ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:東京大学教授

yamaguchiseison01

 今日は、昭和時代後期の1988年(昭和63)に、俳人・随筆家・鉱山学者山口青邨の亡くなった日です。
 山口青邨(やまぐち せいそん)は、1892年(明治25)5月10日 岩手県盛岡市仁王小路にて旧盛岡藩士の父・山口政徳、母・千代の4男として生まれましたが、本名は吉朗(きちろう)と言いました。5歳の時に母を失い、母方の叔父笹間家に引き取られ育てられ、岩手県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)を経て、1910年(明治43)に仙台市の第二高等学校へ入学、ドイツ語教授の戸張一郎から文学上の影響を受けます。
 卒業後、東京帝国大学工科大学へ進学し、1916年(大正5)に採鉱科を卒業、古河鉱業(現在の古河機械金属)に入社したものの、1918年(大正7)には、古河鉱業を退社し、農商務省技師として鉱山省に勤務しました。1919年(大正8)に、シベリア炭鉱を調査、翌年には、文芸誌「玄土」を創刊、シュトルムの「湖」を日本で初めて訳し、「蜜蜂の湖」の題で発表します。
 1921年(大正10)に東京帝国大学工学部助教授となり、翌年結婚、高浜虚子に師事し「山会」に参加、随筆の妙手と評されました。また、水原秋桜子、山口誓子、富安風生、高野素十らと東大俳句会を結成し、清純、高雅な作風で知られます。
 1923年(大正12)に「芸術運動」を発刊、1927年(昭和2)からドイツのベルリンに留学、1929年(昭和4)に帰国後、東京帝国大学工学部教授となり、「ホトトギス」同人にも加わりました。1930年(昭和5)に出身地盛岡市で「夏草」を創刊、翌年に工学博士となり、東京・杉並区和田本町に転居、1934年(昭和9)には、東大ホトトギス会を興し学生を指導、第一句集『雑草園』を出します。
 1942年(昭和17)に、第二句集『雪国』を出し、1953年(昭和28)には、東大教授を定年退官し名誉教授となりました。1968年(昭和43)に勲三等旭日中綬章を受章、1983年(昭和58)には岩手日報文化賞を受賞するなどしています。
 1987年(昭和62)には、「ホトトギス」名誉会長となりましたが、翌年12月15日に78歳で亡くなりました。

<代表的な句>

・「みちのくの 山たゝなはる 花林檎」
・「みちのくの 町はいぶせき 氷柱かな」
・「祖母山も 傾山も 夕立かな」
・「たんぽぽや 長江濁る とこしなへ」
・「銀杏散る まつただ中に 法科あり」
・「みちのくの 雪深ければ 雪女郎」(山口青邨句集)
・「外套(がいとう)の 裏は緋(ひ)なりき 明治の雪」(露団々)
・「本を読む 菜の花明り 本にあり」(雑草園)
・「藤垂れて わが誕生日 むらさきに」(雪国)

〇山口青邨の主要な著作

・第一句集『雑草園』(1934年)
・第二句集『雪国』(1942年)
・句集『乾燥花』
・句集『露団々』
・句集『粗餐(そさん)』(1973年)
・句集『花宰相』
・句集『庭にて』
・句集『冬青空』
・句集『不老』
・句集『寒竹風松』
・随筆『花のある随筆』(1934年)
・随筆『草庵(そうあん)春秋』(1943年)
・随筆『回想の南瓜』(1965年)
・随筆『春籠秋籠』
・随筆『わが庭の記』
・随筆『三艸書屋雑記』

☆山口青邨関係略年表

・1892年(明治25)5月10日 岩手県盛岡市仁王小路にて旧盛岡藩士の父・山口政徳、母・千代の4男として生まれる
・1910年(明治43) 第二高等学校へ入学する
・1916年(大正5) 東京帝国大学工科大学採鉱科を卒業、古河鉱業(現在の古河機械金属)に入社する
・1918年(大正7) 古河鉱業を退社し、農商務省技師として鉱山省に勤務する
・1919年(大正8) シベリア炭鉱を調査する
・1920年(大正9) 文芸誌「玄土」を創刊、シュトルムの「湖」を日本で初めて訳し、「蜜蜂の湖」の題で発表する
・1921年(大正10) 東京帝国大学工学部助教授となる
・1922年(大正11) 結婚、高浜虚子に師事し「山会」に参加、水原秋桜子、山口誓子、富安風生、高野素十らと東大俳句会を結成する
・1923年(大正12) 「芸術運動」を発刊する
・1927年(昭和2)2月 ドイツのベルリンに留学する
・1929年(昭和4)4月 ベルリン留学から帰国する
・1929年(昭和4)6月 東京帝国大学工学部教授となり、「ホトトギス」同人となる
・1930年(昭和5) 盛岡市で「夏草」を創刊する
・1931年(昭和6) 工学博士となる、東京・杉並区和田本町に転居する
・1934年(昭和9) 東大ホトトギス会を興し学生を指導、第一句集『雑草園』を出す
・1942年(昭和17) 第二句集『雪国』を出す
・1953年(昭和28) 東大教授を定年退職し名誉教授となる
・1968年(昭和43) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1983年(昭和58) 岩手日報文化賞を受賞する
・1987年(昭和62) 「ホトトギス」名誉会長となる
・1988年(昭和63)12月15日 78歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1914年(大正3)方城炭鉱(福岡県)で爆発事故があり、死者・行方不明者671人を出す詳細
1937年(昭和12)第一次人民戦線事件で政府が労農派などの関係者446人を一斉逮捕する詳細
1945年(昭和20)GHQが「宗教指令(神道指令)」(SCAPIN-448)を指令する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

kogaittsaku01

 今日は、明治時代後期の1899年(明治32)に、電気通信工学者・工学博士古賀逸策の生まれた日です。
 古賀逸策(こが いっさく)は、佐賀県三養基郡田代村(現在の鳥栖市)で生まれ、熊本中学校、第五高等学校を経て、東京帝国大学工学部へ入学しました。1923年(大正12)に同大学工学部電気工学科を卒業後、大学院に進み、東京市電気研究所の嘱託となります。
 1925年(大正14)に東京市の技師に任命されると共に大学院を退学、1929年(昭和4)には、東京工業大学設立と同時に助教授となりました。1930年(昭和5)に、東京帝国大学より工学博士が授与され、1932年(昭和7)に従来型より温度係数がはるかに小さいR1カット式水晶振動子を発明、翌年には特許を取得します。
 1937年(昭和12)に周波数逓降器を水晶発振器と組み合わせ、東京天文台の水晶時計を製作、1939年(昭和14)には、東京工業大学の教授となりました。1944年(昭和19)に東京大学教授(併任)となり、毎日通信賞および技術院賞、翌年には、服部報公会賞を受賞します。
 1947年(昭和22)に電気通信学会会長となり、1948年(昭和23)には、水晶発振器の基礎理論と応用についての業績で、日本学士院賞を受賞しました。1954年(昭和29)にNHK放送文化賞受賞、1956年(昭和31)に紫綬褒章受章、1957年(昭和32)には、電波技術審議会の委員となります。
 1958年(昭和33)に東京工業大学を退任、東京大学工学部長となり、1960年(昭和35)には、東京大学を退任し、同大学名誉教授と東京工業大学名誉教授となりました。1961年(昭和36)に国語審議会委員、1962年(昭和37)に郵政大臣賞(電波功労者)受賞、1963年(昭和38)には、文化勲章も受章します。
 1967年(昭和42)に中央教育審議会委員、1970年(昭和45)には、勲一等瑞宝章受章、電波監理審議会の会長となりました。1976年(昭和51)に学士院会員ともなりましたが、1982年(昭和57)9月2日に、東京において、82歳で亡くなっています。

〇古賀逸策の主要な著作

・『圧電気と高周波:新興基礎電気工学講座』第10巻(1937年)
・『圧電気と高周波』(1938年)
・『誰にも出来る : ラジオの故障修理』(1947年)
・『1万分の1直角きざみ10ケタ三角函数表』(1960年)

☆古賀逸策関係略年表

・1899年(明治32)12月5日 佐賀県三養基郡田代村(現在の鳥栖市)で生まれる
・1923年(大正12) 東京帝国大学工学部電気工学科を卒業、大学院に進み、東京市電気研究所の嘱託となる
・1925年(大正14) 東京市の技師に任命されると共に大学院を退学する
・1929年(昭和4) 東京工業大学設立と同時に助教授となる
・1930年(昭和5) 学術論文(古賀 1930)を修め、東京帝国大学より工学博士が授与される
・1932年(昭和7) 従来型より温度係数がはるかに小さいR1カット式水晶振動子を発明する
・1933年(昭和8)2月21日 R1カット式水晶振動子で特許(99670号)を取得する
・1934年(昭和9) 電気学会より浅野博士記念祝金を受ける
・1937年(昭和12) 周波数逓降(ていこう)器を水晶発振器と組み合わせ、東京天文台の水晶時計を製作する
・1939年(昭和14) 東京工業大学の教授となる
・1944年(昭和19) 東京大学教授(併任)となり、毎日通信賞および技術院賞を受賞する
・1945年(昭和20) 服部報公会賞を受賞する
・1947年(昭和22) 電気通信学会会長となる 
・1948年(昭和23) 水晶発振器の基礎理論と応用についての業績で、日本学士院賞を受賞する
・1950年(昭和25) 電気通信学会通信功績賞を受賞する
・1951年(昭和26) 放送技術審議会委員となり、電気通信大臣表彰を受ける
・1954年(昭和29) NHK放送文化賞を受賞する
・1956年(昭和31) 紫綬褒章を受章、東京大学評議員となる
・1957年(昭和32) 電波技術審議会の委員となる
・1958年(昭和33) 東京工業大学を退任、東京大学工学部長となる
・1960年(昭和35) 東京大学を退任し、同大学名誉教授と東京工業大学名誉教授となる
・1961年(昭和36) 国語審議会委員となる
・1962年(昭和37) 郵政大臣賞(電波功労者)を受賞する
・1963年(昭和38) 文化勲章を受章、電波監理審議会の委員となる
・1964年(昭和39) 電気通信学会名誉員となる
・1965年(昭和40) 電気学会名誉員となる
・1967年(昭和42) 中央教育審議会委員となる
・1970年(昭和45) 勲一等瑞宝章を受章、電波監理審議会の会長となる
・1976年(昭和51) 学士院会員となる
・1982年(昭和57)9月2日 東京において、82歳で亡くなる
・2011年(平成23) 電気学会より「第4回でんきの礎」の顕彰をうける

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

603年(推古天皇11)日本最初の位階制度である冠位十二階が制定される(新暦604年1月11日)詳細
1903年(明治36)物理学者長岡半太郎が原子模型の理論を発表する詳細
1912年(大正元)映画監督・脚本家木下惠介の誕生日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ