ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:東京大学教授

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 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、病理学者吉田富三が生まれた日です。
 吉田富三(よしだ とみぞう)は、福島県石川郡浅川町本町において、父・吉田喜市郎、母・ナヲの長男として生まれましたが、1915年(大正4)に浅川小学校卒業後、上京しました。錦城中学校を経て、1923年(大正12)に旧制第一高等学校を卒業し、東京帝国大学医学部医学科へ入学します。
 1927年(昭和2)に卒業し、同大学病理学教室(主任教授、長與又郎)の副手となり、1929年(昭和4)には、佐々木研究所に入所、佐々木隆興(たかおき)の指導を受けました。1932年(昭和7)に、オルト・アミドアゾトルオオール経口投与によるラット発癌実験開始、肝臓癌生成に成功、1934年(昭和9)には、「Virchows Archiv」283巻1号に、佐々木隆興と連名で肝臓癌生成結果を発表します。
 1935年(昭和10)に佐々木研究所を退所し、海外留学してベルリン大学レスレ教授の教室に入り、イギリス、アメリカでも学び、1937年(昭和12)に帰国しましたが、この間に、論文「上皮化生の問題に対する実験的補遺(独文)」で東京帝国大学より医学博士号を授与され、「オルト・アミドアゾトルオオール経口投与による肝臓癌生成の実験的研究」で、帝国学士院恩賜賞を佐々木隆興と共同受賞しました。1938年(昭和13)に長崎医科大学教授に就任、病理学を担当、1943年(昭和18)には、ラット腹水肉腫を発見、「長崎系腹水肉腫」と呼びます。
 1944年(昭和19)に東北帝国大学教授に就任、「Proc Imp Acad」20巻8号にシロネズミの悪性腫瘍を発表、1948年(昭和23)には、「長崎系腹水肉腫」が吉田肉腫と改名されました。1951年(昭和26)にラット腹水肝癌を発見、吉田肉腫の研究で朝日賞を受賞、日本学術会議会員となります。
 1952年(昭和27)に東京大学教授(病理学)に就任、がん化学療法薬ナイトロミンを開発、1953年(昭和28)には、佐々木研究所所長、「吉田肉腫の病理学的研究」で、2度目の日本学士院恩賜賞を受賞しました。1958年(昭和33)に東京大学医学部長に就任、東京大学伝染病研究所教授を併任、1959年(昭和34)には、文化勲章を受章、科学技術会議専門委員ともなります。
 その後、1961年(昭和36)にペルジア大学(イタリア)より名誉学位授与、国語審議会委員、1962年(昭和37)に藤原賞受賞、1963年(昭和38)には、東京大学を退官し、癌研究会癌研究所所長に就任、ロベルト・コッホ賞コッホ・ゴールドメダルを受賞、1965年(昭和40)には故郷である福島県浅川町より名誉町民の称号を授与されました。1966年(昭和41)に国際癌学会会長(東京)に就任、1968年(昭和43)に日本ユネスコ国内委員会副会長など要職にも就きましたが、1973年(昭和48)4月27日に、東京において、70歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈されています。

〇吉田富三の主要な著作

・『癌ノ発生 — 癌原性物質ノ研究概観』(1949年)日本医書出版
・翻訳書『ウィルヒョウ  細胞病理学』(1957年)南山堂
・『吉田肉腫 — 癌化学療法の基礎的研究』(1964年)寧楽書房
・『美と教養 — 心の対話』(1968年)日本ソノサービスセンター
・『雑念雑記』(1972年)南山堂
・『生命と言葉 — 随想集』(1972年)読売新聞社

☆吉田富三関係略年表

・1903年(明治36)2月10日 福島県石川郡浅川町本町において、父・吉田喜市郎、母・ナヲの長男として生まれる
・1915年(大正4) 浅川小学校卒業後、上京する
・1920年(大正9) 錦城中学校を卒業する
・1923年(大正12) 旧制第一高等学校を卒業し、東京帝国大学医学部医学科へ入学する
・1927年(昭和2) 東京帝国大学医学部を卒業し、病理学教室(主任教授、長與又郎)の副手となる
・1929年(昭和4) 佐々木研究所に入所する
・1932年(昭和7) 佐々木隆興の指導の下、オルト・アミドアゾトルオオール経口投与によるラット発癌実験開始、肝臓癌生成に成功する
・1934年(昭和9) 「Virchows Archiv」283巻1号に、佐々木隆興と連名で肝臓癌生成結果を発表する
・1935年(昭和10) 佐々木研究所を退所し、海外留学してベルリン大学レスレ教授の教室に学ぶ、癌学会山極賞、服部報公会賞を受賞する
・1936年(昭和11) 論文「上皮化生の問題に対する実験的補遺(独文)」で東京大学より医学博士号を授与され、「オルト・アミドアゾトルオオール経口投与による肝臓癌生成の実験的研究」で、帝国学士院恩賜賞を佐々木隆興と共同受賞する
・1937年(昭和12) 海外留学から帰国する
・1938年(昭和13) 長崎医科大学教授に就任、病理学を担当する
・1943年(昭和18) ラット腹水肉腫を発見、「長崎系腹水肉腫」と呼ぶ
・1944年(昭和19) 東北帝国大学教授に就任、「Proc Imp Acad」20巻8号にシロネズミの悪性腫瘍(吉田肉腫)を発表する
・1948年(昭和23) 「長崎系腹水肉腫」が吉田肉腫と改名される
・1951年(昭和26) ラット腹水肝癌を発見、吉田肉腫の研究で朝日賞を受賞、日本学術会議会員となる
・1952年(昭和27) 東京大学教授(病理学)に就任、がん化学療法薬ナイトロミンを開発する
・1953年(昭和28) 佐々木研究所所長、「吉田肉腫の病理学的研究」で、2度目の日本学士院恩賜賞を受賞する
・1958年(昭和33) 東京大学医学部長に就任、東京大学伝染病研究所教授を併任する
・1959年(昭和34) 文化勲章を受章、科学技術会議専門委員となる
・1960年(昭和35) 日本学術会議会員となる
・1961年(昭和36) 第50回日本病理学会会長、ペルジア大学(イタリア)より名誉学位を授与され、国語審議会委員となる
・1962年(昭和37) 第9回国際癌会議組織委員会委員長となり、藤原賞を受賞する
・1963年(昭和38) 東京大学を退官し、癌研究会癌研究所所長に就任、ロベルト・コッホ賞コッホ・ゴールドメダルを受賞する
・1965年(昭和40) 故郷である福島県浅川町より名誉町民の称号を授与される
・1966年(昭和41) 国際癌学会会長(東京)に就任する
・1968年(昭和43) 日本ユネスコ国内委員会副会長となる
・1971年(昭和46) 第18回日本医学会総会で特別講演(癌の成長)する
・1973年(昭和48)4月27日 東京において、70歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1439年(永享11)鎌倉永安寺で第4代鎌倉公方足利持氏が叔父満貞と共に自害し、鎌倉府が滅亡する(新暦3月24日)詳細
1657年(明暦3)儒学者・政治家新井白石の誕生日(新暦3月24日)詳細
1904年(明治37)「露国に対する宣戦の詔勅」が発せられて、日露戦争に対して正式に宣戦が布告される詳細
1929年(昭和4)日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の創立大会が開かれる詳細
1940年(昭和15)「津田事件」により、津田左右吉の『古事記及び日本書紀の研究』等の著書4冊が発禁となる詳細
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mishimatokushichi01
 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、MK鋼を発明した冶金学者三島徳七の亡くなった日です。
 三島徳七(みしま とくしち)は、1893年(明治26)2月24日に、兵庫県津名郡広石村下組(現在の洲本市五色町広石下)において、農業を営む父・喜住甚平の5男(7人兄弟の末っ子)として生まれました。広石尋常高等小学校、立教中学校を経て、1913年(大正2)に、旧制第一高等学校へ入学します。
 卒業後の1916年(大正5)に、東京帝国大学へ入学、1920年(大正9)に、工学部冶金学料を卒業し、同校助手を経て講師となり、同校講師の三島通良の養子となり、三島姓になりました。1921年(大正10)に東京帝国大学助教授となり、1928年(昭和3)には、学位論文「ニツケル」及「ニツケル」合金ノ焼鈍脆性」で、東京帝国大学より工学博士号を取得します。
 1931年(昭和6)に強力永久磁石を発明、1934年(昭和9)には、強磁性合金を発明して特許を取得し、「MK磁石(MK鋼:MK磁石鋼)」と名付けました。この実績により、1937年(昭和12)に紺綬褒章を受章、1938年(昭和13)には、帝国発明協会恩賜賞を受賞、東京帝国大学教授となります。
 1939年(昭和14)に科学審議会委員、自動車技術審議会委員、1940年(昭和15)に社団法人 発明協会理事、1941年(昭和16) 日本学術振興会小委員会委員長、1942年(昭和17)に勲三等瑞宝章を受章、科学技術審議会委員に選任されました。太平洋戦争後期は、1945年(昭和20)に「特殊鋼殊に MK磁石鋼の研究」により帝国学士院恩賜賞を受賞、1947年(昭和22)に社団法人日本鉄鋼協会会長、1948年(昭和23)に日本学術会議会員、1949年(昭和24)に日本学士院会員、社団法人日本金属学会会長に選任されます。
 1950年(昭和25)に藍綬褒章、文化勲章を受章、翌年には、文化功労者ともなりました。1953年(昭和28)に東京大学を退官し、名誉教授、日本金属学会名誉会員となり、翌年には、社団法人日本鋳物協会会長に就任します。
 1957年(昭和32)にアメリカ金属学会アルバート・ソーバー功労賞、1962年(昭和37)にイタリア金属学会ルイジ・ロサーナ賞を受賞、1964年(昭和39)には、フランス金属学会名誉会員となるなど国際的にも評価されました。1967年(昭和42)に日本鉄鋼協会本多記念賞、1973年(昭和48)に第二回日本産業技術大賞を受賞したりしましたが、1975年(昭和50)11月19日に、東京において、82歳でなくなり、勲一等旭日大綬章を追贈されています。
 尚、1985年(昭和60)に、工業所有制度百周年記念行事委員会から日本の発明家10傑の1人に選ばれました。

〇三島徳七の主要な著作

・『高速度鋼とその熱処理』(1941年)
・『不銹鋼』(1947年)
・『金属材料及其熱処理』(1949年)
・息子の良績との共著『合金学』(1954年)
・『近代鋳造』(1970年)

☆三島徳七関係略年表

・1893年(明治26)2月24日 兵庫県津名郡広石村下組(現在の洲本市五色町広石下)において、農業を営む父・喜住甚平の5男(7人兄弟の末っ子)として生まれる
・1907年(明治40) 広石尋常高等小学校を卒業する
・1911年(明治44) 立教中学校への編入試験の末、同校に入学する
・1913年(大正2) 立教中学を卒業し、第一高等学校へ入学する
・1916年(大正5) 第一高等学校卒業し、東京帝国大学へ入学する
・1920年(大正9) 東京帝国大学工学部冶金学料を卒業、同校助手を経て講師となり、同校講師の三島通良の養子となる
・1921年(大正10) 東京帝国大学助教授となる
・1928年(昭和3) 学位論文「ニツケル」及「ニツケル」合金ノ焼鈍脆性」で、東京帝国大学より工学博士号を得る
・1931年(昭和6) 強力永久磁石を発明する
・1932年(昭和7) 服部報公賞を受賞する
・1933年(昭和8) 日本鉄鋼協会香村賞を受賞する
・1934年(昭和9) 強磁性合金を発明して特許を取得し、「MK磁石(MK鋼:MK磁石鋼)」と名付ける
・1937年(昭和12) 紺綬褒章を受章する
・1938年(昭和13) 帝国発明協会恩賜賞を受賞、東京帝国大学教授となる(~1953年)
・1939年(昭和14) 科学審議会委員、自動車技術審議会委員に選任される
・1940年(昭和15) 社団法人 発明協会理事に選任される(~1966年)
・1941年(昭和16) 日本学術振興会小委員会委員長に選任される
・1942年(昭和17) 勲三等瑞宝章を受章、科学技術審議会委員に選任される(~1948年)
・1943年(昭和18) 造幣局研究顧問に選任される
・1944年(昭和19) 戦時研究員に選任される
・1945年(昭和20) 「特殊鋼殊に MK磁石鋼の研究」により帝国学士院恩賜賞を受賞する
・1947年(昭和22) 社団法人日本鉄鋼協会会長に選任される
・1948年(昭和23) 日本学術会議会員となる
・1949年(昭和24) 日本学士院会員、社団法人日本金属学会会長に選任される
・1950年(昭和25) 藍綬褒章、文化勲章を受章、千葉工業大学理事に就任する
・1951年(昭和26) 文化功労者となり、アメリカでの第一回世界冶金学会議に日本代表として出席する
・1953年(昭和28) 東京大学を退官し、名誉教授、日本金属学会名誉会員となり、フランスでの国際鋳物学会に日本代表として出席する
・1954年(昭和29) 社団法人日本鋳物協会会長、航空技術審議会委員となる
・1955年(昭和30) 日本鉄鋼協会製鉄功労賞を受賞する
・1956年(昭和31) 日本電子力研究所参与、日本原子力委員会参与に選任される(~1975年)
・1957年(昭和32) アメリカ金属学会アルバート・ソーバー功労賞を受賞する
・1958年(昭和33) 日本鉄鋼協会表彰を受賞、工業技術協議会委員、産業合理化審議会委員となる
・1959年(昭和34) 科学技術庁参与、金属材料研究連絡委員会会長となる
・1960年(昭和35) 日本熱処理技術協会会長となる
・1961年(昭和36) 新技術開発事業団開発審議会会長となり、日本金属学会賞を受賞、日本鉄鋼協会名誉会長となる
・1962年(昭和37) イタリア金属学会ルイジ・ロサーナ賞を受賞する
・1964年(昭和39) 発明奨励審議会会長、中小企業近代化審議会専門委員英国鉄鋼協会名誉会員、フランス金属学会名誉会員となる
・1966年(昭和41) 勲一等瑞宝章を受章する
・1967年(昭和42) 日本鉄鋼協会本多記念賞を受賞する
・1973年(昭和48) 第二回日本産業技術大賞を受賞する
・1974年(昭和49) 社団法人発明協会より感謝状を受ける
・1975年(昭和50)11月19日 東京において、82歳でなくなり、勲一等旭日大綬章を追贈される
・1985年(昭和60) 工業所有制度百周年記念行事委員会から日本の発明家10傑の1人に選ばれる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)京阪電気鉄道株式会社が設立される詳細
1947年(昭和22)「農業協同組合法」が公布される詳細
1956年(昭和31)米原~京都の電化により東海道本線の全線電化が完成する詳細
東京駅~博多駅間の夜行特急あさかぜが運行開始される詳細
1993年(平成5)「環境基本法」が公布・施行される詳細
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 今日は、昭和時代後期の1983年(昭和58)に、農業経済学者・農政家東畑精一の亡くなった日です。
 東畑精一(とうばた せいいち)は、明治時代後期の1899年(明治32)2月2日に、三重県一志郡豊地村(現在の松阪市)の地主だった父・東畑吉之助、母・よしの長男として生まれました。三重県立第一中学校を経て、1919年(大正8)に旧制第八高等学校第二部丙類を卒業後、東京帝国大学農学部に入学して、農業経済学を専攻します。
 1922年(大正11)に大学卒業後、同大学農学部助手となり、1924年(大正13)には、大学院を経て助教授に昇進しました。1926年(大正15)に、アメリカ・ドイツ留学に出発、ボン大学で J.A.シュンペーターに師事、そこで中山伊知郎と出会います。
 1930年(昭和5)に留学先から帰国、1933年(昭和8)に東京帝国大学農学部教授となり、1937年(昭和12)には、『日本農業の展開過程』で東京帝国大学から農学博士号を取得しました。1939年(昭和14)に中央物価委員会委員、翌年に物価対策審議会幹事・価格中央形成委員会委員などになりながら、太平洋戦争中までは主に学究面で活躍します。
 戦後は、農業総合研究所所長(1946~56年)、アジア経済研究所所長(1960~68年)、税制調査会会長(1965~74年)など多くの調査研究機関、政策関係委員会の要職を歴任し、日本社会に多方面で大きな影響を与えました。一方で、シュンペーターの著作の『経済学史』(1950年)、『経済分析の歴史』全7巻(1954年)などを翻訳出版し、『日本資本主義の形成者』(1964年)等を刊行して、日本の資本主義や農業問題に独自の解明を行ないます。
 これらの功績によって、1964年(昭和39)に日本学士院会員、1968年(昭和43)にマグサイサイ賞(フィリピン)、1970年(昭和45)に文化功労者、1975年(昭和50)に勲一等旭日大綬章など数々の栄誉に輝きました。1980年(昭和55)には文化勲章も受章しましたが、1983年(昭和58)5月6日に、東京において、84歳で亡くなっています。

〇東畑精一の主要な著作

・『協同組合と農業問題』那須皓との共著(1932年)
・『朝鮮米穀経済論』大川一司との共著(1935年)
・『日本農業の展開過程』(1936年)
・翻訳シュンペーター作『経済発展の理論』中山伊知郎との共訳(1937年)
・『農村問題の諸相』(1938年)
・『米』(1940年)
・『日本農業の課題』(1941年)
・『一農政学徒の記録』(1947年)
・『農地をめぐる地主と農民』(1947年)
・翻訳シュンペーター作『経済学史』』中山伊知郎との共訳(1950年)
・翻訳シュンペーター作『経済分析の歴史』全7巻(1954年)
・『日本資本主義の形成者』(1964年)
・『私の履歴書』(1979年)
・『日本農業発達史』

☆東畑精一関係略年表

・1899年(明治32)2月2日 三重県一志郡豊地村(現松阪市)の地主だった父・東畑吉之助、母・よしの長男として生まれる
・1919年(大正8) 旧制第八高等学校第二部丙類を卒業する
・1922年(大正11) 東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業する
・1923年(大正12) 東京帝国大学農学部助手となる
・1924年(大正13) 大学院を経て東京帝国大学農学部助教授となる
・1926年(大正15) アメリカ・ドイツ留学に出発する
・1930年(昭和5) 留学先から帰国する
・1933年(昭和8) 東京帝国大学農学部教授となる
・1936年(昭和11) 昭和研究会常任委員となる
・1937年(昭和12) 『日本農業の展開過程』で東京帝国大学から農学博士号を取得する
・1939年(昭和14) 中央物価委員会委員(~1940年)となり、経済学部教授を兼任(~1945年)する
・1940年(昭和15) 物価対策審議会幹事・価格中央形成委員会委員となる
・1942年(昭和17) 比島軍政監部顧問村田省蔵から比島調査委員会委員に任命され翌年訪比する
・1946年(昭和21) 第1次吉田内閣組閣に際し吉田から農相就任を請われるが固辞、農林省農業総合研究所初代所長(~1956年)とな
・1949年(昭和24) 米価審議会会長となる
・1950年(昭和25) シュンペーター作『経済学史』(中山伊知郎との共訳)を翻訳出版する
・1953年(昭和28) フィリピン賠償全権団団員となる
・1954年(昭和29) シュンペーター作『経済分析の歴史』全7巻を翻訳出版する
・1957年(昭和32) 経済審議会委員・国民生活審議会会長となる
・1958年(昭和33) 第2次岸内閣で移動大使に任命されエジプト・エチオピア・インドを歴訪、代表を務める『農業発達史調査会』が朝日賞を受賞する
・1959年(昭和34) 東京大学を退官、第一生命都市開発研究所農村計画担当顧問、農業基本問題調査会会長・税制調査会会長となる
・1960年(昭和35) アジア経済研究所初代所長に就任(~1967年)する
・1961年(昭和36) 農政審議会会長となる
・1962年(昭和37) 日経経済図書文化賞を受賞する
・1964年(昭和39) 日本学士院会員となる
・1968年(昭和43) アジア経済研究所所長退任後同会長に就任(のち顧問)、マグサイサイ賞(フィリピン)を受賞する
・1970年(昭和45) 文化功労者となる
・1971年(昭和46) NHK放送文化賞を受賞する
・1975年(昭和50) 勲一等旭日大綬章を受章する
・1980年(昭和55) 文化勲章を受章する
・1983年(昭和58)5月6日 東京において、84歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

763年(天平宝字7)唐代の高僧・日本律宗の開祖鑑真の命日(新暦6月25日)詳細
1408年(応永15)室町幕府3代将軍足利義満の命日(新暦5月31日)詳細
1909年(明治42)新聞紙法」が公布される詳細
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 今日は、平成時代の2005年(平成17)に、建築家・都市計画家・工学博士丹下健三の亡くなった日です。
 丹下健三(たんげ けんぞう)は、大正時代の1913年(大正2)9月4日に、大阪府堺市において、住友銀行社員であった父・丹下辰世(ときよ)と母・テイ(禎・禎子)の三男としてに生まれました。幼少時は中国の上海の租界で過ごし、1920年(大正9)に父の出身地である愛媛県今治市に家族で移住します。
 旧制今治中学(現在の今治西高校)を経て、1930年(昭和5)に旧制広島高校(現在の広島大学)理科甲類に進学しました。建築家を志して、2度の受験失敗後、1935年(昭和10)に東京帝国大学工学部建築科へ入学、ル・コルビュジエやグロピウスらのモダニズムから影響を受けます。
 1938年(昭和13)に大学卒業後、前川國男建築事務所に入所、1941年(昭和16)にはね東京帝国大学大学院に入学し、高山英華の研究室に入りました。1942年(昭和17)に大東亜建設記念造営計画設計競技に1等入選し、1946年(昭和21)に大学院修了後、同大学建築科助教授に就任します。
 1950年(昭和25)に広島平和公園の設計で注目され、翌年には、CIAM(国際近代建築会議)に招かれ、初めて国外旅行し、ロンドンで広島計画を発表しました。1954年(昭和29)に愛媛県民館、翌年に図書印刷原町工場の設計で、日本建築学会作品賞を連続受賞、1957年(昭和32)には、旧東京都庁舎を設計、サンパウロ国際ビエンナーレ建築部門審査員となります。
 1959年(昭和34)に博士論文「大都市の地域構造と建築形態」で、東京大学より工学博士の学位を受け、マサチューセッツ工科大学客員教授(~1960年)ともなり、1961年(昭和36)には、丹下健三+都市・建築設計事務所を開設しました。1963年(昭和38)に新設された東京大学工学部都市工学科教授に就任、1964年(昭和39)に東京カテドラル聖マリア大聖堂を設計、1965年(昭和40)には国立屋内総合競技場の設計で、日本建築学会特別賞受賞、またイギリスRIBAゴールドメダルも受賞します。
 1966年(昭和41)にアメリカ合衆国AIAゴールドメダルを受賞、1970年(昭和45)に日本万国博覧会マスタープランを作成、ローマ法王庁聖グレゴリオ大勲章を受章、1973年(昭和48)には、フランス建築アカデミーゴールドメダルを受賞しました。1974年(昭和49)に東京大学を定年退官、名誉教授となりましたが、1976年(昭和51)に西ドイツ政府プール・ル・メリット勲章、1979年(昭和54)にナイジェリア新首都都心計画作成、イタリア国家有功勲章コメンダトーレ章、1980年(昭和55)に文化勲章、1984年(昭和59)にフランス芸術文化勲章コマンドール章、1986年(昭和61)に日本建築学会大賞を受賞するなど国際的に数々の栄誉に輝きます。
 その後も、1987年(昭和62)にアメリカ合衆国プリツカー賞受賞、新日本建築家協会(現在の社団法人日本建築家協会)初代会長(1988年まで)となり、1991年(平成3)に新東京都庁舎を設計、1996年(平成8)にフランスレジオンドヌール勲章受章など晩年まで活躍したものの、2005年(平成17)3月22日に、東京都港区において、91歳で亡くなりました。

〇丹下健三の主要な建築作品

・丹下健三邸(1953年)
・広島平和記念資料館(1955年)
・旧東京都庁舎(1957年)
・駿府(すんぷ)会館(1957年)
・香川県庁舎(1958年)
・国立屋内総合競技場(1964年)
・東京カテドラル聖マリア大聖堂(1964年)
・静岡新聞・静岡放送本社(1970年)
・シンガポールOUBセンター(1986年)
・横浜美術館(1989年)
・新東京都庁舎(1991年)
・フジテレビ本社ビル(1996年)

〇丹下健三の主要な著作

・『桂――日本建築における伝統と創造』(1960年)
・『伊勢――日本建築の原形』(1962~65年)
・『丹下健三 1946~1969――建築と都市』(1970年)
・『21世紀の日本――その国土と国民生活の未来像』(1971年)

☆丹下健三関係略年表

・1913年(大正2)9月4日 大阪府堺市において、住友銀行社員であった父・丹下辰世(ときよ)と母・テイ(禎・禎子)の三男としてに生まれる
・1918年(大正7) 中国上海の日本尋常小学校へ入学する
・1920年(大正9) 父の出身地である愛媛県今治市に家族で移住、今治の第二尋常小学校(現・今治市立吹揚小学校)に編入する
・1926年(大正15) 旧制今治中学(現在の今治西高校)へ入学する
・1930年(昭和5) 今治中学四年修了(飛び級)で旧制広島高校(現在の広島大学)理科甲類に進学する
・1933年(昭和8) 東京帝国大学建築科の受験に失敗する
・1934年(昭和9) 東京帝国大学建築科の受験に再度失敗する
・1938年(昭和13) 東京帝国大学工学部建築科より辰野賞を受賞、東京帝国大学工学部建築科卒業後、前川國男建築事務所に入所する
・1941年(昭和16) 東京帝国大学大学院に入学し、高山英華の研究室に入る
・1942年(昭和17) 大東亜建設記念造営計画設計競技に1等入選する
・1946年(昭和21) 東京帝国大学大学院修了後、同大学建築科助教授に就任、「丹下研究室」を作る
・1950年(昭和25) 広島平和公園の設計で注目される
・1951年(昭和26) CIAM(国際近代建築会議)に招かれ、ロンドンで広島計画を発表、初めての日本国外旅行となる
・1954年(昭和29) 日本建築学会作品賞(愛媛県民館)を受賞する
・1955年(昭和30) 日本建築学会作品賞(図書印刷原町工場)を受賞、広島平和記念資料館の設計で注目される
・1957年(昭和32) 旧東京都庁舎を設計、サンパウロ国際ビエンナーレ建築部門審査員となる
・1958年(昭和33) 香川県庁舎を設計、日本建築学会作品賞(倉吉市庁舎)を受賞、アメリカ合衆国建築家協会(AIA)第1回汎太平洋賞を受賞する
・1959年(昭和34) 博士論文「大都市の地域構造と建築形態」で、東京大学より工学博士の学位を受ける、マサチューセッツ工科大学客員教授(~1960年)となる
・1961年(昭和36) 丹下健三+都市・建築設計事務所を開設する
・1963年(昭和38) 新設された東京大学工学部都市工学科教授に就任する
・1964年(昭和39) 国立屋内総合競技場、東京カテドラル聖マリア大聖堂を設計する
・1965年(昭和40) 日本建築学会特別賞(国立屋内総合競技場)、イギリスRIBAゴールドメダルを受賞する
・1966年(昭和41) アメリカ合衆国AIAゴールドメダルを受賞する
・1970年(昭和45) 日本万国博覧会マスタープランを作成、ローマ法王庁聖グレゴリオ大勲章を受章する
・1973年(昭和48) フランス建築アカデミー ゴールドメダルを受賞する
・1974年(昭和49) 東京大学を定年退官、名誉教授となる
・1976年(昭和51) 西ドイツ政府プール・ル・メリット勲章を受章する
・1979年(昭和54) ナイジェリア新首都都心計画作成、イタリア国家有功勲章コメンダトーレ章を受章する
・1980年(昭和55) 文化勲章を受章する
・1984年(昭和59) フランス芸術文化勲章コマンドール章を受章する
・1986年(昭和61) 日本建築学会大賞(日本における現代建築の確立と国際的発展への貢献)を受賞する
・1987年(昭和62) アメリカ合衆国プリツカー賞受賞、新日本建築家協会(現在の社団法人日本建築家協会)初代会長(1988年まで)となる
・1991年(平成3) 新東京都庁舎を設計する
・1993年(平成5) 高松宮殿下記念世界文化賞建築部門を受賞する
・1994年(平成6) 勲一等瑞宝章を受章する
・1996年(平成8) フランスレジオンドヌール勲章を受章する
・2005年(平成17)3月22日 東京都港区において、91歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

646年(大化2)薄葬令」が発布される(新暦4月12日)詳細
1943年(昭和18)童話作家新見南吉の命日詳細
2007年(平成19)小説家・経済学者城山三郎の命日詳細
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kotanimasao01

 今日は、明治時代後期の1906年(明治39)に、分子物理学者・生物物理学者小谷正雄の生まれた日です。
 小谷正雄(こたに まさお)は、京都府京都市で、父・田哲と母・ふきの子として生まれましたが、父が小谷家に婿養子に入ったため、小谷姓を名乗ることとなりました。第一高等学校を経て、東京帝国大学理学部物理学科で学び、1929年(昭和4)に卒業後、東京帝大工学部講師となります。
 1932年(昭和8)に東京帝国大学理学部助教授となり、1938年(昭和13)には、「分子エネルギー計算のための積分表」を発表、世界的に高い評価を得ました。1943年(昭和18)に東京帝国大学理学部教授となり、1944年(昭和19)に理学博士、1948年(昭和23)には、「磁電管の発振機構と立体回路の理論的研究」で日本学士院賞を受賞します。
 1951年(昭和26)に京都大学教授を兼任、1957年(昭和32)に東京大学理学部長に就任、1960年(昭和35)には日本生物物理学会を創設しました。1965年(昭和40)に東京大学教授を退任し、大阪大学基礎工学部教授となり、1966年(昭和41)に「分子構造の量子力学的理論」で東レ科学技術賞を受賞、1970年(昭和45)には、東京理科大学長となります。
 その後、1974年(昭和49)に「分子物理学および生物物理学の基礎的研究」で第16回藤原賞、1976年(昭和51)に勲二等旭日重光章、1977年(昭和52)に文化功労者、1980年(昭和55)には文化勲章を受章するなど数々の栄誉を得ました。1982年(昭和57)に東京理科大学長を辞めたものの、1993年(平成5)6月6日に、東京において、87歳で亡くなっています。

〇小谷正雄の主要な著作

・『原子分子の量子力學』
・『生物物理』寺本 英、右衛門佐重雄との共著
・『電磁氣學』
・『放射線物性』
・『量子化學 : 化學反應の理論』
・『量子化學 : 原子價の理論』
・『理論熱学』寺沢 寛一との共著

☆小谷正雄関係略年表

・1906年(明治39)1月14日 京都府京都市で、父・田哲と母・ふきの子として生まれる
・1929年(昭和4) 東京帝国大学理科大学物理学科を卒業、東京帝大工学部講師となる
・1932年(昭和8) 東京帝国大学理学部助教授となる
・1938年(昭和13) 「分子エネルギー計算のための積分表」を発表する
・1943年(昭和18) 東京帝国大学理学部教授となる
・1944年(昭和19) 理学博士となる
・1948年(昭和23) 「磁電管の発振機構と立体回路の理論的研究」で日本学士院賞を受賞する
・1951年(昭和26) 京都大学教授を兼任する
・1957年(昭和32) 東京大学理学部長に就任する
・1960年(昭和35) 日本生物物理学会を創設する
・1965年(昭和40) 東京大学教授を退任し、大阪大学基礎工学部教授となる
・1966年(昭和41) 「分子構造の量子力学的理論」で東レ科学技術賞を受賞する
・1970年(昭和45) 東京理科大学長となる
・1974年(昭和49) 「分子物理学および生物物理学の基礎的研究」で第16回藤原賞を受賞する
・1976年(昭和51) 勲二等旭日重光章を受章する
・1977年(昭和52) 文化功労者となる
・1980年(昭和55) 文化勲章を受章する
・1982年(昭和57) 東京理科大学長を辞める 
・1993年(平成5)6月6日 東京において、87歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1602年(慶長7)江戸時代前期に活躍した絵師狩野探幽の誕生日(新暦3月7日)詳細
1866年(慶応2)兵法家・砲術家・高島流砲術の創始者高島秋帆の命日(新暦2月28日)詳細
1953年(昭和28)人類学者・考古学者・民族学者鳥居龍蔵の命日詳細
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