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 今日は、室町時代の1415年(応永22)に、僧侶・浄土真宗中興の祖蓮如の生まれた日ですが、新暦では4月13日となります。
 蓮如(れんにょ)は、京都東山の本願寺(現在の知恩院塔頭崇泰院(そうたいいん)付近)にて、本願寺第7世存如の長子(母・存如)として生まれましたが、諱は兼寿と言いました。
 6歳のとき母に別れ、衰微した本願寺で困窮のうちに成長し、15歳で一宗再興の志をおこします。1431年(永享3)、17歳のとき中納言広橋兼郷の猶子となって青蓮院で得度して尊応に学び、大和興福寺大乗院の門跡経覚について修学し、次いで大谷の草庵で宗義をきわめました。
 1447年(文安4)に父と共に関東に下り、親鸞の遺跡を巡拝し、1449年(宝徳元)35歳のとき、父と共に北陸から関東・東北を巡化します。1457年(長禄元)に、父の死去に伴い本願寺第8代を継ぎますが、比叡山延暦寺のねたみをかい、1465年(寛正6)には本願寺を破却されました。
 近江の金森、堅田、大津を転々とし、1468年(応仁2)から北陸・東国の諸国を巡錫し、1471年(文明3)には越前の吉崎に道場(吉崎御坊)を開いて住まいます。「御文(おふみ)」をしたためて、北陸一帯の教化に努め、一向宗教団を形成し、後に加賀一国は門徒領国化することになりました。
 1475年(文明7)には吉崎を退去し、畿内に戻りましたが、この間に一向一揆が勃発をみます。1483年(文明15)には山城の山科(現在の京都府京都市山科区)に本願寺が落成し、ここを拠点として本願寺教団の再興を成し遂げました。
 1489年(延徳元)に退隠し、五男の実如に本願寺住持職を譲ったのち、摂津石山に坊舎を造営(後の石山本願寺)して住まいます。また、著書として『正信偈大意』、『御文(御文章)』、『領解文』などを書きましたが、死に際し山科本願寺に帰参し、1499年(明応8年3月25日)に数え年85歳で亡くなりました。

〇蓮如の主要な著作

・『正信偈大意』
・『御文(御文章)』
・『領解文』
・言行録『蓮如上人御一代記聞書』

☆蓮如関係略年表(日付は旧暦です)

・1415年(応永22年2月25日) 京都東山で本願寺第7世存如の長子(母・存如)として生まれる
・1431年(永享3年) 中納言広橋兼郷の猶子となって青蓮院で得度して尊応に学ぶ
・1447年(文安4年) 父と共に関東に下り、親鸞の遺跡を巡拝する
・1449年(宝徳元年) 父と共に北陸から関東・東北を巡化する
・1457年(長禄元年) 父の死去に伴い本願寺第8代を継ぐ
・1465年(寛正6年1月8日) 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定する
・1465年(寛正6年1月9日) 比叡山延暦寺宗徒により本願寺を破却される
・1467年(文正2年3月) 延暦寺と和議を結ぶ
・1468年(応仁2年) 北陸・東国の諸国を巡錫する
・1469年(応仁3年) 三井寺の庇護のもとに大津南別所に顕証寺を建立する
・1471年(文明3年4月上旬) 越前国吉崎に赴く
・1471年(文明3年7月27日) 越前国吉崎に道場(吉崎御坊)を建立する
・1475年(文明7年) 越前国吉崎を退去し、畿内に戻る
・1478年(文明10年1月29日) 山城国山科に坊舎の造営を開始する
・1483年(文明15年8月22日) 山城国山科(現在の京都府京都市山科区)に本願寺が落成する
・1486年(文明18年) 紀伊に下向する
・1488年(長享2年6月9日) 加賀一向一揆が決起し、守護富樫政親を高尾城で自刃に追い込む
・1489年(延徳元年) 退隠し、五男の実如に本願寺住持職を譲る
・1496年(明応5年9月) 摂津国石山に坊舎を造営(後の石山本願寺)して住まう
・1499年(明応8年2月20日) 死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参する
・1499年(明応8年3月25日) 山科本願寺において数え年85歳で亡くなる