ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:東京美術学校教授

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 今日は、江戸時代後期の1842年(天保13)に、日本画家川端玉章の生まれた日ですが、新暦では4月18日となります。
 川端玉章(かわばた ぎょくしょう)は、京都高倉二条瓦町で、蒔絵師川端左兵衛の子として生まれましたが、本名は滝之助と言いました。初め父に蒔絵を学び、1852年(嘉永5年)11歳の時に三井高喜や三井高弘らに絵の巧さを認められ、高喜の紹介で中島来章に入門、円山派を学び、また漢学や国学、小田海僊に画論も学びます。
 1866年(慶応2)に江戸へ移住し、覗眼鏡や版下絵、新聞付録などを描いて、苦学を重ね、1872年(明治5年)には高橋由一に師事、またワーグマンにも油絵を学びました。1877年(明治10)に第1回内国勧業博覧会で褒状を受け、1878年(明治11年)に画塾天真堂を創設、翌年に龍池会設立に関与、1881年(明治14)頃には深川に画塾「天眞舎」を開きます。
 1882年(明治15年)と1884年(明治17)の内国絵画共進会で銅賞を受けて名があがり、1888年(明治21)の皇居造営では杉戸絵を制作しました。1888年(明治21)に岡倉天心によって東京美術学校に迎えられ、翌年に臨時全国宝物取調局臨時鑑査掛を嘱託され、1890年(明治23)には東京美術学校の教授となって円山派を教えます。
 1896年(明治29)に帝室技芸員、1897年(明治30)に古社寺保存会委員、翌年には日本美術院会員ともなりました。一方で、内国勧業博覧会、日本美術協会展、日本画会展、連合絵画共進会などに出品、1900年(明治33年)にはパリ万国博で銀牌を受賞しています。
 1907年(明治40)から文展審査委員を務め、1909年(明治42)に小石川下富坂町に川端画学校を開設しましたが、1912年(大正元)には東京美術学校を辞めました。1913年(大正2)2月10日に令息茂章宅で発作が起き、同月14日に東京において、中風のため、数え年72歳で亡くなっています。
 尚、門下から平福百穂、結城素明など多くの画家を輩出しました。

〇川端玉章の主要な作品

・『桜に鶏』東京芸術大学大学美術館蔵
・『雨後山水図』東京国立博物館蔵
・『群猿之図』(1890年)宮内庁三の丸尚蔵館蔵
・『墨堤春暁図』(1890年)第3回内国勧業博覧会二等妙技賞受賞 東京藝術大学大学美術館蔵
・『荷花水禽図』
・『玩弄品行商図』 (1893年) シカゴ万国博覧会出品 東京国立博物館蔵
・『桃李園・独楽園』(1894年)第4回内国勧業博覧会妙技二等賞受賞 静嘉堂文庫蔵
・『四時ノ名勝』(1900年)パリ万国博銀牌受賞 宮内庁三の丸尚蔵館蔵 

☆川端玉章関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1842年(天保13年3月8日) 京都高倉二条瓦町で、蒔絵師川端左兵衛の子として生まれる
・1852年(嘉永5年) 11歳の時、三井高喜や三井高弘らに絵の巧さを認められ、高喜の紹介で中島来章に入門する
・1866年(慶応2年) 江戸に移住する
・1872年(明治5年) 高橋由一に油絵を学ぶ
・1872年(明治5年) 三井家の依頼で、三囲神社に「狐の嫁入り」扁額を描く
・1877年(明治10年) 第1回内国勧業博覧会で褒状
・1878年(明治11年) 画塾天真堂を創設する
・1879年(明治12年) 龍池会設立に関与する
・1881年(明治14年)頃 深川に画塾「天眞舎」を開く
・1882年(明治15年) 第1回内国絵画共進会で銅賞を受ける
・1884年(明治17年) 第2回内国絵画共進会で銅賞を受ける
・1888年(明治21年) 皇居造営で杉戸絵を制作する
・1888年(明治21年) 岡倉天心によって東京美術学校に迎えられる
・1889年(明治22年) 臨時全国宝物取調局臨時鑑査掛を嘱託される
・1890年(明治23年) 東京美術学校の教授となる
・1890年(明治23年) 第3回内国勧業博覧会で二等妙技賞を受賞する
・1891年(明治24年) 日本青年絵画協会設立の際に援助し、事務所は玉章邸に置かれた
・1894年(明治27年) 第4回内国勧業博覧会で妙技二等賞を受ける
・1896年(明治29年)6月30日 帝室技芸員となる
・1897年(明治30年) 古社寺保存会委員となる
・1898年(明治31年) 日本美術院会員となる
・1900年(明治33年) パリ万国博で銀牌を受賞する
・1901年(明治34年)4月20日 正六位となる
・1903年(明治36年)12月11日 従五位となる
・1907年(明治40年) 文展審査委員となる
・1909年(明治42年) 小石川下富坂町に川端画学校を開設する
・1912年(大正元年) 東京美術学校を辞める
・1913年(大正2年)2月10日朝、令息茂章宅で発作が起きる
・1913年(大正2年)2月14日 東京において、中風のため数え年72歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1708年(宝永5)京都で「宝永の大火」が起こり、1万軒以上を焼失する(新暦4月28日)詳細
1919年(大正8)小説家水上勉の誕生日詳細
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 今日は、明治時代前期の1872年(明治5)に、彫刻家平櫛田中の生まれた日ですが、新暦では2月23日となります。
 平櫛 田中(ひらくし でんちゅう)は、岡山県後月郡西江原村(現在の井原市西江原町)の田中家に生まれましたが、本名は倬太郎(たくたろう)と言いました。1882年(明治15)、10歳の時に広島県沼隈郡今津村(現在の福山市今津町)の平櫛家の養子となり、1893年(明治26)には、大阪の人形師・中谷省古に弟子入りし、木彫の手ほどきを受けます。
 1897年(明治30)に上京し、台東区の長安寺に寄宿、翌年に高村光雲に師事、また西山禾山の臨済録の提唱を聞き、影響を受けました。1901年(明治34)に日本美術協会美術展に『唱歌君ヶ代』を出品して銀牌を受賞、翌年に三々会会員となり、1907年(明治40)には、米原雲海,山崎朝雲らと日本彫刻会を結成します。
 1907年(明治40)に文部省美術展覧会(文展)第1回展に『姉ごころ』を出品し入選、翌年には日本彫刻会第1回展に『活人箭』を出品して、岡倉天心に認められました。1910年(明治43)の第5回文展で『維摩一黙』が3等となり、1914年(大正3)に再興第1回院展に西山禾山をモデルとした『禾山笑』等を出品、同人に推挙され、院展彫刻の中心作家として活躍します。
 1942年(昭和17)に第2回野間美術賞を受賞、文展審査員ともなり、1944年(昭和19)には東京美術学校(現・東京芸術大学)の教授、帝室技芸員ともなりました。太平洋戦争後は、1953年(昭和28)に日展審査員、1954年(昭和29)に文化功労者となり、1958年(昭和33)には22年の歳月をかけた彩色木像『鏡獅子』を完成させます。
 1958年(昭和33)に日本美術院理事、1962年(昭和37)に文化勲章受章、1965年(昭和40)には東京芸術大学名誉教授など数々の栄誉を受けました。1970年(昭和45)に東京都小平市学園西町に転居、1972年(昭和47)には小平市名誉市民となりましたが、1979年(昭和54)12月30日に自宅において、107歳で亡くなっています。
 尚、1969年(昭和44)に「井原市立田中美術館」が設立され、翌年から平櫛田中賞が設けられ、また、1984年(昭和59)には、晩年を過ごした邸宅を公開する形で、「小平市平櫛田中館」が開館しました。

〇平櫛田中の主要な作品

・『唱歌君ヶ代』(1901年)日本美術協会美術展銀牌受賞
・『姉ごころ』(1907年)第1回文部省美術展覧会(文展)入選
・『活人箭』(1908年)日本彫刻会第1回展出品
・『維摩一黙』(1910年)第5回文展3等
・『禾山笑』(1914年)再興第1回院展出品
・『五浦釣人』(1930年)第17回再興院展出品
・『鶴しょう』(1942年)東京国立近代美術館蔵
・彩色木像『鏡獅子』(1958年)東京国立近代美術館蔵

☆平櫛田中関係略年表(明治5年の日付は旧暦です)

・1872年(明治5年1月15日) 岡山県後月郡西江原村(現在の井原市西江原町)の田中家に生まれる
・1882年(明治15) 広島県沼隈郡今津村(現在の福山市今津町)の平櫛家の養子となる
・1893年(明治26) 大阪の人形師・中谷省古に弟子入りし、木彫の手ほどきを受ける
・1897年(明治30) 上京し、台東区の長安寺に寄宿する
・1898年(明治31) 高村光雲に師事する
・1898年(明治31) 西山禾山の臨済録の提唱を聞き、影響を受ける
・1901年(明治34) 日本美術協会美術展に『唱歌君ヶ代』を出品、銀牌を受賞する
・1902年(明治35) 三々会会員となる
・1907年(明治40) 米原雲海,山崎朝雲らと日本彫刻会を結成する
・1907年(明治40) 文部省美術展覧会(文展)第1回展に『姉ごころ』を出品、入選する
・1908年(明治41) 日本彫刻会第1回展に『活人箭』を出品。岡倉天心の推奨を受ける
・1910年(明治43) 第5回文展で『維摩一黙』が3等となる
・1914年(大正3) 再興第1回院展に西山禾山モデルの『禾山笑』等を出品、日本美術院同人に推挙される
・1922年(大正11) 日本画家の横山大観、下村観山、木村武山の尽力で台東区上野桜木町に住宅を建てる
・1930年((昭和5) 日本美術院の経営者に加わる。第17回再興院展に『五浦釣人』を出品する
・1937年(昭和12) 帝国芸術院会員となる
・1942年(昭和17) 第2回野間美術賞を受賞する
・1942年(昭和17) 文展審査員となる
・1944年(昭和19) 東京美術学校(現・東京芸術大学)の教授となる
・1944年(昭和19)7月1日 帝室技芸員となる
・1953年(昭和28) 日展審査員となる
・1954年(昭和29) 文化功労者となる
・1958年(昭和33) 昭和11年の制作開始から22年の歳月をかけて『鏡獅子』を完成させる
・1958年(昭和33) 日本美術院理事となる
・1962年(昭和37) 文化勲章を受章する
・1965年(昭和40) 東京芸術大学名誉教授となる
・1969年(昭和44) 「井原市立田中美術館」が設立される
・1970年(昭和45) 平櫛田中賞が設けられる
・1970年(昭和45) 作品集『尋牛 平櫛田中作品集』が刊行される
・1970年(昭和45) 東京都小平市学園西町に転居する
・1972年(昭和47) 小平市名誉市民に推戴される
・1979年(昭和54)12月30日 小平市の自宅において、107歳で亡くなる
・1984年(昭和59)10月25日 晩年を過ごした邸宅を公開する形で、「小平市平櫛田中館」が開館する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1862年(文久2)坂下門外の変が起きる(新暦2月13日)詳細
1974年(昭和49)長崎県の端島炭鉱(軍艦島)が閉山する詳細
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 今日は、明治時代前期の1877年(明治10)に、日本画家・歌人平福百穂の生まれた日です。
 平福百穂(ひらふく ひゃくすい)は、秋田県角館(現在の仙北市)において、染物屋で画家の父・平福穂庵(順蔵)の四男として生まれましたが、本名は貞蔵と言いました。幼い時から絵画に親しみ、1890年(明治23)から父から絵を学びはじめますが、父が急死したものの、絵画の勉強を続け、「百穂」と号するようになります。
 1894年(明治27)に上京して川端玉章に入門、1897年(明治30)には東京美術学校日本画選科第2学年に編入しました。1899年(明治32)に同校を卒業、翌年に結城素明らと无声会(むせいかい)を結成し、日本画に自然主義的表現を導入することを主張します。
 1901年(明治34)に雑誌「新声」、1903年(明治36)に「平民新聞」、1904年(明治37)に風刺漫画誌「団々(まるまる)珍聞」の表紙や挿絵を描きはじめました。一方、1903年(明治36)頃から伊藤左千夫、長塚節、斎藤茂吉、岡麓らと知り合って短歌を始め、雑誌「アララギ」の表紙絵も描きます。
 1909年(明治32)の第3回文展に『アイヌ』を出品したものの、1913年(大正2)に无声会を解散、1916年(大正5)に鏑木清方らと金鈴社結成、翌年の第11回文展では『予譲(よじょう)』が特選となりました。また、「アララギ」派の歌人としても知られるようになり、歌集『寒竹』(1927年)も出します。
 帝展審査員も務めるようになり、1930年(昭和5)に欧州旅行後、帝国美術院会員となりました。晩年には、南画的手法を加えた独自の画境を開き、1932年(昭和7)には、東京美術学校教授ともなったものの、翌年脳溢血で倒れ、10月30日に秋田県横手において、55歳で亡くなっています。

<代表的な歌>

・「金剛の一万二千峯まさやかに青葉の上に眺めつるかも」(寒竹)
・「うつろへる川の流れを見るにさへ年ふりにけり国を出しより」
・「ひとときに芽吹き立ち匂ふみちのくの明るき春にあひにけるかも」

〇平福百穂の主要な著作

・歌集『寒竹』(1927年)
・『日本洋画曙光』(1930年)
・『竹窓小話』(1935年)

〇平福百穂の主要な作品

・『田舎(いなか)の嫁入』(1899年)
・『アイヌ』(1909年)第3回文展出品作品
・『七面鳥』(1914年)
・『朝露』(1915年)三の丸尚蔵館蔵
・『豫譲』(1917年)第11回文展特選 永青文庫蔵
・『丹鶴青瀾』(1926年)
・『荒磯(ありそ)』(1926年)第7回帝展出品作品 東京国立近代美術館蔵
・『玉柏』(1928年)三の丸尚蔵館蔵
・『堅田(かたた)の一休(いっきゅう)』(1929年)東京国立近代美術館蔵
・『刈草』(1931年)前田育徳会蔵
・『小松山』(1932年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1981年(昭和56)小説家・推理作家横溝正史の命日詳細
1986年(昭和61)山陰本線余部鉄橋で列車転落事故が起きる詳細


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 今日は、昭和時代前期の1934年(昭和9)に、彫刻家高村光雲の亡くなった日です。
 高村光雲(たかむら こううん)は、江戸時代後期の1852年(嘉永5年2月18日)に、江戸下谷(現在の東京都台東区)で、町人・中島兼吉の子として生まれましたが、幼名は光蔵と言いました。1863年(文久3)に仏師高村東雲の門にはいって木彫を学び、1874年(明治7)に東雲の姉・エツの養子となり高村姓を継ぎます。
 1877年(明治10)に第1回内国勧業博覧会で東雲の代作をして『白衣観音』が1等竜紋賞を受賞、明治初期の木彫衰退期に、写生を取り入れた新しい作風を開き、1887年(明治20)に東京彫工会に加わりました。同年から翌年にかけての皇居造営に際し装飾の一部を担当し、のち帝室技芸員ともなります。
 また、1889年(明治22)に岡倉天心の招きで、開校した東京美術学校(現在の東京芸術大学)に勤務し、翌年教授となり、後進を指導しました。1891年(明治24)から光雲と号するようになり、1893年(明治26)には『老猿』をシカゴ万博に出品し妙技二等賞を受賞、皇居外苑の『楠公像』(1896年)や上野恩賜公園『西郷隆盛像』(1898年)の制作を担当、1900年(明治33)には『山霊訶護』をパリ万博に出品しています。
 1907年(明治40)からは官展の審査員を毎回務め、1919年(大正8)には帝国美術院会員となりましたが、1926年(大正15)には東京美術学校を退職し、名誉教授となりました。山崎朝雲、山本瑞雲、米原雲海、関野聖雲、平櫛田中など近代日本彫刻を代表する彫刻家を育てたものの、1934年(昭和9)10月10日に、東京において、満82歳で亡くなっています。
 尚、長男の光太郎は彫刻家・詩人、三男の豊周は工芸家として知られるようになりました。

〇高村光雲の主要な作品

・『白衣観音(びゃくえかんのん)』(1877年)第1回内国勧業博覧会1等竜紋賞受賞
・『老猿』(1893年)シカゴ万博妙技二等賞受賞、東京国立博物館蔵 国指定重要文化財
・『楠公像』(1896年)皇居外苑
・『西郷隆盛像』(1898年)上野恩賜公園
・『山霊訶護』(1900年)パリ万博出品

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