ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:木戸孝允

oosakakaigi01
 今日は、明治時代前期の1875年(明治7)に、大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪で会談(大阪会議)し政治改革について協定した日です。
 大阪会議(おおさかかいぎ)は、大阪において、政府の要職にあった参議大久保利通と参議伊藤博文らと、先に「征韓論」、「台湾事件」をめぐる政府内の対立が原因で下野していた板垣退助、木戸孝允らが相会して政見を交換した会議で、1月から続けられていた個別会談までを含む場合もあります。明治6年の政変後、政府中枢を担ったのは、岩倉具視と大久保利通でしたが、在野の板垣退助、木戸孝允との間には緊張関係が続いていたものの、これを憂慮する井上馨、伊藤博文の仲介により行われました。
 この会議では、①太政大臣・左右両大臣・参議で構成される政府の下に、立法府たる「元老院」、司法府たる「大審院」を設け、行政府たる各省とともに三権分立の体裁をとり漸次立憲政体を樹立すること、②元老院を上院に擬し、下院に当たるものとして「地方官會議」を設け、将来に議会を開設する準備を整えることが合意され、木戸孝允と板垣退助の参議への復帰が決定しています。この会談の過程で、「政府改革図案」および「大阪会議申合草案」、「大阪会議申合草案追加」が作成されました。
 この合意に基づき、同年4月14日に、漸進主義による三権分立の確立を図る旨を明らかにした「立憲政體樹立の詔」(明治8年4月14日太政官第58号布告)が発布されます。これにより、太政官の左右両院が廃止され、新たに「元老院」及び「大審院」が設置され、既に設置されていた「地方官會議」が実施されることとなりました。
 以下に、「立憲政體樹立の詔」(明治8年4月14日太政官第58号布告)を現代語訳付で掲載しておきますから、ご参照下さい。

〇「立憲政体の詔書」(明治8年4月14日太政官第58号布告)1875年(明治8年)4月14日発布

(原文)

朕󠄂卽位ノ初首トシテ群臣ヲ會シ五事ヲ以テ神󠄀明ニ誓ヒ國是ヲ定メ萬民保全󠄁ノ道󠄁ヲ求ム幸ニ祖󠄁宗ノ靈ト群臣ノ力トニ賴リ以テ今日ノ小康ヲ得タリ顧󠄁ニ中興日淺ク內治ノ事當ニ振作更󠄁張スヘキ者󠄁少シトセス朕󠄂今誓文󠄁ノ意󠄁ヲ擴充シ茲ニ元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ廣メ大審院ヲ置キ以テ審判󠄁ノ權ヲ鞏クシ又地方官ヲ召集シ以テ民情󠄁ヲ通󠄁シ公󠄁益󠄁ヲ圖リ漸次󠄁ニ國家立憲󠄁ノ政體ヲ立テ汝衆庶ト俱ニ其慶ニ賴ント欲ス汝衆庶或ハ舊ニ泥ミ故ニ慣ルヽヿ莫ク又或ハ進󠄁ムニ輕ク爲スニ急󠄁ナルヿ莫ク其レ能ク朕󠄂カ旨ヲ體シテ翼󠄂贊スル所󠄁アレ
明治八年四月十四日

(現代仮名遣い・常用漢字・ひらがな)

朕、即位の初首として群臣を会し、五事を以て神明に誓ひ、国是を定め、万民保全の道を求む。幸に祖宗の霊と群臣の力とに頼り、以て今日の小康を得たり。顧に中興日浅く、内治の事当に振作更張すべき者少しとせず。朕、今誓文の意を拡充し、茲に元老院を設け以て立法の源を広め、大審院を置き以て審判の権を鞏くし、又地方官を召集し以て民情を通し公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、汝衆庶と倶に其慶に頼んと欲す。汝衆庶或は旧に泥み故に慣るること莫く、又或は進むに軽く為すに急なること莫く、其れ能朕が旨を体して翼賛する所あれ。
明治八年四月十四日

(現代語訳)

私は即位の初めに群臣を集めて五箇条の誓文を神々に誓い、国是を定め万民保全の道を求めた。幸いに先祖の霊と群臣の力とによって今日の落ち着きを得た。かえりみるに、再建の日は浅く、内政の事業には振興したり引締めたりすべき点が少なくない。私は今、五箇条の誓文の主意を拡充し、ここに元老院を設けて立法の源泉を広め、大審院を置いて審判権を確立し、また地方官を召集して民情を通じ公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、皆とともに喜びを分かちたい。皆も、守旧することもなく、また急進することもなく、よくよく私の主旨に従って補佐しなさい。
1875年(明治8年)4月14日

   「ウィキペディア」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1856年(安政3) 江戸幕府が洋学所を「蕃書調所」と改称する(新暦3月17日) 詳細
1883年(明治16) 日本画家小林古径の誕生日 詳細
1889年(明治22) 陸羯南を社長兼主筆として東京で日刊新聞「日本」が創刊される 詳細
1937年(昭和12) 「文化勲章令」が公布・施行され、文化の発展に業績のあった人に文化勲章を授与することが決まる 詳細
1942年(昭和17) 東条英機首相臨席のもと、日本少国民文化協会の発会式が、東京の情報局講堂で行われる 詳細
1945年(昭和20) ヤルタ会談で協議の上、米・英・ソ3ヶ国政府首脳によってヤルタ協定が結ばれる 詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

iwakurashisetsudanm0
 今日は、明治時代前期の1871年(明治4)に、岩倉使節団が欧米視察のために、横浜港を出航した日ですが、新暦では12月23日となります。
 岩倉使節団(いわくらしせつだん)は、右大臣岩倉具視を特命全権大使とし、参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通、工部大輔伊藤博文、外務少輔山口尚芳を副使として、欧米に派遣した使節団でした。総勢107名(使節46名、随員18名、留学生43名)で、1871年(明治4年11月12日)に横浜港を出港し、1873年(明治6年)9月13日に横浜港へ帰港するまで、約1年10ヶ月をかけて、米欧12ヶ国(アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア・ハンガリー、スイス)を歴訪しています。
 その目的は、①幕末条約締盟国への国書の捧呈、②条約改正予備交渉、③米欧各国の制度・文物の調査研究でした。しかし、アメリカでの条約改正交渉には失敗したものの、ヨーロッパの先進文明を摂取して帰国しています。
 尚、この使節団には、金子堅太郎、団琢磨、津田梅子らの留学生が随行し、各国に留学しました。

〇岩倉使節団の使節メンバー(46名)

<使節>
【特命全権大使】
・岩倉具視
【副使官】
・木戸孝允(桂小五郎)
・大久保利通
・伊藤博文
・山口尚芳
【一等書記官】
・田辺太一
・何礼之
・福地源一郎
【二等書記官】
・渡辺洪基
・小松済治
・林董三郎
・長野桂次郎 - 通詞
【三等書記官】
・川路寛堂
【四等書記官】
・安藤太郎
・池田政懋
・久米邦武
・中山信彬
・内海忠勝
・野村靖
・五辻安仲
【理事官】
・田中光顕
・東久世通禧
・山田顕義
・佐佐木高行
・田中不二麿
・肥田為良
【随行】
・村田新八
・由利公正
・原田一道
・長與專齋
・安場保和
・若山儀一
・阿部潜
・沖守固
・富田命保
・杉山一成
・吉雄永昌
・中島永元
・近藤鎮三
・今村和郎
・内村公平
・大島高任
・瓜生震
・岡内重俊
・中野健明
・平賀義質

☆岩倉使節団関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

<1871年>
・明治4年11月11日 裁判所にて晩餐会が行われ、各国在留公使、書記官が参会する
・明治4年11月12日 岩倉使節団が横浜港を出港する
・明治4年12月6日 アメリカのサンフランシスコの桟橋に到着する
・明治4年12月7日 グランド・ホテルに市長、海陸軍将士、各国公使が来訪する

<1872年>
・明治4年12月22日 グランド・ホテルを出発する
・明治5年1月18日 シカゴ駅に到着する
・明治5年1月21日 ワシントンに到着する
・明治5年1月25日 ホワイトハウスにてアメリカ大統領グラントに謁見する
・明治5年7月3日 郵船オリンパス号にて出港し、アメリカからイギリスへ向かう
・明治5年7月13日 アイルランドのクイーンズ・タウンに寄港する
・明治5年8月17日 イギリスのリヴァプールに到着する
・明治5年11月4日 ロンドンのウィンザー城でヴィクトリア女王と謁見する
・明治5年11月16日 イギリスのドーバーを出港し、フランスのカレーに到着、汽車でパリへ行く
・明治5年11月26日 フランスの大統領官邸(エリゼ宮殿)にて大統領ルイ・アドルフ・ティエールと謁見する

<1873年(明治6年)>
・2月17日 ベルギーのブリュッセルに到着する
・2月18日 ベルギー国王レオボルド2世に謁見する
・2月24日 オランダのバーグに到着する
・2月25日 オランダ国王ウィレム3世に謁見する
・3月9日 ドイツのベルリンに到着する
・3月11日 ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見する
・3月15日 ドイツ宰相ビスマルク主催の官邸晩餐会に参加する
・3月30日 ロシアのペテルブルグに到着する
・4月3日 ロシア皇帝アレクサンドル2世に謁見する
・4月18日 デンマークのコペンハーゲンに到着する
・4月19日 デンマーク国王クリスチャン9世、ルイーズ王妃に謁見する
・4月24日 スゥエーデンのストックホルムに到着する
・4月25日 スゥエーデン国王オスカル2世に謁見する
・5月11日 イタリアのローマに到着する
・5月13日 イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に謁見する
・6月3日 オーストリア・ハンガリーのウィーンに到着する
・6月8日 オーストリア・ハンガリー皇帝フランツ・ヨーゼフ、皇后に謁見する
・6月19日 スイスのチューリッヒに到着する
・6月21日 スイスの連邦院にて大統領に謁見する
・7月20日 マルセイユを郵船アウア号で出港し、帰国の途に就く
・7月27日 スエズ運河を通る
・8月1日 アデン港に寄港する
・8月9日 ゴール港に寄港する
・8月22日 ベトナムのサイゴンに寄港する
・8月27日 香港に寄港する
・9月2日 上海に寄港する
・9月13日 岩倉使節団が横浜港に帰国する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1898年(明治31)幕末の漂流民・幕臣・英語教育者・啓蒙家ジョン万次郎(中浜万次郎)の命日詳細
1945年(昭和20)GHQ「美術品、記念物、及文化的並に宗敎的地域、施設の保護に関する政策及手続に関する覚書」 が出る詳細
1946年(昭和21)「財産税法」が公布(施行は11月20日)される詳細
1986年(昭和61)小説家島尾敏雄の命日詳細
1988年(昭和63)詩人草野新平の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

saigoutakamori01
 今日は、明治時代前期の1873年(明治6)に、明治六年政変が起き、西郷隆盛が参議などを含む官職からの辞表を提出し、帰郷の途に就いた日です。
 明治六年政変(めいじろくねんせいへん)は、征韓論争により、明治新政府内が分裂した政変でした。明治維新以来、明治新政府は朝鮮に度々国交を求めたものの、朝鮮は排外鎖国政策をとっていて、拒否されたので、西郷隆盛や板垣退助らが征韓論(朝鮮侵略)を主張するようになります。
 これと、欧米視察から帰国した岩倉具視や大久保利通、木戸孝允らが主張する内治優先論(国内政治の優先)とが激しく対立することとなりました。その結果、征韓派は敗れて一斉に政府を去ることとなり、近衛の将士の辞職も相次ぎます。
 これ以後、大久保が政権を指導し、大久保政権と呼ばれることとなり、のちに征韓派は、自由民権派と士族反乱派に分化しました。翌年の佐賀の乱、台湾出兵、1877年(明治10)の西南戦争をはじめ、自由民権運動の隆盛など、その後の政局に大きな影響を与えることとなります。

〇明治六年政変関係略年表

<1872年(明治5)>
・9月12日 木戸派の大蔵大輔井上馨が大久保の洋行を提案し、大久保のみならず大納言岩倉具視・木戸といった実力者を加えた大使節団の派遣へと展開していった。
・11月7日 木戸らと留守政府の代表は洋行中に「大規模な内政改革は行わないこと」などを取り決めた12ヶ条の約定をとりかわした
・11月9日 会議で板垣が朝鮮に使節を送って開国を促し、応じなければ戦争に訴えるべきと主張したが、朝鮮問題には手を付けないことなどが合意された
・11月8日 宮古島島民遭難事件が発生し、台湾征討を主張する声が高まる
・11月11日 岩倉を代表とし、木戸・大久保・伊藤博文らも加わった使節団が出国する

<1873年(明治6)>
・1月19日 木戸・大久保に対して早期帰国の命令が下る
・4月 井上は正院を改革して大蔵省の権力を強めようともくろむ
・4月19日 新たな参議となったのは司法卿江藤新平・文部卿大木喬任・左院議長後藤象二郎という反大蔵省の人物ばかりであり、井上は参議となれず
・5月29日 大久保が帰国する
・5月31日 釜山に設置されていた大日本公館代表広津弘信より、朝鮮政府が日本人の密貿易を取り締まる布告の中で、日本に対する無礼な字があったと報告する
・7月23日 木戸が帰国したが留守政府の現状に激怒し、大久保同様政府への復帰をボイコットし、政府打倒を目指して裏面で活動を行なう
・7月末 西郷は三条に遣使を強く要求する
・7月29日 西郷は板垣宛書簡で、軍隊より先に使節を出せば朝鮮から「暴挙」「暴殺」に出るから「討つべきの名」が立つ、だから自分が使節になると主張する
・8月14日 西郷の板垣宛書簡でも先に使節を出すやり方で「はめ込」めば「必ず戦うべき機会」になる、だから西郷を死なせては可哀そうなどと思わないでほしいと述べる
・8月16日 西郷は三条の元を訪れ、岩倉の帰国前に遣使だけは承認するべきと強く要請する
・8月17日 西郷の要望により三条太政大臣の私邸で催された閣議の席上、西郷の遣韓大使任命が内決される
・8月18日 上奏裁可を得て三条は、岩倉大使の帰国を待って熟議することを西郷に伝え、問題は一時延期のかたちとなる
・9月13日 岩倉が帰国し、三条とともに木戸・大久保の復帰に向けて運動を開始する
・9月16日 木戸が病気となり、参議復帰を拒む
・10月12日 大久保が参議に復帰したが、木戸は閣議への復帰に応じなかった
・10月14日 岩倉は閣議の席で遣使の延期を主張、板垣・江藤・後藤・副島らは遣使の延期については同意していたものの、西郷は即時派遣を主張する
・10月15日 閣議で板垣・江藤・後藤・副島らは西郷を支持し、即時遣使を要求、三条は西郷の派遣自体は認める決定を行なう
・10月16日 岩倉は三条の元を訪れ、決断の変更を求めたが、三条は受け入れなかった
・10月17日 もう一度閣議を行うことなっていたが、岩倉・大久保・木戸が辞表を提出したことで行われなかった
・10月18日 三条は病に倒れたが、狭心症、心筋梗塞、脚気衝心のいずれかではないかと見られている
・10月19日 副島・江藤・後藤・大木の四人で行われた閣議は岩倉を太政大臣摂行(代理)とすることを徳大寺実則に要望し、明治天皇に奏上された
・10月20日 明治天皇の行幸は実行され、岩倉は太政大臣摂行に就任すると、樺太問題が急務であるという趣旨を上奏する
・10月22日 西郷・板垣・副島・江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、明日にも遣使を発令するべきであると主張する
・10月23日 岩倉は参内し、決定の経緯と閣議による決定と自分の意見を述べた上で、明治天皇の聖断で遣使を決めると奏上、西郷は参議などを含む官職からの辞表を提出し、帰郷の途につく
・10月24日 岩倉による派遣延期の意見が通り、西郷の辞表は受理され、参議と近衛都督を辞職、板垣・江藤・後藤・副島らが辞表を提出する
・10月25日 板垣・江藤・後藤・副島らの辞表が受理され、西郷・板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

711年(和銅4)「蓄銭叙位令」が出される (新暦12月7日)詳細
765年(天平神護元)第47代天皇とされる淳仁天皇が、配流先の淡路島で亡くなる(新暦11月10日)詳細
1669年(寛文9)日高アイヌの総酋長シャクシャインの命日 (新暦11月16日)詳細
1871年(明治4)詩人・英文学者土井晩翠の誕生日(新暦12月5日)詳細
2004年(平成16)新潟県中越地震(マグニチュード6.8)が起こり、死者68人、重軽傷者4,805人が出る詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

sattchyoudoumei01
 今日は、幕末明治維新期の1866年(慶応2)に、薩摩藩と長州藩との間で、江戸幕府を倒すための同盟(薩長同盟)が結ばれた日ですが、新暦では3月7日となります。
 薩長同盟(さっちょうどうめい)は、京都薩摩藩邸にて、土佐藩の坂本龍馬の立会いのもと、薩摩藩代表の小松帯刀・西郷隆盛と長州藩代表の木戸孝允(桂小五郎)との間で成立した、江戸幕府を倒すための政治的・軍事的密約で、薩長盟約または薩長連合とも呼ばれてきました。
 薩摩藩は、1863年(文久3年8月18日)に中川宮と会津藩に協力して、長州藩勢力を京都から追放(八月十八日の政変)や翌年7月19日に、上京出兵した長州藩兵と戦火を交え(禁門の変)敗走させ、長州藩は徳川幕府から第一次長州征討を受けるなど、薩長両藩はことごとく反目し合います。しかし、薩摩藩では大久保利通らの討幕派が藩論を動かし、薩長両藩の指導層は急速に接近することとなり、幕府の薩長討伐計画が漏れるに及んで、両藩は土佐藩出身の坂本龍馬らの仲介のもとにこれまでの対立反目を解消するため、1866年(慶応2年1月21日)に、京都の薩摩藩邸において、会談しました。
 その結果、「薩長六ケ条盟約」が成り、これによって同年6月より戦いが始まった第2次長州征伐では、薩摩藩が幕府の征長を背後から妨げ、一方長州藩は高杉晋作や桂らの奮戦により、幕府軍は諸所で敗退、形勢悪化の内に第14代将軍徳川家茂が大坂城中で没したため、長州と和して、同年9月に撤兵します。その後、討幕運動は大きく前進し、翌年10月14日の大政奉還から12月9日の王政復古の大号令、そして明治維新へと至りました。
 以下に、「薩長六ケ条盟約」を現代語訳付で掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇「薩長六ケ条盟約」 1866年(慶応2年1月21日)

木戸孝允(桂小五郎)が会談内容を六ケ条にまとめ、内容確認のため坂本龍馬に送付した書簡(慶応2年1月23日付)による

(表書)

一、戦と相成候時は、直様二千余之兵を急速差登し、只今在京の兵と合し、浪華[1]へも千程は差置[2]、京・坂両処を相固め候事

一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒有之候とき、其節朝廷へ申上、屹度[3]尽力之次第有之候との事

一、万一負色[4]に有之候とも、一年や半年に決て潰滅[5]致し候と申事は無之事に付、其間には必尽力之次第屹度[3]有之候との事

一、是なり[6]にて幕兵東帰[7]せしときは、屹度[3]朝廷へ申上、直様冤罪[8]は従朝廷御免[9]に相成候都合に、屹度[3]尽力との事

一、兵士をも上国[10]之上、橋・会・桑[11]等も如只今次第にて、勿体なくも[12]朝廷を擁し奉り、正義を抗み[13]、周旋尽力之道を相遮り候ときは、終に及決戦候外は、無之との事

一、冤罪[7]も御免[9]之上は、双方誠心[15]以相合し、皇国之御為に砕身[16]尽力仕候事は不及申、いづれ之道にしても、今日より双方皇国之御為皇威[17]相暉き、御回復に立至り候を目途[18]に誠心[15]を尽し、屹度[3]尽力可仕との事

(裏書)

表に御記被成候六条ハ、小・西両氏[19]及老兄・龍等も御同席ニて談論[20]セし所ニて毛も[21]相違無之候、後来[22]といへとも決して変わり候事無之ハ神明[23]の知る所ニ御座候、
丙寅 二月五日 坂本龍

    『史義史料』四より

【注釈】

[1]浪華:なにわ=大阪(大坂)のこと。
[2]差置:さしおく=人や物をある位置・場所にとどめる。
[3]屹度:きっと=確かに。必ず。
[4]負色:まけいろ=戦いに、負けそうな様子。敗色。
[5]潰滅:かいめつ=ひどくこわれてだめになること。
[6]是なり:これなり=物事が、そこに示されているままの状態、様子でこれきり変わらないさま。現在の状態。今のまま。このまま。
[7]東帰:とうき=東の地に戻ること。この場合は、江戸へ戻ること。
[8]冤罪:えんざい=罪がないのに疑われ、または罰せられること。無実の罪。ぬれぎぬ。
[9]御免:ごめん=容赦、赦免することを、その動作主を敬っていう語。
[10]上国:じょうこく=都へ上ること。上京。
[11]橋・会・桑:きょう・かい・そう=一橋慶喜、松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)のこと。
[12]勿体なくも:もったいなくも=申すも畏れ多いことに。畏れ多くも。
[13]抗み:こばみ=張り合う。手向かう。さからう。
[14]周旋:しゅうせん=当事者間に立って世話をすること。とりもち。なかだち。斡旋。
[15]誠心:せいしん=心に偽りのないこと。真実の心。また、そのさま。まごころ。
[16]砕身:さいしん=身をくだくほど献身的につとめること。献身的に働くこと。
[17]皇威:こうい=天皇の威光。皇帝の威勢。
[18]目途:もくと=めあて。目的。
[19]小・西両氏:こ・さいりょうし=小松帯刀・西郷隆盛両氏のこと。
[20]談論:だんろん=談話と議論。また、談話し議論すること。論談。
[21]毛も:けも=非常にわずかなことのたとえ。ほんの少しも。
[22]後来:こうらい=この後。ゆくすえ。将来。
[23]神明:しんめい=神。神祇。

<現代語訳>

(表書)

一、(幕府と長州藩の間で)戦となった時は、すぐに2,000余の兵を急いで上京させ、現在在京の兵と合わせて、浪華(大坂)へも1,000程は駐留させて、京都・大坂の両所を守備させること。

一、戦局が自然に我らの勝利と成りそうなとき、その時は(薩摩藩は)朝廷へ上申して、きっと(長州藩のため)尽力するようにすること。

一、万が一敗戦濃厚になったときも、一年や半年では決して壊滅することはないので、その間には必ず尽力するべきようにしてほしいこと。

一、勝負がつかなくて、幕府兵が江戸へ帰還したときは、きっと朝廷へ上申し、すぐに冤罪は朝廷より許してもらえるように、必ず尽力してほしいこと。

一、兵士をも上京の上、一橋慶喜、松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)等も今のような状態では、畏れ多くも朝廷を擁し奉って、正義に抗い、周旋尽力の道を遮断されたときは、ついに(薩摩藩も)決戦におよぶ他ないこと。

一、(長州藩の)冤罪も晴れたならば、薩長双方が真心を以て一緒になり、皇国のために献身的に力を尽くすことは言うに及ばず、いづれの道にしても、今日より薩長双方が皇国のため、皇威を発揚し、その回復が出来ることを目標に真心を尽し、きっと尽力するべきこと。

(裏書)

表にお記しになった六ケ条は、小松帯刀・西郷隆盛両氏および老兄・龍馬なども同席した上で、談話・議論した結果であり、ほんの少しも相違のないものです。この後と言っても、決してこれが変わる事がない事は、神様の知る所であります。

慶応二年二月五日 坂本龍馬

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1530年(享禄3)武将・戦国大名上杉謙信の誕生日(新暦2月18日)詳細
1946年(昭和21)GHQが「公娼廃止の指令」(SCAPIN-642)を出す詳細
1951年(昭和26)小説家宮本百合子の命日詳細
1983年(昭和58)小説家里見弴の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ