ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:朝日新聞

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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、 在京新聞5紙(朝日、毎日、読売、東京、日本産業)に対する、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)事前検閲が開始された日です。
 GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)事前検閲(じーえっちきゅーじぜんけんえつ)は、太平洋戦争敗戦後の連合国軍占領下において、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって実施された新聞等に対する検閲です。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、1945年(昭和20)9月10日に、「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16)を出して、報道範囲、進駐軍・連合国に関する報道規制に定めました。
 それにより、同年9月14日には覚書違反で同盟通信社が配信停止処分、同年9月18日には朝日新聞が発行停止処分を受けたます。 次いで、同年9月21日には「日本ノ新聞準則ニ関スル覚書(プレスコード)」(SCAPIN-33)などを出し、民間検閲支隊により日本のマスコミなどへの事前検閲や事後検閲を行い、反占領軍的と判断した記事にたいしては、全面的に書き換えさせました。
 そして、同年10月9日には、在京新聞5紙(朝日、毎日、読売、東京、日本産業)への事前検閲が開始されました。その中で、意思に沿わない記事を書いた新聞社には戦前から続く「新聞紙条例」を用いて発行停止命令が下されてもいます。
 以下に、「GHQ言論及び新聞の自由に関する覚書」(SCAPIN-16)、「日本に与うる新聞遵則(プレスコード)」(SCAPIN-33)、「新聞紙条例」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「GHQ言論及び新聞の自由に関する覚書」(じーえいちきゅーげんろんおよびしんぶんのじゆうにかんするおぼえがき)とは?

 昭和時代前期の太平洋戦争敗戦後の連合国軍占領下で、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、1945年(昭和20)9月10日に発令された、連合国最高司令官指令第16号(SCAPIN-16)の「Memorandum to Japanese Government Concerning Freedom of Speech」のことです。占領下の日本のマス・メディアの一般的な行動基準を示し、その日から新聞や雑誌などの事後検閲を開始していますが、言論の自由はGHQ及び連合国批判にならずまた太平洋戦争の被害に言及しない制限付きで奨励されました。
 この後、9月19日にその行動基準を新聞、出版についてより具体的に示した「日本に与うる新聞遵則(プレスコード)」(SCAPIN-33)が出され、9月22日には、ほぼ同趣旨でラジオ放送向けに「日本放送遵則(ラジオコード)」(SCAPIN-43)が発せられています。10月9日からは主要新聞・雑誌がこれに基づく事前検閲を受けるようになりましたが、1947年(昭和22)11月から雑誌が、1948年(昭和23)7月から新聞が事後検閲に戻り、1949年(昭和24)からは事後検閲も表面上は廃止となり、1952年(昭和27)4月28日の「サンフランシスコ平和条約」発効により失効しました。

☆「言論及び新聞の自由に関する覚書」 (全文) 1945年(昭和20)9月10日にGHQ指令

OFFICE OF THE SUPREME COMMANDER
FOR THE ALLIED POWERS

10 September 1945 SCAPIN-16

MEMORANDUM FOR:THE IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT.
THROUGH:Central Liaison Office, TOKYO.
FROM:THE SUPREME COMMANDER FOR THE ALLIED POWERS.

1. The Japanese Imperial Government will issue the necessary orders to prevent dissemination of news, through newspapers, radio broadcasting or other means of publication, which fails to adhere to the truth or which disturbs public tranquillity.

2. The Supreme Commander for the Allied Powers has decreed that there shall be an absolute minimum of restrictions upon freedom of speech. Freedom of discussion of matters affecting the future of Japan is encouraged by the Allied Powers, unless such discussion is harmful to th efforts of Japan to emerge from defeat as a new nation entitled to a place among the peace-loving nations of the world.

3. Subjects which cannot be discussed include Allied troop movements which have not been officially released, false or destructive criticism of the Allied Powers, and rumors.

4. For the time being, radio broadcasts will be primarily of a news, musical and entertainment nature. News, commentation and informational broadcasts will be limited to those originating at Radio Tokyo Studios.

5. The Supreme Commander will suspend any publication or radio station which publishes information that fails to adhere to the truth or disturbs public tranquillity.

For the SUPREME COMMANDER:

      /s/ Harold Fair
      /t/ HAROLD FAIR
      Lt Col.,A.G.D.,
   Asst. Adjutant General

 「国立国会図書館デジタルコレクション」より

<日本語訳>

言諭及新聞ノ自由ニ關スル覺書

一九四五年九月一〇日

一、 日本帝國政府ハ新聞、ラジオ放送又ハ其ノ他ノ出版物等ニ依リ、眞實ニ符合セズ若ハ公安ヲ害スルニユ一スヲ頒布セザルヤウ必要ナル命令ヲ發スベシ。

二、 聯合國最高司令官ハ言論ノ自由ニ關シテハ最少限度ノ制限ヲ爲スベキ旨ヲ命ジタリ。日本ノ將來ニ關スル事項ノ討論ノ自由ハ日本ガ敗戰ヨリ世界ノ平和愛好國家ノ仲間入リスル資格ヲ有スル新ナル國家トシテ出發セントスル日本ノ努力ニ有害ナラザル限リ聯合國ニヨリ奬勵セラル。

三、 公式ニ發表セラレザル聯合國軍隊ノ動靜、聯合國ニ對スル虛僞又ハ破壞的批評及ビ風說ハ之ヲ論議スルコトヲ得ズ。

四、 當分ノ內ラジオ放送ハ主トシテニユース及音樂的娛樂的性質ノモノヲ取扱フベシ。ニユース、解說及ビ情報的放送ハ東京放送局ヨリ放送サルルモノニ限ル。

五、 最高司令官ハ眞實ニ符合セズ又ハ公安ヲ害スルガ如キ報道ヲ爲ス出版物若ハ放送局ニ對シテハ發行禁止又ハ業務停止ヲ命ズ。

 『日本管理法令研究』第2巻より

<現代語訳>

連合軍最高司令官官房

SCAPIN-16 1945年9月10日

日本帝国政府に対する指令
経由:横浜終戦連絡事務局
発:連合国最高司令官

1.日本帝国政府は、新聞、ラジオ放送等の報道機関が、真実に合致せずまた公共の安寧を妨げるべきニュースを伝播することを禁止する所要命令を発出すべきこと。

2.最高司令官は、今後言論の自由に対して絶対最小限の規制のみを加える旨告示している。 連合国は日本の将来に関する論議を奨励するが、世界の平和愛好国の一員として再出発しようとする新生日本の努力に悪影響をあたえるような論議は取締るものとする。

3.公表されざる連合国軍隊の動静、および連合国に対する虚偽の批判もしくは破壊的批判、流言蜚語は取締るものとする。

4.当分の間、ラジオ放送はニュース、音楽および娯楽番組に限定される。ニュース解説および情報番組は、東京中央放送局制作のものに限定される。

5.最高司令官は、真実に反しもしくは公共の安寧を妨げるが如き報道を行った新聞・出版・放送局の業務停止を命じることがある。

               最高司令官に代り

                     ハロルド・フェア (署名)
                     陸軍中佐 高級副官部
                     高級副官補佐官

 「日本ペンクラブ 電子文藝館」より

〇「GHQ日本に与うる新聞遵則」(じーえいちきゅーにほんにあたうるしんぶんじゅんそく)とは?

 昭和時代前期の太平洋戦争敗戦後の連合国軍占領下で、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、1945年(昭和20)9月19日に発令(9月21日発布)された、連合国最高司令官指令第33号(SCAPIN-33)のことで、「プレスコード」とも呼ばれています。これに先立って9月10日に、GHQによって、「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16)が発せられ、占領下の日本のマス・メディアの一般的な行動基準を示し、事後検閲を開始していますが、言論の自由はGHQ及び連合国批判にならずまた太平洋戦争の被害に言及しない制限付きで奨励されました。
 「日本に与うる新聞遵則(プレスコード)」はその行動基準を新聞、出版についてより具体的に示したもので、10ヶ条からなり、報道は絶対に真実に即すること、直接又は間接に公安を害するようなものを掲載してはならないこと、連合国に関し虚偽的又は破壊的批評を加えてはならないこと、報道記事は宣伝目的の色を着けてはならないことなどを禁止しています。10月9日からは主要新聞・雑誌がこれに基づく事前検閲を受けるようになりましたが、1947年(昭和22)11月から雑誌が、1948年(昭和23)7月から新聞が事後検閲に戻り、1949年(昭和24)からは事後検閲も表面上は廃止となり、1952年(昭和27)4月28日の「サンフランシスコ平和条約」発効により失効しました。
 尚、1945年(昭和20)9月22日には、ほぼ同趣旨の「日本に与うる放送遵則(ラジオコード)」が連合国最高司令官指令第43号(SCAPIN-43)として発せられています。検閲で処分された報道記事は、占領初期は連合国・占領軍に「有害」なものが大部分でしたが、1946年(昭和21)中期以後、米ソの対立が深まってくると、アメリカの反ソ政策が対日占領政策にも影響し、検閲にも共産主義排除が導入されるようになりました。
 プレスコード違反は占領軍命令違反として軍事裁判に付され、例えば、1948年(昭和23)5月27日付け『日刊スポーツ』の「米国の裸体ショー」の記事では、編集長が重労働1年(執行猶予付き)、罰金75,000円の刑を受けるなどしています。

☆日本に与うる新聞遵則[プレスコード] (全文) 1945年(昭和20)9月19日指示

OFFICE OF THE SUPREME COMMANDER
   FOR THE ALLIED POWERS
    19 September 1945

AG 000.73 (18 Sep 45) CI
  (SCAPIN-33)

MEMORANDUM FOR: IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT
THROUGH : Central Liaison Office, Tokyo .
SUBJECT : Press Code For Japan.

1. News must adhere strictly to the truth.

2. Nothing shall be printed which might, directly or by inference, disturb the public tranquility.

3. There shall be no false of destructive criticism of the Allied Powers.

4. There shall be no destructive criticism of the Allied Forces of Occupation and nothing which might invite mistrust or resentment of those troops.

5. There shall be no mention or discussion of Allied troops movements unless such movements have been officially released.

6. News stories must be factually written and completely deveid of editorial opinion.

7. News stories shall not be colored to conform with any propaganda line.

8. Minor details of a new story must not be overemphasized to stress of develop any propaganda line.

9. No news story shall be distorted by the omission of pertinent facts or details. 10. In the make-up of the newspaper no news story shall be given undue prominence for the purpose of ostablishing of developing any propaganda line.

   For the SUPREME COMMANDER:
     /s/ Harold Fair
    /t/ HAROLD FAIR,
    Lt Col, A,G.D.,
    Asst Adjutant General.  

 「国立国会図書館デジタルコレクション」より

<日本語訳>

連合国最高司令官官房
1945年9月19日

AG 000.73(1945年9月18日)CI
 (SCAPIN-33)

日本帝国政府への指令
経由:中央連絡事務所、東京。
件名:日本放送遵則

1. 報道は厳に真実に則するを旨とすべし。

2. 直接又は間接に公安を害するが如きものは之を掲載すべからず。

3. 連合国に関し虚偽的又は破壊的批評を加ふべからず。

4. 連合国進駐軍に関し破壊的批評を為し又は軍に対し不信又は憤激を招来するが如き記事は一切之を掲載すべからず。

5. 連合国軍隊の動向に関し、公式に記事解禁とならざる限り之を掲載し又は論議すべからず。

6. 報道記事は事実に則して之を掲載し、何等筆者の意見を加ふべからず。

7. 報道記事は宣伝の目的を以て之に色彩を施すべからず。

8. 宣伝を強化拡大せんが為に報道記事中の些末的事項を過当に強調すべからず。

9. 報道記事は関係事項又は細目の省略に依つて之を歪曲すべからず。

10. 新聞の編集に当り、何等かの宣伝方針を確立し、若しくは発展せしめんが為の目的を以て記事を不当に顕著ならしむべからず。

  最高司令官に代り、
     / S /ハロルド・フェア
    陸軍中佐 高級副官邸
    高級副補佐官

 『日本管理法令研究』第2巻より

〇「新聞紙条例」(しんぶんしじょうれい)とは?

 明治時代前期の1875年(明治8)6月28日に、太政官布告された言論・出版の自由を規制した法令で、讒謗律と共に制定されています。自由民権運動の抑圧を意図したものでしたが、全16条からなり、新聞発行許可制をとり(1887年より届出制)、外国人が新聞の持主・社主・編集人になることを禁じ、犯罪の教唆扇動、政府変壊ね国家転覆、成法誹毀などには初めて厳しい刑罰規定が設けられ、上書・建白書の掲載も許可制としました。
 その後何度か改正され、発行保証金制度、行政権による発行禁止・停止権、新聞紙差押え権などの新設・拡大によって新聞弾圧の意図をますます深めたのです。しかし、新聞界の反対もあり、一定の自由化を示す改正も行なわれたものの、根本的改正をみないまま、1909年(明治42)に新聞紙法に引き継がれ、この条例は廃止となりました。

☆「新聞紙条例」 (全文) 1875年(明治8)6月28日公布 全16条

 第一条
凡ソ新聞紙及時々ニ刷出スル雑誌・雑報ヲ発行セントスル者ハ、持主若クハ社主ヨリ其ノ府県庁ヲ経由シテ願書ヲ内務省ニ捧ケ允准ヲ得ヘシ、允准ヲ得ズシテ発行スル者ハ法司ニ付シ罪ヲ論シ〈凡ソ条例ニ違フ者ハ府県庁ヨリ地方ノ法司ニ付シ罪ヲ論ス〉、発行ヲ禁止シ、持主若クハ社主及編輯人・印刷人各々罰金百円ヲ科ス、其ノ詐テ官准ノ名ヲ冒ス者ハ各々罰金百円以上二百円以下ヲ科シ、更ニ印刷器ヲ没入ス

 第二条
願書ニ挙クヘキノ目左ノ如シ
 一 紙若クハ書ノ題号
 二 刷行ノ定期〈毎日・毎週・毎月或ハ無定期ノ類〉
 三 持主ノ姓名・住所、○会社ナレハ差金人ヲ除クノ外社主一人若クハ数人ノ姓名・住所
 四 編輯人ノ姓名・住所、○編輯人数人アル者ハ編輯人長一人ノ姓名・住所
 五 印刷人ノ姓名・住所、○編輯人自ラ印刷人ヲ兼ル者ハ其由ヲ著ス
右ノ五目中、詐謬アル者ハ発行ヲ禁止若クハ停止シ〈時日ヲ限リ発行ヲ止ムル者ヲ停止トス〉、仍ホ願人ニ向テ十円以上百円以下ノ罰金ヲ科ス

 第三条
編輯人若クハ編輯人長退任シ若クハ死去スル時ハ仮ニ編輯人若クハ編輯人長ヲ定メ刷行スルコトヲ得、但シ遅クトモ十五日内ニ〈退任ノ翌日ヨリ起算ス〉新定セル編輯人若クハ編輯人長ノ姓名・住所ヲ持主若クハ社主ヨリ其府県庁ニ届ケ出ヘシ、若シ期内届ケ出サル時ハ発行ヲ停止シ、持主若クハ社主罰金百円ヲ科ス 其他第二条願書ニ載スヘキノ目ニ於テ一ノ変更アル時ハ、遅クトモ十五日内ニ持主若クハ社主及編輯人若クハ編輯人長ノ連名ヲ以テ届ケ出ヘシ、若シ期内ニ届ケ出サル時ハ、持主若クハ社主及編輯人若クハ編輯人長各々罰金百円ヲ科ス

 第四条
持主若クハ社主及編輯人若クハ仮ノ編輯人タル者ハ内国人ニ限ルヘシ

 第五条
持主若クハ社主自ヲ編輯人若クハ編輯人長タルコトヲ得

 第六条
編輯人二人以上アル者ハ、其一人ヲ撰テ編輯人長トスベシ 毎紙・毎巻ノ尾ニ、編輯人、印刷人名ヲ署シ、編輯人数人アル者ハ、編輯人長、名ヲ署シ編輯人若クハ編輯人長、疾病事故アル時ハ、代理人ヲ定メ其名署スヘシ、若シ名ヲ署セザル時ハ、編輯人若クハ編輯人長、若クハ代理人罰金百円以上五百円以下ヲ料シ、印刷人罰金百円ヲ料ス 紙中若クハ巻中載スル所ノ事ニ付テハ、紙尾署名ノ編輯人若クハ編輯人長一切責ニ任スベシ

 第七条
紙中若クハ巻中載スル所、第十二条以下ノ禁ヲ犯シ若クハ讒謗律ヲ犯シタル時ハ、編輯人、首ヲ以テ論シ、筆者ハ従ヲ以テ論ス、持主若クハ社主情ヲ知ル者ハ、編輯署名ノ人ト同ク論ス

 第八条
新聞紙及雑誌・雑報ノ筆者ハ〈投書者ハ筆者ヲ以テ例ス〉尋常ノ瑣事ヲ除クノ外凡ソ内外国事、理財、人情、時態、学術、法教、議論、及事、官民ノ権利ニ係ル者ハ皆其ノ姓名・住所ヲ著スヘシ 筆者、変名ヲ用ヒタル時ハ、禁獄三十日罰金十円ヲ料ス、他人ノ名ヲ仮托スル者ハ、禁獄七十日罰金二十円ヲ料ス〈二罰并セ料シ或ハ偏ヘニ一罰ヲ料ス以下之ニ倣へ〉

 第九条
外国新聞紙及雑誌・雑報ヲ翻訳シテ記入スル者ハ、尋常ノ瑣事ヲ除クノ外訳者名ヲ署シ、其事第十二条以下ノ禁ヲ犯シ若クハ新タニ編輯人ヲ定メテ仍ホ発行スル¬ヲ得、其ノ編輯人ヲ定メスシテ発行スル者ハ、発行ヲ停止スヘシ

 第十条
事犯、編輯人ニ止リ、禁獄ヲ命シタル時ハ、特ニ発行ヲ停止シタル時ヲ除クノ外、持主若クハ社主ヨリ、仮ニ編輯人ヲ定メ、若クハ新タニ編輯人ヲ定メテ仍ホ発行スルコトヲ得、其ノ編輯人ヲ定メスシテ発行スル者ハ、発行ヲ停止スヘシ

 第十一条
新聞紙若クハ雑誌・雑報ニ指名サレタル官署・会社、人民ヨリ弁白書、若クハ改正ヲ求ムルノ書ヲ寄スルトキハ、其書ヲ受取リシヨリ直チニ其次号ニ刷出スヘシ、違フ者ハ編輯人罰金十円以上百円以下ヲ科ス

 第十二条 
新聞紙若クハ雑誌・雑報ニ於テ人ヲ教唆シテ罪ヲ犯サシメタル者ハ、犯ス者ト同罪、其教唆ニ止マル者ハ、禁獄五日以上三年以下、罰金十円以上五百円以下ヲ科ス 其教唆シテ兇衆ヲ煽起シ或ハ官ニ強逼セシメタル者ハ、犯ス者ノ首ト同ク論ス、其教唆ニ止マル者ハ罪前ニ同シ

 第十三条 
政府ヲ変壊シ国家ヲ顛覆すスルノ論ヲ載セ騒乱ヲ煽起セントスル者ハ、禁獄一年以上三年ニ至ル迄ヲ科ス、其実犯ニ至ル者ハ首犯ト同ク論ス

 第十四条 
成法ヲ誹毀シテ国民法ニ遵フノ義ヲ乱リ及顕ハニ刑律ニ触レタルノ罪犯ヲ曲庇スルノ論ヲ為ス者ハ、禁獄一月以上一年以下、罰金五円以上百円以下ヲ科ス

 第十五条
裁判所ノ断獄、下調ニ係リ未タ公判ニ付セザル者を載スルコトヲ得ズ、及裁判官審判ノ議事ヲ載スルコトヲ得ス、犯ス者ハ禁獄一月以上一年以下罰金百円以上五百円以下ヲ科ス

 第十六条
院省使庁ノ許可ヲ経ズシテ上書建白ヲ載スルコトヲ得ス、犯ス者ハ罰前条ニ同シ

 附則
此ノ条例布告ノ前ニ己ニ允准ヲ得テ発行セル新聞紙・雑誌・雑報ハ、新タニ願書ヲ捧クルニ及ハス、但シ府県庁ヲ経由シテ内務省ニ届クル爲ニ此ノ布告ヲ承ルヨリ第十日迄ニ〈布告ヲ承ルノ翌日ヨリ起算ス〉府県庁ニ向テ第二条五目ノ届書ヲ捧クヘシ、第十日ヲ過テ届書ヲ捧ケザル者ハ府県庁ヨリ発行ヲ止ムベシ、其ノ更ニ願ヒ出ル者ハ第一条ニ依ルヘシ 従前編輯人数人アリテ編輯人長ナキ者ハ、条例布告ヲ承ルヨリ第二日迄ニ〈布告ヲ承ルノ翌日ヨリ起算ス〉編輯人長ヲ定メ若クハ仮ニ定ムヘシ、第二日ヲ過テ刷行シタル紙若クハ書ニ、編輯人長ノ署名ナキトキハ、府県庁ヨリ発行ヲ止ムベシ、其ノ更ニ願ヒ出ル者ハ前ニ同シ

「法令全書」より

 *縦書きの原文を横書きに改め、旧字を新字に直し、句読点を付してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

641年(舒明天皇13)第34代の天皇とされる舒明天皇の命日(新暦11月17日)詳細
1874年(明治7)万国郵便連合(最初は一般郵便連合)が発足する(世界郵便デー)詳細
1885年(明治18)日本が「メートル条約」に加盟する詳細
1897年(明治32)小説家大佛次郎の誕生日詳細
1905年(明治38)平民社が最初に解散する詳細
1945年(昭和20)GHQが「必需物資の輸入に関する覚書」(SCAPIN-110)を出す詳細
1952年(昭和27)黒澤明監督の映画『生きる』が封切りされる詳細
1989年(平成元)千葉県千葉市の幕張新都心に幕張メッセ(千葉県日本コンベンションセンター国際展示場)が開業する詳細
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meian01
 今日は、大正時代の1916年(大正5)に、「朝日新聞」で夏目漱石の最後の作品『明暗』が連載開始された日です。
 『明暗』(めいあん)は、夏目漱石著の最後の長編小説で、『朝日新聞』に、大正時代の1916年(大正5)5月26日~12月14日まで、188回にわたって連載されましたが、作者死亡により未完に終わり、翌年1月に岩波書店から刊行されいいます。結婚したばかりの主人公津田由雄と妻お延の円満とは言えない夫婦関係を中心に様々な人間関係が描かれ、人間のエゴイズムに迫っている作品でした。
 近代の毒を浴びた人間性の深層を浮彫りにしていて、日本の近代文学が到達しえたリアリズム小説の最高峰とされています。

〇夏目漱石(なつめ そうせき)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した日本近代文学を代表する小説家です。1867年(慶応3)1月5日に、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区)で、代々名主であった家の父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれましたが、本名は金之助といいました。
 成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)から、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)英文学科に入学します。卒業後、松山で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)の教師、熊本で第五高等学校(現在の熊本大学)の教授などを務めた後、1900年(明治33年)からイギリスへ留学しました。
 帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、1905年(明治38)から翌年にかけて『我輩は猫である』を『ホトトギス』に発表し、一躍文壇に登場することになります。その後、『倫敦塔』、『坊つちやん』、『草枕』と続けて作品を発表し、文名を上げました。
 1907年(明治40)に、東京朝日新聞社に専属作家として迎えられ、職業作家として、『三四郎』、『それから』、『門』、『こころ』などを執筆し、日本近代文学の代表的作家となります。しかし、『明暗』が未完のうち、1916年(大正5)12月9日に、東京において、50歳で亡くなりました。

☆夏目漱石の主要な著作

・『我輩は猫である』(1905~06年)
・『倫敦塔』(1905年)
・『幻影(まぼろし)の盾』(1905年)
・『坊つちやん』(1906年)
・『草枕』(1906年)
・『虞美人草』(1907年)
・『三四郎』(1908年)
・『それから』 (1909年)
・『門』 (1910年)
・『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』(1912年)
・『行人(こうじん)』(1912~13年)
・『こゝろ』(1914年)
・『道草』(1915年)
・『明暗』(1916年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

869年(貞観11)陸奥国で貞観地震が起き、大津波により甚大な被害を出す(新暦7月9日)詳細
1857年(安政4)下田奉行とハリスが「日米和親条約」を修補する「日米約定」を締結する(新暦6月17日)詳細
1933年(昭和8)文部省は「文官分限令」により、京都帝大瀧川幸辰教授の休職処分を強行(滝川事件)詳細
1942年(昭和17)日本文学報国会(会長徳富蘇峰)が設立される詳細
1950年(昭和25)獅子文六が「朝日新聞」に『自由学校』の連載を開始する詳細
1969年(昭和44)東名高速道路が全線開通する(東名高速道路全線開通記念日)詳細
1977年(昭和52)小説家・劇作家藤森成吉の命日詳細
1980年(昭和55)「明日香村保存特別措置法」が公布・施行される詳細
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shishibunrokujiyuugattkou01
 今日は、昭和時代中期の1950年(昭和25)に、獅子文六が「朝日新聞」に『自由学校』の連載を開始した日です。
 『自由学校』(じゆうがっこう)は、獅子文六著の長編小説で、「朝日新聞」において、1950年(昭和25)5月26日~12月11日まで連載され、翌年に朝日新聞社から刊行されました。太平洋戦争敗戦後の混迷の中で、どの世代も自由な生き方を模索している世相をおとぎ話風に描いて、社会や道徳のゆがみを風刺した作品とされています。
 有能で活動的な妻駒子に支配されていたでくの坊の南村五百助が、家を叩き出されるところから物語は展開し、防空壕やバラックでの寝泊まりと生活、上流社会の若者や隠居連中の暮らし、戦死者として戸籍が無くなった敗残兵の目線など様々な人々と交流・交際を通じて、自由主義や男女同権思想を戦後風俗を巧みに取り入れながら痛烈に風刺し、「とんでもハップン」、「ネバー好き」の流行語を生みました。
 尚、1951年(昭和26)に松竹(渋谷実監督)と大映(吉村公三郎監督)の凶作によって映画化され、評判となっています。

〇獅子文六(しし ぶんろく)とは?

 昭和時代に活躍した小説家・演出家です。1893年(明治26)7月1日に、横浜市中区月岡町(現在の横浜市西区老松町)で、絹織物商「岩田商会」を営んでいた父・岩田茂穂、母・あさじの長男として生まれましたが、本名は岩田豊雄と言いました。
 9歳で父を亡くし、慶應義塾普通部を経て、慶應義塾大学理財科予科に進みます。1913年(大正2)に中退し、1920年(大正9)に母が亡くなり、一人暮らしを始めました。1922年(大正11)に渡仏し、パリ滞在中にJ.コポーらの近代演劇運動に触発されて、演劇の道を志します。1925年(大正14)に帰国、「近代劇全集」などの翻訳を行うかたわら、1927年(昭和2)に新劇協会に入会して演出家となりました。
 1933年(昭和8)に明治大学講師となり、同年『東は東』、翌年『朝日屋絹物店』などの戯曲を発表ししつつ、獅子文六の筆名で『新青年』に長編小説『金色青春譜』を執筆します。1937年(昭和12)に久保田万太郎、岸田国士とともに劇団「文学座」を創立して以来、同座幹事として発展に尽力しました。
 一方で、小説『悦ちゃん』(1936~37年)、『信子』(1938~40年)、『南の風』(1941年)など、ユーモアと風刺に富む健康な作品を発表して流行作家となります。太平洋戦争中の小説『海軍』で朝日文化賞を受賞しましたが、戦後に「戦争協力作家」として、追放の仮指定されたものの、1ヶ月半後に解除されました。
 以後小説『てんやわんや』(1948~49年)、『自由学校』(1950年)、『大番』全3巻(1956~58年)など戦後風俗を軽妙な筆致で描いた小説で人気を得ます。また、『娘と私』は1961年(昭和36)にNHKで『連続テレビ小説・娘と私』としてテレビドラマ化され、話題となりました。
 1963年(昭和38)に日本芸術院賞受賞、1964年(昭和39)に芸術院会員、1969年(昭和44)に文化勲章受章と数々の栄誉に輝きましたが、1969年(昭和44)12月13日に、東京の自宅において、76歳で亡くなっています。

<主要な著作>

・戯曲『東は東』(1933年)
・戯曲『朝日屋絹物店』(1934年)
・小説『金色(こんじき)青春譜』(1934年)
・小説『悦ちゃん』(1936~37年)
・小説『達磨(だるま)町七番地』(1937年)
・小説『胡椒(こしょう)息子』(1937~38年)
・小説『信子(のぶこ)』(1938~40年)
・小説『南の風』(1941年)
・小説『海軍』(1942年)
・小説『てんやわんや』(1948~49年)
・小説『自由学校』(1950年)
・小説『娘と私』(1953~56年)
・小説『大番』全3巻(1956~58年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

869年(貞観11)陸奥国で貞観地震が起き、大津波により甚大な被害を出す(新暦7月9日)詳細
1857年(安政4)下田奉行とハリスが「日米和親条約」を修補する「日米約定」を締結する(新暦6月17日)詳細
1933年(昭和8)文部省は「文官分限令」により、京都帝大瀧川幸辰教授の休職処分を強行(滝川事件)詳細
1942年(昭和17)日本文学報国会(会長徳富蘇峰)が設立される詳細
1969年(昭和44)東名高速道路が全線開通する(東名高速道路全線開通記念日)詳細
1977年(昭和52)小説家・劇作家藤森成吉の命日詳細
1980年(昭和55)「明日香村保存特別措置法」が公布・施行される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、「朝日新聞」において、永井荷風著の『墨東綺譚』が連載開始された日です。
 『濹東綺譚』(ぼくとうきだん)は、永井荷風著の長編小説で、昭和時代前期の1937年(昭和12)4月16日~6月15日に木村荘八の挿絵と共に東京・大阪の両「朝日新聞」夕刊に連載されました。同年4月に烏有堂(私家版)から刊行され、さらに同年8月に岩波書店から単行本が刊行されています。
 中年の作家(大江匡)と玉の井の私娼(お雪)との交情を中心に、四季の風物詩や時代の風俗好尚なども織り交ぜて、随筆風に人の世の哀れを詩情豊かに描き、昭和期の代表作とされてきました。反時勢的な文明批評もあり、太平洋戦争に突入する前夜の重苦しさに涼気を送る作品として愛読されます。
 尚、1960年(昭和35)には、豊田四郎監督(東宝配給)により、1992年(平成4)には、新藤兼人監督・脚本(近代映画協会)により、2010年(平成22)には、荒木太郎監督・脚本(オーピー映画)により、3度映画化されました。

〇永井荷風著『濹東綺譚』の冒頭部分

 一

 わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない。
 おぼろ気な記憶をたどれば、明治三十年頃でもあろう。神田錦町(にしきちょう)に在った貸席錦輝館で、サンフランシスコ市街の光景を写したものを見たことがあった。活動写真という言葉のできたのも恐らくはその時分からであろう。それから四十余年を過ぎた今日こんにちでは、活動という語ことばは既にすたれて他のものに代かえられているらしいが、初めて耳にしたものの方が口馴れて言いやすいから、わたくしは依然としてむかしの廃語をここに用いる。
 震災の後のち、わたくしの家に遊びに来た青年作家の一人が、時勢におくれるからと言って、無理やりにわたくしを赤坂溜池(ためいけ)の活動小屋に連れて行ったことがある。何でも其その頃非常に評判の好いものであったというが、見ればモオパッサンの短篇小説を脚色したものであったので、わたくしはあれなら写真を看るにも及ばない。原作をよめばいい。その方がもっと面白いと言ったことがあった。
 然し活動写真は老弱(ろうにゃく)の別(わかち)なく、今の人の喜んでこれを見て、日常の話柄(わへい)にしているものであるから、せめてわたくしも、人が何の話をしているのかと云うくらいの事は分るようにして置きたいと思って、活動小屋の前を通りかかる時には看板の画と名題とには勉つとめて目を向けるように心がけている。看板を一瞥(べつ)すれば写真を見ずとも脚色の梗概も想像がつくし、どういう場面が喜ばれているかと云う事も会得せられる。
 活動写真の看板を一度に最もっとも多く一瞥する事のできるのは浅草公園である。ここへ来ればあらゆる種類のものを一ト目に眺めて、おのずから其巧拙をも比較することができる。わたくしは下谷(したや)浅草の方面へ出掛ける時には必ず思出して公園に入り杖(つえ)を池の縁(ふち)に曳(ひ)く。
 夕風も追々寒くなくなって来た或日のことである。一軒々々入口の看板を見尽して公園のはずれから千束町(せんぞくまち)へ出たので。右の方は言問橋(ことといばし)左の方は入谷町(いりやまち)、いずれの方へ行こうかと思案しながら歩いて行くと、四十前後の古洋服を着た男がいきなり横合から現れ出て、
「檀那(だんな)、御紹介しましょう。いかがです。」と言う。
「イヤありがとう。」と云って、わたくしは少し歩調を早めると、
「絶好のチャンスですぜ。猟奇的ですぜ。檀那。」と云って尾ついて来る。
「いらない。吉原へ行くんだ。」
 ぽん引(びき)と云うのか、源氏というのかよく知らぬが、とにかく怪し気な勧誘者を追払うために、わたくしは口から出まかせに吉原へ行くと言ったのであるが、行先の定さだまらない散歩の方向は、却(かえっ)てこれがために決定せられた。歩いて行く中(うち)わたくしは土手下の裏町に古本屋を一軒知っていることを思出した。
 古本屋の店は、山谷堀(さんやぼり)の流が地下の暗渠(あんきょ)に接続するあたりから、大門前(おおもんまえ)日本堤橋(にほんづつみばし)のたもとへ出ようとする薄暗い裏通に在る。裏通は山谷堀の水に沿うた片側町で、対岸は石垣の上に立続く人家の背面に限られ、此方(こなた)は土管、地瓦(ちがわら)、川土、材木などの問屋が人家の間に稍やや広い店口を示しているが、堀の幅の狭くなるにつれて次第に貧気(まずしげ)な小家(こいえ)がちになって、夜は堀にかけられた正法寺橋(しょうほうじばし)、山谷橋(さんやばし)、地方橋(じかたばし)、髪洗橋(かみあらいばし)などいう橋の灯(ひ)がわずかに道を照すばかり。堀もつき橋もなくなると、人通りも共に途絶えてしまう。この辺で夜も割合におそくまで灯(あかり)をつけている家は、かの古本屋と煙草を売る荒物屋ぐらいのものであろう。

 (以下略)

  「青空文庫」より

☆永井荷風(ながい かふう)とは?

 明治時代から昭和時代に活躍した小説家・随筆家です。明治時代前期の1879年(明治12)12月3日に、東京市小石川区(現在の文京区春日)で、尾張藩士族出身のエリート官吏の父・久一郎と母・恒(つね)の長男として生まれましたが、本名は壮吉と言いました。
 高等師範附属尋常中学科(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を経て、1897年(明治30)に外国語学校清語科に進みます。しかし、1899年(明治32)に中退して、広津柳浪の門に入り小説家を志しますが、習作のかたわら、落語家や歌舞伎作者の修業もしました。
 1902年(明治35)に小説『地獄の花』を発表、またエミール・ゾラの『大地』、『女優ナナ』などを紹介します。翌年渡米し、フランスへも回って遊学し、1908年(明治41)に帰国します。その後、『あめりか物語』、『ふらんす物語』や『すみだ川』などを執筆し、耽美派の中心的存在となりました。
 1910年(明治43)に慶應義塾大学教授となり「三田文学」を創刊、『腕くらべ』(1916~17年)、『つゆのあとさき』(1931年)、『濹東綺譚 (ぼくとうきたん) 』(1937年)など、随筆や小説等を多く発表します。戦争下では、反国策的な作風のため作品発表の場を失いますが、戦後は、その間ひそかに書きためた『浮沈』、『踊子』、『勲章』、『来訪者』や 1917年以来の日記『断腸亭日乗』を発表しました。
 1952年(昭和27)に文化勲章を受章、1954年(昭和29)に芸術院会員に選ばれましたが、千葉県市川の自宅で自炊生活を続けます。その中で、1959年(昭和34)4月30日に、自宅において、79歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)大隈重信らが立憲改進党を結成する詳細
1884年(明治31)柳ヶ瀬トンネル(全長1,352m)完成により長浜~敦賀の鉄道(敦賀線、後の北陸本線)が開業する詳細
1910年(明治43)輪島町の大火で、全焼1,055軒、半焼15軒の被害を出す詳細
1945年(昭和20)小説家田村俊子の命日詳細
1956年(昭和31)日本道路公団が設立される詳細
2020年(平成32)物理化学者長倉三郎の命日詳細
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 今日は、大正時代の1912年(大正元)に、「朝日新聞」において、夏目漱石の『行人』が連載開始された日です。
 『行人』(こうじん)は、夏目漱石が「朝日新聞」に、1912年(大正元)12月6日~翌年10月29日(4月~9月まで作者の病気(胃潰瘍)のため、5ヶ月の中断あり)まで、連載した小説でした。1914年(大正3)1月7日に大倉書店より刊行されましたが、「友達」、「兄」、「帰ってから」、「塵労」の4つの編から成り立っていて、互いを理解しえない夫婦生活を通して、主人公の孤独な魂の苦悩を描いています。
 近代知識人の苦悩を描く、『彼岸過迄』に続き『こゝろ』に繋がる、後期3部作の2作目とされてきました。以下に、『行人』の冒頭部分「友達」の一を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『行人』の冒頭部分「友達」の一

        一

 梅田(うめだ)の停車場(ステーション)を下(お)りるや否(いな)や自分は母からいいつけられた通り、すぐ俥(くるま)を雇(やと)って岡田(おかだ)の家に馳(か)けさせた。岡田は母方の遠縁に当る男であった。自分は彼がはたして母の何に当るかを知らずにただ疎(うと)い親類とばかり覚えていた。
 大阪へ下りるとすぐ彼を訪(と)うたのには理由があった。自分はここへ来る一週間前ある友達と約束をして、今から十日以内に阪地(はんち)で落ち合おう、そうしていっしょに高野(こうや)登りをやろう、もし時日(じじつ)が許すなら、伊勢から名古屋へ廻(まわ)ろう、と取りきめた時、どっちも指定すべき場所をもたないので、自分はつい岡田の氏名と住所を自分の友達に告げたのである。
「じゃ大阪へ着き次第、そこへ電話をかければ君のいるかいないかは、すぐ分るんだね」と友達は別れるとき念を押した。岡田が電話をもっているかどうか、そこは自分にもはなはだ危(あや)しかったので、もし電話がなかったら、電信でも郵便でも好(い)いから、すぐ出してくれるように頼んでおいた。友達は甲州線(こうしゅうせん)で諏訪(すわ)まで行って、それから引返して木曾(きそ)を通った後(あと)、大阪へ出る計画であった。自分は東海道を一息(ひといき)に京都まで来て、そこで四五日用足(ようたし)かたがた逗留(とうりゅう)してから、同じ大阪の地を踏む考えであった。
 予定の時日を京都で費(ついや)した自分は、友達の消息(たより)を一刻も早く耳にするため停車場を出ると共に、岡田の家を尋ねなければならなかったのである。けれどもそれはただ自分の便宜(べんぎ)になるだけの、いわば私の都合に過ぎないので、先刻(さっき)云った母のいいつけとはまるで別物であった。母が自分に向って、あちらへ行ったら何より先に岡田を尋ねるようにと、わざわざ荷になるほど大きい鑵入(かんいり)の菓子を、御土産(おみやげ)だよと断(ことわ)って、鞄(かばん)の中へ入れてくれたのは、昔気質(むかしかたぎ)の律儀(りちぎ)からではあるが、その奥にもう一つ実際的の用件を控(ひか)えているからであった。
 自分は母と岡田が彼らの系統上どんな幹の先へ岐(わか)れて出た、どんな枝となって、互に関係しているか知らないくらいな人間である。母から依託された用向についても大した期待も興味もなかった。けれども久しぶりに岡田という人物――落ちついて四角な顔をしている、いくら髭(ひげ)を欲しがっても髭の容易に生えない、しかも頭の方がそろそろ薄くなって来そうな、――岡田という人物に会う方の好奇心は多少動いた。岡田は今までに所用で時々出京した。ところが自分はいつもかけ違って会う事ができなかった。したがって強く酒精(アルコール)に染められた彼(かれ)の四角な顔も見る機会を奪われていた。自分は俥(くるま)の上で指を折って勘定して見た。岡田がいなくなったのは、ついこの間のようでも、もう五六年になる。彼の気にしていた頭も、この頃ではだいぶ危険に逼せま)っているだろうと思って、その地じ)の透す)いて見えるところを想像したりなどした。
 岡田の髪の毛は想像した通り薄くなっていたが、住居(すまい)は思ったよりもさっぱりした新しい普請(ふしん)であった。
「どうも上方流(かみがたりゅう)で余計な所に高塀(たかべい)なんか築き上(あげ)て、陰気(いんき)で困っちまいます。そのかわり二階はあります。ちょっと上(あが)って御覧なさい」と彼は云った。自分は何より先に友達の事が気になるので、こうこういう人からまだ何とも通知は来ないかと聞いた。岡田は不思議そうな顔をして、いいえと答えた。

  「青空文庫」より

☆夏目漱石(なつめ そうせき)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した日本近代文学を代表する小説家です。1867年(慶応3)1月5日に、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区)で、代々名主であった家の父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれましたが、本名は金之助といいました。
 成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)から、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)英文学科に入学します。卒業後、松山で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)の教師、熊本で第五高等学校(現在の熊本大学)の教授などを務めた後、1900年(明治33年)からイギリスへ留学しました。
 帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、1905年(明治38)から翌年にかけて『我輩は猫である』を『ホトトギス』に発表し、一躍文壇に登場することになります。その後、『倫敦塔』、『坊つちやん』、『草枕』と続けて作品を発表し、文名を上げました。
 1907年(明治40)に、東京朝日新聞社に専属作家として迎えられ、職業作家として、『虞美人草』、『三四郎』、『それから』、『門』、『こころ』などを執筆し、日本近代文学の代表的作家となります。しかし、『明暗』が未完のうち、1916年(大正5)12月9日に、東京において、50歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1887年(明治20) 幕末明治維新期の政治家・薩摩藩主忠義の父島津久光の命日 詳細
1890年(明治23) 第1回帝国議会で山形有朋の施政方針演説が行われる 詳細
1918年(大正7) 「大学令」が公布される 詳細
「(第2次)高等学校令」が公布される 詳細
1927年(昭和2) 政治雑誌「労農」が創刊される 詳細
1957年(昭和32) 「日ソ通商条約」が調印される 詳細
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