ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:東京帝国大学教授

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 今日は、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、歴史学者・仏教史家辻善之助の亡くなった日です。
 辻善之助(つじ ぜんのすけ)は、明治時代前期の1877年(明治10)4月15日に、兵庫県姫路元塩町(現在の姫路市)において、父・辻善次郎、母・つねの子として生まれました。姫路中学校、第三高等中学校予科を経て、1896年(明治29)に第一高等学校を卒業し、帝国大学文科大学国史科へ入学します。
 1899年(明治32)に卒業後、同大大学院へ進み、日本仏教史の研究を進め、1902年(明治35)には、東京帝国大学史料編纂掛史料編纂員となりました。「政治ノ方面ヨリ観察シタル日本仏教史 - 徳川時代ノ初期 - 」と「安国寺考」「安国寺志料」により、1909年(明治42)に東京帝国大学より文学博士の学位を取得します。
 1911年(明治44)に東京帝国大学文科大学助教授兼任となり、欧米に留学、万国東洋学会に出席し、翌年帰国しました。1920年(大正9)に東京帝国大学史料編纂掛事務主任となり、1921年(大正10)には、『日本仏教史之研究』で、帝国学士院恩賜賞を受賞します。
 1922年(大正11)に古社寺保存会委員となり、1923年(大正12)に東京帝国大学教授に昇任し、国史学第二講座を担当、1924年(大正13)には、臨時御歴代史実考査委員会委員、京都御所東山御文庫取調掛となりました。1926年(大正15)に東京帝国大学教授兼史料編纂官となり、国史学第一講座を担当、1929年(昭和4)には、東京帝国大学史料編纂所初代所長となり、国宝保存会委員ともなります。
 1932年(昭和7)に帝国学士院会員となり、1938年(昭和13)、東京帝国大学を停年退官し、名誉教授となり、聖心女子学院専門学校教授となりました。1949年(昭和24)に立正大学教授となり、1952年(昭和27)‎文化勲章を受章、1953年(昭和28)、立正大学教授を退職、『日本仏教史』で、朝日文化賞を受賞します。
 実証的な仏教史研究に業績を残し、いわゆる“辻仏教史学”を打ち立てましたが、1955年(昭和30)10月13日に、東京において、78歳で亡くなりました。

〇辻善之助の主要な著作

・『田沼時代』(1915年)
・『日本仏教史の研究』正・続(1919年、1931年)帝国学士院恩賜賞受賞
・『日本仏教史』10巻(1944~1955年)朝日文化賞受賞
・『日本文化史』7巻・別録4巻(1948~1953年)
・編著『明治維新神仏分離史料』
・編著『国史大辞典』(4巻までで未完)

☆辻善之助関係略年表

・1877年(明治10)4月15日 兵庫県姫路元塩町(現在の姫路市)において、父・辻善次郎、母・つねの子として生まれる
・1893年(明治26) 姫路中学校(現在の兵庫県立姫路西高等学校)より京都の第三高等中学校予科3年に編入する
・1894年(明治27) 学制改革で第三高等学校に改組の上、予科が廃止されると、第一高等学校に転校する
・1896年(明治29) 第一高等学校を卒業し、帝国大学文科大学国史科へ入学する
・1899年(明治32) 東京帝国大学文科大学国史科を卒業し、同大大学院へ入学する
・1902年(明治35) 東京帝国大学史料編纂掛史料編纂員となる
・1904年(明治37) 博士論文として、「政治ノ方面ヨリ観察シタル日本仏教史 - 徳川時代ノ初期 - 」と「安国寺考」「安国寺志料」を東京帝国大学に提出する
・1905年(明治38) 東京帝国大学史料編纂掛史料編纂官となる
・1909年(明治42) 東京帝国大学より文学博士の学位を取得する
・1910年(明治43) 三重県の高田専修寺で親鸞の真蹟30数点を発見し紹介する
・1911年(明治44) 東京帝国大学文科大学助教授となり、欧米に留学する
・1912年(大正元) 欧米留学より帰国し、従五位となる
・1918年(大正7) 正五位となる
・1920年(大正9) 東京帝国大学史料編纂掛事務主任となる
・1921年(大正10) 『日本仏教史之研究』で、帝国学士院恩賜賞を受賞する
・1922年(大正11) 古社寺保存会委員となる
・1923年(大正12) 東京帝国大学教授となり、国史学第二講座を担当する
・1924年(大正13) 臨時御歴代史実考査委員会委員、京都御所東山御文庫取調掛となる
・1926年(大正15) 東京帝国大学教授兼史料編纂官となり、国史学第一講座を担当する
・1929年(昭和4) 東京帝国大学史料編纂所初代所長となり、国宝保存会委員ともなる
・1932年(昭和7) 帝国学士院会員となる
・1938年(昭和13) 東京帝国大学教授を停年退官し、名誉教授となり、聖心女子学院専門学校教授となる
・1940年(昭和15) 紀元二千六百年奉祝記念にあたり『聖徳餘光』を編む
・1949年(昭和24) 立正大学教授となる
・1952年(昭和27) 文化勲章を受章する
・1953年(昭和28) 立正大学教授を退職、『日本仏教史』で、朝日文化賞を受賞する
・1955年(昭和30)10月13日 東京において、78歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

709年(和銅2)第49代の天皇とされる光仁天皇の誕生日(新暦11月18日)詳細
1282年(弘安5)鎌倉時代の僧侶・日蓮宗の開祖日蓮の命日(新暦11月14日)詳細
1707年(宝永4)俳人・蕉門十哲の一人服部嵐雪の命日(新暦11月6日)詳細
1804年(文化元)華岡青洲が世界初の麻酔薬を使った手術に成功(新暦11月14日)詳細
1908年(明治41)明治天皇により「戊申詔書」が発布(翌日の官報掲載)される詳細
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nishikawashyouji01

 今日は、明治時代前期の1884年(明治17)に、物理学者西川正治が生まれた日です。
 西川正治(にしかわ しょうじ)は、神奈川県南多摩郡八王子(現在の東京都八王子市)で生まれ、私立商工中学を経て、1904年(明治37)に旧制第一高等学校へ入学します。1907年(明治40)に東京帝国大学理学部物理学科へ入学、1910年(明治43)に卒業後、大学院へ進み、木下季吉や寺田寅彦の指導を受け、X線回折の研究に従事しました。
 1913年(大正2)に竹や麻等の天然繊維を用いて世界で初めて繊維構造物質のX線回折の実験を行ない、1915年(大正4)にスピネル群結晶内の電子配置を決定、翌年には、「スピネル」群の結晶構造により博士号を得ます。1917年(大正6)に「X線検査に関する研究」で帝国学士院賞を受賞、理化学研究所の創設に参加、3年間の海外留学ののち、1921年(大正10)に理化学研究所の主任研究員となました。
 1922年(大正11)に理化学研究所西川研究室を主宰、東京帝国大学助教授となり、1924年(大正13)には教授に昇任します。理化学研究所では、菊池正士の研究に助力するとともに、長岡研究室、仁科研究室と共同で原子核実験室を開設し、サイクロトロン、コッククロフト加速装置を建設しました。
 1945年(昭和20)に東京帝国大学教授を辞め、1949年(昭和24)には、理化学研究所の主任研究員も辞め、小林理学研究所理事兼主任研究員となります。1937年(昭和12)に「スピネルの原子配置並に歪を受けたる物体のレントシェン線検査に関する研究」で帝国学士院賞を受賞、1950年(昭和25)には、日本結晶学会の初代会長に就任しました。
 X線回折、電子線回折の研究で国際的にも高く評価され、1951年(昭和26)に文化勲章を受章、初の八王子市名誉市民となったものの、翌年(昭和27)1月5日に、東京において、67歳で亡くなっています。

〇西川正治の主要な著作

・菊池正士ほか〈物理實驗學〉 『原子核物理學』(1940年)
・西川正治ほか〈岩波講座物理學〉 『X線』(1940年)

☆西川正治関係略年表

・1884年(明治17)12月5日 神奈川県南多摩郡八王子(現在の東京都八王子市)で生まれる
・1904年(明治37) 旧制第一高等学校へ入学する
・1907年(明治40) 東京帝国大学理学部物理学科へ入学する
・1910年(明治43) 東京帝国大学理学部物理学科を卒業する
・1913年(大正2) 竹や麻等の天然繊維を用いて世界で初めて繊維構造物質のX線回折の実験を行なう
・1915年(大正4) スピネル群結晶内の電子配置を決定する
・1916年(大正5) 「スピネル」群の結晶構造により学位を得る
・1917年(大正6) 「X線検査に関する研究」で帝国学士院賞を受賞、理化学研究所の創設に参加する
・1921年(大正10) 理化学研究所の主任研究員となる
・1922年(大正11) 理化学研究所西川研究室を主宰、東京帝国大学助教授となる
・1924年(大正13) 東京帝国大学教授となる
・1937年(昭和12) 学士院会員となる
・1945年(昭和20) 東京帝国大学教授を辞める
・1949年(昭和24) 理化学研究所の主任研究員を辞め、小林理学研究所理事兼主任研究員となる
・1937年(昭和12) 「スピネルの原子配置並に歪を受けたる物体のレントシェン線検査に関する研究」で帝国学士院賞を受賞する
・1945年(昭和20)10月30日 従三位となる
・1950年(昭和25) 日本結晶学会の初代会長に就任する
・1951年(昭和26) 文化勲章を受章、初の八王子市名誉市民となる
・1952年(昭和27)1月5日 東京において、67歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

603年(推古天皇11)日本最初の位階制度である冠位十二階が制定される(新暦604年1月11日)詳細
1899年(明治32)電気通信工学者・工学博士古賀逸策の誕生日詳細
1903年(明治36)物理学者長岡半太郎が原子模型の理論を発表する詳細
1912年(大正元)映画監督・脚本家木下惠介の誕生日詳細


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takanoiwasaburou01

 今日は、明治時代前期の1871年(明治4)に、社会統計学者・社会運動家高野岩三郎の生まれた日ですが、新暦では10月15日となります。
 高野岩三郎(たかの いわさぶろう)は、長崎県西彼杵郡長崎区銀屋町(現在の長崎市)で生まれ、慶應義塾幼稚舎、共立学校(現・開成高校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学に入学しました。在学中は金井延(のぶる)に学び、1895年(明治28) に政治学科を卒業、大学院へ進んで労働問題と統計学を専攻、1897年(明治30)桑田熊蔵、小野塚喜平次らと社会政策学会を創立、その中心的世話役となります。
 1899年(明治32)にドイツのミュンヘン大学へ留学、経済学をブレンターノに、統計学をマイヤーに学んで、1903年(明治36)に帰国、東京帝国大学教授となり、統計学講座を担当しました。1904年(明治37)に法学博士の学位を授与され、社会統計学の研究と普及に努め、1908年(明治41)には再度渡欧します。
 1910年(明治43)に国勢調査準備委員となり、日本最初のセンサス実施を指導、1916年(大正5)には、わが国最初の試みとして、東京で「二十職工家計調査」を実施しました。1919年(大正8)に東大法科大学より経済学部を独立させるため努力し、実現させましたが、国際労働機関 (ILO) 代表任命に関わって、教授を辞めます。
 1920年(大正9)に大原社会問題研究所所長となり、労働者家計調査を実施、労働問題を研究、労働運動、無産政党運動の助言者ともなり、大阪労働学校の経営委員長としてその運営にも献身しました。1925年(大正14)には、学士院会員となり、1928年(昭和3)には、日本大衆党結成に際して委員長となりましたが、翌年同党は分裂してしまいます。
 1938年(昭和13)に国際統計協会正会員となり、『統計学古典選集』13巻の編集、翻訳(1941~49年)にあたりました。太平洋戦争後、1945年(昭和20)に鈴木安蔵、森戸辰男、馬場恒吾らと憲法研究会を設立、「憲法草案要綱」を発表、これとは別に大統領制・土地国有化などを盛り込む「改正憲法私案要綱」を独自に発表しています。
 また、安部磯雄、賀川豊彦らと連名で社会主義政党結成を呼びかけ、のち日本社会党の顧問となりました。一方で、1946年(昭和21)に日本放送協会会長となり、放送民主化に尽力したものの、1949年(昭和24)4月5日に、東京において、77歳で亡くなっています。
 以下に、「改正憲法私案要綱」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇高野岩三郎の主要な著作

・『統計学研究』(1915年)
・『東京ニ於ケル二十職工家計調査』 (1916年)
・『月島労働者家計調査』(1917年)
・『東京及び附近小学校教員家計調査』(1917年)
・『社会統計学史研究』(1925年)
・監集『統計学古典選集』11巻(1941~49年)
・訳書『産業民主制論』ウェッブ夫妻著(1927年)
・『かっぱの屁』
・『本邦人口の現状及未来』

〇「改正憲法私案要綱」(高野岩三郎)

改正憲法私案要綱

根本原則
天皇制ニ代ヘテ大統領ヲ元首トスル共和制ノ採用

第一 主権及ビ元首
日本国ノ主権ハ日本国民ニ属スル
日本国ノ元首ハ国民ノ選挙スル大統領トス
大統領ノ任期ハ四年トシ再選ヲ妨ゲザルモ三選スルヲ得ズ
大統領ハ国ノ内外ニ対シ国民ヲ代表ス
立法権ハ議会ニ属ス
議会ノ召集開会及ビ閉会ハ議会ノ決議ニヨリ大統領之ニ当ル大統領ハ議会ヲ解散スルヲ得ズ
議会閉会中公益上緊急ノ必要アリト認ムルトキハ大統領ハ臨時議会ヲ召集ス
大統領ハ行政権ヲ執行シ国務大臣ヲ任免ス
条約ノ締結ハ議会ノ議決ヲ経テ大統領之ニ当ル
爵位勲章其他ノ栄典ハ一切廃止ス、其ノ効力ハ過去与へラレタルモノニ及ブ

第二 国民ノ権利義務
国民ハ居住及ビ移転ノ自由ヲ有ス 国民ハ通信ノ自由ヲ有ス
国民ハ公益ノ必要アル場合ノ外其ノ所有権ヲ侵サルルコトナシ
国民ハ言論著作出版集会及ビ結社ノ自由ヲ有ス
国民ハ憲法ヲ遵守シ社会的協同生活ノ法則ヲ遵奉スルノ義務ヲ有ス
国民ハ納税ノ義務ヲ有ス
国民ハ労働ノ義務ヲ有ス
国民ハ生存ノ権利ヲ有ス
国民ハ教育ヲ受クルノ権利ヲ有ス
国民ハ休養ノ権利ヲ有ス
国民ハ文化的享楽ノ権利ヲ有ス

第三 議会
議会ハ第一院及ビ第二院ヲ以テ成立ス
第一院ハ選挙法ノ定ムル所ニ依り国民ノ直接選挙シタル議員ヲ以テ組織ス
第二院ハ各種職業等ニ(原文ノママ)其ノ中ニ於ケル階層ヨリ選挙セラレタル議員ヲ以テ組織ス議員ノ任期ハ三年トシ毎年三分一ヅツヲ改選ス
何人モ同時ニ両院ノ議員タルコトヲ得ズ
二タビ第一院ヲ通過シタル法律案ハ第二院ニ於テ否決スルコトヲ得ズ
両院ハ各々其ノ総議員三分ノ一以上出席スルニ非ザレバ議決ヲナスコトヲ得ズ
両院ノ議事ハ一切公開トシ之ヲ速記シテ公表ヅ
両院ハ各々其ノ議決ニヨリ特殊問題ニ付キ委員会ヲ設ケコレニ人民ヲ召喚シ意見ヲ聴問スルコトヲ得
両院ノ議員ハ院内ニ於テナシタル発言及ビ表決ニ付キ院外ニ於テ責ヲ負フコトナシ
両院ノ議員ハ現行犯罪ヲ除ク外会期中又ハ院ノ許諾ナクシテ逮捕セラルルコトナシ
両院ハ各々政府又ハ大臣ニ対シ不信任ノ表決ヲナスコトヲ得此ノ場合政府又ハ大臣ハ直チニ其ノ職ヲ去ルベシ

第四 政府及ビ大臣
政府ハ各省大臣及ビ無住所大臣ヲ以テ組織ス

第五 経済及ビ労働
土地ハ国有トス
公益上必要ナル生産手段ハ議会ノ議決ニ依り漸次国有ニ移スヘシ
労働ハ如何ナル場合ニモ一日八時間ヲ超ユルヲ得ズ
労働ノ報酬ハ労働者ノ文化生活水準ニ下ルコトヲ得ズ

第六 文化及科学
凡テ教育其他文化ノ享受ハ男女ノ間ニ差異ヲ設クベカラズ
一切ノ教育ハ真理ノ追官真実ノ闡明ヲ目標トスル科学性ニ其ノ根拠ヲ置クベシ

第七 司法
司法権ハ裁判所構成法及ビ審法ノ規定ニ従ヒ裁判所之ヲ行フ
司法権ハ行政権ニヨリ侵サルルコトナシ
行政官庁ノ処分ニヨリ権利ヲ傷害セラレ又ハ正当ノ利益ヲ損害セラレタリトスル場合ニ対シ別ニ行政裁判所ヲ設ク

第八 財政
国ノ歳出歳入ハ詳細明確ニ予算ニ規定シ毎年議会ニ提出シテ其ノ承認ヲ経ベシ
予算ハ先ヅ第一院ニ提出スベシ其ノ承認ヲ経タル項目及ビ金額ニ就テハ第二院之ヲ否決スルヲ得ズ
租税ノ賦課ハ公正ニ行ハレ苟モ消費税ヲ偏重シテ民衆ノ負担ノ過重ヲ来サザルヤウ注意スルヲ要ス
歳入歳出ノ決算ハ速ニ会計検査院ニ提出シ其ノ検査確定ヲ経ル後政府ハ之ヲ次ノ会計年度ニ議会ニ提出シテ承認ヲ得ベシ

第九 憲法ノ改正及ビ国民投票
将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アリト認メタルトキハ大統領又ハ第一院若クハ第二院ハ議案ヲ作成シ之ヲ議会ノ議ニ附スベシ
此ノ場合ニ於テ両院ハ各々其ノ議員三分ノ二以上出席スルニ非ザレバ議事ヲ開クコトヲ得ズ出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非ザレバ改正ノ議決ヲナスコトヲ得ズ
国民全般ノ利害ニ関係アル問題ヲシテ国民投票ニ附スル必要アリト認ムル事項アルトキハ前掲憲法改正ノ規定ニ準ジテ其ノ可否ヲ決スベシ
(付 枢密院ハ之ヲ廃止ス)

「国立国会図書館ウェブサイト」より

☆高野岩三郎関係略年表

・1871年(明治4年9月2日) 長崎県西彼杵郡長崎区銀屋町(現在の長崎市)で生まれる
・1895年(明治28) 東京帝国大学法科大学(現在の東大法学部)政治学科を卒業する
・1897年(明治30) 桑田熊蔵、小野塚喜平次らと社会政策学会を創立、その中心的世話役となる
・1899年(明治32) ドイツのミュンヘン大学留学に出発する
・1903年(明治36) ドイツ留学より帰国し、東京帝国大学教授となり、統計学を講じる
・1904年(明治37) 法学博士の学位を授与される
・1908年(明治41) 再度渡欧する
・1910年(明治43) 国勢調査準備委員となり、日本最初のセンサス実施を指導する
・1912年(大正元) 友愛会評議員となる
・1916年(大正5) わが国最初の試みとして、東京で「二十職工家計調査」を実施する
・1919年(大正8) 東大法科大学より経済学部を独立させるため努力し、実現させたが、辞職する
・1920年(大正9) 大原社会問題研究所所長となる
・1921年(大正10)7月1日 第一回国勢調査記念章を受章する
・1925年(大正14) 学士院会員となる
・1928年(昭和3)12月 日本大衆党が結成され委員長となる
・1938年(昭和13) 国際統計協会正会員となる
・1945年(昭和20) 「日本共和国憲法私案要綱」を発表して天皇制廃止と共和国大統領制を主張する
・1946年(昭和21) 日本放送協会会長となる
・1948年(昭和23) 日本統計学会初代会長となる
・1949年(昭和24)4月5日 東京において、77歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1828年(文政11)越前福井藩主・政治家松平慶永(春嶽)の誕生日(新暦10月10日)詳細
1913年(大正2)思想家・美術指導者岡倉天心の命日詳細
1945年(昭和20)東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号の甲板上において降伏文書に調印する詳細
連合国最高司令官の事務所からの最初の指令(SCAPIN-1)が出される詳細


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suzukiumetarou01

 今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、農芸化学者・栄養化学者鈴木梅太郎の亡くなった日です。
 鈴木 梅太郎(すずき うめたろう)は、1874年(明治7)4月7日に、静岡県榛原郡堀野新田村(現:牧之原市堀野新田)で農業を営む鈴木庄蔵の次男として生まれました。幼い頃より学問を好み、1888年(明治21)に単身上京し、東京農林学校(翌年帝国大学農科大学と改称)へ入学、J. Liebig(リービッヒ)の弟子O. Loebなどに農芸化学を学び、1896年(明治29)に卒業し、大学院に入ります。
 桑の萎縮病の原因を研究、1900年(明治33)に農科大学助教授に任ぜられ、1901年(明治34)には、農学博士の学位を授与されました。同年に文部省留学生として渡欧、スイス、ドイツに遊学、特にベルリンのE.フィッシャーについてタンパク質の研究にあたります。
 1906年(明治39)に帰国し、盛岡高等農林学校教授に任ぜられ、東京帝国大学助教授も兼任しました。翌年東京帝国大学農科大学教授となり、1910年(明治43)に、米ぬかから抗脚気の有効成分ビタミンB1の抽出に成功、オリザニンと命名し、ビタミン発見の先駆をなします。
 1917年(大正6)に理化学研究所設立と共に同研究委員となり、栄養化学および合成酒、サリチル酸、乳酸などの研究・製造に従事しました。1924年(大正13)に「副栄養素の研究」により学士院賞受賞、日本農芸化学会を創立し、初代会長となり、翌年に帝国学士院会員、1926年(大正15)には、帝国発明協会よりオリザニンの発見に対し、恩賜記念賞および大賞を受賞します。
 1943年(昭和18)には、文化勲章を受章しましたが、同年9月20日に東京の慶應義塾大学病院において腸閉塞症のため、69歳で亡くなりました。

〇鈴木梅太郎関係略年表

・1874年(明治7)4月7日 榛原郡堀野新田村、鈴木庄蔵・次男として生まれる
・1879年(明治12) 5歳の時、鈴木利七先生に学問を習う
・1880年(明治13) 6歳の時、地頭方学校(現:牧之原市立地頭方小学校)へ入学する
・1886年(明治19) 12歳の時、地頭方学校を卒業する
・1887年(明治20) 13歳の時、県公認東遠義塾が開講し入塾する
・1888年(明治21)5月15日 14歳の時、単身徒歩にて東京に向かって出発、上京する
・1888年(明治21) 東京神田の日本英学館に入り、のち東京農林学校予備校に入学する
・1889年(明治22) 15歳の時、東京農林学校入学する
・1890年(明治23) 東京農林学校は帝国大学農科大学と改称され、農商務省より文部省に移管される
・1893年(明治26) 19歳の時、 帝国大学農科大学予科を卒業する
・1894年(明治27) 20歳の時、遠江学生奨学会より、同学1年級優等として賞品を授与する
・1896年(明治29) 22歳の時、農科大学農芸化学科を卒業し、卒業式において東京帝国大学各文科大学全卒業生を代表して答辞を朗読、大学院に入る
・1897年(明治30) 23歳の時、桑の萎縮病の対策費として政府から数千円を支出され、その研究に着手する
・1900年(明治33) 26歳の時、農科大学助教授に任ぜられる
・1901年(明治34) 27歳の時、農学博士の学位を授与され、辰野須磨子嬢と結婚、文部省留学生を命ぜられ、欧州に向け出発、ベルリン大学に留学、エミール・フィッシャーの下で、ペプチド合成の研究に従事する
・1906年(明治39) 32歳の時、帰国し、盛岡高等農林学校教授に任ぜられ、東京帝国大学助教授も兼任する
・1907年(明治40) 33歳の時、東京帝国大学農科大学教授に任ぜられ、盛岡高等農林学校教授を兼任、米糖らフィチンを分離する
・1909年(明治42) 35歳の時、東京渋谷区宇田川町に転居、東京肥料分析講習所長を兼務する
・1910年(明治43)12月13日 36歳の時、東京化学会例会席上、米糖の有効成分が燐タングステン酸と結合して沈殿せしめ分離できること、およびそれが新栄養素であることを発表する
・1911年(明治44) 37歳の時、東京化学会誌に米糠の有効成分の分離についての報告が掲載される
・1912年(明治45) 38歳の時、蛋白化学の研究に対し、東京化学会より桜井賞が授与される
・1913年(大正2) 39歳の時、東京農業大学教授(兼農芸化学講習部長)となり、植物栄養論の講義を担当する
・1915年(大正4) 41歳の時、サルバルサン、サルチル酸の工業的製造に成功する
・1917年(大正6) 43歳の時、理化学研究所主任研究員となる
・1919年(大正8) 45歳の時、香川県藍同業組合の招聘に応じ、小松島町(現:小松島市)に藍工場を建設する
・1923年(大正12) 49歳の時、私立東京農業大学農芸化学講習部は農芸化学部と改称し、2年制となる
・1924年(大正13) 50歳の時、副栄養素の研究に対し帝国学士院賞を授与、日本農芸化学会を創立し、初代会長となる
・1925年(大正14) 51歳の時、帝国学士院会員となる
・1926年(大正15) 52歳の時、帝国発明協会よりオリザニンの発見に対し、恩賜記念賞および大賞を受賞、東京帝国大学農学部長(1928年まで)に就く
・1927年(昭和2) 53歳の時、自宅において夫婦銀婚式を行い、郷里の地頭方小学校に奨学資金1万円を寄付する
・1928年(昭和3) 54歳の時、帝国発明協会より合成酒の発明に対し、特等賞牌を受ける
・1929年(昭和4) 55歳の時、大日本農会より名誉賞を受ける、東京帝国大学農学部へ実験室一棟寄付の件に対して紺綬褒章を受ける
・1930年(昭和5) 56歳の時、発明家の一人として宮中賜餐の栄に浴する
・1931年(昭和6) 57歳の時、御講書始の儀において「エミール・フィッシャーの業績と生化学の発達について」御進講する
・1932年(昭和7) 58歳の時、ドイツ学士院会員に推される
・1933年(昭和8) 59歳の時、東京帝国大学へ奨学資金10万円寄付の件により、紺綬褒章を受ける
・1934年(昭和9) 60歳の時、願いにより東京帝国大学教授を辞する
・1936年(昭和11) 62歳の時、満州国大陸科学院長となる
・1937年(昭和12) 63歳の時、パリ万国博覧会にてビタミンB1の結晶を出品し名誉賞を受賞する
・1938年(昭和13) 64歳の時、理研酒工業株式会社(1955年、協和発酵キリンに吸収合併)を創設する
・1941年(昭和16) 67歳の時、理研酒の造石高40余万石に達する
・1943年(昭和18)4月29日 69歳の時、文化勲章を受章する
・1943年(昭和18)9月20日 慶應義塾大学病院において腸閉塞症のため、69歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1806年(文化3)浮世絵師喜多川歌麿の命日(新暦10月31日)詳細
1852年(嘉永5)囲碁名人・17世および19世本因坊秀栄の誕生日(新暦11月1日)詳細
1903年(明治36)京都市の堀川中立売~七条~祇園で日本初の乗合自動車(バス)が運行される(バスの日)詳細
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 今日は、明治時代前期の1878年(明治11)に、物理学者・随筆家・俳人寺田寅彦の生まれた日です。
 寺田 寅彦(てらだ とらひこ)は、東京市麹町区(現在の東京都千代田区)において、高知県士族の父・寺田利正と母・亀の長男として誕生しました。1881年(明治14)に祖母、母、姉と共に郷里の高知県高知市に転居し、1893年(明治26)に高知県尋常中学校(現在の県立高知追手前高等学校)に入学します。
 1896年(明治29)に熊本の第五高等学校に進み、英語教師夏目漱石、物理学教師田丸卓郎から大きな影響を受けて科学と文学を志し、翌々年には漱石を主宰とした俳句結社紫溟吟社を蒲生紫川、厨川千江らと起こしました。1899年(明治32) に東京帝国大学理科大学に入学し、田中館愛橘、長岡半太郎の教えを受けます。
 1903年(明治36)に首席卒業後、大学院へ進学、翌年から同大学の講師となり、1908年(明治41年)には「尺八の音響学的研究」により、理学博士号を取得しました。翌年助教授へ進み、ドイツのベルリン大学に留学、1911年(明治44)にはフランス、イギリス、アメリカ経由で帰国します。
 1913年(大正2)にX線回折のラウエ斑点の研究方法の改良を「Nature」誌に発表して認められ、1916年(大正5)に教授(物理学)に就任し、翌年には帝国学士院恩賜賞を受賞しました。病気療養中の1920年(大正9)頃から本格的に写生文を書きはじめ、『病室の花』(1920年)、『冬彦集』(1923年)、『藪柑子集』(1923年)、『万華鏡 (カレイドスコープ) 』 (1929年)などの著書を刊行します。
 一方、1922年(大正11)から航空研究所、1924年(大正13)から理化学研究所、1926年(大正15)地震研究所の研究員を兼任、各分野に独創的な業績を残しました。1928年(昭和3)には、帝国学士院会員ともなりましたが、1935年(昭和10)12月31日に、東京市本郷区の自宅において、57歳で亡くなっています。尚、「天災は忘れたころにやってくる」の有名な警句を残したことで知られてきました。

〇寺田寅彦の主要な著作

・『海の物理学』(1913年)
・『地球物理学』(1915年)
・随筆書『病室の花』(1920年)
・随筆書『冬彦集』(1923年)
・随筆書『藪柑子集』(1923年)
・随筆書『万華鏡 (カレイドスコープ) 』(1929年)
・『触媒』(1934年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1872年(明治5)徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」が発布される(新暦12月28日)詳細
1883年(明治16)鹿鳴館が開館する詳細
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