747年(天平19年9月29日)から大仏の鋳造が始まり、749年(天平勝宝元年10月24日)に鋳造が終了、752年(天平勝宝4年)に大仏開眼供養会が実施されましたが、参列者は1万数千人に及びました。これには、約500トンの銅が使用され、のべ260万人が関わったとされる大工事だったとされています。
しかし、平安時代後期の1180年(治承4)の平重衡の兵火によって焼失し、東大寺も伽藍の主要部を失い、重源らが奔走して、東大寺と大仏を再興しました。さらに、戦国時代の1567年(永禄10)に、松永久秀の兵火によって焼失したものの、復興事業はなかなか進まず、ようやく江戸時代になって、公慶が江戸幕府から大仏再興のための勧進の許可を得て、1691年(元禄4)に再興されています。従って、台座蓮弁の一部のみが当初のもので、胴部は鎌倉時代、頭部は江戸時代元禄期の鋳造とされてきました。
尚、1958年(昭和33)2月8日に、「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」として、国宝に指定されています。
特に正倉院の中には聖武天皇関係の宝物が数多く残され、当時の文化を伝える貴重なもので、京都国立博物館の年1回の正倉院展で見ることができます。また、法華堂の不空羂索観音像、日光・月光菩薩像、執金剛神像、戒壇堂四天王像などの国宝指定の天平仏が安置されています。
しかし、平安時代になると、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊したのです。しかも、1180年(治承4)に、平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失してしまいました。
しかし、鎌倉時代に俊乗房重源によって再興され、鎌倉文化も凝縮されています。この時代の建築物では天竺様の南大門と開山堂が残され、国宝となっています。その南大門に佇立する仁王像を作った運慶、快慶を代表とする慶派の仏師の技はすばらしいものです。
また、大仏殿は江戸時代中期の1709年(宝永6)に再建されたもので、これも国宝に指定されています。尚、1998年(平成10)には、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。