
しかし、同年11月15日に、神田相生町からの出火により類焼してしまい、 伊東玄朴の家などで業務を継続することとなりました。1859年(安政6年9月)に種痘所を下谷和泉橋通りに新築移転、1860年(万延元年10月)には、幕府直轄の種痘所となり、翌年10月28日には、西洋医学所と改称し、大槻俊斎が初代頭取となり、教育・解剖・種痘の3科に分かれ西洋医学を講習する所となります。
第2代頭取の緒方洪庵のときに医学所と改称され、第3代頭取松本良順に至って学制がようやく整い、理化学、解剖学、生理学、病理学、薬剤学、内科、外科の医学7科を定めました。しかし、戊辰戦争で閉鎖され、1868年(明治元)には、明治新政府の所轄となります。
その後、1869年(明治2)に大学東校、1872年(明治5年8月)に学制が布がれると第一大学区医学校、1874年(明治7年)には、東京医学校と改称され、発展していきました。1876年(明治9)に本郷に移転、1877年(明治10)には、東京開成学校と合併し東京大学となり、その医学部となって、現在に至っています。