ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:本多光太郎

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 今日は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、長岡半太郎、本多光太郎、幸田露伴、横山大観らに初の文化勲章が授与された日です。
 文化勲章(ぶんかくんしょう)は、科学・文芸など文化の発達にすぐれた功績をあげた者に授与される勲章として制定されました。他の勲章のような等級はなく、称号とも結びつかず、当初は年金も伴なわないもので、不定期に発令されていましたが、1949年(昭和24)以降は、原則として毎年1回、11月3日の「文化の日」に授与されるようになります。
 しかし、1951年(昭和26)に、「文化功労者年金法」が制定されてからは、文化勲章受章者は同時に文化功労者として「文化功労年金」を受けるのが例になりました。勲章は、賞勲局よび造幣局の嘱託であった東京高等工芸学校教授の畑正吉がデザインし、橘たちばなに勾玉まがたまを配した形で、綬じゅ(リボン)は淡紫色とされています。
 現在は、文化審議会の意見を聞いた上で、文部科学大臣が選考し、内閣総理大臣に推薦を行い、閣議決定によって、天皇から直接手渡されるようになりました。

〇第1回の文化勲章受章者 1937年(昭和12)4月28日授与

・長岡半太郎(物理学)
・本多光太郎(金属物理学)
・木村栄(地球物理学)
・佐佐木信綱(和歌・和歌史)
・幸田露伴(小説)
・岡田三郎助(洋画)
・藤島武二(洋画)
・竹内栖鳳(日本画)
・横山大観(日本画)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1177年(安元3) 京都で安元の大火(太郎焼亡)が起きる(新暦6月3日) 詳細
1876年(明治9) 松本市の和洋折衷建築の小学校・旧開智学校(国宝)で上棟式が行われる 詳細
1919年(大正8) 横浜大正8年「埋地の大火」が起き、3,248戸を焼失する 詳細
1948年(昭和23) 「夏時刻法」(サマータイム法)が公布・施行される 詳細
1949年(昭和24) 内閣から「当用漢字字体表」が告示され、「当用漢字表」の字体を規定、略字が大幅に採用される 詳細
1952年(昭和27)  「日米安全保障条約」(旧)が発効する 詳細
日本と中華民国の間で「日華平和条約」が調印(同年8月5日発効)され、日中戦争が正式に終了する 詳細
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 今日は、昭和時代中期の1954年(昭和29)に、物理学者・冶金学者本多光太郎が亡くなった日です。
 本多光太郎(ほんだ こうたろう)は、明治時代前期の1870年(明治3年2月23日)に、三河国碧南郡新堀村(現在の岡崎市新堀町字大庭)において、農業を営む父・本多兵三郎の三男として生まれました。1885年(明治18)に随念寺高等小学校を卒業後、1887年(明治20)に上京し、大学予備門を経て、1889年(明治22)には、第一高等中学校へ入学します。
 1894年(明治27)に東京帝国大学理科大学物理学科へ進学し、地球物理学・磁気学等を専攻、1897年(明治30)に卒業後、大学院へ進み、長岡半太郎の指導下で強磁性金属の磁化、応力、ひずみの相互関係について研究しました。1901年(明治34)に東京帝国大学理科大学物理学科講師となり、1906年(明治39)に理学博士の学位を得て、翌年からドイツ・イギリスに留学、物理学の研究に没頭します。
 1911年(明治44)に帰国後、東北帝国大学理科大学開設時に物理学科教授となり、1915年(大正4)には、加熱しながら化学反応の測定ができる本多式熱天秤を開発しました。1916年(大正5)に臨時理化学研究所第二部研究主任となり、高木弘と共にKS鋼を発明、鉄に関する研究で、帝国学士院賞を受賞、翌年には、従五位となります。
 1919年(大正8)に東北帝国大学附属鉄鋼研究所初代所長に就任、1922年(大正11)に東北帝国大学附属金属材料研究所初代所長に就任、英国鉄鋼協会ベッセマー賞を受賞、帝国学士院会員となり、1924年(大正13)には、米国金属学会名誉会員ともなりました。1931年(昭和6)に東北帝国大学総長に就任、米国フランクリン協会エリオット・クレッソン・メダルを授与され、1933年(昭和8)にドイツ、ゲッティンゲン大学名誉理学博士となり、1934年(昭和9)には、KS磁石鋼より更に強力な新KS鋼を発明します。
 1937年(昭和12)に日本金属学会設立に尽力して初代会長となり、第1回文化勲章を受章、1940年(昭和15)に東北帝国大学総長を退任、名誉教授となり、興亜工業大学(現在の千葉工業大学)設立に参画、正三位となり、勲一等瑞宝章を受章しました。1944年(昭和19)に金属材料研究所長事務取扱として戦時研究を指導、1949年(昭和24)に東京理科大学初代学長に就任、仙台名誉市民となり、1951年(昭和26年)には。文化功労者に選ばれています。
 1953年(昭和28)に東京理科大学学長を辞めましたが、1954年(昭和29年)2月12日に、東京都において、83歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈されました。尚、1956年(昭和31)に、その業績を記念する財団法人本多記念会が発足、金属に関する優れた研究に贈る本多記念賞が設けられています。

〇本多光太郎の主要な著作

・『物理学本論』
・『新制物理学本論』(上・下)

☆本多光太郎関係略年表

・1870年(明治3年2月23日) 三河国碧南郡新堀村(現在の岡崎市新堀町字大庭)において、農業を営む父・本多兵三郎の三男として生まれる
・1877年(明治10年) 桑子小学校に入学する
・1881年(明治14年) 桑子尋常小学校を卒業し、随念寺の高等小学校に進学しましたが、学校嫌いで成績も悪かった
・1885年(明治18年) 随念寺高等小学校を卒業する
・1887年(明治20年) 上京し、大学予備門に入学する
・1889年(明治22年) 第一高等中学校へ入学する
・1894年(明治27年) 東京帝国大学理科大学物理学科へ入学、地球物理学・磁気学等を専攻する
・1897年(明治30年) 東京帝国大学理科大学物理学科を卒業後、大学院へ進む
・1901年(明治34年) 東京帝国大学理科大学物理学科講師となる
・1906年(明治39年) 理学博士の学位を得る
・1907年(明治40年) ドイツ・イギリスに留学、物理学の研究に没頭する
・1911年(明治44年) 帰国後、東北帝国大学理科大学開設時に物理学科教授となる
・1915年(大正4年) 加熱しながら化学反応の測定ができる本多式熱天秤を開発する
・1916年(大正5年) 臨時理化学研究所第二部研究主任となり、高木弘と共にKS鋼を発明、鉄に関する研究で、帝国学士院賞を受賞する
・1917年(大正6年) 従五位となる
・1919年(大正8年) 東北帝国大学附属鉄鋼研究所初代所長に就任する
・1922年(大正11年) 東北帝国大学附属金属材料研究所初代所長に就任、英国鉄鋼協会ベッセマー賞を受賞、帝国学士院会員となる
・1924年(大正13年) 米国金属学会名誉会員となる
・1931年(昭和6年) 東北帝国大学総長に就任、米国フランクリン協会エリオット・クレッソン・メダルを得る
・1933年(昭和8年) ドイツ、ゲッティンゲン大学名誉理学博士となる
・1934年(昭和9年) KS磁石鋼より更に強力な新KS鋼を発明する
・1937年(昭和12年) 日本金属学会設立に尽力して初代会長となり、第1回文化勲章を受章する
・1940年(昭和15年) 東北帝国大学総長を退任、名誉教授となり、興亜工業大学(現在の千葉工業大学)設立に参画、正三位となり、勲一等瑞宝章を受章する
・1944年(昭和19年) 金属材料研究所長事務取扱として戦時研究を指導する
・1949年(昭和24年) 東京理科大学初代学長に就任、仙台名誉市民となる
・1951年(昭和26年) 文化功労者に選ばれる
・1953年(昭和28年) 東京理科大学学長を辞める
・1954年(昭和29年)2月12日 東京都において、83歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈される
・1956年(昭和31年) 業績を記念する財団法人本多記念会が発足、金属に関する優れた研究に贈る本多記念賞が設けられる
・1961年(昭和36年) 岡崎市名誉市民となる
・1985年(昭和60年) 工業所有権制度100周年記念行事委員会により、日本の発明家10傑の1人に選ばれる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

729年(神亀6)長屋王が謀叛の疑いで邸宅を包囲され自害する(新暦3月16日)詳細
1231年(寛喜3)第87代の天皇とされる四条天皇の誕生日(新暦3月17日)詳細
1386年(至徳3/元中3)室町幕府第4代将軍足利義持の誕生日(新暦3月12日)詳細
1823年(文政6)写真業創始者・写真家・画家下岡蓮杖の誕生日(新暦3月24日)詳細
1889年(明治22)黒田清隆内閣総理大臣が鹿鳴館において、地方長官らに対し超然主義演説をする詳細
1996年(平成8)小説家司馬遼太郎の命日詳細
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