
さらに、1月14日には「新聞紙法」第42条の朝憲紊乱の罪に問われ、編集署名人の大内と共に起訴されます。同年3月3日に東京地裁で有罪判決、控訴審である6月29日の東京控訴院でも有罪判決が出され、10月22日の大審院が上告を棄却して、刑事裁判が確定、森戸は禁固3ヶ月・罰金70円、大内は禁錮1ヶ月(執行猶予1年)・罰金20円に処され、両人共に東京帝国大学を失職し、森戸は11月4日に下獄しました。
裁判では佐々木惣一、吉野作造らが特別弁護人となり、河上肇、長谷川如是閑(にょぜかん)らも大学自治擁護の論陣を張り、学界をはじめ言論界にいたるまで、政府の思想弾圧事件として広く反響を巻起します。その後、森戸および行動をともにして辞職した櫛田民蔵、細川嘉六を加えて森戸の師、高野岩三郎を所長とする「大原社会問題研究所」が発足、大内は大学に復職しました。
広島県立福山中学校を経て、1910年(明治43)に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法科大学経済学科へ進みます。社会科学あるいは社会問題を生涯の研究課題とし、1914年(大正3)に卒業後、高野岩三郎の経済統計研究室でしばらく助手をした後、1916年(大正5)に東京帝国大学法科大学社会政策学科助教授となりました。
1919年(大正8)に機関誌「経済学研究」に発表した論文『クロポトキンの社会思想の研究』で朝憲紊乱の罪に問われ(森戸辰男事件)、翌年に機関誌「経済学研究」編集署名人の同学部助教授大内兵衛と共に休職処分を受け、起訴され、刑事裁判が確定(禁固3ヶ月・罰金70円)して失職します。1921年(大正10)に「大原社会問題研究所」所員となり、ドイツに留学してマルクス主義関係文献を収集し、1923年(大正12)に帰国後は同所員として活動しながら、労働者教育にも携わり、論壇で活躍しました。
太平洋戦争後は、高野岩三郎、杉森孝次郎らの提唱で結成された「日本文化人連盟」に参加、日本社会党の結成にも加わります。1946年の第22回衆議院議員総選挙で旧広島3区から日本社会党公認で当選(以後連続3期当選)、翌年から片山哲内閣・芦田均内閣で文部大臣を務め、六・三・三制の学校制度、教育委員会の公選制など戦後の教育改革に尽力しました。
1950年(昭和25)に衆議院議員を辞職し、広島大学学長に就任(1963年まで)、1955年(昭和30)には中央教育審議会委員(1963年から会長)となり、1966年(昭和41)に愛国心育成を強調した中間答申「期待される人間像」や1971年(昭和46)の生涯教育、奨学制度問題、教師の職制・給与の改善等を柱とする「第三の教育改革」の答申作成に取り組み、いわゆる中教審路線の推進者となります。一方で、1962年(昭和37)に日米文化教育会議発足で初代委員長・首席代表となり、1963年(昭和38)に日本放送協会学園高等学校初代校長、日本育英会会長に就任、1964年(昭和39)には日本図書館協会会長などを歴任しました。
これらの活動に対して、1971年(昭和46)に文化功労者、福山市名誉市民ともなり、1974年(昭和49)に勲一等旭日大綬章を受章するなど数々の栄誉にも輝きます。1975年(昭和50)に教育の正常化を目標とする日本教育会発足で会長となり、1980年(昭和55)には名誉会長となりましたが、1984年(昭和59)5月28日に、東京において、95歳で亡くなりました。