ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:東京芸術大学教授

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 今日は、平成時代の2017年(平成29)に、詩人・評論家大岡信の亡くなった日です。
 大岡信(おおおか まこと)は、昭和時代前期の1931年(昭和6)2月16日に、静岡県田方郡三島町(現在の三島市)において、歌人だった父・大岡博、母・綾子の長男として生まれました。静岡県立沼津中学校(現在の沼津東高校)、旧制第一高等学校を経て、1950年(昭和25)に、東京大学文科に入学します。
 在学中に、日野啓三、佐野洋らと『現代文学』を創刊し、1953年(昭和28)に文学部国文科を卒業後、読売新聞社に入社、外報部に記者として配属されました。1954年(昭和29)に、谷川俊太郎らの詩誌「櫂(かい)」に参加、1956年(昭和31) 第一詩集『記憶と現在』を刊行します。
 1963年(昭和38)に読売新聞社を退職、翌年には、明治大学助教授となり、1969年(昭和44)には、評論『蕩児の家系』で藤村記念歴程賞を受賞しました。1970年(昭和45)に明治大学教授に昇任、この頃から連句(連詩)をはじめ、1972年(昭和47)には、評論『紀貫之(きの-つらゆき)』で読売文学賞を受賞します。
 1979年(昭和54)に「朝日新聞」で『折々のうた』の連載を開始、詩集『春 少女に』で無限賞を受賞、翌年には、『折々のうた』で菊池寛賞を受賞しました。1987年(昭和62)に明治大学教授を辞め、東京芸術大学教授に就任、1989年(平成元)には、日本ペンクラブ会長となり、『故郷の水へのメッセージ』で第7回現代詩花椿賞を受賞します。
 1990年(平成2)に『詩人・菅原道真――うつしの美学』で芸術選奨文部大臣賞を受賞、1993年(平成5)には、『地上楽園の午後』で詩歌文学館賞を受賞、日本ペンクラブ会長を辞めました。1994年(平成6)に第51回恩賜賞・日本芸術院賞、1995年(平成7)に日本芸術院会員、1996年(平成8)に朝日賞、マケドニア(現北マケドニア)のストルガ詩祭で金冠賞、1997年(平成9)には文化功労者となるなど、数々の栄誉に輝きます。
 さらに、2002年(平成14)に国際交流基金賞、2003年(平成15)に文化勲章、2004年(平成16)にフランスのレジオン・ドヌール勲章オフィシエ受章と続きました。2007年(平成19)に「朝日新聞」での『折々のうた』の連載が終了、2009年(平成21)に静岡県三島市に「大岡信ことば館」が開館するなどしたものの、2017年(平成29)4月5日に、静岡県三島市において、呼吸不全のため86歳で亡くなっています。

〇大岡信の主要な著作

・詩集『記憶と現在』(1956年)
・評論『超現実と抒情(じょじょう)』(1965年)
・評論『蕩児(とうじ)の家系』(1969年)藤村記念歴程賞受賞
・評論『紀貫之』(1971年)読売文学賞受賞
・詩集『春 少女に』(1979年)無限賞受賞
・詩集『故郷の水へのメッセージ』(1989年)第7回現代詩花椿賞受賞
・評論『詩人・菅原道真』(1989年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・詩集『地上楽園の午後』(1993年)詩歌文学館賞受賞
・随筆『折々のうた』(1979~2007年)菊池寛賞受賞

☆大岡信関係略年表

・1931年(昭和6)2月16日 静岡県田方郡三島町(現在の三島市)において、歌人だった父・大岡博、母・綾子の長男として生まれる
・1943年(昭和18) 静岡県立沼津中学校(現在の沼津東高校)に入学する
・1947年(昭和22) 沼津中学4年から旧制第一高等学校文科丙類に入学する
・1950年(昭和25) 東京大学文科に入学する
・1953年(昭和28) 東京大学卒業後、読売新聞社に入社、外報部に記者として配属される
・1954年(昭和29) 谷川俊太郎らの詩誌「櫂(かい)」に参加する
・1956年(昭和31) 第一詩集『記憶と現在』を刊行する
・1959年(昭和34) 「フォートリエ展」カタログ作成に協力する
・1962年(昭和37) 武満徹の管弦楽曲のために「環礁」を書き下ろす
・1963年(昭和38) 読売新聞社を退職する
・1965年(昭和40) 明治大学助教授となる
・1969年(昭和44) 評論『蕩児の家系』で藤村記念歴程賞を受賞する
・1970年(昭和45) 明治大学教授となり、この頃から連句(連詩)をはじめる
・1972年(昭和47) 評論『紀貫之(きの-つらゆき)』で読売文学賞を受賞する
・1979年(昭和54) 「朝日新聞」で『折々のうた』の連載を開始、詩集『春 少女に』で無限賞を受賞する
・1980年(昭和55) 『折々のうた』で菊池寛賞を受賞する
・1987年(昭和62) 明治大学教授を辞め、東京芸術大学教授に就任する
・1989年(平成元) 日本ペンクラブ会長となり、『故郷の水へのメッセージ』で第7回現代詩花椿賞を受賞する
・1990年(平成2) 『詩人・菅原道真――うつしの美学』で芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1993年(平成5) 『地上楽園の午後』で詩歌文学館賞を受賞、日本ペンクラブ会長を辞める
・1994年(平成6) 第51回恩賜賞・日本芸術院賞を受賞する
・1995年(平成7) 日本芸術院会員となる
・1996年(平成8) 朝日賞を受賞、マケドニア(現北マケドニア)のストルガ詩祭で金冠賞を受賞する
・1997年(平成9) 文化功労者となる
・2002年(平成14) ことばと文学による国際文化交流と相互理解に多大な貢献をしたとして、国際交流基金賞を受賞する
・2003年(平成15) 文化勲章を受章する
・2004年(平成16) フランスのレジオン・ドヌール勲章オフィシエを受章する
・2007年(平成19) 「朝日新聞」での『折々のうた』の連載が終了する
・2009年(平成21) 静岡県三島市に「大岡信ことば館」が開館する
・2017年(平成29)4月5日 静岡県三島市において、呼吸不全のため、86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1880年(明治13)「集会条例」(明治13年太政官布告第12号)が公布される詳細
1939年(昭和14)「映画法」が公布され、脚本の事前検閲、外国映画の上映制限などが決まる詳細
1964年(昭和39)詩人・翻訳家三好達治の命日(達治忌)詳細
1984年(昭和59)染色工芸家芹沢銈介の命日詳細
1998年(平成10)明石海峡大橋が開通する詳細
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 今日は、昭和時代後期の1974年(昭和49)に、建築家吉田五十八の亡くなった日です。
 吉田五十八(よしだ いそや)は、明治時代中頃の1894年(明治27)12月19日に、東京市日本橋区(現在の東京都中央区)において、太田胃散の創業者である父・太田信義と母・トウ(銅)の5男第8子として生まれました。1897年(明治30)に父・太田信義が亡くなり、1909年(明治42)には、母方の姓が絶えるのを防ぐために吉田姓を継ぎ、以後吉田姓を名乗るようになります。
 東京開成中学校(現在の開成学園)を経て、1915年(大正4)に、東京美術学校図案科第2部に入学し、岡田信一郎に学び、在学中から住宅や店舗の設計を手がけました。1923年(大正12)に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)建築科を卒業後、欧米留学に出発し、ヨーロッパの古典建築について学び、1925年(大正14)に帰国します。
 その後、設計活動に入り、伝統的な数寄屋建築を現代化した独自の作風を確立しました。1941年(昭和16)に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)講師に就任し、1944年(昭和19)に東京に戦火が及ぶことを恐れ、神奈川県二宮町に疎開し、自邸を建てます。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授に就任して後進の指導に当たりつつ、住宅以外の劇場、美術館、寺院などの大規模建造物を手がけました。それらの功績により、1952年(昭和27)に日本芸術院賞を受賞、1954年(昭和29)には、日本芸術院会員となっています。
 1962年(昭和37)に東京芸術大学を退官以後は設計活動に専念し、翌年に皇居新宮殿造営顧問となり、1964年(昭和39)には、文化勲章を受章しました。1968年(昭和43)に皇居新宮殿造営顧問を辞め、アメリカ建築家協会名誉会員となったものの、1974年(昭和49)3月24日に、東京において、79歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈されています。

〇吉田五十八の主要な作品

・「小林古経邸」(1934年)
・「杵屋六左衛門別邸」(1936年)
・「新喜楽」(1940年)
・「東京歌舞伎(かぶき)座」改修(1951年)
・「山口蓬春画室」(1954年)
・「明治座」復興増改築(1958年)
・「梅原龍三郎邸」(1958年)
・「日本芸術院会館」(1958年)
・「五島美術館」(1960年)
・「大和文華館」(1960年)
・ローマの「日本文化会館」(1962年)
・「岸信介邸」(1969年)

☆吉田五十八関係略年表

・1894年(明治27)12月19日 東京市日本橋区(現在の東京都中央区)において、太田胃散の創業者である父・太田信義と母・トウ(銅)の5男第8子として生まれる
・1897年(明治30) 父・太田信義が亡くなる
・1909年(明治42) 母方の姓が絶えるのを防ぐために吉田姓を継ぎ、以後吉田姓を名乗る
・1915年(大正4) 東京美術学校図案科第2部に入学する
・1923年(大正12) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)建築科を卒業、欧米留学に出発する
・1925年(大正14) 欧米留学から帰国する
・1937年(昭和12) 結婚する
・1941年(昭和16) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)講師に就任する
・1944年(昭和19) 東京に戦火が及ぶことを恐れ、神奈川県二宮町に疎開し、自邸を建てる
・1946年(昭和21) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授に就任する
・1952年(昭和27) 日本芸術院賞を受賞する 
・1954年(昭和29) 日本芸術院会員となる
・1962年(昭和37) 東京芸術大学を退官する
・1963年(昭和38) 皇居新宮殿造営顧問となる
・1964年(昭和39) 文化勲章を受章する
・1968年(昭和43) 皇居新宮殿造営顧問を辞める、アメリカ建築家協会名誉会員となる
・1974年(昭和49)3月24日 東京において、79歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(寿永4)壇ノ浦の戦いが行われ、平家一門が滅亡する(新暦4月25日)詳細
1847年(弘化4)信濃国で善光寺地震(推定マグニチュード7.4)が起き、甚大な被害をもたらす(新暦5月8日)詳細
1891年(明治24)「度量衡法」(明治24年3月24日法律第3号)が公布される詳細
1932年(昭和7)小説家梶井基次郎の命日詳細
1983年(昭和58)千代田IC~鹿野ICの開通によって、中国自動車道(吹田~下関)が全通する詳細
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 今日は、昭和時代後期の1988年(昭和63)に、洋画家小磯良平の亡くなった日です。
 小磯良平(こいそ りょうへい)は、明治時代後期の1903年(明治36)7月25日に、兵庫県神戸市神戸(現在の中央区)において、貿易に携わっていた岸上家の8人兄弟姉妹の次男として生まれました。兵庫県立第二神戸中学校を経て、1922年(大正11)に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学し、藤島武二に学びます。
 在学中の1925年(大正15)に、『兄妹』が帝展に入選、1927年(昭和2)には「T嬢の像」が帝展特選を果たし、首席で東京美術学校を卒業しました。1928年(昭和3)にフランスに留学、アングル、ベラスケスらの技法を学び、サロン・ドートンヌにも出品、1930年(昭和5)には帰国し、光風会会員となります。
 1932年(昭和7)に裁縫女』が帝展特選となったものの、1936年(昭和11)には、官展を離れ、猪熊弦一郎らと新制作派協会を結成しました。1938年(昭和13)に陸軍の委嘱により従軍画家として上海に渡り、戦争画を描き、1940年(昭和15)には、『南京中華門戦闘図』で朝日文化賞を受賞します。
 1941年(昭和16)新文展の審査員を務め、『娘子関を征く』で第1回帝国芸術院賞を受賞、『東京八景』(太宰治)の装丁をしました。太平洋戦争後は、1947年(昭和22)に「兵庫県民歌」楽譜の表紙画を手がけ、1953年(昭和28)からは東京芸術大学教授となって後進の指導にあたります。
 1958年(昭和33)に『家族』で現代日本美術展の大衆賞を受賞、1971年(昭和46)には、東京芸術大学教授を辞めました。1973年(昭和48)に勲三等旭日中綬章、1974年(昭和49)に赤坂迎賓館の壁画『絵画』、『音楽』を制作、1979年(昭和54)に文化功労者、1982年(昭和57)に芸術院会員と数々の栄誉に輝きます。
 卓抜した描写と近代的感覚で、女性像に独自の画境を展開、1983年(昭和58)には文化勲章を受章、神戸市名誉市民ともなったものの、1988年(昭和63)12月16日に兵庫県神戸市において、85歳で亡くなりました。尚、1992年(平成4)に「神戸市立小磯記念館」がオープン、「小磯良平大賞展」も創設されます。

〇小磯良平の主要な作品

・『兄妹』(1925年)帝展入選
・『T嬢の像』(1926年)帝展特選受賞 兵庫県立美術館蔵
・『裁縫女』(1932年)帝展特選受賞
・『日本髪の娘』(1935年)
・『踊り子』 (1938年) 
・『南京中華門戦闘図』(1939年)朝日文化賞受賞
・『斉唱』 (1941年)
・『娘子関を征く』(1941年)第1回帝国芸術院賞受賞
・『家族』(1958年)第3回現代日本美術展の大衆賞受賞

☆小磯良平関係略年表

・1903年(明治36)7月25日 兵庫県神戸市神戸(現在の中央区)において、貿易に携わっていた岸上家の8人兄弟姉妹の次男として生まれる
・1922年(大正11) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学する
・1925年(大正15) 在学中『兄妹』が帝展に入選する
・1927年(昭和2) 「T嬢の像」が帝展特選を果たし、首席で東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科を卒業する
・1928年(昭和3) フランスに留学、アングル、ベラスケスらの技法を学ぶ
・1930年(昭和5) フランスから帰国し、光風会会員となる
・1932年(昭和7) 『裁縫女』が帝展特選となる
・1936年(昭和11) 官展を離れ、猪熊弦一郎らと新制作派協会を結成する
・1938年(昭和13) 陸軍の委嘱により従軍画家として上海に渡る
・1940年(昭和15) 『南京中華門戦闘図』で朝日文化賞を受賞する
・1941年(昭和16) 新文展の審査員を務め、『娘子関を征く』で第1回帝国芸術院賞を受賞、『東京八景』(太宰治)の装丁をする
・1947年(昭和22) 「兵庫県民歌」楽譜の表紙画を手がける
・1953年(昭和28) 東京芸術大学教授となる
・1958年(昭和33) 『家族』で現代日本美術展の大衆賞を受賞する
・1971年(昭和46) 東京芸術大学教授を辞める
・1973年(昭和48) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1974年(昭和49) 赤坂迎賓館の壁画『絵画』、『音楽』を制作する
・1979年(昭和54) 文化功労者となる
・1982年(昭和57) 芸術院会員となる
・1983年(昭和58) 文化勲章を受章、神戸市名誉市民となる
・1988年(昭和63)12月16日 兵庫県神戸市において、85歳で亡くなる
・1992年(平成4) 「神戸市立小磯記念館」がオープンする

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1907年(明治40)洋画家浅井忠の命日詳細
1932年(昭和7)東京市日本橋で白木屋大火災が起きる詳細
1971年(昭和46)全国4番目の地下鉄の札幌市営地下鉄初の北二四条駅~真駒内駅間(南北線)が開業する詳細
1972年(昭和47)全国5番目の地下鉄の横浜市営地下鉄初の伊勢佐木長者町駅~上大岡駅間(1号線)が開業する詳細
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 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、日本画家岩橋英遠の生まれた日です。
 岩橋英遠(いわはし えいえん)は、北海道空知郡江部乙村(現在の滝川市)で、熊本県出身の屯田兵の父・岩橋浅次と妻・きくの長男として生まれましたが、本名は「ひでとお」と読みました。1917年(大正6)に北辰尋常高等小学校を卒業後、農業を手伝いながら独学で油絵を描いていたものの、1924年(大正13)に日本画家を志して上京、山内多門に師事します。
 1932年(昭和7)に山内没後、一時青龍社に出品していましたが、1934年(昭和9)には、新日本画研究会結成に参加、再興第21回院展で『新宿うら』が初入選しました。1936年(昭和11)の第1回帝展でも『店頭囀声』が初入選、翌年には、歴程美術協会結成に参加、安田靫彦門下の研究会「火曜会」にも入会します。
 太平洋戦争後の1945年(昭和20)に安田靫彦に正式に入門、1949年(昭和24)には、第34回院展で『砂丘』が奨励賞・白寿賞を受賞しました。1950年(昭和25)の再興第35回院展で『明治』、翌年の再興第36回院展で『眠』が、続けて日本美術院賞 (大観賞) を受賞し、1953年(昭和28)には、日本美術院同人に推挙されます。
 1954年(昭和29)に、前年の院展出品作『庭石』で芸術選奨文部大臣賞を受賞、1958年(昭和33)には、東京芸術大学講師となりました。1959年(昭和34)の第44回院展で『蝕』が文部大臣賞を受賞、翌年に日本橋三越で初個展を開催、1961年(昭和36)に日本美術院評議員、1965年(昭和40)には、東京芸術大学助教授となります。
 1967年(昭和42)に法隆寺金堂壁画模写に参加、1968年(昭和43)には、東京芸術大学教授となり、1970年(昭和45)まで勤めました。その後も、1972年(昭和47)に『鳴門』により日本芸術院賞、1978年(昭和53)に日本美術院理事、1979年(昭和54)に第20回毎日芸術賞、勲四等旭日小綬章、1981年(昭和56)に日本芸術院会員、1986年(昭和61)に東京芸術大学名誉教授、1989年(平成元)には文化功労者と数々の栄誉に輝きます。
 1994年(平成6)には、文化勲章も受章しましたが、1999年(平成11)7月12日に、神奈川県相模原市の病院において、96歳で亡くなりました。

〇岩橋英遠の主要な作品

・『新宿うら』(1934年)再興第21回院展入選
・『店頭囀声』(1936年)第1回帝展入選
・『砂丘』(1949年)第34回院展奨励賞・白寿賞受賞
・『明治』(1950年)再興第35回院展日本美術院賞 (大観賞) 受賞
・『眠』(1951年)再興第36回院展日本美術院賞 (大観賞) 受賞
・『庭石 (雪) (雨) (水) (月) 』(1953年)芸能選奨文部大臣賞受賞
・『蝕』(1959年)文部大臣賞受賞
・『鳴門』(1971年)日本芸術院賞受賞
・『彩雲』(1979年)
・『残照』(1981年)
・『道産子追憶之巻』(1978~82年)

☆岩橋英遠関係略年表

・1903年(明治36)1月12日 北海道空知郡江部乙村(現在の滝川市)で、熊本県出身の屯田兵の父・岩橋浅次と妻・きくの長男として生まれる
・1917年(大正6) 北辰尋常高等小学校を卒業する
・1924年(大正13) 日本画家を志して上京、山内多門に師事する
・1932年(昭和7) 山内没、一時青龍社に出品する
・1934年(昭和9) 新日本画研究会結成に参加、再興第21回院展で『新宿うら』が初入選する
・1936年(昭和11) 第1回帝展で『店頭囀声』が初入選する
・1937年(昭和12) 歴程美術協会結成に参加、安田靫彦門下の研究会「火曜会」に入会する
・1945年(昭和20) 安田靫彦に正式に入門する
・1949年(昭和24) 第34回院展で『砂丘』が奨励賞・白寿賞を受賞する
・1950年(昭和25) 再興第35回院展で『明治』が大観賞を受賞する
・1951年(昭和26) 再興第36回院展で『眠』が大観賞を受賞する
・1953年(昭和28) 日本美術院同人に推挙される
・1954年(昭和29) 前年の院展出品作『庭石』で芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1958年(昭和33) 東京芸術大学講師となる
・1959年(昭和34) 第44回院展で『蝕』が文部大臣賞を受賞する
・1960年(昭和35) 日本橋三越で初個展を開催する
・1961年(昭和36) 日本美術院評議員となる
・1965年(昭和40) 東京芸術大学助教授となる
・1967年(昭和42) 法隆寺金堂壁画模写に参加する
・1968年(昭和43) 東京芸術大学教授となる
・1970年(昭和45) 東京芸術大学教授を辞める
・1972年(昭和47) 前年の院展出品作『鳴門』により日本芸術院賞を受賞する
・1978年(昭和53) 日本美術院理事となる
・1979年(昭和54) 第20回毎日芸術賞を受賞、勲四等旭日小綬章を受章する
・1981年(昭和56) 日本芸術院会員となる
・1986年(昭和61) 東京芸術大学名誉教授となる
・1989年(平成元) 文化功労者となる
・1990年(平成2) 渋谷Bunkamuraザ・ミュージアムにて回顧展を開催する
・1993年(平成5) 日本橋三越で『画業70年・岩橋英遠展』を開催、北海道立近代美術館で『岩橋英遠と片岡球子展』が開催される
・1994年(平成6) 文化勲章を受章する
・1999年(平成11)7月12日 神奈川県相模原市の病院において、96歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1869年(明治2)洋画家岡田三郎助の誕生日(新暦1月22日)詳細
1914年(大正3)桜島大正大噴火が始まる詳細
2019年(平成31)哲学者梅原猛の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1900年(明治33)に、洋画家牛島憲之の生まれた日です。
 牛島憲之(うしじま のりゆき)は、熊本県熊本市二本木町の大地主牛島米太郎の4男として生まれ、1913年(大正2)に古町小学校を卒業して、熊本県立熊本中学校(現在の県立熊本高等学校)に入学しました。1919年(大正8)に熊本中学校卒業後、上京し東京美術学校を受験するが失敗、葵橋洋画研究所に学び、1922年(大正11)には、東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助教室に在籍します。
 1927年(昭和2)に同校を卒業、研究科に進学、『赤坂並木の段』で第8回帝展に初入選しました。同年に同級生の猪熊弦一郎、荻須高徳らと上杜会を結成、1933年(昭和8)に東光会が結成されるとその第1回展から出品、1935年(昭和10)の第4回東光会展に『貝焼場』『午後(貝焼場)』を出品してK氏奨励賞を受賞します。
 1936年(昭和11)に主線美術協会を創立、1939年(昭和14)にその絵画部解散後、1941年(昭和16)に創元会が結成されると第1回展に『元朝』『昼』を出品して受賞しました。太平洋戦争中もつとめて勇ましい戦争画は描かず、戦後の1946年(昭和21)に『炎昼』が第2回日展で特選となります。
 1949年(昭和24)に創元会を退会し、須田寿らと立軌会を結成、1953年(昭和28)には、サンパウロの第2回サンパウロ・ビエンナーレ展に『早春』『午後』『麦を刈る』を出品しました。1955年(昭和30)に東京芸術大学講師となり、1959年(昭和34)に助教授、1965年(昭和40)に教授となり、1968年(昭和43)の停年退官まで勤めて、同校名誉教授となります。
 1969年(昭和44)に芸術選奨文部大臣賞、1971年(昭和46)に熊本県近代文化功労者、1981年(昭和56)に日本芸術院会員、1982年(昭和57)に文化功労者、1983年(昭和58)に文化勲章受章と数々の栄誉にも輝きました。繊細な描写力で、独自の心象風景を描いてきましたが、1997年(平成9)9月16日に、東京都港区の虎ノ門病院において、97歳で亡くなっています。
 尚、2000年(平成12)に、東京都の「府中市美術館」内に遺作約 100点を収蔵する記念館が完成しました。

〇牛島憲之の主要な作品

・『赤坂並木の段』(1927年)第8回帝展に初入選
・『あるサーカス』(1928年)第9回帝展入選
・『貝焼場の風景』(1933年)第14回帝展入選
・『貝焼場』(1935年)第4回東光会展K氏奨励賞受賞
・『午後(貝焼場)』(1935年)第4回東光会展K氏奨励賞受賞
・『炎昼』(1946年)第2回日展特選受賞 京都国立近代美術館蔵
・『早春』(1953年)第2回サンパウロ・ビエンナーレ展出品
・『午後』(1953年)第2回サンパウロ・ビエンナーレ展出品
・『麦を刈る』(1953年)第2回サンパウロ・ビエンナーレ展出品
・『樽のある街』(1954年)第1回現代日本美術展出品
・『橋の風景』(1954年)第1回現代日本美術展出品
・『まるいタンク』(1957年)熊本県立美術館蔵 

☆牛島憲之関係略年表

・1900年(明治33)8月29日 熊本県熊本市二本木町の大地主牛島米太郎の4男として生まれる
・1913年(大正2) 古町小学校を卒業して、熊本県立熊本中学校に入学する
・1919年(大正8) 熊本中学校卒業後、上京し東京美術学校を受験するが失敗、葵橋洋画研究所に学ぶ
・1922年(大正11) 東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助教室に在籍する
・1927年(昭和2) 東京美術学校西洋画科を卒業、研究科に進学、岡田三郎助に師事、『赤坂並木の段』で第8回帝展に初入選
・1928年(昭和3) 第9回帝展に『あるサーカス』で入選する
・1929年(昭和4) 第10回帝展に『春爛漫』を出品する
・1930年(昭和5) 第2回聖徳太子奉賛美術展に『二人像』を出品する
・1933年(昭和8) 東光会が結成されるとその第1回展から出品、第14回帝展に『貝焼場の風景』が入選する
・1935年(昭和10) 第4回東光会展に『貝焼場』『午後(貝焼場)』を出品してK氏奨励賞を受賞する
・1936年(昭和11) 主線美術協会を創立する
・1939年(昭和14) 主線美術協会絵画部が解散する
・1941年(昭和16) 創元会が結成されると第1回展に『元朝』『昼』を出品して受賞する
・1946年(昭和21) 『炎昼』が第2回日展で特選となる
・1949年(昭和24)4月 創元会を退会し、須田寿らと立軌会を結成する
・1953年(昭和28) サンパウロの第2回サンパウロ・ビエンナーレ展に『早春』『午後』『麦を刈る』を出品する
・1954年(昭和29) 第1回現代日本美術展に『樽のある街』『橋の風景』を出品する
・1955年(昭和30) 東京芸術大学講師となる
・1959年(昭和34) 東京芸術大学助教授となる
・1965年(昭和40) 東京芸術大学教授となる
・1968年(昭和43) 東京芸術大学を停年退官し、同校名誉教授となる
・1969年(昭和44)3月 芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1971年(昭和46) 熊本県近代文化功労者となる
・1981年(昭和56)11月 日本芸術院会員となる
・1982年(昭和57) 文化功労者となる、勲三等瑞宝章を受章する
・1983年(昭和58) 文化勲章を受章する
・1997年(平成9)9月16日 東京都港区の虎ノ門病院において、97歳で亡くなる 
・2000年(平成12)10月 「府中市美術館」内に遺作約 100点を収蔵する記念館が開館する
・2004年(平成16)10月 「牛島憲之と昭和前期の絵画―抽象と具象のあいだ」展が開催される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1835年(天保6)南画家田能村竹田の命日(新暦10月20日)詳細
1910年(明治43)韓国併合ニ関スル条約」が発効する詳細
1918年(大正7)奈良県生駒山に日本初のケーブルカー(生駒鋼索鉄道)が開業する詳細


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