ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:朝日新聞

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 今日は、昭和時代中期の1950年(昭和25)に、獅子文六が「朝日新聞」に『自由学校』の連載を開始した日です。
 『自由学校』(じゆうがっこう)は、獅子文六著の長編小説で、「朝日新聞」において、1950年(昭和25)5月26日~12月11日まで連載され、翌年に朝日新聞社から刊行されました。太平洋戦争敗戦後の混迷の中で、どの世代も自由な生き方を模索している世相をおとぎ話風に描いて、社会や道徳のゆがみを風刺した作品とされています。
 有能で活動的な妻駒子に支配されていたでくの坊の南村五百助が、家を叩き出されるところから物語は展開し、防空壕やバラックでの寝泊まりと生活、上流社会の若者や隠居連中の暮らし、戦死者として戸籍が無くなった敗残兵の目線など様々な人々と交流・交際を通じて、自由主義や男女同権思想を戦後風俗を巧みに取り入れながら痛烈に風刺し、「とんでもハップン」、「ネバー好き」の流行語を生みました。
 尚、1951年(昭和26)に松竹(渋谷実監督)と大映(吉村公三郎監督)の凶作によって映画化され、評判となっています。

〇獅子文六(しし ぶんろく)とは?

 昭和時代に活躍した小説家・演出家です。1893年(明治26)7月1日に、横浜市中区月岡町(現在の横浜市西区老松町)で、絹織物商「岩田商会」を営んでいた父・岩田茂穂、母・あさじの長男として生まれましたが、本名は岩田豊雄と言いました。
 9歳で父を亡くし、慶應義塾普通部を経て、慶應義塾大学理財科予科に進みます。1913年(大正2)に中退し、1920年(大正9)に母が亡くなり、一人暮らしを始めました。1922年(大正11)に渡仏し、パリ滞在中にJ.コポーらの近代演劇運動に触発されて、演劇の道を志します。1925年(大正14)に帰国、「近代劇全集」などの翻訳を行うかたわら、1927年(昭和2)に新劇協会に入会して演出家となりました。
 1933年(昭和8)に明治大学講師となり、同年『東は東』、翌年『朝日屋絹物店』などの戯曲を発表ししつつ、獅子文六の筆名で『新青年』に長編小説『金色青春譜』を執筆します。1937年(昭和12)に久保田万太郎、岸田国士とともに劇団「文学座」を創立して以来、同座幹事として発展に尽力しました。
 一方で、小説『悦ちゃん』(1936~37年)、『信子』(1938~40年)、『南の風』(1941年)など、ユーモアと風刺に富む健康な作品を発表して流行作家となります。太平洋戦争中の小説『海軍』で朝日文化賞を受賞しましたが、戦後に「戦争協力作家」として、追放の仮指定されたものの、1ヶ月半後に解除されました。
 以後小説『てんやわんや』(1948~49年)、『自由学校』(1950年)、『大番』全3巻(1956~58年)など戦後風俗を軽妙な筆致で描いた小説で人気を得ます。また、『娘と私』は1961年(昭和36)にNHKで『連続テレビ小説・娘と私』としてテレビドラマ化され、話題となりました。
 1963年(昭和38)に日本芸術院賞受賞、1964年(昭和39)に芸術院会員、1969年(昭和44)に文化勲章受章と数々の栄誉に輝きましたが、1969年(昭和44)12月13日に、東京の自宅において、76歳で亡くなっています。

<主要な著作>

・戯曲『東は東』(1933年)
・戯曲『朝日屋絹物店』(1934年)
・小説『金色(こんじき)青春譜』(1934年)
・小説『悦ちゃん』(1936~37年)
・小説『達磨(だるま)町七番地』(1937年)
・小説『胡椒(こしょう)息子』(1937~38年)
・小説『信子(のぶこ)』(1938~40年)
・小説『南の風』(1941年)
・小説『海軍』(1942年)
・小説『てんやわんや』(1948~49年)
・小説『自由学校』(1950年)
・小説『娘と私』(1953~56年)
・小説『大番』全3巻(1956~58年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

869年(貞観11)陸奥国で貞観地震が起き、大津波により甚大な被害を出す(新暦7月9日)詳細
1857年(安政4)下田奉行とハリスが「日米和親条約」を修補する「日米約定」を締結する(新暦6月17日)詳細
1933年(昭和8)文部省は「文官分限令」により、京都帝大瀧川幸辰教授の休職処分を強行(滝川事件)詳細
1942年(昭和17)日本文学報国会(会長徳富蘇峰)が設立される詳細
1969年(昭和44)東名高速道路が全線開通する(東名高速道路全線開通記念日)詳細
1977年(昭和52)小説家・劇作家藤森成吉の命日詳細
1980年(昭和55)「明日香村保存特別措置法」が公布・施行される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、「朝日新聞」において、永井荷風著の『墨東綺譚』が連載開始された日です。
 『濹東綺譚』(ぼくとうきだん)は、永井荷風著の長編小説で、昭和時代前期の1937年(昭和12)4月16日~6月15日に木村荘八の挿絵と共に東京・大阪の両「朝日新聞」夕刊に連載されました。同年4月に烏有堂(私家版)から刊行され、さらに同年8月に岩波書店から単行本が刊行されています。
 中年の作家(大江匡)と玉の井の私娼(お雪)との交情を中心に、四季の風物詩や時代の風俗好尚なども織り交ぜて、随筆風に人の世の哀れを詩情豊かに描き、昭和期の代表作とされてきました。反時勢的な文明批評もあり、太平洋戦争に突入する前夜の重苦しさに涼気を送る作品として愛読されます。
 尚、1960年(昭和35)には、豊田四郎監督(東宝配給)により、1992年(平成4)には、新藤兼人監督・脚本(近代映画協会)により、2010年(平成22)には、荒木太郎監督・脚本(オーピー映画)により、3度映画化されました。

〇永井荷風著『濹東綺譚』の冒頭部分

 一

 わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない。
 おぼろ気な記憶をたどれば、明治三十年頃でもあろう。神田錦町(にしきちょう)に在った貸席錦輝館で、サンフランシスコ市街の光景を写したものを見たことがあった。活動写真という言葉のできたのも恐らくはその時分からであろう。それから四十余年を過ぎた今日こんにちでは、活動という語ことばは既にすたれて他のものに代かえられているらしいが、初めて耳にしたものの方が口馴れて言いやすいから、わたくしは依然としてむかしの廃語をここに用いる。
 震災の後のち、わたくしの家に遊びに来た青年作家の一人が、時勢におくれるからと言って、無理やりにわたくしを赤坂溜池(ためいけ)の活動小屋に連れて行ったことがある。何でも其その頃非常に評判の好いものであったというが、見ればモオパッサンの短篇小説を脚色したものであったので、わたくしはあれなら写真を看るにも及ばない。原作をよめばいい。その方がもっと面白いと言ったことがあった。
 然し活動写真は老弱(ろうにゃく)の別(わかち)なく、今の人の喜んでこれを見て、日常の話柄(わへい)にしているものであるから、せめてわたくしも、人が何の話をしているのかと云うくらいの事は分るようにして置きたいと思って、活動小屋の前を通りかかる時には看板の画と名題とには勉つとめて目を向けるように心がけている。看板を一瞥(べつ)すれば写真を見ずとも脚色の梗概も想像がつくし、どういう場面が喜ばれているかと云う事も会得せられる。
 活動写真の看板を一度に最もっとも多く一瞥する事のできるのは浅草公園である。ここへ来ればあらゆる種類のものを一ト目に眺めて、おのずから其巧拙をも比較することができる。わたくしは下谷(したや)浅草の方面へ出掛ける時には必ず思出して公園に入り杖(つえ)を池の縁(ふち)に曳(ひ)く。
 夕風も追々寒くなくなって来た或日のことである。一軒々々入口の看板を見尽して公園のはずれから千束町(せんぞくまち)へ出たので。右の方は言問橋(ことといばし)左の方は入谷町(いりやまち)、いずれの方へ行こうかと思案しながら歩いて行くと、四十前後の古洋服を着た男がいきなり横合から現れ出て、
「檀那(だんな)、御紹介しましょう。いかがです。」と言う。
「イヤありがとう。」と云って、わたくしは少し歩調を早めると、
「絶好のチャンスですぜ。猟奇的ですぜ。檀那。」と云って尾ついて来る。
「いらない。吉原へ行くんだ。」
 ぽん引(びき)と云うのか、源氏というのかよく知らぬが、とにかく怪し気な勧誘者を追払うために、わたくしは口から出まかせに吉原へ行くと言ったのであるが、行先の定さだまらない散歩の方向は、却(かえっ)てこれがために決定せられた。歩いて行く中(うち)わたくしは土手下の裏町に古本屋を一軒知っていることを思出した。
 古本屋の店は、山谷堀(さんやぼり)の流が地下の暗渠(あんきょ)に接続するあたりから、大門前(おおもんまえ)日本堤橋(にほんづつみばし)のたもとへ出ようとする薄暗い裏通に在る。裏通は山谷堀の水に沿うた片側町で、対岸は石垣の上に立続く人家の背面に限られ、此方(こなた)は土管、地瓦(ちがわら)、川土、材木などの問屋が人家の間に稍やや広い店口を示しているが、堀の幅の狭くなるにつれて次第に貧気(まずしげ)な小家(こいえ)がちになって、夜は堀にかけられた正法寺橋(しょうほうじばし)、山谷橋(さんやばし)、地方橋(じかたばし)、髪洗橋(かみあらいばし)などいう橋の灯(ひ)がわずかに道を照すばかり。堀もつき橋もなくなると、人通りも共に途絶えてしまう。この辺で夜も割合におそくまで灯(あかり)をつけている家は、かの古本屋と煙草を売る荒物屋ぐらいのものであろう。

 (以下略)

  「青空文庫」より

☆永井荷風(ながい かふう)とは?

 明治時代から昭和時代に活躍した小説家・随筆家です。明治時代前期の1879年(明治12)12月3日に、東京市小石川区(現在の文京区春日)で、尾張藩士族出身のエリート官吏の父・久一郎と母・恒(つね)の長男として生まれましたが、本名は壮吉と言いました。
 高等師範附属尋常中学科(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を経て、1897年(明治30)に外国語学校清語科に進みます。しかし、1899年(明治32)に中退して、広津柳浪の門に入り小説家を志しますが、習作のかたわら、落語家や歌舞伎作者の修業もしました。
 1902年(明治35)に小説『地獄の花』を発表、またエミール・ゾラの『大地』、『女優ナナ』などを紹介します。翌年渡米し、フランスへも回って遊学し、1908年(明治41)に帰国します。その後、『あめりか物語』、『ふらんす物語』や『すみだ川』などを執筆し、耽美派の中心的存在となりました。
 1910年(明治43)に慶應義塾大学教授となり「三田文学」を創刊、『腕くらべ』(1916~17年)、『つゆのあとさき』(1931年)、『濹東綺譚 (ぼくとうきたん) 』(1937年)など、随筆や小説等を多く発表します。戦争下では、反国策的な作風のため作品発表の場を失いますが、戦後は、その間ひそかに書きためた『浮沈』、『踊子』、『勲章』、『来訪者』や 1917年以来の日記『断腸亭日乗』を発表しました。
 1952年(昭和27)に文化勲章を受章、1954年(昭和29)に芸術院会員に選ばれましたが、千葉県市川の自宅で自炊生活を続けます。その中で、1959年(昭和34)4月30日に、自宅において、79歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)大隈重信らが立憲改進党を結成する詳細
1884年(明治31)柳ヶ瀬トンネル(全長1,352m)完成により長浜~敦賀の鉄道(敦賀線、後の北陸本線)が開業する詳細
1910年(明治43)輪島町の大火で、全焼1,055軒、半焼15軒の被害を出す詳細
1945年(昭和20)小説家田村俊子の命日詳細
1956年(昭和31)日本道路公団が設立される詳細
2020年(平成32)物理化学者長倉三郎の命日詳細
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 今日は、大正時代の1912年(大正元)に、「朝日新聞」において、夏目漱石の『行人』が連載開始された日です。
 『行人』(こうじん)は、夏目漱石が「朝日新聞」に、1912年(大正元)12月6日~翌年10月29日(4月~9月まで作者の病気(胃潰瘍)のため、5ヶ月の中断あり)まで、連載した小説でした。1914年(大正3)1月7日に大倉書店より刊行されましたが、「友達」、「兄」、「帰ってから」、「塵労」の4つの編から成り立っていて、互いを理解しえない夫婦生活を通して、主人公の孤独な魂の苦悩を描いています。
 近代知識人の苦悩を描く、『彼岸過迄』に続き『こゝろ』に繋がる、後期3部作の2作目とされてきました。以下に、『行人』の冒頭部分「友達」の一を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『行人』の冒頭部分「友達」の一

        一

 梅田(うめだ)の停車場(ステーション)を下(お)りるや否(いな)や自分は母からいいつけられた通り、すぐ俥(くるま)を雇(やと)って岡田(おかだ)の家に馳(か)けさせた。岡田は母方の遠縁に当る男であった。自分は彼がはたして母の何に当るかを知らずにただ疎(うと)い親類とばかり覚えていた。
 大阪へ下りるとすぐ彼を訪(と)うたのには理由があった。自分はここへ来る一週間前ある友達と約束をして、今から十日以内に阪地(はんち)で落ち合おう、そうしていっしょに高野(こうや)登りをやろう、もし時日(じじつ)が許すなら、伊勢から名古屋へ廻(まわ)ろう、と取りきめた時、どっちも指定すべき場所をもたないので、自分はつい岡田の氏名と住所を自分の友達に告げたのである。
「じゃ大阪へ着き次第、そこへ電話をかければ君のいるかいないかは、すぐ分るんだね」と友達は別れるとき念を押した。岡田が電話をもっているかどうか、そこは自分にもはなはだ危(あや)しかったので、もし電話がなかったら、電信でも郵便でも好(い)いから、すぐ出してくれるように頼んでおいた。友達は甲州線(こうしゅうせん)で諏訪(すわ)まで行って、それから引返して木曾(きそ)を通った後(あと)、大阪へ出る計画であった。自分は東海道を一息(ひといき)に京都まで来て、そこで四五日用足(ようたし)かたがた逗留(とうりゅう)してから、同じ大阪の地を踏む考えであった。
 予定の時日を京都で費(ついや)した自分は、友達の消息(たより)を一刻も早く耳にするため停車場を出ると共に、岡田の家を尋ねなければならなかったのである。けれどもそれはただ自分の便宜(べんぎ)になるだけの、いわば私の都合に過ぎないので、先刻(さっき)云った母のいいつけとはまるで別物であった。母が自分に向って、あちらへ行ったら何より先に岡田を尋ねるようにと、わざわざ荷になるほど大きい鑵入(かんいり)の菓子を、御土産(おみやげ)だよと断(ことわ)って、鞄(かばん)の中へ入れてくれたのは、昔気質(むかしかたぎ)の律儀(りちぎ)からではあるが、その奥にもう一つ実際的の用件を控(ひか)えているからであった。
 自分は母と岡田が彼らの系統上どんな幹の先へ岐(わか)れて出た、どんな枝となって、互に関係しているか知らないくらいな人間である。母から依託された用向についても大した期待も興味もなかった。けれども久しぶりに岡田という人物――落ちついて四角な顔をしている、いくら髭(ひげ)を欲しがっても髭の容易に生えない、しかも頭の方がそろそろ薄くなって来そうな、――岡田という人物に会う方の好奇心は多少動いた。岡田は今までに所用で時々出京した。ところが自分はいつもかけ違って会う事ができなかった。したがって強く酒精(アルコール)に染められた彼(かれ)の四角な顔も見る機会を奪われていた。自分は俥(くるま)の上で指を折って勘定して見た。岡田がいなくなったのは、ついこの間のようでも、もう五六年になる。彼の気にしていた頭も、この頃ではだいぶ危険に逼せま)っているだろうと思って、その地じ)の透す)いて見えるところを想像したりなどした。
 岡田の髪の毛は想像した通り薄くなっていたが、住居(すまい)は思ったよりもさっぱりした新しい普請(ふしん)であった。
「どうも上方流(かみがたりゅう)で余計な所に高塀(たかべい)なんか築き上(あげ)て、陰気(いんき)で困っちまいます。そのかわり二階はあります。ちょっと上(あが)って御覧なさい」と彼は云った。自分は何より先に友達の事が気になるので、こうこういう人からまだ何とも通知は来ないかと聞いた。岡田は不思議そうな顔をして、いいえと答えた。

  「青空文庫」より

☆夏目漱石(なつめ そうせき)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した日本近代文学を代表する小説家です。1867年(慶応3)1月5日に、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区)で、代々名主であった家の父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれましたが、本名は金之助といいました。
 成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)から、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)英文学科に入学します。卒業後、松山で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)の教師、熊本で第五高等学校(現在の熊本大学)の教授などを務めた後、1900年(明治33年)からイギリスへ留学しました。
 帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、1905年(明治38)から翌年にかけて『我輩は猫である』を『ホトトギス』に発表し、一躍文壇に登場することになります。その後、『倫敦塔』、『坊つちやん』、『草枕』と続けて作品を発表し、文名を上げました。
 1907年(明治40)に、東京朝日新聞社に専属作家として迎えられ、職業作家として、『虞美人草』、『三四郎』、『それから』、『門』、『こころ』などを執筆し、日本近代文学の代表的作家となります。しかし、『明暗』が未完のうち、1916年(大正5)12月9日に、東京において、50歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1887年(明治20) 幕末明治維新期の政治家・薩摩藩主忠義の父島津久光の命日 詳細
1890年(明治23) 第1回帝国議会で山形有朋の施政方針演説が行われる 詳細
1918年(大正7) 「大学令」が公布される 詳細
「(第2次)高等学校令」が公布される 詳細
1927年(昭和2) 政治雑誌「労農」が創刊される 詳細
1957年(昭和32) 「日ソ通商条約」が調印される 詳細
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 今日は、明治時代後期の1909年(明治42)に、「朝日新聞」で夏目漱石著の小説『それから』が連載開始された日です。
 『それから』は、夏目漱石著の長編小説でした。明治時代後期の1909年(明治42)6月27日~10月4日まで、東京・大阪の「朝日新聞」に連載され、翌年1月に、春陽堂より刊行されます。
 主人公の長井代助は、西洋と日本の関係がだめだから働かないと言って定職に就かず、毎月1回、本家にもらいに行く金で裕福な生活を送る高等遊民ですが、父親のすすめる政略結婚をことわり、友人平岡常次郎の妻・三千代を奪って、共に生きる決意をするまでを描きました。1908年(明治41)の『三四郎』と1910年(明治43)の『門』と共に、漱石の前期三部作と言われています。
 その後、1985年(昭和60)に森田芳光監督、松田優作主演で映画化され、2017年(平成29)には、CLIEにより、平野良主演で舞台化もされました。
 以下に、小説『それから』の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇小説『それから』の冒頭部分

 一の一

 誰(だれ)か慌(あは)たゞしく門前(もんぜん)を馳(か)けて行く足音(あしおと)がした時、代助(だいすけ)の頭(あたま)の中(なか)には、大きな俎下駄(まないたげた)が空(くう)から、ぶら下さがつてゐた。けれども、その俎(まないた)下駄は、足音(あしおと)の遠退(とほの)くに従つて、すうと頭(あたま)から抜(ぬ)け出(だ)して消えて仕舞つた。さうして眼(め)が覚めた。
 枕元(まくらも)とを見ると、八重の椿(つばき)が一輪(いちりん)畳(たゝみ)の上に落ちてゐる。代助(だいすけ)は昨夕(ゆふべ)床(とこ)の中(なか)で慥かに此花の落ちる音(おと)を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬(ごむまり)を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更(ふ)けて、四隣(あたり)が静かな所為(せゐ)かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋(あばら)のはづれに正(たゞ)しく中(あた)る血(ち)の音(おと)を確(たし)かめながら眠(ねむり)に就いた。
 ぼんやりして、少時(しばらく)、赤ん坊の頭(あたま)程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を当(あ)てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の脈(みやく)を聴(き)いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。動悸は相変らず落ち付いて確(たしか)に打つてゐた。彼は胸に手を当(あ)てた儘、此鼓動の下に、温(あたた)かい紅(くれなゐ)の血潮の緩く流れる様(さま)を想像して見た。是が命(いのち)であると考へた。自分は今流れる命(いのち)を掌てのひら)で抑へてゐるんだと考へた。それから、此掌てのひら)に応こた)へる、時計の針に似た響ひゞき)は、自分を死しに誘いざな)ふ警鐘の様なものであると考へた。此警鐘を聞くことなしに生いきてゐられたなら、――血を盛も)る袋ふくろ)が、時とき)を盛も)る袋ふくろ)の用を兼ねなかつたなら、如何いか)に自分は気楽だらう。如何に自分は絶対に生せい)を味はひ得るだらう。けれども――代助だいすけ)は覚えず悚ぞつ)とした。彼は血潮ちしほ)によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、生(い)きたがる男である。彼は時々(とき/″\)寐(ね)ながら、左の乳(ちゝ)の下したに手を置いて、もし、此所(こゝ)を鉄槌(かなづち)で一つ撲(どや)されたならと思ふ事がある。彼は健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さへある。
 彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。夜具の中(なか)から両手を出だして、大きく左右に開ひらくと、左側(ひだりがは)に男が女を斬(きつ)てゐる絵があつた。彼はすぐ外(ほか)の頁(ページ)へ眼(め)を移した。其所(そこ)には学校騒動が大きな活字で出てゐる。代助は、しばらく、それを読んでゐたが、やがて、惓怠(だる)さうな手から、はたりと新聞を夜具の上(うへ)に落した。夫から烟草を一本吹ふかしながら、五寸許り布団を摺(ず)り出して、畳の上の椿(つばき)を取つて、引つ繰(く)り返(かへ)して、鼻の先へ持(も)つて来(き)た。口(くち)と口髭(くちひげ)と鼻の大部分が全く隠(かく)れた。烟りは椿(つばき)の瓣(はなびら)と蕊(ずい)に絡(から)まつて漂(たゞよ)ふ程濃く出た。それを白(しろ)い敷布(しきふ)の上うへに置くと、立ち上(あ)がつて風呂場(ふろば)へ行つた。
 其所(そこ)で叮嚀(ていねい)に歯はを磨(みが)いた。彼(かれ)は歯並(はならび)の好(い)いのを常に嬉しく思つてゐる。肌(はだ)を脱(ぬ)いで綺麗(きれい)に胸(むね)と脊(せ)を摩擦(まさつ)した。彼(かれ)の皮膚(ひふ)には濃(こまや)かな一種の光沢(つや)がある。香油を塗(ぬ)り込んだあとを、よく拭き取(と)つた様に、肩(かた)を揺(うご)かしたり、腕(うで)を上(あ)げたりする度(たび)に、局所(きよくしよ)の脂肪(しぼう)が薄(うす)く漲(みなぎ)つて見える。かれは夫(それ)にも満足である。次に黒い髪(かみ)を分(わ)けた。油(あぶら)を塗つけないでも面白い程自由になる。髭(ひげ)も髪(かみ)同様に細(ほそ)く且つ初々(うい/\)しく、口(くち)の上(うへ)を品よく蔽ふてゐる。代助(だいすけ)は其ふつくらした頬(ほゝ)を、両手で両三度撫でながら、鏡の前(まへ)にわが顔(かほ)を映(うつ)してゐた。丸で女(をんな)が御白粉(おしろい)を付(つ)ける時の手付(てつき)と一般であつた。実際彼は必要があれば、御白粉(おしろい)さへ付(つ)けかねぬ程に、肉体に誇(ほこり)を置く人である。彼の尤も嫌ふのは羅漢の様な骨骼と相好(さうごう)で、鏡に向ふたんびに、あんな顔に生(うま)れなくつて、まあ可(よ)かつたと思ふ位である。其代り人から御洒落(おしやれ)と云はれても、何の苦痛も感じ得ない。それ程彼は旧時代の日本を乗り超えてゐる。

   「青空文庫」より

☆夏目漱石(なつめ そうせき)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した日本近代文学を代表する小説家です。1867年(慶応3)1月5日に、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区)で、代々名主であった家の父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれましたが、本名は金之助といいました。
 成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)から、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)英文学科に入学します。卒業後、松山で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)の教師、熊本で第五高等学校(現在の熊本大学)の教授などを務めた後、1900年(明治33年)からイギリスへ留学しました。
 帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、1905年(明治38)から翌年にかけて『我輩は猫である』を『ホトトギス』に発表し、一躍文壇に登場することになります。その後、『倫敦塔』、『坊つちやん』、『草枕』と続けて作品を発表し、文名を上げました。
 1907年(明治40)に、東京朝日新聞社に専属作家として迎えられ、職業作家として、『三四郎』、『それから』、『門』、『こころ』などを執筆し、日本近代文学の代表的作家となります。しかし、『明暗』が未完のうち、1916年(大正5)12月9日に、東京において、50歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1439年(永享11)飛鳥井雅世が『新続古今和歌集』(二十一代集最後)を撰上する(新暦8月6日)詳細
1582年(天正10)織田信長の後継を決めるための清洲会議が開催される(新暦7月16日)詳細
1850年(嘉永3)新聞記者・小説家小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の誕生日詳細
1900年(明治33)高岡明治33年の大火で、死者7名、負傷者46名、全焼3,589戸、半焼25戸の被害を出す詳細
1927年(昭和2)満蒙への積極的介入方針と対中国基本政策決定のため、「東方会議」が開始(~7月7日)される詳細
1936年(昭和11)小説家・児童文学者鈴木三重吉の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1907年(明治40)に、「朝日新聞」において、夏目漱石の『虞美人草』が連載開始された日です。
 『虞美人草』(ぐびじんそう)は、夏目漱石が「朝日新聞」に、1907年(明治40)6月23日~10月29日まで、127回にわたって連載した小説でした。朝日新聞に入社した夏目漱石が職業作家として書いた第一作で、新聞連載終了後、1908年(明治41)1月に、春陽堂から刊行されています。
 美しく聡明だが、我が強く、徳義心に欠ける女主人公藤尾の失恋を通して、利己と道義の相克を描き、このヒロインの自滅の悲劇を絢爛たる文体を用いて、一字一句にまで腐心して書いたと言われてきました。漱石文学の転換点となる初の悲劇作品とされています。

〇夏目漱石(なつめ そうせき)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した日本近代文学を代表する小説家です。1867年(慶応3)1月5日に、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区)で、代々名主であった家の父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれましたが、本名は金之助といいました。
 成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)から、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)英文学科に入学します。卒業後、松山で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)の教師、熊本で第五高等学校(現在の熊本大学)の教授などを務めた後、1900年(明治33年)からイギリスへ留学しました。
 帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、1905年(明治38)から翌年にかけて『我輩は猫である』を『ホトトギス』に発表し、一躍文壇に登場することになります。その後、『倫敦塔』、『坊つちやん』、『草枕』と続けて作品を発表し、文名を上げました。
 1907年(明治40)に、東京朝日新聞社に専属作家として迎えられ、職業作家として、『虞美人草』、『三四郎』、『それから』、『門』、『こころ』などを執筆し、日本近代文学の代表的作家となります。しかし、『明暗』が未完のうち、1916年(大正5)12月9日に、東京において、50歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1794年(寛政6)大名・老中で天保の改革の主導者水野忠邦の誕生日(新暦7月19日)詳細
1908年(明治41)詩人・小説家国木田独歩の命日(独歩忌)詳細
1944年(昭和19)北海道有珠郡の東九万坪台地より、昭和新山の第1次大噴火が起き、第1火口を形成する詳細
1945年(昭和20)「義勇兵役法」が公布・施行される詳細
1967年(昭和42)小説家壺井栄の命日詳細
1999年(平成11)「男女共同参画社会基本法」(平成11年法律78号)が公布・施行される詳細
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