国民大衆は、戦争目的に疑念を抱くに至るべきは必定と信ぜらるるところであります。しかもあくなき野望達成のために、狂奔する米英の指導者らは、焦慮のあまり、今後いよいよその国民大衆を欺瞞しつつ、苦し紛れの執拗なる反攻を繰り返すべきは、当然予期せらるるところであります。戦局のいよいよ激化し、長期化すべきは我々のつとに覚悟しておるところであります。このときに当たり、非道なる米英に対し、我々の取るべき道は炳乎として明らかであります。敵米英が暴力をもってその野望を達成せんとする以上、我等(ら)は実力をもってこれを破砕するばかりであります。
 隠忍と自重との最大限を重ね、自存自衛のため、やむにやまれずして立ち上がった2年前の今日の決意を常に新たにし、一層の信念の下、いよいよ大東亜の結束を強化して、どこまでも米英撃砕の一路を邁進するばかりであります。敵の反攻いかに熾烈なりと言えども、なんぞこれを意に介するものでありましょうか。断乎、鏖殺(おうさつ)、殲滅をもってこれに応うるのみであります。さらに進んで、あくまでもどこまでも、徹底的痛撃を加え、遂に彼らを屈服せしむるばかりであります。けだし、戦勝はむなしく座して勝ち得られるものではないのであります。1億国民が外にあると内にあるとを問わず、それぞれの職域において、はたまた日常の私生活において、一切を捧げて徹底的に奉公の誠を致すことにより、初めて獲得せらるるものであります。勝利の鍵は我々自身の手にあるのであります。素朴熱烈なる忠誠心、烈々たる闘魂、旺盛なる滅敵意気こそは、戦勝の基礎であります。1億同胞一致団結、最善を尽くして蹶起奮闘するならば、勝利の栄冠は必ずや我等(ら)の上に輝くのであります。諸君、皇軍将兵は最近またもやブーゲンビル、ギルバード方面において、また中支那方面等(とう)において、奮戦激闘、見敵必殺、もって赫々たる戦果を挙げておるのであります。
 悠久の大義に生きんとする我等(ら)将兵は、生還、もとより期するところではないのであります。また、喜んで家と職とを残して前線におもむき、または学窓を去って、戦場にはせ参ずる等(とう)、国民各層の熱烈なる闘魂を見まするとき、我々は真に必勝の信念を固くするものであります。国民諸君、総員戦闘配置にある国民諸君、我々1億同胞は、各々その職域において、ことごとく戦場にあるの決意を新たにし、戦時生活に徹底し、戦力を増強し、戦争持久の構えを固め、もって戦争第3年を決勝の年となさんことを誓うものであります。かくしてこそ、我等は天与の試練を突破して、皇国護持の道を全うすることができるのであります。しかして、この我等1億の心は、すなわち大東亜10億の心であります。大東亜戦争の完遂なくして、大東亜の建設はないのであります。大東亜10億の民族が、ことごとくその途に安んじ、共存共栄し得(う)るに至るか、あるいは再び転落して、米英の秕政の下に被圧迫民族の苦悩をなむるに至るか、まさにこの大戦争にかかっておるのであります。
 我等(ら)1億同胞は、大東亜10億民族とともに、相携えて戦争を完遂し、建設を完成せんことをあらためて固く期するものであります。ここに大東亜戦争第2周年記念日を迎え、国民諸君とともに、2年前の決意を新たにし、いよいよ必勝の信念を堅持して、御稜威の下、帝国の隆替、東亜の興廃を決すべき大東亜戦争を勝ち抜き、誓って聖旨に応え奉らんことを期して、私の放送を終わります。

   「NHKウェブサイト」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1941年(昭和16)「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」が発せられ、太平洋戦争が始まる(太平洋戦争開戦記念日)詳細
1945年(昭和20)GHQが「救済並福祉計画ノ件」(SCAPIN-404)を指令する詳細
1958年(昭和33)国道20号線の新笹子隧道[一般有料道路笹子トンネル](全長2,953m)が開通する詳細
1990年(平成2)歌人・国文学者土屋文明の命日詳細
2008年(平成20)初めて7地域が日本ジオパークに決まり、内3地域を世界ジオパークへ推薦する詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下の1942年(昭和17)に、東条英機首相の提唱により、翼賛政治会が結成され、初代総裁に阿部信行(元首相)が就任した日です。
 翼賛政治会(よくさんせいじかい)は、太平洋戦争下において、東条英機首相が議会に対する支配を確立するため、挙国一致の政治体制強化を目的として結成された政治結社でした。1940年(昭和15)10月12日に大政翼賛会が結成され、日本型ファシズム体制が成立し、翌年12月8日の太平洋戦争開戦へと至ります。
 東条内閣は「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」(1941年12月19日公布)や「戦時刑事特別法」(1942年2月24日公布)などを制定して弾圧を強め、太平洋戦争緒戦の勝利を利用して、1942年(昭和17)4月30日に翼賛選挙を実施しました。それに向けて結成されていた、翼賛政治体制協議会は推薦候補者の内381名の当選者を出し、全466議席の過半数をはるかに上回ります。
 しかし、東条内閣はこの政治団体以外のいかなる政党をも許容しないという方針を明らかにし、5月7日に政界・財界・言論界の代表70名を招いて翼賛政治結集準備会を結成させ、座長に住友財閥出身の小倉正恒元大蔵大臣を起用、同月14日には、現職閣僚5名と追加代表2名を加えた77名を発起人として有志による結成の体裁を保ちつつ、会名・綱領・規則を発表して新組織への参加要請状を各界要人に発送しました。そして、同月20日に衆議院においては全466名中刑事訴追者2名と解散に抵抗した東方会の6名を除く458名、貴族院においても411名中326名、大政翼賛会関係者、言論界・財界・産業組合など各種団体などの代表者、元翼協支部長など、900余名を集めて創立総会を開き、総裁には阿部信行大将(元首相)が就任します。
 綱領には、①国体の本義に基き挙国的政治力を結集し、以て大東亜戦争完遂に邁進せんことを期す、②憲法の条章に恪遵し翼賛議会の確立を期す、③大政翼賛会と緊密なる連繋を保ち、相協力して大政翼賛運動の徹底を期す、④大東亜共栄圏を確立して世界の新秩序の建設を期す、を掲げました。3日後には、東方会も解散させられて全員が翼賛政治会に強制加入させられることになり、ここにおいて一応は「一国一党」体制が成立したことになります。
 しかし、旧政党系列間、大日本翼賛壮年団と右翼出身議員間での抗争が絶えず、1944年(昭和19)7月に、東条内閣退陣に替わって小磯国昭内閣になり、二代目総裁として小林躋造元台湾総督が就任するとともに結束力が弱まり、翌年2月12日に小林総裁より新党結成方針が正式に出されたものの、大政翼賛会幹部と大日本翼賛壮年団出身議員が反発、翼政会内部は大混乱に陥りました。そして、3月10日に大日本翼賛壮年団出身議員は翼壮議員同志会を結成、翌日には岸信介ら旧翼賛政治会反主流派も護国同志会を結成して、翼政会及び新党との訣別を宣言するに至ります。その中で、3月30日に翼政会は解散して、替わりに南次郎を総裁とする大日本政治会に改組されました。
 以下に、翼賛政治会宣言(一部)と綱領を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇翼賛政治会宣言と綱領 1942年(昭和17)5月20日 

<翼賛政治会宣言>

 東亜の安定を確保し以て世界の平和に寄与するのは、畏くも大詔に明示し給うところなり、帝国は今や古今未曾有の世界動乱に際し、大東亜戦争完遂に邁進す。洵に曠古の大業なり。皇師一たび出でて、赫々の戦果は世界を震撼せりと雖も、大業の前途は尚遼遠なり。すなわち国民の政治意識を昂揚し、挙国的政治力を結束し、次て国家の総力を発揮し、戦争目的を貫徹せざるべからず。惟ふに此の戦時下敢て総選挙を施行せられたるは、清新強力なる議会の確立を庶幾せられたるものにほかならず。而して総選挙の結果は滂湃(ほうはい)たる国民熱意の嚮(むか)ふところ明かにせり。これ正に一挙翼賛政治体制を確立して、必勝の挙国態勢を完成すべきの秋なり。
 翼賛議会の要は清新なる政治力を以て派閥抗争を一掃し、一地一職域の利害に拘らず、真に国家的見地に立ち公議公論の府として政府に協力するにあり。議会翼賛の大道また実にここに存す。
 本会は国民各界に亘り政治翼賛の総力を凝集し、以て国政運行に協力せんとす。而して翼賛政治体制の確立は、挙国的国民運動の基礎の上に立たざるべからず。因て本会は大政翼賛会と緊密なる連繋を保ち、相倶に大政翼賛運動の徹底を期せんとす。
(以下省略)
 
<翼賛政治会綱領>

一、国体の本義に基き挙国的政治力を結集し、以て大東亜戦争完遂に邁進せんことを期す。
一、憲法の条章に恪遵(かくじゅん)し翼賛議会の確立を期す。
一、大政翼賛会と緊密なる連繋を保ち、相協力して大政翼賛運動の徹底を期す。
一、大東亜共栄圏を確立して世界の新秩序の建設を期す。
 
☆翼賛政治会関係略年表

<1940年(昭和15)>

・10月12日 大政翼賛会が結成される

<1942年(昭和17)>

・4月30日 第21回総選挙(翼賛選挙)においては、大政翼賛会及びその傘下の大日本翼賛壮年団推薦を受けた候補者が過半数を遥かに上回る議席数を獲得する
・5月7日 内閣総理大臣東條英機は、政界・財界・言論界の代表70名を招いて翼賛政治結集準備会を結成させ、座長に住友財閥出身の小倉正恒元大蔵大臣を起用する
・5月14日 現職閣僚5名と追加代表2名を加えた77名を発起人として有志による結成の体裁を保ちつつ、会名・綱領・規則を発表して新組織への参加要請状を各界要人に発送する
・5月20日 翼賛政治会が結成され、初代総裁には翼賛政治体制協議会会長の阿部信行元内閣総理大臣がそのまま横滑りし、衆議院においては全466名中刑事訴追者2名と解散に抵抗した東方会の6名を除く458名が参加する
・5月23日 東方会も解散させられて全員が翼賛政治会に強制加入させられることになる貴族院の院内会派は成立時以来の建前上、会派がまとまって政治活動はしないこととなっていたため、ここにおいて一応は「一国一党」体制が成立したことになる
・6月23日 政府は大日本産業報国会(産業報国運動)、大日本婦人会、大日本青少年団などの官製国民運動6団体を大政翼賛会の傘下に統合する
・8月14日 部落会長と町内会長を大政翼賛会の世話役に、隣組長を世話人にすることを決定する

<1944年(昭和19)>

・7月 東條英機に替わって小磯国昭朝鮮総督が後任の内閣総理大臣となり、替わりの朝鮮総督に阿部総裁が任命される
・8月 二代目総裁として小林躋造元台湾総督が就任する
・12月 小磯内閣の国務大臣に任命された小林は小磯首相から本土決戦に備えて大政翼賛会や翼政会の改組を指示される

<1945年(昭和20)>

・1月20日 大政翼賛会・大日本翼賛壮年団・翼政会を解散させる替わりに大政翼賛会の地方部門と翼政会を統合して、全国民を統合する新党を結成する方針が翼政会代議士会で了承される
・2月12日 小林総裁より新党結成方針が正式に出されたものの、大政翼賛会幹部と大日本翼賛壮年団出身議員が反発、翼政会内部は大混乱に陥る
・3月1日 小林は国務大臣を辞任して新党結成と反対派説得に尽力する
・3月8日 新党の設立準備委員会結成の時点で、小林の新党構想は破綻状態になる
・3月10日 大日本翼賛壮年団出身議員は翼壮議員同志会を結成する
・3月11日 岸信介ら旧翼賛政治会反主流派も護国同志会を結成して、翼政会及び新党との訣別を宣言する
・3月30日 翼政会は解散して替わりに南次郎を総裁とする大日本政治会となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

626年(推古天皇34)古代の大臣・中央豪族蘇我馬子の命日(新暦6月19日)詳細
1886年(明治19)洋画家・紙絵作家高村(旧姓長沼)智恵子の誕生日詳細
1933年(昭和8)大阪市営地下鉄1号線(現在の大阪メトロ御堂筋線)の梅田~心斎橋間が開業する詳細
1978年(昭和53)千葉県成田市に新東京国際空港(現在の成田国際空港)が開港する詳細
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