ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:東大寺再建

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 今日は、鎌倉時代の1195年(建久6)に、後鳥羽天皇・源頼朝・北条政子らの臨席のもとで、東大寺再建により、大仏殿の落慶法要が行われた日ですが、新暦では4月23日となります。
 東大寺(とうだいじ)は、奈良時代創建の東大寺は、聖武天皇が741年(天平13年2月14日)に出した「国分寺建立の詔」によって、国ごとに建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられ、盧舎那仏(東大寺大仏)を本尊としています。何度か戦火にあって焼失していますが、転害門、正倉院、法華堂などは創建当初の建物が残され、いずれも国宝に指定されています。
 特に正倉院の中には聖武天皇関係の宝物が数多く残され、当時の文化を伝える貴重なもので、京都国立博物館の年1回の正倉院展で見ることができます。また、法華堂の不空羂索観音像、日光・月光菩薩像、執金剛神像、戒壇堂四天王像などの国宝指定の天平仏が安置されています。
 しかし、平安時代になると、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊します。しかも、1180年(治承4)に、平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失してしまいました。
 その後、鎌倉時代に俊乗房重源によって再興され、1195年(建久6)には、大仏殿の落慶法要が後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席のもと行われ、鎌倉文化も凝縮されています。この時代の建築物では天竺様の南大門と開山堂が残され、国宝となっています。その南大門に佇立する仁王像を作った運慶、快慶を代表とする慶派の仏師の技はすばらしいものです。
 また、大仏殿は江戸時代中期の1709年(宝永6)に再建されたもので、これも国宝に指定されています。尚、1998年(平成10)には、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。
 以下に、『吾妻鏡』第十五巻の東大寺大仏殿落慶式開眼供養の記述を掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇東大寺大仏関係略年表

・740年(天平12年) 聖武天皇は難波宮への行幸途次、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、自らも盧舎那仏像を造ろうと決心する
・741年(天平13年2月14日) 聖武天皇が「国分寺・国分尼寺建立の詔」を発する
・743年(天平15年10月15日) 聖武天皇が近江国紫香楽宮にて「大仏造立の詔」を発する
・744年(天平16年11月13日) 紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏の骨柱を立てる
・745年(天平17年8月23日) 平城東山の山金里(今の東大寺の地)で改めて大仏造立が開始される
・746年(天平18年10月6日) 聖武天皇は金鐘寺(東大寺の旧称)に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行う
・747年(天平19年9月29日) 大仏の鋳造が開始される
・749年(天平勝宝元年10月24日) 大仏の鋳造が終了する
・752年(天平勝宝4年4月9日) 大仏開眼供養会が盛大に開催される
・855年(斉衡2年) 地震で被災し、首が落下する
・861年(貞観3年) 大仏修復が終わり、朝廷が大法会を開催して大仏の修理落成供養を行なう
・1180年(治承4年) 平重衡の兵火によって大仏が焼失する
・1185年(文治元年) 重源らが奔走して大仏を修復し、開眼法要が営まれる
・1195年(建久6年3月12日) 大仏殿の落慶法要が後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席のもと行われる
・1567年(永禄10年) 松永久秀の兵火によって大仏が焼失する
・1610年(慶長15年) 仮堂で復興していた東大寺大仏殿が大風で倒壊する
・1685年(貞享元年) 公慶は江戸幕府から大仏再興のための勧進(資金集め)の許可を得る
・1691年(元禄4年) 公慶らによって大仏が再興される
・1692年(元禄5年) 再興された大仏の開眼供養が行われる
・1709年(宝永6年) 再建された大仏殿が落慶する
・1958年(昭和33年)2月8日 「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」として国宝に指定される

☆『吾妻鏡』第十五巻の東大寺大仏殿落慶式開眼供養の記述

<原文>

建久六年(1195)三月大十二日丁酉。朝雨霽。午以後雨頻降。又地震。今日東大寺供養也。雨師風伯之降臨。天衆地類之影向。其瑞揚焉。寅一點。和田左衛門尉義盛。梶原平三景時。催具數万騎壯士。警固寺四面近郭。日出以後。將軍家御參堂。御乘車也。

<読み下し文>

建久六年(1195)三月大十二日丁酉。朝雨霽る。午以後雨頻りに降る。又地震。
今日東大寺供養也。雨師風伯[1]之降臨[2]、天衆地類[3]之影向[4]、其の瑞[5]揚焉[6]。
寅一點[7]、和田左衛門尉義盛、梶原平三景時、數万騎の壯士[8]を催し具し、寺の四面の近郭[9]を警固す。
日出以後、將軍家御參堂、御乘車[10]也。

【注釈】

[1]雨師風伯:うしふうはく=雨の神、風の神の意味。
[2]降臨:こうりん=天上に住むとされる神仏が地上に来臨すること。
[3]天衆地類:てんしゅじるい=天上界・地上界の神仏たち。天地の神仏。平家物語の巻第四「山門牒状」に「天衆地類も影向を垂れ」と出てくる。
[4]影向:ようごう=神仏の本体が一時応現すること。神仏が仮の姿をとって、この世に現われること。神仏が来臨すること。また、姿を見せないで現われること。
[5]其の瑞:そのずい=その縁起の良い効験は、
[6]揚焉:けちえん=著しいさま。きわだっているさま。目だつさま。あきらか。
[7]寅一點:とらのいってん=寅は1時00分~3時00分で、その2時間を5等分したのが点。1時00分~1時24分を一点、1時24分~1都48分を二点、1時48分~2時12分を三点、2時12分~2時36分を四点、2時36分~3時00分を五点。
[8]壯士:そうし=意気の豪壮なる者。勇壮な男子。血気のさかんな男。
[9]近郭:きんかく=近くの外回り。
[10]御乘車:ごじょうしゃ=牛車に乗車すること。

<現代語訳>

建久六年(1195)三月大十二日丁酉。朝の内は、雨だったものの晴れた。しかし、午後はまた雨が激しく降った。また地震があった。
今日は、東大寺大仏殿の落慶法要の日だ。雨の神、風の神が地上に来臨し、天上界・地上界の神仏たちが、この世に現われ、その縁起の良い効験はあきらかだ。
寅の一点(1時00分~1時24分)に、侍所長官の和田左衛門尉義盛と、副官の梶原平三景時が、数万騎の意気の豪壮なる者を指揮して、東大寺の四方の近くの外回りを警備している。
日の出以後に、将軍頼朝様は、お堂(大仏殿)へ、牛車に乗って、参上した。

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 今日は、鎌倉時代の1206年(建永元)に、浄土宗の僧重源が亡くなった日ですが、新暦では7月12日となります。
 重源(ちょうげん)は、平安時代後期の1121年(保安2)に、紀季重(きのすえしげ)の子として生まれましたが、名は刑部左衛門尉重定と称していました。1133年(長承2年)の13歳の時、真言宗の醍醐寺に入って出家、金剛王院源運に密教を学びます。
 また、高野山に登り、法然(源空)に就いて浄土教を研究すると共に、四国や大峯を修行して歩いたとされてきました。1167年 (仁安2) ~1176年 (安元2) に3回宋に留学したと言われ、3回目に栄西と出会い、天台山、阿育王山に登ったと伝えられ、いっしょに帰国しています。
 その後、1171年(承安元)頃に建立が始まった博多の誓願寺の本尊を制作する際に、周防国徳地から用材を調達、1176年(安元2)には高野山延寿院に梵鐘を施入した記録が残されました。1180年(治承4)に東大寺が平重衡の南都焼討によって伽藍の大部分を焼失すると、翌年に被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就きます。
 諸国を回って勧進に努め、宋人陳和卿の協力を得て大仏の鋳造を行い、1184年(寿永3)にほぼ完成させ、翌年には、大仏の開眼供養が行われました。さらに諸堂の建立にあたり、1186年(文治2)に東大寺建立祈願のため、東大寺の僧綱以下衆徒を率いて伊勢へ参宮、大般若経を転読供養するなど努力を重ね、1195年(建久6)に大仏殿を完成させ、この功をもって大和尚位に叙せられます。
 引き続いて、大仏殿の脇侍や四天王像、戒壇院、鎮守八幡宮、南大門を造立し、1203年(建仁3)には、東大寺総供養を迎えました。その一方で、1186年(文治2)に南都の明遍、貞慶ら学匠とともに京都大原勝林院において、大原問答に列し、1190年(建久元)には、法然を東大寺に招き半作の大仏殿において「観経曼陀羅」「浄土五祖像」をかけ供養・讃歎したと伝えられています。
 また、周防阿弥陀寺、播磨浄土寺、伊賀新大仏寺をはじめ、各地に堂宇を建立すると共に、備前の船坂山を開き、播磨の魚住泊の修築、摂津渡辺橋・長柄橋などの架橋、河内狭山池の改修、湯屋の勧進を行うなど、社会救済事業にも尽くしましたが、1206年(建永元年6月5日)に、奈良の東大寺において、数え年86歳で亡くなりました。

〇重源関係略年表(日付は旧暦です)

・1121年(保安2年) 紀季重(きのすえしげ)の子として生まれる
・1133年(長承2年) 13歳の時、真言宗の醍醐寺に入り、出家する
・1167年(仁安2年) 入宋し栄西と出会い、天台山、阿育王山に登ったと伝えられる
・1168年(仁安3年) 栄西とともに帰国する
・1171年(承安元年)頃 建立が始まった博多の誓願寺の本尊を制作する際に、周防国徳地から用材を調達する
・1176年(安元2年) 高野山延寿院に梵鐘を施入する
・1180年(治承4年) 東大寺が平重衡の南都焼討によって伽藍の大部分を焼失する
・1181年(養和元年) 被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就く
・1184年(寿永3年6月) 宋人陳和卿の協力を得て大仏の鋳造をほぼ完成する
・1185年(文治元年8月28日) 大仏の開眼供養が行われる
・1186年(文治2年4月) 東大寺建立祈願のため、東大寺の僧綱以下衆徒を率いて伊勢へ参宮、大般若経を転読供養する
・1186年(文治2年) 南都の明遍、貞慶ら学匠とともに京都大原勝林院において、大原問答に列する
・1190年(建久元年) 大部荘が与えられ、宋人の鋳物師陳和卿(ちんなけい)にあてがわれる
・1190年(建久元年) 法然を東大寺に招き半作の大仏殿において「観経曼陀羅」「浄土五祖像」をかけ供養・讃歎したと伝えられる
・1195年(建久6年) 大仏殿を再建する
・1197年(建久8年) 鉄製多宝塔(国宝として現存)を鋳造し、阿弥陀寺創建の由来を刻みこむ
・1203年(建仁3年) 東大寺総供養を行なう
・1206年(建永元年6月5日) 奈良の東大寺において、数え年86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1886年(明治19)陶芸家・人間国宝富本憲吉の誕生日詳細
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1972年(昭和47)国連人間環境会議が開始される(環境の日・国際環境デー)詳細


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