ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:朝鮮出兵

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 今日は、安土桃山時代の1592年(文禄元)に、豊臣秀吉が、朝鮮を経て明へ出兵する為の出陣令(朝鮮出兵・文禄の役)を発布した日ですが、新暦では2月17日となります。
 文禄の役(ぶんろくのえき)は、安土桃山時代の豊臣秀吉による二度にわたる朝鮮への侵攻の最初の戦い(2度目は慶長の役)のことで、朝鮮では壬辰の倭乱(2度目は丁酉の倭乱)と呼んでいます。1587年(天正15)に、秀吉は、対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対し入貢と明出兵の先導を求めるものの、朝鮮側は拒否をしました。
 そこで、1592年(天正20年1月5日)に、秀吉が、朝鮮を経て、明国への出兵指令を諸大名に下します。同年3月、肥前名護屋を本営として小西行長・加藤清正・小早川隆景ら15万余の大軍を渡海させ、漢城(現在のソウル)を陥落させ、さらに北上して、碧蹄館の戦で明軍を破りました。
 しかし、明の援軍と朝鮮義兵の抵抗により戦局は膠着し、同年4月に、竜山停戦協定の成立に伴い撤退します。秀吉は、同年6月に明帝の娘を后妃に迎えること、勘合船を復活すること、朝鮮を割譲することなどの「和議七か条」を講和条件として決定させましたが、遵守されないで終わりました。
 そこで、1597~98年(慶長2~3年)の慶長の役が起こることとなります。

〇朝鮮出兵(文禄・慶長の役)とは?
 
 安土桃山時代の豊臣秀吉による二度にわたる朝鮮への侵攻のことで、文祿・慶長の役とも呼ばれ、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と呼んでいます。1592~93年(天正20/文禄元~2)と1597~98年(慶長2~3)の2度にわたる朝鮮侵略があり、前者を文禄の役、後者を慶長の役と分けて、呼ばれてきました。
 1587年(天正15)に、秀吉は、対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対し入貢と明出兵の先導を求めるものの、朝鮮側は拒否をします。そこで、1592年(天正20年1月5日)に、秀吉が、朝鮮を経て、明国への出兵指令を諸大名に下しました。
 同年3月、肥前名護屋を本営として小西行長・加藤清正・小早川隆景ら15万余の大軍を渡海させ、漢城(現在のソウル)を陥落させ、さらに北上して、碧蹄館の戦で明軍を破ります。しかし、明の援軍と朝鮮義兵の抵抗により戦局は膠着し、同年4月に、竜山停戦協定の成立に伴い撤退しました。
 秀吉は、同年6月に明帝の娘を后妃に迎えること、勘合船を復活すること、朝鮮を割譲することなどの「和議七か条」を講和条件として決定させましたが、遵守されないで終わります。1596年(慶長元)に、大坂城に来た明使の書中に秀吉を日本国王に封じるという言があり、秀吉は大いに怒って、翌年に、和議を破って、再度の出兵を命じ、慶長の役が始まりました。
 14万の軍兵をもって再征しましたが、明軍の出動と朝鮮民衆の抵抗に苦しみ、水軍を率いた李舜臣の活躍などもあって苦戦が続きます。1598年(慶長3年8月)の秀吉の死により、停戦協定が結ばれ、同年11月の島津勢の撤退を最後に、7年間にわたる戦争は終結しました。
 これによって、戦場となった朝鮮では耕地が3分の1に減少し、人口の減少や文化財の略奪がみられ、朝鮮を援助した明の国力も衰え、明朝衰退の一因ともなります。日本では、豊臣政権の崩壊が進んだものの、文化的には、強制連行された多数の朝鮮人により印刷・陶業の新技術が発達し、多くの典籍ももたらされました。

☆朝鮮出兵(文禄・慶長の役)関係略年表

<1587年(天正15)>
・秀吉、対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対し入貢と明出兵の先導を求めるものの、朝鮮側は拒否をする

<1592年(天正20/文禄元)>
・1月5日 豊臣秀吉が、朝鮮を経て、明国へ出兵指令を諸大名に下す
・4月中旬 日本軍のおびただしい日本の兵船が釜山に至り上陸する
・4月末 朝鮮国王宣祖が、明の援軍を仰ぐことにして首都ソウル(漢城)を脱出する
・5月初旬 第一軍の小西行長小西行長、第二軍の加藤清正加藤清正と共に漢城に入り、玉浦海戦では、李舜臣李舜臣と藤堂高虎藤堂高虎水軍が戦う
・5月下旬 泗川海戦:李舜臣、秘蔵の亀甲船で日本水軍を撃破する
・6月初旬 第一軍の行長・宗義智宗義智と第三軍の黒田長政黒田長政、平壌に侵入し、栗浦海戦で、李舜臣、来島兄弟水軍を撃破する
・6月中旬 第二軍の清正・鍋島直茂鍋島直茂、咸鏡道に侵入する
・7月初旬 錦山の戦いで、権慄・郭再祐・金誠一ら朝鮮連合軍、第六軍の小早川隆景小早川隆景の全羅道侵入を阻止、 閑山島海戦で、李舜臣と脇坂安治脇坂安治水軍が戦い、安骨浦海戦では、李舜臣が、九鬼嘉隆九鬼嘉隆・加藤嘉明加藤嘉明水軍を撃破する
・7月中旬 明の祖承訓が、行長籠る平壌城を攻めるが敗退する
・7月下旬 大政所(秀吉の母)が死去する
・9月 釜山浦海戦で、李舜臣が、日本軍本陣を襲撃し、明軍到来に危機を感じた小西行長、明の沈惟敬と交渉し50日間の停戦協定を締結する
・10月 第一次晋州城の戦いで、金時敏朝鮮軍と細川忠興細川忠興ら日本軍が戦う
・12月8日 文禄に改元される

<1593年(文禄2)>
・1月初旬 平壌の戦いで明の李如松と行長軍が戦い、これにより交渉が決裂する
・1月下旬 碧蹄館の戦いで、明の李如松と小早川隆景・立花宗茂立花宗茂ら日本軍が戦う
・2月 幸州山城の戦いで、朝鮮軍の権慄と宇喜多秀家宇喜多秀家ら日本軍が戦い、熊川の戦いではね李舜臣が、5回に渡り、脇坂・九鬼・加藤嘉明水軍ら襲撃する
・3月 日本軍、窮地に陥り撤退を決定し、小西行長と沈惟敬の交渉が再開される
・5月 明使節が初来日し、秀吉、明の皇女を日本の天皇の妃にするなどの「和議七ヶ条」を示す
・6月 第二次晋州城の戦いで、日本軍、城内の軍民六万を虐殺する
・7月 一時休戦に入る
・8月 日本軍の帰国が相次ぎ、李舜臣、慶尚・全羅・忠清三道水軍統制使となる
・10月 行長と沈惟敬、秀吉の「和議七か条」が理不尽な内容だったので秀吉の降伏文書を勝手に作成する

<1594年(文禄3)>
・3月 秀吉、大坂城を秀頼に与えるため、伏見(桃山)に城を築く
・12月 行長の家臣・内藤如安が、「秀吉の降伏文書」を携えて、北京で明皇帝に拝謁する

<1596年(文禄5/慶長元)>
・9月 大坂城に来た明使の書中に秀吉を日本国王に封じるという言があり、秀吉は大いに怒る
・10月27日 慶長に改元される

<1597年(慶長2)>
・1月 豊臣秀吉秀吉が、諸将に朝鮮再派兵を命ずる
・2月 明も朝鮮へ再派兵する
・7月 漆川梁海戦で、元均が、李舜臣なしで日本水軍に挑む、李舜臣、三道水軍統制使に復帰する
・8月 南原の戦いで、日本軍による、大量殺戮と鼻切りが行われる
・9月 稷山の戦いで、経略・楊鎬の指令により明軍が、首都ソウル(漢城)侵入を企む黒田長政黒田長政・毛利秀元らを迎え撃ち、鳴梁海戦で李舜臣率いる一三隻と藤堂高虎藤堂高虎・脇坂安治脇坂安治ら133隻の戦いが起きる
・12月 蔚山の戦いで、明・朝鮮軍が、蔚山倭城を包囲し、加藤清正加藤清正・浅野幸長ら籠城戦を展開する

<1598年(慶長3)>
・8月18日 秀吉が亡くなる
・10月1日 泗川の戦いで、明軍と島津義弘島津義弘軍が戦う
・10月15日 秀吉の死は秘匿されたまま、五大老による帰国命令が発令される
・11月10日 順天の戦いで、明の劉綖・陳璘と朝鮮の権慄・李舜臣連合軍、陸海から小西行長小西行長の順天倭城を囲み、帰国の退路を押さえる
・11月18日 露梁海戦で、李舜臣と陳璘と島津義弘・立花宗茂立花宗茂・宗義智宗義智水軍が戦う
・11月25日 島津勢の撤退を最後に、7年間にわたる戦争は終結する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1348年(正平3)楠木正成の子・楠木正行が高師直軍との四条畷の戦いに敗れ自刃(新暦2月4日)詳細
1593年(文禄2)第106代の天皇とされる正親町天皇の命日(新暦2月6日)詳細
1914年(大正3)駿河湾汽船「愛鷹丸」が、強風と波浪により沈没し、死者・行方不明者121人を出す(愛鷹丸沈没事故)詳細
1927年(昭和2)有機化学者向山光昭が誕生日詳細
1963年(昭和38)「三八豪雪」が始まり、日本海側に記録的大雪をもたらす詳細
1974年(昭和49)中国の北京において、「日中貿易協定」が締結(同年6月22日発効)される詳細
1978年(昭和53)陶芸家・人間国宝濱田庄司の命日詳細
1995年(平成7)地球物理学者・歌人和達清夫(筆名:西須諸次)の命日詳細

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 今日は、明治時代前期の1885年(明治18)に、日本と李氏朝鮮の間で「漢城条約」が締結された日です。
 「漢城条約」(かんじょうじょうやく)は、1884年(明治17)12月の甲申の変(京城事変)に関し、漢城(現在のソウル特別市)において、日本と李氏朝鮮との間で、日朝間の講和を目的に取りかわされた条約でした。この事態収拾のため、日本は軍艦3隻、2個大隊の陸軍兵を護衛につけて、外務卿井上馨を全権大使として派遣し、事変の翌年1月7日から朝鮮の全権大臣金弘集と交渉させます。
 その結果、①朝鮮政府の対日謝罪、②日本人被害者への賠償金支払い、③日本軍人を殺害した犯人の逮捕と処刑、④朝鮮は日本公使館再建費用を負担する、⑤公使館守備隊の営舎の設立などで合意し、締結に至ったものでした。これによって、朝鮮出兵に関しては、日清両国の立場は対等になります。

〇「漢城條約」 1885年(明治18)1月9日調印

漢城條約

此ノ次京城ノ變係ル所小ニ非ス日本國大皇帝深ク宸念ヲ軫セラレ茲ニ特派全權大使伯爵井上馨ヲ簡ミ大朝鮮國ニ至リ便宜辦理セシメラル大朝鮮國大君主宸念均ク敦好ニ切ニ乃金宏集ニ委ヌルニ全件議處ノ任ヲ以テシ命スルニ懲前毖後ノ意ヲ以テセラル兩國ノ大臣和衷掌辦シ左ノ約款ヲ作リ以テ好誼ノ完全ヲ昭ニシ又以テ將來ノ事端ヲ防ク茲ニ全權ノ文懇ニ據リ各各名ヲ簽シ印ヲ鈐スル左ノ如シ

約款

第一 朝鮮國國書ヲ修メテ日本國ニ至シ謝意ヲ表明スル事
第二 此次日本國遭害人民ノ遺族竝ニ負傷者ヲ恤給シ曁ヒ商民ノ貨物ヲ毀損掠奪セラルル者ヲ填補シテ朝鮮國ヨリ拾壹萬圓ヲ撥支スル事
第三 磯林大尉ヲ殺害シタル兇徒ヲ査問補拿シ重キニ從テ刑ヲ正ス事
第四 日本公館ハ新基ニ移シ建築スルヲ要ス當ニ朝鮮國ヨリ地基房屋ヲ交付シ公館曁ヒ領事館ヲ容ルニ足ラシムヘシ其ノ修築增建ノ處ニ至テハ朝鮮國更ニ貳萬圓ヲ撥交シ以テ工費ニ充ル事
第五 日本護衞兵兵辨ノ營舍ハ公館ノ附地ヲ以テ擇定シ壬午續約第五款ヲ照シ施行スル事
大日本國明治十八年一月九日 特派全權大使從三位勳一等伯爵 井上馨(印)
大朝鮮國開國四百九十三年十一月二十四日 特派全權大臣左議政 金弘集(印)
另單

一 約款第二第四條ノ金圓ハ日本銀貨ヲ以テ算ス須ク三箇月ヲ期シテ仁川ニ於テ撥完スヘシ
一 第三條兇徒ヲ處辨スルハ立約後二十日ヲ以テ期ト爲ス
大日本國明治十八年一月九日 特派全權大使從三位勳一等伯爵 井上馨(印)
大朝鮮國開國四百九十三年十一月二十四日 特派全權大臣左議政 金弘集(印)

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1891年(明治24) 第一高等中学校講師の内村鑑三が教育勅語への拝礼を拒否したため免職となる 詳細
1918年(大正7) 日本最悪の雪崩災害である三俣の大雪崩が起きる 詳細
1943年(昭和18) 日本と南京政府により、「日華共同宣言」と「日華新協定」が調印・公布される 詳細
1985年(昭和60) 北九州高速鉄道小倉線(北九州モノレール)が開業する 詳細
1998年(平成10) 日本人初のノーベル化学賞を受賞した化学者福井謙一の命日 詳細
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 今日は、安土桃山時代の1598年(慶長3)に、武将・大名・天下人豊臣秀吉が亡くなった日ですが、新暦では9月18日となります。
 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)は、1537年(天文6)に、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)の百姓で織田信秀の足軽だった父・木下弥右衛門、母・なか(天瑞院)の子として生まれましたが、幼名は日吉丸と言いました。7歳のときに父を亡くし、母は秀吉と姉ひとりを抱え信秀の同朋衆竹阿弥と再婚します。
 1551年(天文20)元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文をもって家出、行商ののち、今川氏の家臣松下之綱、次いで1554年(天文23)18歳のとき、尾張清洲城主であった織田信長に小者として仕えました。1561年(永禄4)に浅野長勝の養女おね(杉原定利の女)と結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗るようになります。
 清洲城普請、墨俣築城、京都警備などで活躍し、1570年(元亀元)の姉川の戦い、小谷城の攻略などで戦功を上げました。1573年(天正元)には、羽柴藤吉郎秀吉と名のり、浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となって、近江長浜に築城します。
 1577年(天正5)に中国征伐の将として毛利氏と対戦しますが、1582年(天正10)に信長が明智光秀のために本能寺の変で横死すると、山崎の戦いで明智光秀を破り、次いで柴田勝家を倒して、信長の後継者としての地位を獲得しました。1583年(天正11)に大坂城を築城、四国・九州を征し、徳川家康を臣従させ、1590年(天正18)には小田原北条氏を滅ぼして天下統一を完成します。
 この間、1585年(天正13)に関白、翌年に太政大臣となり、豊臣の姓を賜りました。1591年(天正19)には関白を養子秀次に譲り太閤と称し、1592年(文禄元)と1597年(慶長2)の2度朝鮮に出兵しますが失敗します。
 貨幣統一、兵農分離、太閤検地、石高制等の施行によって幕藩体制の基礎をつくったとされますが、1598年(慶長3年8月18日)に伏見城において、数え年63歳で亡くなりました。

〇豊臣秀吉関係略年表(日付は旧暦です)

・1537年(天文6年正月元日?) 尾張国愛知郡中村で織田信長の足軽木下弥右衛門の子として生まれる
・1543年(天文12年) 秀吉7歳のとき、父弥右衛門が病死する
・1551年(天文20年) 元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文をもって家出する
・1554年(天文23年) 18歳のとき、尾張清洲の城主であった織田信長に小者として仕えた
・1561年(永禄4年) 弓の衆浅野長勝の養女おね(杉原定利の女)と結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗る
・1566年(永禄9年) 濃尾国境に位置する墨俣(岐阜県大垣市)に築城し、美濃攻略の拠点を確保した功により部将に取り立てられる
・1568年(永禄11年9月) 信長が足利義昭を擁して上洛すると、京都の奉行の一人として活動する
・1570年(元亀元年) 姉川の戦い、小谷城の攻略などで戦功をたてる
・1573年(天正元年7月) 木下を改め羽柴 藤吉郎秀吉と名のる
・1573年(天正元年8月) 浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となる
・1575年(天正3年) 越前一向一揆攻めで活躍する
・1575年(天正3年12月) 筑前守に任じられる
・1577年(天正5年) 播磨に出陣して姫路城に本拠を置く
・1582年(天正10年) 備中に出兵し、清水宗治の拠る高松城に迫って水攻めにする
・1582年(天正10年6月2日) 信長が明智光秀のために本能寺の変で横死する
・1582年(天正10年6月13日) 光秀を山崎の戦いで破る
・1582年(天正10年6月27日) 清須会議が行われる
・1583年(天正11年) 秀吉打倒を策する信長の三男信孝、滝川一益に対し、美濃・伊勢に出兵して攻める
・1583年(天正11年) 柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、越前に攻め入って北庄城の柴田氏を滅ぼす
・1583年(天正11年) 滝川一益を降して尾張・伊勢を支配下に入れる
・1584年(天正12年) 信雄・徳川家康の連合軍と小牧・長久手の戦いをする
・1584年(天正12年11月) 従三位・権大納言となる
・1585年(天正13年) 信雄・家康に呼応して蜂起した紀伊根来・雑賀の一揆を討伐する
・1585年(天正13年) 四国征伐を行って長宗我部氏を降す
・1585年(天正13年3月) 正二位・内大臣となる
・1585年(天正13年) 徳川家康に対しては、実妹(旭姫)を嫁がせる
・1585年(天正13年7月) 近衛龍山の猶子として関白・従一位となる
・1586年(天正14年) 徳川家康を臣従させる
・1586年(天正14年12月) 太政大臣となり、豊臣の姓を賜る
・1587年(天正15年) 九州征伐を行って島津氏を降し、九州の国割りを行うとともに、博多・長崎を直轄化する
・1587年(天正15年) キリシタン禁令を発する
・1587年(天正15年9月13日) 聚楽第が完成する
・1587年(天正15年10月1日) 茶頭千利休の演出のもとで、庶民を集めて北野大茶湯を催す
・1588年(天正16年) 聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぐ
・1590年(天正18年) 小田原征伐を行って北条氏を滅ぼし、さらに奥州を平定して、天下統一を成し遂げる
・1591年(天正19年) 側室淀殿との間にもうけた愛児鶴丸を喪う
・1591年(天正19年8月) 関白職を甥の秀次に譲り、自らは太閤と称する
・1591年(天正19年) 全国に御前帳を作成して提出することを命じて、国ごとの石高の把握する
・1592年(文禄元年) 関白秀次により人掃令が出され、全国の家数・人数の調査が行われる
・1592年(文禄元年) 諸大名に朝鮮出兵の軍令を下して征明軍16万人を編成し、自らも肥前名護屋の本陣に赴き、総指揮にあたる(文禄の役)
・1593年(文禄2年) 側室淀殿に実子秀頼が生まれる
・1594年(文禄3年8月) 伏見城が完成し、秀吉が入城する 
・1595年(文禄4年7月) 秀次を謀反人として切腹せしめ、妻妾子女悉くを処刑する
・1597年(慶長2年) ふたたび朝鮮出兵となる(慶長の役)
・1598年(慶長3年) 醍醐の花見を行なう
・1598年(慶長3年8月5日) 五大老に幼い秀頼の将来のことを訴えた遺言状を認める
・1598年(慶長3年8月18日) 伏見城において、数え年63歳で亡くなる
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